忘れてた [疑似科学批判批判批判批判]
こっちの筆は遅々として進まないけれど、その分コメント欄が賑やかで喜ばしい限り。
私もちゃんと読んでまして、色々返事も書きたいのですが、まずは積み残したものをヒタヒタと一つずつ検討していく事にする。そのうち追いつく予定なのでそれまではおのおのがたで楽しんでいて欲しい。
【最近の若い者はだらしがない】
↑こんな否定的なニュアンスを込めたフレーズをよく聞く。
これは、「時代を超えて脈々と言われ続けるフレーズ」である。「最近の若い者は」と言われた若者が成長してお年寄りになると、その時の若者に対して「最近の若い者は」と言う。
それが本当ならば、現代の若者はどんだけだらしないんだよ、そして太古の人々はどんだけご立派だったんだよって感じだね。実際はというと、総体的な「だらしなさ度」みたいなのはそんなに変わらず、ただ「何をやって、何をやらないか」が違うだけだったりする。
A お年寄りの若い頃はやって、今の若い人はやらない事
B お年寄りの若い頃も今の若い人もやらない事
C お年寄りの若い頃も今の若い人もやっている事
D お年寄りの若い頃はやらなくて、今の若い人はやる事
このうち、Bはお互い様、Cは“やって当然”の事として、どっちも「不問」。
そして、Dを無視して、Aだけ取り出して評価しているにすぎない。
あえてDを問われれば、「やりたくてもやれない事情があったんじゃ」と言い訳する。
そんなお年寄りの周りにいるのは、同じくらいのお年寄り。。
その時、お年寄りの間では「違う認識」よりも「共通の認識」が注目される(確証バイアス。また、その文脈において、「お年寄り」にとっては「若い者」は別集団であり、それを確信したいがために、若者に対しては「同じ事」よりも「違う事」が注目される)。
その状況の上で「やっぱり、最近の若い者はだらしがないのは間違いない」と思うのだ。
【前回の記事を書いてから思った事】
「これを分かっていないのはダメだ」という事はどの時点から言える事なのだろう?
意思疎通が困難な場合、「読み手の問題」と「書き手の問題」の両方が考えられるが、「読み手の問題」を口に出す事ができるのは、どういう時なのだろう(学校の授業とか、会社の会議とか「共通の前提を有するコミュニティ内」でのやりとりではなく、「前提の共有が無い」者に対して)。
ま、「口に出す」のは自由だ、とか、「分かって欲しい」という願望をただ述べただけで、「分かってから言え」とまでは言ってないとかは、そういうのはひとまず置いておいて、「ある知識・理解を他者に何らかの形で要求するのに妥当な根拠ってあるのかなぁ」という話デス。
【どうしたら「読み手の問題」にできるか】
それは自分の意見について、「理解者(賛同者)」が現れてからだろうか?
「分かった人がいるから、分からなくてはいけない」?
いや、その「理解者」は、たまたま自分と同じ前提を持っているから理解できただけで、自分と同じ前提を持たぬ人にはさっぱり分からぬ事かもしれない。
じゃぁ、理解者が1人じゃなく、沢山出てきたら?
「多くの人が分かったから、分からなくてはいけない」?
「多くの人」と言ってもたかが知れているし、それは単に「共通の前提を有するコミュニティ」の人数を示しているだけでしかない。
じゃぁ、多数決?
それは最も馬鹿馬鹿しい。
文章や理解力の問題ではなく、単に人脈の問題ではないか。
では、どうすればいいんだ、という話になると思われるかと思うが
私は、どうしようもない、と思う。
何て適当な、と言われるかも知れないが、これはこれで一つの答え。
どうしたら「読み手の問題」にできるか?
の答えが「どうしようもない=できない」だ。
つまり、「読み手の問題」は、共通の前提を有するコミュニティ内では問えるかもしれないが、外部の者に対して問う事ができない、というのが私の結論。
だから、まぁ「書き手」は常に「書き手の問題」のみを問い続けるのが最も無難なのかもしれない。
また、「書き手」に寄り添う「理解者」にしても
「分かった人手を挙げて、ハーイ!オレもオレもぉぉぉ」と言うよりも
「書き手の問題として何が考えられるか」を述べる方が、まだ建設的だろう。
もちろん、それは「分からぬ人にも分かって欲しい」という考えがあった場合である。
「分からん奴はほっとけ」
と考えるのであれば、そこまでめんどくさい事を考える必要は無い。
しかし、「書き手の問題」を不問にするのならば、「読み手の問題」も不問にすべきだろうね。
【前回の記事を書いてから思い出した事】
そうそう、前回言い忘れた事を思い出した。
最初の記事では、もう一つ、最大の疑問として示していた事があった。
(おいおい、最大の疑問をすぐに忘れるな)
「ニセ科学批判者側が、相手のニセ科学批判の認識を問題にする事ができるのか?」だ。
つまり、「ニセ科学批判批判」に対し、「ニセ科学批判を分かっていない」事を非難できるか、である。
ニセ科学批判者達でわいわい話し合う時に「お前は分かっていない」とか、「いや分かっている」とか言い合うのは、まぁ微笑ましいが(何が?)。
しかし、同じノリで同じ事を外側の人間に要求するは適切なのか、という話。
一つは、さっき述べたような「読み手の問題」にする事の問題。
もう一つは、そもそも「ニセ科学批判を分かる事」ができるのか、という問題がある。
前者については、先に述べたとおり。
後者については、また今度書くつもりだ。
【「分からない」の意味】
ついでにもう一つ
「読み手側」が「分からん」と要求する行為について考えてみる。
もちろん、純粋に「分かりたいから」という気持ちで発するものもあるだろう。
しかし、前回の最後に書いたような、「思惑含み」の場合もあるのも事実だろう。
最初から「分からん事を書くお前が悪い」と言わんばかりの喧嘩腰であれば、「読み手の問題」というか、「読み手の欲求」というバイアスがかかってくるので、ますます「分かってもらう」のは絶望的。
とはいえ、知的好奇心のそれか、敵意の表現かを識別するのは難しい。
(「敵対者」とか「味方」という立場でどちらかを判断するのも安易だろう)
「書き手側」としては、「分かりたいから聞いているのだろう」と良い方に解釈して答えるが最良だ、という事になってしまうが...。
※ 「分かるための質問」ではなく、「分からない事を正当化するための質問」ばかりを繰り返す某A氏のような人は、さすがに「はなから認めたくない態度アリアリ」と言えるだろうが。
ちなみに、私の場合は、基本的に「分からない」と言う時は、「本当に分からなくて、自分のために知りたい時」だ。分かった所で本筋とは関係の無い事を、あえてわざわざ知ろうとは思わない。
また、わざと「分からない」と言って相手に説明を何度も要求し、ミスを誘ったり、自分の隠し持つ反論に合致する発言が出るまで待つ、という作戦もあろうが、まどろっこしいので私はそれを望まない。
というか、今まで書いた理由から、「分かれ」、「分からない」を問答する時間は自分にとっても相手にとっても非常に不毛じゃないのかな。
「お前の言っている事はこう解釈できるからおかしい」
「何だと、お前がそう解釈する事のほうがおかしい」
「何ぃ、お前の言っている事はこうしか解釈できないのに、それをおかしいというのはおかしい」
「何を!私が言った事をそんな風に曲解して、それをおかしくないというお前はおかしい」
とかやってたら、何百年たっても話は進まないだろう。
そんなとこで止まっているよりも、「仮定」を設け「分かった事にして」話を進める方がいくらか有益だと思う。
【最後に】
「分かる」と「賛同する」は別なはずなんだけど
分かってしまうだけで自分の立場が揺らぐと思ってしまう人もいるかもしれない。、
そのため、「分かる」事を拒絶し、「分からない理由」を探してしまう
という事は、某A氏のみならず、誰にも(私にも)あるだろう。
...という事を分かっているか分かっていないかも、「分かる」と「分からない」の分水嶺となる。
そもそも
「一から十まで相手の主張が分かる(理解できる)」
なんて事は、まず起こり得ない、というのが私の見方だけど、皆さんはどう考えるだろう。
そう考えると、「自分の分からない点を無くす事」を目的にやみくもに質問を繰り返して話を止めているよりも、「分かる部分(分かったと思う部分・仮定が立てられる部分)」に焦点を当て、少しずつでも話を進める、という方が建設的ではないだろうかなぁ、と最終的に思った。
【おまけ】
考えているとき思い出した私の好きな中国故事
A 「ああ、魚が楽しそうだなぁ」
B 「お前は魚じゃないんだから、魚の気持ちが分かるはずないじゃないか」
A 「お前は私じゃないんだから、
私が魚の気持ちが分かるかどうか、分かるはずないじゃないか」
私もちゃんと読んでまして、色々返事も書きたいのですが、まずは積み残したものをヒタヒタと一つずつ検討していく事にする。そのうち追いつく予定なのでそれまではおのおのがたで楽しんでいて欲しい。
【最近の若い者はだらしがない】
↑こんな否定的なニュアンスを込めたフレーズをよく聞く。
これは、「時代を超えて脈々と言われ続けるフレーズ」である。「最近の若い者は」と言われた若者が成長してお年寄りになると、その時の若者に対して「最近の若い者は」と言う。
それが本当ならば、現代の若者はどんだけだらしないんだよ、そして太古の人々はどんだけご立派だったんだよって感じだね。実際はというと、総体的な「だらしなさ度」みたいなのはそんなに変わらず、ただ「何をやって、何をやらないか」が違うだけだったりする。
A お年寄りの若い頃はやって、今の若い人はやらない事
B お年寄りの若い頃も今の若い人もやらない事
C お年寄りの若い頃も今の若い人もやっている事
D お年寄りの若い頃はやらなくて、今の若い人はやる事
このうち、Bはお互い様、Cは“やって当然”の事として、どっちも「不問」。
そして、Dを無視して、Aだけ取り出して評価しているにすぎない。
あえてDを問われれば、「やりたくてもやれない事情があったんじゃ」と言い訳する。
そんなお年寄りの周りにいるのは、同じくらいのお年寄り。。
その時、お年寄りの間では「違う認識」よりも「共通の認識」が注目される(確証バイアス。また、その文脈において、「お年寄り」にとっては「若い者」は別集団であり、それを確信したいがために、若者に対しては「同じ事」よりも「違う事」が注目される)。
その状況の上で「やっぱり、最近の若い者はだらしがないのは間違いない」と思うのだ。
【前回の記事を書いてから思った事】
「これを分かっていないのはダメだ」という事はどの時点から言える事なのだろう?
意思疎通が困難な場合、「読み手の問題」と「書き手の問題」の両方が考えられるが、「読み手の問題」を口に出す事ができるのは、どういう時なのだろう(学校の授業とか、会社の会議とか「共通の前提を有するコミュニティ内」でのやりとりではなく、「前提の共有が無い」者に対して)。
ま、「口に出す」のは自由だ、とか、「分かって欲しい」という願望をただ述べただけで、「分かってから言え」とまでは言ってないとかは、そういうのはひとまず置いておいて、「ある知識・理解を他者に何らかの形で要求するのに妥当な根拠ってあるのかなぁ」という話デス。
【どうしたら「読み手の問題」にできるか】
それは自分の意見について、「理解者(賛同者)」が現れてからだろうか?
「分かった人がいるから、分からなくてはいけない」?
いや、その「理解者」は、たまたま自分と同じ前提を持っているから理解できただけで、自分と同じ前提を持たぬ人にはさっぱり分からぬ事かもしれない。
じゃぁ、理解者が1人じゃなく、沢山出てきたら?
「多くの人が分かったから、分からなくてはいけない」?
「多くの人」と言ってもたかが知れているし、それは単に「共通の前提を有するコミュニティ」の人数を示しているだけでしかない。
じゃぁ、多数決?
それは最も馬鹿馬鹿しい。
文章や理解力の問題ではなく、単に人脈の問題ではないか。
では、どうすればいいんだ、という話になると思われるかと思うが
私は、どうしようもない、と思う。
何て適当な、と言われるかも知れないが、これはこれで一つの答え。
どうしたら「読み手の問題」にできるか?
の答えが「どうしようもない=できない」だ。
つまり、「読み手の問題」は、共通の前提を有するコミュニティ内では問えるかもしれないが、外部の者に対して問う事ができない、というのが私の結論。
だから、まぁ「書き手」は常に「書き手の問題」のみを問い続けるのが最も無難なのかもしれない。
また、「書き手」に寄り添う「理解者」にしても
「分かった人手を挙げて、ハーイ!オレもオレもぉぉぉ」と言うよりも
「書き手の問題として何が考えられるか」を述べる方が、まだ建設的だろう。
もちろん、それは「分からぬ人にも分かって欲しい」という考えがあった場合である。
「分からん奴はほっとけ」
と考えるのであれば、そこまでめんどくさい事を考える必要は無い。
しかし、「書き手の問題」を不問にするのならば、「読み手の問題」も不問にすべきだろうね。
【前回の記事を書いてから思い出した事】
そうそう、前回言い忘れた事を思い出した。
最初の記事では、もう一つ、最大の疑問として示していた事があった。
(おいおい、最大の疑問をすぐに忘れるな)
「ニセ科学批判者側が、相手のニセ科学批判の認識を問題にする事ができるのか?」だ。
つまり、「ニセ科学批判批判」に対し、「ニセ科学批判を分かっていない」事を非難できるか、である。
ニセ科学批判者達でわいわい話し合う時に「お前は分かっていない」とか、「いや分かっている」とか言い合うのは、まぁ微笑ましいが(何が?)。
しかし、同じノリで同じ事を外側の人間に要求するは適切なのか、という話。
一つは、さっき述べたような「読み手の問題」にする事の問題。
もう一つは、そもそも「ニセ科学批判を分かる事」ができるのか、という問題がある。
前者については、先に述べたとおり。
後者については、また今度書くつもりだ。
【「分からない」の意味】
ついでにもう一つ
「読み手側」が「分からん」と要求する行為について考えてみる。
もちろん、純粋に「分かりたいから」という気持ちで発するものもあるだろう。
しかし、前回の最後に書いたような、「思惑含み」の場合もあるのも事実だろう。
最初から「分からん事を書くお前が悪い」と言わんばかりの喧嘩腰であれば、「読み手の問題」というか、「読み手の欲求」というバイアスがかかってくるので、ますます「分かってもらう」のは絶望的。
とはいえ、知的好奇心のそれか、敵意の表現かを識別するのは難しい。
(「敵対者」とか「味方」という立場でどちらかを判断するのも安易だろう)
「書き手側」としては、「分かりたいから聞いているのだろう」と良い方に解釈して答えるが最良だ、という事になってしまうが...。
※ 「分かるための質問」ではなく、「分からない事を正当化するための質問」ばかりを繰り返す某A氏のような人は、さすがに「はなから認めたくない態度アリアリ」と言えるだろうが。
ちなみに、私の場合は、基本的に「分からない」と言う時は、「本当に分からなくて、自分のために知りたい時」だ。分かった所で本筋とは関係の無い事を、あえてわざわざ知ろうとは思わない。
また、わざと「分からない」と言って相手に説明を何度も要求し、ミスを誘ったり、自分の隠し持つ反論に合致する発言が出るまで待つ、という作戦もあろうが、まどろっこしいので私はそれを望まない。
というか、今まで書いた理由から、「分かれ」、「分からない」を問答する時間は自分にとっても相手にとっても非常に不毛じゃないのかな。
「お前の言っている事はこう解釈できるからおかしい」
「何だと、お前がそう解釈する事のほうがおかしい」
「何ぃ、お前の言っている事はこうしか解釈できないのに、それをおかしいというのはおかしい」
「何を!私が言った事をそんな風に曲解して、それをおかしくないというお前はおかしい」
とかやってたら、何百年たっても話は進まないだろう。
そんなとこで止まっているよりも、「仮定」を設け「分かった事にして」話を進める方がいくらか有益だと思う。
もし「仮定」がビンゴであれば、一気に話は進む。それは、相手の「説明の労力」の軽減への協力ともなる。一方、「仮定」が間違っていたとしても、その「少なくともその仮定は当てはまらない」という事が分かるだけでも、一歩進んだと言える(このあたりは、科学における仮説の棄却と支持のプロセスと似ている)。
「仮定が違った時の反論や説明が非常に骨が折れるのでは」と心配する方もいらっしゃったが、「その仮定違いますよ」、「そうですか」で済む話ではないだろうか?
(まぁ、「そうですか」では済まさない人も多いんだろうなぁ、とは思うけど)
“仮定した側”に対しては、『「仮定」と自分で言った以上、否定された「仮定」に固執するのはおかしい』事について十分説得力のある説明はできる気がする(しろと言われれば)。
また、“仮定された側”にしてみれば、仮定を否定しさえすればいいので、とっても楽なはずだ(実は仮定は否定できないのに、仮定の上での結論は否定したい、という屈折したものがあれば話は別だけど)。
【最後に】
「分かる」と「賛同する」は別なはずなんだけど
分かってしまうだけで自分の立場が揺らぐと思ってしまう人もいるかもしれない。、
そのため、「分かる」事を拒絶し、「分からない理由」を探してしまう
という事は、某A氏のみならず、誰にも(私にも)あるだろう。
...という事を分かっているか分かっていないかも、「分かる」と「分からない」の分水嶺となる。
そもそも
「一から十まで相手の主張が分かる(理解できる)」
なんて事は、まず起こり得ない、というのが私の見方だけど、皆さんはどう考えるだろう。
そう考えると、「自分の分からない点を無くす事」を目的にやみくもに質問を繰り返して話を止めているよりも、「分かる部分(分かったと思う部分・仮定が立てられる部分)」に焦点を当て、少しずつでも話を進める、という方が建設的ではないだろうかなぁ、と最終的に思った。
【おまけ】
考えているとき思い出した私の好きな中国故事
A 「ああ、魚が楽しそうだなぁ」
B 「お前は魚じゃないんだから、魚の気持ちが分かるはずないじゃないか」
A 「お前は私じゃないんだから、
私が魚の気持ちが分かるかどうか、分かるはずないじゃないか」
読み手がその読み取ったことをもとにしてなんらかの発信をおこなった際には、それは「書き手」としておなじステージに立ったことになるんではないか、なんて思いますけどね。
by pooh (2009-04-21 07:54)
私はJudgmentさんじゃないので、いい加減な理解かもしれませんが、「読み手」の「書き手」に反応して書き込みの問題は、「読み手の問題」ではないかと思います。
それぞれ書いた物に責任を持つ、つうのでいいんじゃないでしょうか。
個人的には「ニセ科学批判」を批判するのに、高校レベル(自分並)の「科学」知識は持っているべきじゃないかなぁ。
そこを疑われる(冤罪だとしても)コメントは、コメントを書いた人の責任ということで。
相手の気持ちは、書いてあることからしか分からないので、「魚が気持ちよさそうだ」と書いたのであれば、魚の気持ちは分からないけど、「魚が気持ちよさそう」だと思った人の気持ちは何となく分かるもんです。
所詮、性格の認知なんて・・・
by トンデモブラウ (2009-04-21 08:15)
【poohさん】
>読み手がその読み取ったことをもとにしてなんらかの発信をおこなった際には、
>それは「書き手」としておなじステージに立ったことになるんではないか
私もそれについてはそう思います。
ただ、「読み取ったこと」ではなく、「読み取るため」の発信については、まだ「書き手側の責任」かなと(自分に寄せられた時は)。
ただ、「読み取らないのに発信」というのはちと扱いに困る。
先生「この問題分かる人」
A 「はい!はい!はい!」
先生「じゃぁAくん」
A 「はいっ!分かりません」
コントにはよくあるシチュエーションなのですが...。
【トンデモブラウさん】
>「読み手」の「書き手」に反応して書き込みの問題は、「読み手の問題」ではないかと思います。
まぁ、本来そうなんでしょう。何にせよ、どんな反応にも(反応がない事にも)その人の思惑が込められるわけですから。
>個人的には「ニセ科学批判」を批判するのに、
>高校レベル(自分並)の「科学」知識は持っているべきじゃないかなぁ。
批判にもよるでしょうね。
ちなみに、私の批判は、特に科学知識は必要ありません(知識はあるけどね←自慢)
あ、いきなりだけど(そのうち言おうと思ってたけど)
あなたを放置プレイで虐げたりもしたけどね
今回の一連の流れの中でトンデモブラウさんの真価を見た気がするわ。
トンデモブラウさんのコメントって私の記事に関して、「分らない事」よりも「分かったと思う事」を優先してそこに自分の意見をかぶせていますよね(もちろん他にもそういう人がいるけど)。
そういうのは、批判であれなんであれ、素直に嬉しい。
そんな「話を広げる力」が、なんか今回は際立って見えたなぁ。
...とたまには褒めてみる。
by Judgement (2009-04-28 23:56)