王様は裸だ!Annex
https://naked-kings.blog.ss-blog.jp/
「裸の王様」と呼びたい人達の観察日記?
Judgement
2018-03-15T15:38:39+09:00
ja
-
外側の人の甲状腺検査批判と福島の現実
https://naked-kings.blog.ss-blog.jp/2018-03-15
やぁ久しぶり最後に書いた記事がおよそ4年前。それぐらい放置しても無くならないのが課金サービスのいいところ。なんて言いながら、とりあえず生きていましたと現況報告。2年前にスマホに変え(遅っ!)、つい最近Twitterを見始めたわけですが、かの菊池誠氏が、予想通りというか予想以上というか、劣化の一途をたどっているなぁ、という感じ。まぁ、Twitterという発信媒体は、基本的に「つぶやき」という内的・私的なメッセージを発信するものであり(あと、情報の拡散か)、「説明」などで理解を広げるものではないのだろう(私も発信してみたが、正直文字数制限にイライラした。まぁ、本来の使い方から外れているからなのだろうが)。それが、元々言葉(と思考)の足りない方にとっては使い勝手の良いツールと捉えられるであろう一方で、その「足りなさ」が露わになりやすいという負の側面もあると思う。そう考えると、菊池氏が劣化して見えるのは、彼自身が変わっていったというよりも、胡麻化されていた部分がTwitterというツールによってどんどん表面化されてきた、と捉えるほうがより正確なのかもしれない。-----------------------------------------久々なので前置きが長くなりましたが、本題に入っていきます。そんな菊池氏のTwitterを見ていると、どうやら「善意」という錯覚に基づく自己アピールネタ(私は理性的かつ人道的で正しい!)の一つに「(福島県で実施されている)甲状腺検査の批判」があるようであった。それを見てて、どうも「現状認識」を間違えたまま批判している、というか「現状」ではなく「自分の得た情報と知識」ばかりを見て批判していると捉えられた。まぁ、現場にいない人が現状を把握するのは困難なため、「よくある勘違い」ではあるものの、Twitterの怖いところはそんな意見であっても、一見理性的かつ人道的に見えるため、賛同者が現れ、拡散していくというところだ(菊池氏にしても、彼が発信源ではなく、誰かの受け売りなのかもしれない)。おそらく、賛同者の多くは福島県外に住む方、若しくは県内の方でも子供や孫がいない方だと予想する(カウントしたわけではないが、確率的にはほぼ確実にそうなるだろう)。県内の子供やその親達のためのものを、部外者の勘違いによる横槍で取り上げられてしまうのはひどい話だぞ、ということで軌道修正を期待してこの記事を書く。----..
原発事故関連
Judgement
2018-03-15T15:38:39+09:00
最後に書いた記事がおよそ4年前。
それぐらい放置しても無くならないのが課金サービスのいいところ。
なんて言いながら、とりあえず生きていましたと現況報告。
2年前にスマホに変え(遅っ!)、つい最近Twitterを見始めたわけですが、かの菊池誠氏が、予想通りというか予想以上というか、劣化の一途をたどっているなぁ、という感じ。
まぁ、Twitterという発信媒体は、基本的に「つぶやき」という内的・私的なメッセージを発信するものであり(あと、情報の拡散か)、「説明」などで理解を広げるものではないのだろう(私も発信してみたが、正直文字数制限にイライラした。まぁ、本来の使い方から外れているからなのだろうが)。
それが、元々言葉(と思考)の足りない方にとっては使い勝手の良いツールと捉えられるであろう一方で、その「足りなさ」が露わになりやすいという負の側面もあると思う。
そう考えると、菊池氏が劣化して見えるのは、彼自身が変わっていったというよりも、胡麻化されていた部分がTwitterというツールによってどんどん表面化されてきた、と捉えるほうがより正確なのかもしれない。
-----------------------------------------
久々なので前置きが長くなりましたが、本題に入っていきます。
そんな菊池氏のTwitterを見ていると、どうやら「善意」という錯覚に基づく自己アピールネタ(私は理性的かつ人道的で正しい!)の一つに「(福島県で実施されている)甲状腺検査の批判」があるようであった。
それを見てて、どうも「現状認識」を間違えたまま批判している、というか「現状」ではなく「自分の得た情報と知識」ばかりを見て批判していると捉えられた。
まぁ、現場にいない人が現状を把握するのは困難なため、「よくある勘違い」ではあるものの、Twitterの怖いところはそんな意見であっても、一見理性的かつ人道的に見えるため、賛同者が現れ、拡散していくというところだ(菊池氏にしても、彼が発信源ではなく、誰かの受け売りなのかもしれない)。
おそらく、賛同者の多くは福島県外に住む方、若しくは県内の方でも子供や孫がいない方だと予想する(カウントしたわけではないが、確率的にはほぼ確実にそうなるだろう)。
県内の子供やその親達のためのものを、部外者の勘違いによる横槍で取り上げられてしまうのはひどい話だぞ、
ということで軌道修正を期待してこの記事を書く。
-----------------------------------------
この件に関しては、InterdisciplinaryのTAKESANさん(ublftboさん?)が『「過剰診断があるから甲状腺がん検診は止めるべき」、などと言うべきでは無い』等により、比較的冷静な視点で記事を書いている。
それでも、まだ「ずれている」と感じられたため
『検診と「不安」と「安心」と過剰診断とという記事に、(迷惑を顧みず)長々としたコメントを投稿した。
とは言え、TAKESANさんのブログを踏み台にしたようなやり方もどうかなぁ、という気持ちも出てきたため、この度約4年の沈黙を破り、ブログを更新しました。
まぁ、それぐらいしたくなるほど、この件は問題だと思うし、7年前の原発事故から今までの間も続く、あるいは深化する「内側と外側の分断」を如実に示すケースだと思う。
というわけで、他所のブログに投稿した文章を、多少改変(改ざんじゃないぞ)しつつ語っていこう。
※ 久々の執筆と、大量のテキストのため、不備や間違いも含んでそうだけど、それはおいおい修正することにしてとりあえずアップしておく(先言い訳)。
=========================================
まず、このブログの愛読者(なんていないだろうが)の方はご存知かもしれないけれど、私は事故当時も今も福島県在住です。原発爆発時の風下に位置し、避難勧告は出ないものの、そこそこ汚染されたところでした。
これを読んでいる皆さんがどちらの方かは存じませんが、ここでは「甲状腺検査の是非」という議論の対象地域の外側に居る人と想定し、そのような人が見落としているであろう「内側の現実」に基づいて書いていくことになります。
皆さんはその話題の甲状腺検査が、事故後に実施されている「県民健康調査」の中のひとつ、というのはご存知でしょうか。
ちなみに、私はこの「県民健康調査」には不信感を持っていますので、全県民が対象の「基本調査」に対して無回答で通しています。
とはいえ、全数調査を意気込んだ基本調査は、ふたを開けてみると回収率30%未満であったので、私が取り立てて“反体制的”であるわけではないでしょうね。
そんな私ですが、甲状腺検査については一定の評価をしてしまっています。
何故か?
結論を先に言えば「多くの県民にメリットがあったからです」
-----------------------------------------
でも、私が見る限りの「甲状腺検査批判」は、逆のことを言います。
甲状腺検査は、メリットが無い(あるいは有るという根拠がない)一方で、過剰診断等のデメリットがある、というのが最大公約数的なところでしょうか。
彼らが言う「あるべき診断」というのは、「死亡を防ぐため早期に疾患を見つけて治療するためのもの」だそうです。なのに、甲状腺検査にはその効果が無い、だからダメ、という話。
うん、“日常の健康診断”を想定すれば、それは多分正しい。
でも、原発事故に対応したあの甲状腺検査も同じ前提でなされているものだったのでしょうか?
実は、そこが「内側の現状」と「外側の想定」の大きなズレを生じさせているんですね。
内側にいる人は「日常の健康診断との性質の違い」にはすぐ気づく。でも外側の人はそれに気付けず、自分が知る「日常の健康診断」に寄せて考えてしまったのかもしれません。
-----------------------------------------
実は調査委員会も「原発事故で甲状腺がんが増えるはずだから早期に発見して早期に治療したい」という意図で検査を企画したわけでは無いのです(正確なところは福島県の県民健康調査のHPを参照あれ)。
甲状腺検査の説明を引用してみましょう。
「チェルノブイリ原発事故後に明らかになった健康被害として、放射性ヨウ素の内部被ばくによる小児の甲状腺がんがあります。これを踏まえ、子どもたちの健康を長期に見守るために、甲状腺検査を実施しています。」
おそらく、「甲状腺検査反対派」の方が読めば、前段のチェルノブイリの話に引っ張られそうですが、見るべきは後段の方です“甲状腺がんの早期発見に努める”とは言っていません。では、なんと言っているかといれば「健康を長期に見守る」なんです。
ところで、反対派の方がこの甲状腺検査について「甲状腺検診」あるいは「甲状腺がん検診」と言い換えて表現しているのをよく見かけます。
でも、正確な呼称はあくまで「甲状腺検査」であり、先ほど甲状腺検査は県民健康調査の一部と紹介した点を踏まえれば、実質的には甲状腺“調査”となるのです。
おっと、言葉尻の話をしているのではありません。
ここが一番本質的なところなのです。
この「調査」は、そもそも“日常の健康診断”で言うところの「ガンの早期発見」が目的ではないんです(だから批判派の掲げる根拠がこれを前提にしたものである限り、的を外し続けてしまう)。
健康診断は、健康に見える裏に隠された潜在的な疾患を見つけるためのものですよね。ですが、この調査はそうではなく、「健康を長期に見守る」、つまり「健康であることを確認し続ける」のが目的なのです。
よって、もし批判するとすれば、「被害者をモルモットのような観察対象として扱うな!」の方が筋を外していないと思います。
(だから私は健康調査に不信感を持っているのです)。
...ここまで聞いて、平和な日常を過ごし、普通の健康診断しか受けないような人はこの「健康を確認する」という言い方に違和感しか感じないかもしれません。
では、この意味を理解するのに必要な知識を二つ述べましょう。
-----------------------------------------
ひとつは「先行情報の存在」です。
まぁ、外の皆さんも当然ご存知だと思いますが、チェルノブイリ事故での甲状腺がんの増加という情報ですね。
この情報については、おそらく外側の皆さんよりも内側の方が早く広く情報が広まったと私は思います(自分が原発事故に巻き込まれたわけですからすぐに調べないわけない)。
そして「親の心配」です。
ひとつ言っておきたいのは、これは外側に皆さんが想像するそれの100倍以上は大きいと思った方がいいということ。
これは私の周囲の話であり、客観的データは持ってませんが、大人はほとんど自身への放射能の影響を怖がっていなかったんですよ。
でも、子供に対してはダメなんですね。例え1/1000以下の確率であっても、もし何かあったら子供に申し訳ないと不安になるわけです。なので、私の知る範囲で県外に避難した人のほとんどは母子でした(経済の柱である父親は仕事のため残る)。
ちょっと寄り道するけど、そんな子供を心配する親の気持ちを「放射脳」とバカにする人もいるようですね。
でもですよ、例えば拳銃の銃口が自分の子供に向けられた時、弾が出る確率が1/1000と分かっていたとしても、そこで子供を庇おうとしない親の方がおかしいと思いませんか?
また、リスクの比較を、としたり顔で言う人もいました。
それは道理なんだけど、「比較する時は常に天秤の片側に“子供の命”が乗っかっている」状況は、決してしたり顔で言えるような簡単な話ではないんです。
だから、避難を選択しなかった親御さんも「冷静に考えてそう判断した」というよりかは、これもまた「苦渋の選択」だったと私は思います。
おっと、話が少し深くなりすぎました。
-----------------------------------------
この2つにより生じるものは、当然
「うちの子供が甲状腺がんになったらどうしよう」ですよね。
そんな親の“狂おしいほどの”不安は、極度のストレスであり生活にも影響をあたえます(県外に避難する、というのがその一例)。
では、どうにかしてこの「不安」を取り除いてあげられないでしょうか?
そうです、ここに「健康を確認する」行為の意味が生じるのです。
つまり、「ガンの早期発見」のために調べるのではなく、「ガンで無いこと」を確認するために調べるんですね。
ちなみに、甲状腺検査批判をしている人は、反対の理由の一つとして「偽陽性(ガンでないのにガンと診断される)の多発によるデメリット」を挙げます。
ですが、この目的においては偽陰性(ガンなのにガンでないと診断される)の割合が小さいほど求められている結果(ガンでない)の信頼性が高まります。
つまり、発症を前提とすれば偽陽性率は注目すべき要因ですが、発症していないことを前提とすれば注目すべきは偽陰性率の低下の方なのです(ちなみに、大抵は偽陰性率を下げると偽陽性率が上がる)。
こうしてみると、「内側の問題認識」と「外側の問題認識」はほぼ正反対になっているわけです。
-----------------------------------------
こういう話になってくると、当然指摘される問題点があると思います。
ですが、それはひとまずおいておいて、仮に原発事故後にこの「甲状腺検査」が実施されていなかった場合どうなったか考えてみましょう。
おっと、事故後に『「大丈夫であること」ときちんと説明して不安を取り除けばいい』なんて聞こえの良い事を言う人もいましたが、正直甘っちょろいですよ。
だって、福島の人は原発に対して多少の不安を感じつつも、それに対して「大丈夫」と言いくるめられ、疑いながらも受け入れていたんですよ。なのに原発を爆発させ「大丈夫というのは嘘だった」事を明らかにしただけでなく、「(自分の)想定外だったから仕方ないよね」と開き直られたんですよ。
そんな目にあった人に「大丈夫」で安心させようなんて、期待する方がおかしいです。
おそらく多くの親達は、民間の病院に駆け込んだでしょうね。
だとどうなるか?
病院は儲かるかもしれませんが、病院では“診察”するわけですから、「偽陽性」を減らすことを考え、より確実で侵襲的な検査を実施するでしょう(ちなみに健康調査の甲状腺検査では、まず非侵襲的なエコー検査でスクリーニングします)。
また、甲状腺がんの専門医は多くない点を考えれば、誤診断や過剰診断も多くなるでしょう。そうなれば、もしかしたら手術されてしまっていた人は今より多くなっていたかもしれません。
(こういう事態を防ぐのも、甲状腺検査実施に踏み切った理由の一つ、と言っていた人がいたと記憶している)
-----------------------------------------
そのようにきちんと捉えていくと、実施された甲状腺検査は、少なくとも「やらない方が良かった」とか「やっても意味が無かった」とは言えないと思います。
県民健康調査が嫌いな私としてはくやしくもあるんだけど、少なくても甲状腺検査という手段は原発事故後のフォローとしては上手く出来ていると認めざるを得ないのではないでしょうか。
...と、ここで話を終わると、多分「モヤモヤ」が残る人が沢山いると思います。
そう、『「陰性」じゃなかった人の気持ちは?安心したいから受けたのに、さらに不安になっちゃうよね。』とか『やっぱり、偽陽性による不安は不当なものだから絶対許せない』と思う人も多いのではないでしょうか。
そう思った皆さんはヒューマニストなのかもしれない。
ではどうすればいいのですかね...。
こういう一部の人達の「不当な不安」を無くすために検査もせず診断もさせないようにして、全部が公平に「不安なまま」にしておけば良かったとでも?
この検査(調査)の結果としては、「不当に不安になる人」より、「陰性で安心する人」の方が圧倒的に多かった。
『最大多数の幸福』の原理から言えば「正しい選択」ではなかったのでしょうかね。
それでも『いや、たとえそうであっても不当な不安が出るのはダメ。そうなるくらいなら皆が不安を我慢すべきだ』と主張する人もいるでしょう(しつこいなぁ)。
まぁ、そういうポリシーを持つこと自体はいいでしょう。
でも、もしあなたがそう思い、かつ、あなたがこの「不満を我慢すべき皆」に含まれない立場であるのならば、その主張はヒューマニストとはかけ離れた『無責任な発言』でしかない点は自覚すべきだと思いますよ。
-----------------------------------------
『最大多数の幸福』という考え方には納得できない、という人は少なくないと思います(私だって、この方法が適切で最良だとは思っていません)。
念のため言えば、県民健康調査を実施する側も、何も「偽陽性」を量産しようとしているわけでなく、それを防ぐため過去の知見を参考にしながらそれなりに慎重にステップを踏んでやってると思いますよ。
(「偽陽性」を根拠に批判したいなら、“過去の知見”や調査結果しか参照しないのではなく、「実際にはどのような考えて、どのような手段で調査を進めているのか」を把握してからやる、というのが「当たり前」なのに、飛ばされている気もします)
先ほどは“『最大多数の幸福』の原理から言えば「正しい選択」”なんて言いましたが、実際には「選択せざるを得なかった」と表現するのが正しいでしょう。
その選択が正しくなかった、と言いたいのであれば、「じゃぁどうすれば良かったんですか」と聞きたい。
福島で求められたのは早急な対策だった。でも、あなたには7年も時間が与えられていたわけだからさぞかし素晴らしいアイディアがあるのでしょうね、と嫌味を投げつけたい。
福島の現状を踏まえず「何もしなくて良かった」という人がいたら、それはあなたが「何も考えてこなかった」ということ。
部外者だから「何も考えてこなかった」事自体は批判しないけど、何も考えてこなかったくせに、いきなり口出しするのはどうかと思うね。
そもそも『最大多数の幸福』なんて、今の原発状況そのものなんですね。
「原発を即時廃止すれば(経済的に)皆が不幸になる」ことを理由に、「原発を動かせば大部分が幸福になるが、一部にリスクを押し付ける」ことを是としているわけです。
冒頭で名前を出した菊池氏なんかは、甲状腺検査については「(一部の人に)害があるからやめろ!」という一方で、即時原発廃止については「経済が大変になるから今はやめるな!」と言うんですよね。
外側の人の認識においては別に問題ないんでしょうが、これまで述べてきた内側の視点においては「ダブルスタンダードな主張」に見えるんですよ。
-----------------------------------------
ちょっと話題がはずれたけれど、そろそろまとめ。
甲状腺検査を否定する方々を見ていて私が予想するのは、彼らは「チェルノブイリ事故の際は多くの子供が本来は必要が無かった手術を受けたかもしれない」というショッキングなニュースを知ったことによる心配(福島でも同じことが起こってしまうのでは)などという「善意」が根底にあるんだと思う。
また、甲状腺検査を否定する人は「放射能の影響は無い(または小さい)」と主張する人でもあることが多いため、「わざわざ検査するのは無駄」という心づもりも介在しているんだと思う。
ま、どんな思惑があろうと個人の自由ではあるけれど
外側の人間が内側の人間に干渉しようというのであれば、自分の思惑というフィルターを通し、通過したものだけを事実として考えるのではなく、まずは謙虚に内側の現実を解きほぐし、理解してからにして欲しいと強く思う。
-----------------------------------------
最後に。
原発事故の後、何が起きたか?
内側から外側を見てきた立場から言わせてもらえれば、外側の人たちが何かにつけ2分し(放射能の影響、原発の是非)、お互いがお互いを口汚く罵りあうようになった感じだ。
双方が「私の方が、福島の人のためを思っている」と主張するけど、双方とも「自分に都合のいい部分的な福島」しか見ていなかったり、果ては福島すら見ていない思想抗争的な様相にも発展する。
そんな偏った認識の状況を内側から見ていると、どちらも福島のことを「相手を叩くために都合の良い棍棒」としてしか見ていないのでは、などと邪推したくもなる。
そういいながらも、内側も同様の分裂が見られるわけだけどね。
外側の分裂が先か、内側の分裂が先か、それはわからない
でも、内側の分裂が広がるのは外側の分裂のせいではないかと思う。
気分としては大岡裁きの「子争い」だ。
「子供の手を引きあって、勝った方が本当の親」というあれだけど、あの話のように「実は先に手を離した方が勝ち」とはならないわけで、かといって引っ張られ続けるのもつらいところがあるなぁ。
そんなことを思う今日この頃であった。
ではでは(次は何年後?)
]]>
-
あけました。おめでとう
https://naked-kings.blog.ss-blog.jp/2014-01-03
久々の更新! 更新を忘れていたというより 更新のためのユーザーIDを忘れていました。 やっとわかったので、とりあえず膨大な広告コメントを削除。 あまりに多くてなんかむかついた。
ただの日記
Judgement
2014-01-03T12:38:21+09:00
更新を忘れていたというより
更新のためのユーザーIDを忘れていました。
やっとわかったので、とりあえず膨大な広告コメントを削除。
あまりに多くてなんかむかついた。
]]>
-
殺されそうなのは『科学』なのか
https://naked-kings.blog.ss-blog.jp/2012-09-12
とある記事を読んで色々考えたのだけど今回は(比較的)短くまとめて書いた。
言論
Judgement
2012-09-13T00:24:48+09:00
とある記事を読んで色々考えたのだけど
今回は(比較的)短くまとめて書いた。
そもそも『科学者』ってなんだろうと思った。
結局のところ別に試験を受けて取る資格ではないわけで
極端な話、「言ったもん勝ち」の称号ではないかと思う。
という事で、私は私で勝手に意味付けしてみたい。
【科学者そして...】
そもそも、『科学』とは何だろう?
それは、ざっくり言えば自然あるいは社会や人間から
「『客観的かつ再現性のある法則』に合理的に近づくための”方法”」
と私は捉えている。
そして、未知の領域に対し、『科学』という”方法”を駆使し
実際の自然あるいは社会や人間に接して、実験や調査により
新たな法則を発見することを営みとする者が『科学者』だと私は考える。
では例えば「自然科学分野の大学教授」は『科学者』だろうか。
モチロン、『科学者』はいる。
しかし、必ず『科学者』であるとも言えない。
おそらくは元々は皆「科学者」であったかもしれないけれど
その中には、得た専門知識を教える事に専従したり
シミュレーションという仮想空間に甘んじたりして
『科学者』としての営みから離れてしまった人もいるだろう。
モチロン、そのような人達の「専門知識」もまた有益であるわけで
そのような人達は、敬意を込めて『学者』と呼ぶ事にしよう。
とはいえ、一文字の違いであるけれど、方向性は異なる。
未知の領域がある場合
『科学者』は実験や調査で実証しないと不満だが
『学 者』は既知の知識で説明できると安心する
そして、おそらく
『科学者』であることは『学者』であることの十分条件であるが
『学者』であることは『科学者』であることの必要条件でしかない。
(ちなみに『専門家』は、『学者』のカテゴリに入るだろう)
【科学は殺されたのか】
あの原発事故から一年半、色んな人が色んな事を言った。
「あのコトは無かった事にしたい」と思う人も沢山いるでしょう。
中には、健忘症が酷いのか、既に「無かった事」にして、
他人のミスだけしれっと批判したりしている人もいるようだけどね。
その人達は『科学者』としてものを言っていたのか
それとも『学者』としてものを言っていたのか。
「御用学者」、「エア御用」
そんな言葉が生まれ浴びせられてきたのは
『科学者』だったのか、それとも『学者』だったのか。
おそらく、あの事故後でも「科学」の信頼はさほど揺らいでいない。
信頼が大きく揺らいだのは『学者』の方だ。
自分の”知識”を最高級品とし、
それで説明できた事で安心し、正当性を主張する。
そして、自分と同じ”知識”を持ち合わせない人を
一方的に哀れみ、蔑む。
そして『科学者』として何かをやったわけでもないのに
「科学的」という商標を自論に張りたがるのだ。
「御用学者」というコトバで殺されそうなのは
『科学』そのものではなく
そんな『科学者』のフリで、したり顔で話す『学者』だと思う。
【学者の営み】
『学者』にとっての”正しい知識”とは
”自分が知っている知識”である。
別の『学者』と論争になれば
「お前はあれを知らない(俺は知っている)」
の言い合いで、ゆずらない。
他人の知識ばかり使い、自分の責任で”証明”はしない。
同じ知識を尊重している者どうしで派閥を作り
外敵には徒党を組んで攻撃し
内部ではお互いほめそやし合う。
「そんなこと知っていたもんね」
「こんなことも知らないの?」
と言えれば、それで満足で
最後は「話し合う価値も無い」と決め付け
いつまでも主張の相違の相互決着をつけないで
でも、一般人に対しては
「自分の方が正しいんだからね」と耳打ちしようとする。
そのような気味の悪い『学者』特有の営みなのに
わざわざ正当化に「科学」を使おうとする
(しかも、当の本人には自覚が無いから始末に悪い)
そんな態度が一般人にも見破られつつあるから
(科学ではなく)『学者』が信用されなくなってきたのだ。
自分が殺されそうになったからって、
体よく『科学が殺される』と騒ぎ出すのは盗人猛々しい!!
【科学コミュニケーション】
最近、科学コミュニケーション的なことが語られるコトが
ますます多くなってきたようだ。
自分のことを『科学者』と錯覚している『学者』は
自分を基準に科学を語ろうとするので、言い出すコトは決まっている
「科学とは”知識”だ」
そうやって、自分の得意分野に落とし込んで
イニシアティブを握ろうとする。
それがディスコミュニケーションを生んでいる事に気付かない。
というか、『学者』である当人が
意見を異にする『学者』と上手くコミュニケートできてないくせに
「科学コミュニケーション」なんてできるわけがないんだけどね。
【最後に】
「震災と津波の多くの犠牲者」について
取って付けたような使い方がされていたのは
その惨状の一端に実際に触れた私にとって非常に不愉快。
「薄っぺらい社会派気分」は、せめて表に出すなと言いたい。
]]>
-
グスコーブドリの伝記
https://naked-kings.blog.ss-blog.jp/2012-07-17
広告がウザいので定期更新。原発関連については言いたいコトが山ほどあるけど今回はやめておく。7月7日から宮沢賢治原作、杉井ギザブロー監督の映画 「グスコーブドリの伝記」が公開されている。キャラクター原案がますむら・ひろし氏という事で、主人公は猫だ。(念のため言えば、原作の主人公は普通に人だけどね)
ただの日記
Judgement
2012-07-18T00:19:55+09:00
原発関連については言いたいコトが山ほどあるけど今回はやめておく。
7月7日から宮沢賢治原作、杉井ギザブロー監督の映画
「グスコーブドリの伝記」が公開されている。
キャラクター原案がますむら・ひろし氏という事で、主人公は猫だ。
(念のため言えば、原作の主人公は普通に人だけどね)
ますむら・ひろし氏は、宮沢賢治の小説を漫画化した作品が多く、その中で「銀河鉄道の夜」、「グスコーブドリの伝記」、「十力の金剛石」等は主人公を猫にして描いている。
宮沢賢治記念館で彼の漫画を知り、しかも出身がお隣米沢市という事もアリ、親近感を持ってそれから集め始めたけど、原作に忠実で空気感を損なわず、何とも言えない余韻を感じさせる作風だと思う。
中でも、彼の「グスコーブドリの伝記」は、私が初めて買った彼の漫画であり、特に好きなもの。だ
でも、映画はどうやらキャラクターだけますむら氏のものを使って、内容は原作や彼の漫画とは異なるストーリーになっているようなので、見なくて良かった気がする。
とはいえ、映画公開のおかげで、彼の漫画も装丁を新たにして書店に並んでいるようだ。
(以前は、見付けるのが困難で、地元米沢市の書店を徘徊したけどね)。
という訳で、映画はオススメしないけど(みてないけど)、漫画はオススメする。
映画を見てイマイチと思った人には、特にオススメしたい。
端的に言えば「自己犠牲の話」になっちゃうんだと思うケド
なんというか、せつない。
ある意味ハッピーエンドなんだけど、せつない。
そして、あんなコトがあった今読み返すと
せつなさ倍増だったりする。
]]>
-
定期更新。
https://naked-kings.blog.ss-blog.jp/2012-01-26
今日の明け方、フト目が覚めた。アレ、なんで目が覚めたんだろう?と思ったらすぐ、ミシッとなって、グラグラグラ。
ただの日記
Judgement
2012-01-26T23:44:33+09:00
アレ、なんで目が覚めたんだろう?
と思ったらすぐ、ミシッとなって、グラグラグラ。
震度2ぐらいの地震だったようだ。
予知能力!?
...ではなく、何らかの予兆を敏感に感じて目が覚めたんだろうね。
でも、震度2程度の地震の予兆でも目が覚めるって
多分、あの日以降の余震の日々の緊張感がまだ体に染み付いているんだろうね。
あれから10ヶ月
頭では時々震災の事を忘れてしまってたりするけれど
体はまだ覚えている。
悲しくもあるけど、なんか誇らしくもある。
それにしても最近また地震が増えてきた感じ。
あの震災でも、「あれから一ヶ月」って節目の時にグラグラきたから
なんとな~く、「あれから一年」の節目の日が怖い。
]]>
-
「絆」
https://naked-kings.blog.ss-blog.jp/2011-12-15
今年の一文字が「絆」に決まったようだ。
ただの日記
Judgement
2011-12-15T23:14:55+09:00
モチロン、被災県民の私としては、今年は本当に「絆」に救われた。
ご近所との助け合い。
そして、他県、さらには日本国内に留まらない世界規模の人的、物的な支援。
近所、国民、あるいは人類という枠組みで成立する「絆」
それが無償の支援、あるいは支え合いを生むんだ、と再確認させていただいた。
・・・・・・・・・・・・・・
でも、今年が「絆」で締めくくられる事については抵抗がある。
阪神淡路の年が「震」
JOC臨界事故の年が「末」
新潟中越地震、美浜原発事故の年が「災」
それらに匹敵するか、もしかしたらそれ以上の地震被害
そしてと今までと比べものにならない原発事故
そんな事があった今年の一文字が
「絆」というポジティブな意味の文字で示されるのは何か釈然としない。
何だか、当たり障りのなさそうな所に無理矢理着地したな、って感じ。
まぁ、事態があまりに深刻すぎたからこそ、
少しぐらい希望のある文字を、という意図もあるのかもしれないけどね。
・・・・・・・・・・・・・・
確かに「絆」という言葉は「東日本大震災」の大きな側面を示すと思う。
でも、それはあくまで「東日本大震災」のいち側面にすぎない。
その「東日本大震災」による津波の被災地に目を向ければ
家族や親族という「絆」を永遠に奪われた人が多数いる。
その人達にむかって『今年は「絆」の年でした』なんて、私には言えない。
・・・・・・・・・・・・・・
てか、今年は「東日本大震災」だけが大きな出来事だったの?
それに伴う「原発事故」も匹敵するインパクトを与えたんじゃないの?
いや、むしろそっちの方が、
放射能汚染、原発停止、脱原発論争、節電と
『全国民』が意識せざるをえない影響を与えたんじゃない?
・・・・・・・・・・・・・・
しかも、これがらみの出来事は、「絆」とは真逆の事がほとんどなんだよね。
農作物や家畜の風評被害、いじめ、護摩木・花火・建造物の受け入れ拒否。
そして、仕方が無いのは分かるけど
放射性物質を含む土や瓦礫なども当然受入拒否だよね。
震災復興支援では、本当に皆さんからの「絆」の気持ちを感じていたけれど
こと、原発関連の事柄に関しては、「絆」とは逆の「疎外感」を感じている。
・・・・・・・・・・・・・・
除洗が遅々として進まない福島県では、自主避難が増える一方だ。
そのせいで、せっかく再確認できた「ご近所の絆」が途切れかけている。
しかも、子供と母親だけ県外に避難し、父親だけ仕事のため残るパターンが多い。
だから「家族の絆」すら揺らいで不安なのが現状。
・・・・・・・・・・・・・・
「絆」というコトバは、
震災により失ってしまった「絆」や、失われつつある「絆」を抱えている人にとって
「感謝」というポジティブな感情と、「悲しみや不安」というネガティブな感情を
同時に引き起こすやっかいな代物。
少なくとも私にとってはそう。
・・・・・・・・・・・・・・
モチロン
「そんな私達の気も知らないで、『絆』なんて言葉を使うな」
なんて、言葉狩りをしようとは思わない。
『絆』という言葉が広がったおかげで
沢山の人が救われた、それも事実なんだから。
・・・・・・・・・・・・・・
ただね
「今年一年を表す文字が『絆』です」
な~んて言われると
この一年で起こった多くの重要な事の非常に多くを
取り漏らしてしまっているのではないかと、私は感じる。
それに、そういう綺麗なフレーズでまとめられてしまう事で、
今もなお悲惨な状況が残る東日本大震災が
被災地の遠くにいる方にとっては「過去の美談」になってしまわないか心配。
そして、もしかしたら
『絆』という側面に強くフォーカスをあてて、国民に「安堵感」を与え
原発問題から気を逸らし、忘れさせようとする国家や東電の陰謀では...
などと、くだらぬ陰謀論も頭をよぎる。
・・・・・・・・・・・・・・
まぁ、さほど意味のない「企画モノ」にケチ付けるのは無粋なんだろうけどさ。
「今年の一文字」のニュースを見てて『絆』と書かれた瞬間に感じた違和感
内と外の温度差がどんどん広がるきっかけになるのでは、と不安になって
とりあえず書いてみたよ。
]]>
-
形だけ
https://naked-kings.blog.ss-blog.jp/2011-10-30
なんだか、更新をサボると目立つ広告が表示されるようなので、形だけ更新。てか、なんだよそれ。勝手に変な機能追加するなよ、So-netさん。前回、前々回の記事にコメント書いてくれた方、お返事もできずにスマヌ。書きたいことがありすぎて、でも考えがなかなかまとまらなくて悶々とする毎日なのです。ご勘弁を。
ただの日記
Judgement
2011-10-30T19:45:28+09:00
てか、なんだよそれ。勝手に変な機能追加するなよ、So-netさん。
前回、前々回の記事にコメント書いてくれた方、お返事もできずにスマヌ。
書きたいことがありすぎて、でも考えがなかなかまとまらなくて
悶々とする毎日なのです。ご勘弁を。
]]>
-
原発事故での死者はいないのか ~kikulog『再起動』考・番外編~
https://naked-kings.blog.ss-blog.jp/2011-08-24-1
さて、『再起動』関連の記事として、今度はコメント欄の発言を対象にしたい。 今回も前回に引き続き、「擬似インタビュー形式」で話を進める。
他ブログいっちょかみ
Judgement
2011-08-25T00:04:35+09:00
『再起動』関連の記事として、今度はコメント欄の発言を対象にしたい。
今回も前回に引き続き、「擬似インタビュー形式」で話を進める。---前回の最後の方の話の続きになりますが、Jadgementさんが『再起動』のコメント欄で「原発事故での死者はいない」みたいな発言があったのを見た、という所から話を始めたいと思います。
---その問題の発言は、『再起動』の記事と繋がりはあるんですか?
うん。菊池さん自身は「死ぬ死ぬ論」を言って「電力不足で死ぬ人」しかカウントしてないけど、もうちょっと頭がまわる人なら「でも、原発事故でも人が死ぬなら、やっぱ考えなくちゃいけないんじゃないの」って分かると思うんだ。
でもそれに気付いた上で、それでも菊池さんの『再起動』を支持し、「死ぬ死ぬ論」のさらなる正当化したいとなると、そこを補足して解釈しなければ、と思うんじゃないのかな。
---それが「原発事故での死者はいない」発言であると。
実例を挙げようね。
以前はここにも来ていたzororiさんはこんな事を言ってる。
109. zorori — May 13, 2011 @21:54:23
地域ごと壊滅するような大災害にもかかわらず,直接的には一人の死者も出さずこれだけの被害で済んだというのは驚くべきことです。
これについては突っ込みがちょびっとだけあって、それがこれ。
110. ごんべえ — May 13, 2011 @22:25:22
「直接的には一人の死者も出さず」ってどういうこと?少なくとも3人亡くなっていると報道されていますが?
でも、それに対するzororiさんの反応がまたカチンと来る。
128. zorori — May 14, 2011 @07:50:29
すみません、その通りでした。訂正します。
確か、3月の地震発生直後から行方不明者は報道されていて、後日、遺体が発見されたのでした。津波被害者ですね。
---「それは津波被害者であって、自分が言ってる原発事故の直接的な被害者じゃない」と言いたい雰囲気がありありと見えますね。
まず、最初のコメントで「これだけの被害で済んだ」と結論付けるzororiさんにぜひ聞きたい事があるんだけど、「事故直後の短期間」に直接的な影響による死者が出なければ、「直接的には一人の死者も出さなかった」って結論付けられるんでしょうかね。
例えば、事故後しばらくして、「長期的な影響による死者」が出たとしても、それは『タイムオーバーでノーカウント』なんでしょうか。
そんなルールを勝手に作らないで欲しいんですけど。
---確かに結論付けるには尚早すぎますね。
もう一つ聞きたいのは、「直接的には」ってどういう事なんでしょうか。
まぁ、私も津波に巻き込まれた原発作業員を「原発事故による死者」にカウントするつもりはないけれどさ。どうも、zororiさんの発言を見ると、東海村の事故みたいに「大量被ばくを原因とした急性症状による死」だけが、“原発事故における直接的な死者”みたいな口ぶりよね。
そのあたりは後でじっくり話すけどさ。
---「長期的な影響」は一切考えていない、って事ですよね。
そんなzororiさんよりもひどい事をいった奴がいたのでかすんじゃうけどね。
それがこの「たく」って人の発言。
「死ぬ死ぬ論」を真に受けると、ここまで酷い事を平気でいえるのか、って感じ。
121. たく — May 14, 2011 @02:30:24
しかし現実に原発で死んだ人はいないし数年で死者がでる予測は今のところ考えられていない、一方で夏には確実に電力不足で数百人が死亡する。
---え!?数年で死者がでる予測は今のところ考えられていないんですか?
確かに、放射線により生涯発症率が高まると言われる「ガン」は症状が明確になるまで10年くらいはかかるけどさ。でも、同様に放射線で生涯発症率が高まると言われる子供の白血病は症状が出るのがガンより早いので、数年で死者がでる予測が無いわけではない。
...ってか、そういう細かいツッコミ入れる以前の話でしょこれ。
何で「考えられていない」んだっつーの!
5月どころか、3月12日の夕方から福島県では多くの人が「死者がでる予測」を考えてまくって怯えていますし、専門家だってその予測を一生懸命考えている。
ただ、今になっても明確な結論が出ていない、ってだけ。
---この人、凄い失敬で的外れなことをさらっと言いますよね。
こいつ自身はそういう事を「考える必要が無い」人なんだろうね。それに、考えられるほどの知識もないと思うんだ。
多分どっかの先生が「そういう予測は考えられない」と言ったのをたまたま聞いただけで「そうなんだ」と判断しちゃってる。
確かにそういう事を言う専門家もいるけど、5月の時点でもそうじゃない事を言う人もいたはずなんだよね。
もちろん、どっちが正しいのか、というのは別の話だけど、少なくとも「考えられていない」と言える状況では無かったはずよ。
---なんで、そんな重要な事を安易に決め付けられるんでしょう?
こいつは「死ぬ死ぬ論」を支持したいがために、福島県民は原発事故で死ぬことにはしたくないし、一方で電力不足で数百人ぐらい死んで欲しいんだよね。
「停電で何百人も死ねば、原発が再起動するから、大手を振って電気がつかえるかもしれない」なんて考えて、節電どころか見えないところでガバガバ電気を浪費してそうじゃない?
---そこまで言いますか。
だってさ、コイツの頭の中ではこの時点で既に、「確実に」電力不足で数百人が死亡する事になってるんだもん。つまり、そのくらいは何が何でも死んで欲しいんでしょ。
「そうならないよう努力しなきゃ」って意識は微塵も見えないよね。
多分、エアコンのガンガンに効いた部屋で、部屋はすっかり冷えたからそろそろ大規模停電でもおこらねーかな、と思ったり、嬉々として熱中症の死者をカウントしてたりしてると思うよ。
---そこまでかはともかく、確かにこの人先走りすぎですね
んでさ、そこまで劣化した発言をしても、論調が菊地さんに合致していれば誰もたしなめない、なんて状況もかなり怖いよね。
まぁ、あまりの酷さにスルーされているだけかもしれないけどさ。
---ちなみに確認ですが、今回は東海村のようなケースは無かったんですよね。
幸いね。
原発作業員の方のでお亡くなりになった方もいますが、それはzororiさんが言うように津波の影響だったり、揺れによる事故が原因だからね。
ただ、建屋に溜まった高線量の水によって被ばくやけどした人がいたし、そもそも初期は被ばく管理のずさんさが指摘されてたり、最近ではミリすら付かないSvの箇所が発見されているから、zororiさんが前提にしたがっている「大量被ばくを原因とした急性症状による死」が今後は出ないとはまだ言えない状況だね。
---「低線量被ばく」つまり一般人の方についてはどうなんでしょう。例えば国際放射線防護委員会の勧告では、「1シーベルトあたりのガンによる死亡の危険率が5 %」って数値が出てますよね。
単純計算すると、政府が打ち出した年間20mSvで危険率が0.1%、つまり1000人に1人がその影響でガンによる死亡をする事になるらしいよ。
この1000人に1人って数値は、なんか「リスクマネジメントの専門家」に吹き込まれた事をそのまま適用したって感じがするんだけどね。
ちなみに、年間1mSvなら、死者は2万人に1人だから、2万人中19人は余計にガンで死ぬって計算ね。
念のために言えば、これは死亡率であって、羅病率じゃないからね。
羅病率になるとその倍ぐらい、つまり500人に1人はそのせいでガンになり、死の恐怖を味わった上で、1/2ぐらいで生き延びるって感じ。
―――ある先生は、1人頭の平均寿命を数日下げるようなものだ、と説明していましたが、そう考えると気にする必要は無さそうですけど。
その表現がおかしいんだよ。
実際には、満遍なく被ばく者の寿命を縮めるのではなく、少数の人間が死ぬんだよね。
1000人全員の寿命を5日だけ下げる、ってのと999人は寿命は変わらないけど誰か1人ぐらいは殺す、っていうのとどっちが怖いと思う?
そういう例えで考えてる限り、現場の人の恐怖はいつまでたっても理解できないよ。
---でも元々、ガンになる確率は高いんだから、気にするほどではないんじゃないですか?
確かに確率的にはね。
私なんかこのご時世に未だに喫煙者だから、その辺は諦めているんだけどさ。
でもさ、逆に考えてみれば、多くの割合の人がガンになる中で、福島の人に限ってはその中の多くの人が「もしかして、あの時被ばくしてなければこうはならなかったかも」って後悔してしまうだろうね。
それは、肯定もできないし、否定もできないけど、気にせずにはいられないから、今後面倒な問題になっていくと思うよ。
---ガンになる確率自体が高いからこそ、そういった精神的な負担の広がりは大きいという一面もある、って事ですね。
あと、もう一つ考えて欲しいのは、「1000人に1人」って聞くと「あり得ない」と思うかもしれないけれど、その環境にさらされる人が、100人とかじゃなくて、おそらく30万人はくだらない、ってコト。
単純計算で、原発事故に伴う放射線の身体的影響で死ぬ人は300人ぐらい見積もる事ができるんだよね。
---数で言うなら、さっきの“たく”さんのコメントにあった「確実に電力不足で数百人が死亡する」に匹敵しちゃいますね。
さらに言えば、これってあくまで空間線量を基準にして計算した目安。
加えてこっちは、原発の作業員みたいに、防護服を着ているわけじゃないから、内部被ばくのリスクも十分高い。
そうなると、300人というのはあくまで最低限で、実際はそれ以上の影響があると考えてもおかしくないんだ。
---なるほど。今死者がいないからって、これから出るって事は理論的には十分現実的な話なんですね。
モチロン、中には「1000mSv以下は影響が無い」という閾値説もある。
こっちとしてももしそうなら有り難いんだけど、それが正しいか否かは前回言ったように、私達を使った人体実験によって明らかになっていく事なんだよね。
あと、さっき年間20mSvで計算したけど、実際はリミットいっぱい浴びる人はあまりいないんじゃないかとも思う。それでも、1μSv/hぐらいはあるからさっき出した数字の1/3ぐらいがより現実に近いかも知れないね。
---いずれにせよ、結果が分かるのは10年後ぐらいなんですよね。
もう一つ付け加えれば、最終的に空間線量から導かれる理論値よりずっと低い死者数である事は十分あり得ると思う。
だけどその時に「なんだ、騒いだ割に結局は大丈夫だったじゃん」とは思わないで欲しいね。
---それは何故でしょう?
それは「放射線の影響が無かったから」ではなく、今の「外出を避けて閉じこもる」というつらい生活と引き換えに得られた成果なのかもしれないから。
「大丈夫」にするために今そういう生活を強いられているのに、その成果を「何もしなくても大丈夫」という結論に繋げられてしまったら、ホント怒るよ。。
---まぁ、ともかくJadgementさんは今後、放射線の影響による死者がでる可能性は十分あるのだから、「原発事故での死者はいない」と先走った判断はするな、という事が言いたいんですね。
いや、それもあるけど、そもそも私は「今死者がいない」にも異を唱えたいんだね。
---あれ、さっきは大量被ばくを原因とした急性症状による死者はいないとおっしゃりましたよね。
だから、なんでzororiさんみたいに、「原発事故による死」を放射線の身体的影響に限定しようとしちゃうのよ。
例えば、前回少し触れたけど、自分の農場にセシウムばら撒かれて、牛も野菜も売れない、住み慣れた土地も離れなきゃいけない、先は全く分からない、という状況に「原発事故」のせいで強制的に追い込まれて自殺した、ってのは「原発事故による死」じゃないの?
---いや... 原発が直接手を下したわけじゃないような...でも...
菊池さんは「経済が悪化して死者が出る」というのを、「電力不足により予測される被害」にカウントしているよね。
それに納得する人なら、これは「原発事故による死」とカウントすべきよ。
むしろ、菊池さんの風が吹けば的な関連付けよりも、こっちは放射性物質が直接の引き金になっているんだから何倍も「直接的な影響」と言えるはずよ。
---確かに、例えば原発じゃなくて、火力発電所だったら無かった自殺ですよね。
だいたい、その方は原発の40kmも先に住んでる人なのよ。そんな遠くの人間まで自殺に追い込んでいるんだから。
もっと言えば、地震でも津波でも被害を受けなかった大量の人間が住む土地を追われ、不自由な生活を長期間余儀なくされている、という状況はかなり悲惨だし確実に寿命縮めてるよね。
それを「これだけの被害で済んだ」と言うzororiさんは、いったいどれだけの被害があればちゃんと目を向けてくれるんだ、という感じ。
---まぁ、実情を知っていれば言えない発言ですし、よく知らないで言っていい発言でもないですね。
言いたいのは、その自殺の件だけじゃないんだ。
というか、全国が福島原発に注目してた、その初期の段階に発生した事件が無視されているのが一番悲しいんだよ。
それは、原発の4km圏内にある病院の出来事なんだけど、原発の爆発によって病院職員が90人の患者さんを残して避難しちゃったんだ。
3日後にようやく自衛隊が救出に行ったんだけど、その間患者さんは絶食状態。だから衰弱が激しくて、搬送中や搬送先で6名がお亡くなりになった。
その前に避難できた患者さんだって、急な搬送の影響もあってお亡くなりになった人が相次いで、最終的に45名がお亡くなりになってしまったの。
---そういえば、バスとタンカと泣いている看護婦さんの映像を見た気が...
これらの方々は被爆で亡くなったわけではないよ。
でも、津波や地震で亡くなったわけでもないんだ。
原発事故だったからこそ、必然的に亡くなったと言っていいと思う。
地震で電気と水道が止まったから、“原発事故が無くても”亡くなっていまう方が出たかもしれないけど、それを言ったら、“原発事故さえ無ければ”業者が急行して優先的にライフラインを復旧できたかもしれないし、付近住民の協力も得られたかもしれないよね。
でも、その希望を断ち切ったのは原発の爆発とそれによる避難勧告なんだ。
---それがなければ、職員関係者が見捨てて避難したりはしなかったでしょうね
あの状況での病院職員の行動は非難できないと思うんだ。
目と鼻の先にある原発が爆発したら、逃げるのは仕方が無いよ。
原発だからこそ、より深刻な事態になれば4kmなんて一瞬でダメにできる範囲だもの。
食べ物も無いまま放置された人や、安静が必要なのに急いで動かされた人はホントに可哀想。でも、どうすればよかったのか、なんて正解は無いだろうね。
---そして、体が弱い方から亡くなってしまったんですね...。
これでも、「現実に原発事故で死んだ人はいない」なんて言える?
私は、このニュースを知った時、ホントせつなくなったよ。
で、詳細を知って、もっとせつなくなった。
さすがにこのニュースは全国で流れたと思うよ。
そんなショッキングな事件があったのに、平気で「原発事故で死んだ人はいない」なんて言う奴がいるのが信じられない。
---一番注目を浴びている初期の事件だから聞いてない可能性は低いでしょうが、私のように「覚えていない」のが大多数なんでしょうね。
それも仕方ないけど、だったら「死んだ人はいない」って言う前に調べなさいよ。
そもそも、「原発事故による死」って何なのか真剣に考えなさいよ。
被ばくによる身体への直接的な影響以外、原発事故で死んだ事にはならない、なんて誰か決めたの?
そんな奴をほっておけば今度はガンで死ぬ人が増え始めても「原発事故の放射能のせいとは限らない」とか言い出しそうで、腹が立つんだよ。
---だからこそ、今もう一度この事件を紹介したかったんですね。
ちなみに、丁度最近なんだけど、こんな投書が福島の地方新聞の読者の声のコーナーに載ったの。
脱原発いいのか/政府の対応疑問 横浜市・○○○(無職 60)
阪神・淡路大震災の時、空からの消火活動を早期に着手していれば、被害をもう少し減らすことができたといわれている。地震で亡くなった人よりも、その後に発生した火災で亡くなった人の方が多かったからだ。
また、福島原発事故で亡くなった人はいないのに、原発を止めたことによる電力不足によって、熱中症で亡くなる人が増えているという。
これは政府の対応が間違っているからだと思う。「脱原発」は原発事故直後だけに、国民から支持されている。しかし、脱原発後のエネルギー問題はどうするつもりなのか。
(中略)
「脱原発」は心情的には理解できるが、国策と政府の対応が間違うと、死ななくてもいいのに国民が死ぬことになるのだ。
---あれ、この人ってもしかして“たく”さんですか?
そんなわけはないと思うんだけどね。
伏せたけど、女性っぽい名前だったし。
ま、これもなんか変な感じがするんだけどね。
何で横浜の人間が福島の地方紙に投稿するのかが第一の謎。
わざわざ福島の地方紙に投稿するのに、内容が福島とあまり関係無いのが第二の謎。
そして、福島の地方紙なのに、こんな県民の気持ちを逆撫でするような県外者の投書をわざわざ掲載するのが第三の謎。
---なんか、色々と邪(よこしま)なものを感じますね。
まぁ、そこを勘ぐっても仕方ないので、それは置いておいておくけど、この人の気持ちも分からないでもないんだよ。
彼女にとって、年齢的にも節電がつらくて「明日は我が身」なわけだから。
---失礼な事言いますね。
いいのよ、この人だって十分失礼な事言っているんだから。
だけど、そこで「私が困るから再起動してくれ」と言ってくれたほうが、「ま、彼女にとっても死活問題だからな」と受け入れられないわけではないんだよ。
でもわざわざ「国民」なんて大仰な視点持ち出して自分を大きく見せようとするから、その正当化のために「福島原発事故で亡くなった人はいない」なんて言わんでもいいウソを言っちゃうんだと思う。
てか、「死ななくてもいいのに国民が死ぬ」っていう『国民』の中には、原発周辺地域の人間入らないの?それともそういう人達は非国民なの?とツッコミたくなるね。
---この人の発言も「kikulogの『再起動』」の影響なんでしょうか。
いや~、さすがにそれは無さそうだけどね。分かんないけど。
でも、むしろ「kikulogの影響じゃない」と言う方が私にとっては怖い。
それはつまり、「福島原発事故で亡くなった人はいない」という事が福島県外の人のスタンダードな認識なのかもしれない可能性を示唆するからね。
それは本当に悔しい話。
---福島の事実が、その外側の人には無かった事になっている、というのは非常に怖いですよね。
県民の私達に訪れるかもしれない確率的な死も、放射性物質のせいで選ばされた死も、爆発に翻弄された弱者の死も、まるで無い事になって、「原発で死んだ人はいない」とか言っているのを聞くとさ、この今の福島の悲しい状況は、他の地域の人に何の教訓も与えていないのだろうか、と疑問に思っちゃうんだよね(涙)
---福島を話の枕にするなら、もっとちゃんと現実を知ってもらいたいですよね。
その現実を知った上で、「それでも生贄が必要だ」と言うならそれはそれでいいんだよ。腹が立つけどね。
でも、「現実に原発事故で死んだ人はいない」という、『ウソ』の情報をさも事実であるかのように喧伝してまで、「弱者を気にかける自分」を演出するのは、ホントやめて欲しい。
---最後に何か。
福島をネタにするなとは言わないけれど、ネタにするのなら思い込みじゃなくて、もう少し「現実」を知ってからにしてよね。
「福島」を「フクシマ」と呼ばないとか、そんな上っ面な話で自己アピールする暇があるんなら、まずそこをちゃんとして欲しい。以上。
]]>
-
電気クレクレ教の歪んだ教義 ~kikulog『再起動』考~
https://naked-kings.blog.ss-blog.jp/2011-08-24
今回は前に予告したkikulog『再起動』について書く。3ヶ月くらいかかったね。 原発の話題だと、どうしても感情的になっちゃいそうなので、今回は“傍観者”を設定した「疑似インタビュー」の形にしてみた。
他ブログいっちょかみ
Judgement
2011-08-24T23:56:51+09:00
kikulog『再起動』について書く。3ヶ月くらいかかったね。
原発の話題だと、どうしても感情的になっちゃいそうなので、今回は“傍観者”を設定した「疑似インタビュー」の形にしてみた。
本編に入る前に言っておきたいことをいくつか。
自分の話だけど、震災の時手伝いに来てくれた新潟の方に、ふと「この前の新潟中越大震災の時は復興までどのくらいかかりましたか?」と聞いたら、「まだ仮住まいの人が残っている」との事。
それを聞いて恥ずかしくなった。
自分の中では「6年も前だし復興はとっくに終わってる」と勝手に思っていたから。
この話では、放射能被害の現場にいる者としての視点、というのがどうしても入ってくる。私は口が悪いから、それが皆さんには、「こんな事も分からんお前はバカだ」という嘲りのように聞こえちゃうかもしれない。
ただ、私自身は「現場にいなければ分からんでも仕方ない」とは思っている(自分もそうだったからね)。
だけど「外の人にも現実を分かって欲しい」のがこの記事の目的の1つだし、語気が荒くなるのもその強い気持ちの裏返しと汲んで欲しかったりする。
あと、まずちゃんと言っておきたいのは、「原発問題」に関しては県外の方々へ愚痴みたいな事も言っちゃうけど、その一方で復興支援に関しては感謝の気持ちでいっぱい。
震災直後、正直「福島は終わった」と思ったけど、今こうして無事生活できているのは、県外からの信じられない程多くの無償の支援があったおかげだと思ってる。
なお、私の発言が福島県民の総意なわけじゃないから、私のいう事にカチンと来ても、福島への復興支援の手を引っ込めたりはしないでちょうだいね。
【はじめに】
---では最初に、今回の記事のテーマである「原発問題」について、ざっくりとした認識を教えて下さい。
いままでの「原発運営」は、もしかしたら「事故はない、万一あっても大事に至らない」という前提で進んでいたかもしれないけれど、今回で「事故はあるし、大事に至る」事が現実に分かったわけよね。
そうなると今後の「原発運営」においては...原発の可否も含めてだけど...今回の福島の原発事故を教訓とした上で考えるのが不可欠だと思うよ。
それがなければ「学習しない」事になるし、そうでもしてもらわなきゃ被害にあった私達も浮かばれないという私情もあるけどね。
---福島の状態と対策については、どう捉えていますか?
放射性物質に汚染された広大な土地が「事故以前」のレベルに戻る事は、奇跡が起こらない限り、10年、いや20年でもあり得ないわけで、その長い長い間...少なくとも10年くらいは...そこにいる人間は絶えず「通常の10倍以上の放射線って大丈夫なの?」と「もしかしてホットスポットが残っていない?」を気にしつづけなくちゃいけないし、県外の人も「福島産の何か」を手に取った際に同様の不安が喚起されちゃうでしょうね。
でも、今すぐ元に戻せと言ってもほぼ不可能ってのは分かってる。
私にとっては唯一の故郷であっても、外の人にとっては「福島が無くても暮らしていける」ものであるのが悲しいけど現実だからね。
対策は外部の人が考えた「コストとリスクの兼合いによる合理的なレベル」までだろうし、それで残余する「住む人の不安」や「買う人の不安」については、“それは不合理な事だからいちいち付き合ってられない”と切り捨てられるに違いないよね。
それは感情的にはやるせないけどさ。
理性的に考えれば福島にかかりきりで日本中共倒れなんてなっても仕方がないわけで、あきらめてあとはもう奇跡でも願うしかない状態よね。
---もう、元には戻れない、って事ですね。
モチロン、大地震・大津波が奪った命だって元には戻れない大きな悲しみだよ。
でも、生き残れた人達の「再生への希望」を刈り取ったという点で、より深刻と言ってもいいんじゃないかと思う。
だからこそ、他の県の人がいつか同じ思いをしなくて済むように、せめてこの福島の原発事故を教訓として欲しいと思うんだ。
---それは、原発反対、って事ですか?
心情的にはそうだけど、私ごときが反対してもたかが知れてる。例え福島県民全員が反対しても、所詮47都道府県分の1でしょ。そこも「あきらめ」るしかないよね。
それに心のもう一方では、1回の大失敗で原発技術を闇に葬るのはもったいないとも思うし、「事故の教訓を生かす」という点では、止めるより続ける方が「生きる」とも思う。
---そういう意味では、福島を教訓にしてストレステストをやったりしてますから、「生かされて」いますよね。
いや、「再発防止の対策」なんてのは当然すぎるぐらい当然の事なんだよ。
それすらやらないのであれば、ただのバカだから
今回津波と地震で事故が起きたから、それに対する安全性をチェックする、ってのは当然の事として、それで「大丈夫」と判断しちゃうなら、きっとまた深刻な事故を起こすよ。
誰だって事故を起こそうと思って起こすわけではなく、事故は起こしたくないけれど「思わぬ事」で事故が起きちゃうわけだからね。
---では、どのような「教訓」が必要なのだと考えていますか?
私が教訓として欲しいのは「どんなに大丈夫と思っても事故は起こる」って事なんだな。
その上でも運用し続けると言うのなら、「大事故が発生した場合どう国民を守るか」をまず考えるのが福島を教訓にした「今後の原発との付き合い方」だと思う。
---「事故防止」だけでなく「事故がある事を前提にして考える」いうわけですね
そのとおり。
それって別に特別な話じゃなくて、私達も常識的にやっている事よ。
「絶対安全運転するけど、万一のために対人対物無制限の保険に入る」ってね。
常々「安全運転する」って宣言してた奴が事故を起こして、その時保険が不十分で満足な賠償ができなかったとするよね。なのに、まだ賠償も満足に済んでないうちから、「時間も金も無いから保険は見直さないけど、俺は今度こそ絶対安全運転する」なんて言って、再び車を運転しようとしたらどう思う?
---信用できないし、止めさせなきゃと思いますね。
今の福島というのはおそらく本邦初のモデルケースなわけ。
それは未だに収束してないし、未だにその影響が分からない。ならば、現時点においてまだ「福島の教訓」は出来上がってないわけだよね。
なのに、とりあえず以前の取り決めのままで「再起動」しよう、ってのは事故を起こしたのに保険を見直さない、ってのと同じ話だと思うのよ。
そういう話になると、まるで「福島には教訓はない」、「福島の事故は無視していい」みたいに思われているようで、現実に苦しんでいる福島県民としては非常に腹が立つ。
---原発をどう運用するかは「福島の教訓」が明確になってからにしろ、って事ですね。
私としてはね。
んで、これは福島県民としての私情を言っているだけの話じゃないよ。
そうじゃないまま「再起動」の話を進めるのは、他県の原発周辺の住民が可哀想だと思ってるのが一番にある。
福島の原発事故を聞いた時、福島県民の次に不安になったのは多分その方々だと思うし、まだ納まらないどころか様々な問題が次々に明らかになっている現状は、「明日は我が身」と身に詰まされる想いじゃないかな。
---今回の事故で影響が市町村レベルを超えて数十キロに及ぶ事が分かりましたから、不安を感じざるを得ない住民の数というのも多分膨大でしょうね。
おそらく、県レベルの話になってくると思うよ。
なのにそれを無視したまま、「再起動」だけ唱えても実現は困難なんじゃないかな。
例えばさ、ジェットコースターで故障により転落事故が起きたとするよね。
それを目撃した人の驚愕がおさまらないうちに、係員が「故障は直したので、どうぞ安心してお乗りください」と言われて...しかも、転落した人は絆創膏貼られたぐらいで「大丈夫大丈夫」と放置されているのを知っていて...それで乗れると思う?
っていうか、それで乗せようとする奴の神経の方がおかしいよね。
---原発周辺の住民の承諾を元に「再起動」を実現化させるためにも「福島の教訓を生かす」スタンスが必要という事ですね。
【ファーストインプレッション】
---では本題に入っていきましょう。そう考えるJudgementさんが菊地先生の『再起動』を読んで、どう感じましたか?
まず、今この状況の中で「再起動」を唱えるくせに、「原発事故が起こった時の問題」については全く触れない、というのが私にとっては非常に不完全なものに思えたね。
原発が事故を起こして、シャレにならん影響を与え、いまや原発推進論者すら「原発は安全」とは言えなくなっている“実状”がある中であえて「再起動」を言うのであれば、、まず「原発リスク」に対する判断を明らかにすべきじゃない?
「原発リスク」を語らずに「再起動」のみを語る、という構造がすごくイビツに感じた。
---菊地先生は「電力不足」の問題を中心に語ってますよね。
今この世の中の殆どの人が「電力不足」を問題に思っているわけだ。
菊地さんがわざわざ言わなくてもね。
じゃぁ、何故「再起動」しないのか、というと当然「原発リスク」を心配しているからだよね。
「その不安を抱えたまま、再起動していいのか」とか、「再起動する場合どうやって国民、特に原発周辺の方を納得させられるか」という事を考えなくてはならないと判断する必要があるからすぐさま「再起動」はできない...というのが、現状じゃないの?
---電気は欲しいけど、原発の安全性に問題がある、というジレンマをどう解消するか悩む段階、って事ですね。
逆に言えば、そういう状況だからこそ、菊地さんもあえて「再起動」を口に出して主張しなくてはならなくなっているわけだよね。
その状況で「再起動」を主張するならば、まず現時点で「再起動」を妨げている要因に対する解決方法を示すべきじゃないのかな。
---でも、菊地さんの主張には、そのあたりの事が一切出てきませんね。
で、したり顔で何を言かと思うと「電気不足になると困った事になるよ」という脅しばっかり。そんな事は誰でも分かっていて、ただ、菊池さんの考えが至らない部分をちゃんと考えているから、踏み切れないだけなのに。
一番問題だと思うのは、彼が自分の「再起動が正しい」という判断の説明において、自分がそれを「確証した」事例を殊更持ち上げてみせる一方で、「反証」の検討が非常にぞんざいってところ。
科学者のくせに、この話題に関しては科学の逆をやっているんだよね。
---それって、「ニセ科学」と同じやり口なんじゃないんですか?
そこなのよ。それを仮にも「ニセ科学批判」の看板持っている菊地さんがやらかしているから特に問題に思うわけよ。
それにね、後で詳しく検討するけど「確証事例」だってかなりあやしい。
都合のいい側面だけを見て、都合の良い解釈をして「妥当性の根拠」に仕立て上げちゃっているんだよね。
【菊池先生をプロファイリング】
---ところで、何で菊地先生は「原発問題」に触れずに「再起動」を主張する、という妙なスタンスになってしまったのでしょう?
多分菊地さんは「原発リスク」という事について『実感』が無いんだと思うんだ。
現状では日々『実感』せざるを得ない状況にあるのは東日本の一部の地域の人達。
それ以外の、しかも西日本に住んでいる彼にとっては『実感』は薄くても仕方がないだろうし、それよりも自分の生活を実際に脅かしている「電気不足」の方が容易に『実感』できるだろうね。
そういった『実感』の違いを素直に示している、と考えれば、「原発問題」抜きで「再起動」を語れる神経、というのもある程度は理解できるんじゃない。
そんなんだから「電気がなければ、原発を動かせばいいじゃない」なんて、まさに世間知らずのマリーアントワネットのような発言を平気で出来るわけよ。
---『実感』が無いからそこに焦点を当てられない、どころかフレームから外しても気にならない、って感じでしょうか。
とはいえ、私はと言えば日々「原発リスク」の『実感』に押しつぶされて、正直「電気不足」を『実感』する暇があまり無いわけで、そういう意味では必要以上に「原発リスク」を問題視しちゃう面も無いとは言えないよ。
でもさ、フラットな視点で見ても、やっぱ“原発”を再起動させる話するんだから、“原発”のリスクを考えるのは当然じゃないかな。
んで、もう一つの問題として挙げたいのは、菊地さんの思考停止っぷり。
「電力不足」の解決方法や問題について、『再起動ありき』という前提以外での検討ができなくなっちゃってる。
---他の可能性とか、他にすべき事に思いを巡らせられない、って状態ですね。
菊地さんは「なんで『再起動』が一番手っ取り早いのにしないんだろう」って不思議でたまらないんだと思うよ。
そこで、「もしかしてみんなは電気なんて無くてもいい、って思っているんじゃないかナ」なんてバカな仮定に安易に飛びついちゃってるんじゃないかな。
んで、「それならボクが教えてあげなくちゃ」と奮起し、自慢げに「電気が必要な話」を蕩々としちゃうわけだ。
---自分が想像できるレベルで、世間を解釈しているって事ですね。
まぁ、それだけだったら「関西のしかも世間知らずの学者先生は平和でいいわね」と鼻で笑って済む話だったかもしれないんだけどね。
でも、その程度の行為を正当化するのに、わざわざ「弱者のために」とか「人が死ぬから」と、ヒューマニスト気取りな態度を取ったりするところが鼻につくんだよね。
そんなにヒューマニスト気取るなら、原発周囲の人の事も考えてやれよって感じ。
菊地さんが言っている事を原発周囲の人が聞いたら、「私と弱者のために、お前らが人柱になれ」と言われていると感じると思うよ。
---まぁ、菊地先生はそこまで意識していないと思いますが、それを意識していないのがまた問題だということですね。
そのあたりの事についてちょっと例え話してみようか。
福島県の原発周囲の危険地域には、自衛隊や警察、消防団の方が危険を省みずにご遺体捜索等で入っていたのね。
その方達に「大変でしょう」と聞くと、『被災された方々の気持ちを考えれば、当然の事をしているだけ』って答えるのよ。
---尊敬しますね。
そこで例えばさ、ビールでも飲みながら寝そべりつつ、そのご遺体検索の情景をTVで見てる人がいるとするよ。
その時、近くにいた人が「この人達も大変だね」と言った時、それに応えて『被災された方々の気持ちを考えれば、当然の事をしているだけだ』と言ったらどう思う?
---なんか腹立ちますね。
全く同じ言葉でも、発する人間の立場が異なれば意味も異なるでしょ。
誰かが言ったコトバが良いものでも、同じコトバを別の立場の人が言えば、意味がガラッと変わっちゃう、って事は往々にしてあるの。ついでに言えば、聞く人の立場が異なっても意味がガラッと変わっちゃう、って事もあるけどね。
だけど、菊地さんを見ていて感じるのは、「この人はつったって眺めながら話すタイプ」なんだな、って事。
---というのは?
例えば、「電力不足」について話をする時も、自分の立ち位置から一歩も動かず、そこから自分に見えるものをただ蕩々と説明するんだよね。
『他のところからはそれはどう見えるか』なんて考えないし、『自分と同じ立ち位置と同じ角度に相手も立たないと同じものを見れず、説明も通じない』なんて事も想像できない。
「自分が見えているものは他人にも同じように見えるはずだし、見えないのであればそれは他人の目がおかしい」と素朴に信じてそうね。
そしてそれを正当化する方便にしようとしているのが、「線引き問題」とか「優先順位問題」じゃないのかと私は思うよ。
それと、『人は話を聞く時、まずはその話をしている人の方を見る』という事も考えてないかもね。
だから、「お前が言うな」という事も平気な顔して言えるんだ。
【表と裏の混在による混乱】
---かなりきつい事をおっしゃっり始めましたが、実際のところどうなのか、菊地先生の記事を細かく見て具体的に指摘して欲しいと思います。では、最初から見ていきましょう。
原理的には最短二年程度ですべての原発を止めうるというのが現実味を帯びてきた状況下では、原発推進も反原発も脱原発も無邪気ではいられない。どれを止めてどれをいつまで動かすかをまじめに議論することになるし、反原発運動といえども「再起動」を認めなくてはならないときがくる。
菊地さんの主旨を簡単に言えば、「このまま行けば最短二年で全ての原発が止まり、それに伴って多大な電力不足が生じる」場合、後に説明されるけど、様々な障害が発生する恐れがあるため、『再起動』が必要だ、という事だよね。
確かに現在多くのモノを電気に頼っているから、電力不足という事態は問題である、という主張をする事自体は、べつにおかしくはない。
...ま、誰でも思い付くアタリマエの話ではあるけどね。
でも、だからといってそこで「原発推進、反原発、脱原発」に喧嘩売る必要は無いんじゃない?
---喧嘩売ってますか?
だって、「電力不足問題」を提起するだけなら、「原発推進、反原発、脱原発」をあえて持ち出す必要は無いはずなんだ。
でも、おそらく菊地さんは「電力不足問題の提言」というレベルに留まらず、『再起動の他に無い』という信念にとりつかれ、それを妨げる要因は排除したいんだね。
「原発是か非か」をやり合っている「原発推進も反原発も脱原発」は、自分の認識している「正解」を妨げているから「間違っている」と判断し、「間違っている」事を悠長ににやっているように見えるから、「無邪気」と揶揄する、って話だと思うよ。
---そのぐらい、自分の正しさを信じきっていると。
そういうところは、どっちが無邪気なんだよ、という感じだね。
むしろ、「原発推進、反原発、脱原発」の方々が、今回の事故をどう捉え、どう摺り合わせしていくか、という事こそ「再起動」の議論では必要なんじゃない?
---菊池先生はそれをしてない事を指して「無邪気」と言っているという可能性は?
菊地さんは「とにかく再起動」って一番単純な事を言っているわけだから、それはないだろうね。
というか、あえてここで「原発推進、反原発、脱原発」を持ち出すのは、暗に「原発リスク < 電力不足解消」というスタンスを示した、と捉えるべきものだよね。
---『反原発運動といえども「再起動」を認めなくてはならないときがくる』ってどういう事なんでしょう?
反原発運動のアイデンティティを真っ向から否定するすごい発言だけど、そういった自己矛盾が生じてもおかしくないと思える程「自分の言っている事が正しい」と確信している、って事なんだろうね。
ってか、「原発推進・反原発・脱原発」にとっては、理由も明らかにされないまま名前だけ使われちゃってる感じだよね。他人事ながら可哀想な感じ。
ま、狂犬に噛まれた、と思うしかないんだろうけどさ。
---続けて書いてある箇所は、なんかちょっと、主旨が捉えにくいのですが。
という趣旨の話を書いて、一部のかたには怒られ(無邪気ではいられないという表現がいけなかったようですが、そんなに妙な表現とは思っていません)、一部のかたには同意していただいたのですが、菅首相が浜岡に停止要請をしたことで、この話が現実味を帯びてきました。
ここは『という趣旨の話を書いたのですが、菅首相が浜岡に停止要請をしたことで、この話が現実味を帯びてきました。』で本来済む話で、「一部のかたには」うんぬんのくだりは、文章的には邪魔以外の何の効力もないね。
---なんでこんな文章になったんでしょう?
「怒られたけど、自分は間違っていない」的な弁解を無理矢理にでも挿入したかったんじゃないの?
しかも、「一部のかたには同意していただいた」なんてどうでもいい“恣意的な例証”を、恥ずかしげもなく持ち出すところがすんごいいやらしい。
なんつうか、「文章の半分は自慰でできています。」って感じ。
---じ...表現をちょっと押さえてください。
私に言わせれば、正当化にそのレベルの根拠を示すってのは、主張はその程度のレベルでしか支えられない「浅いモノ」である裏返し。
てか、そんな思慮浅いバカに「無邪気」呼ばわりされれば誰だって怒るだろーに。
---「思慮浅いバカ」とか、そういう言い回しに目くじら立てる人がいるんで...
ま、怒られたのは、「表現の問題」じゃなくて、「資質の問題」じゃないの?ってコト。
---先に進みましょう。次の文章もちょっと私には複雑だったんですが
浜岡は止めればいいと思っていますが、その先を考えると気分はかなりブルーです。
「浜岡をすぐに止めよう」という運動と「すべての原発をすぐに止めよう」という運動は、実は必ずしも相容れるものではないということに気づいている人と気づいていない人がいるのだと思います。後者は無邪気にすぎるということですが。そうではなく、これからは「どの原発の再起動を認めるか」が争点になっていくはずです(すべての原発は最長二年の運転ごとに定期点検が義務づけられている)。
確かに文章構成が混乱し、何を言いたいのか良く分からなくなってるね。ま、この人は別に物書きのプロじゃないから仕方が無い事なんだろうけどさ。
---「そうではなく」の接続詞の意味がちょっと...
ここは本来『浜岡は止めればいいと思っていますが、その先を考えると気分はかなりブルーです。これからは「どの原発の再起動を認めるか」が争点になっていくはずです(すべての原発は最長二年の運転ごとに定期点検が義務づけられている)。』と言えば済む話なんだよね。
---「そうではなく」の前の一文がいらないということですか?
あくまで、読み手にとってはね。
でも、そこであえて書いた菊地さんとしては、実はそこが一番言いたかった事なのかもしれないよ。
---言いたかった事とは何なんでしょう?
まず、『自分は「浜岡は止めよう」とは言うけれど、「すべての原発をすぐに止めよう」と主張するわけじゃないからな』といった“予防線”だろうね。
つまり、「浜岡停止」には賛成するけど、「全て停止」には反対するって事。
アタリマエよね、自分は「再起動しろ」って主張しているんだから。
---その論理も私にはいまいち理解できなかったんですが
実際のトコロ、この人は「浜岡原発」って所はどうでもいいのよ。「ひとつぐらい止めてもいいけど、すべての原発を止めるのは困る」って程度の話なんでしょ。
仮に、原発全部止めても電気は十分足りる状況であれば、彼は「どうぞどうぞ、原発全部止めちゃってください」って言うだろうからね。
---つまり、「原発の危険性、安全性」という質の問題ではなく、単に数の問題として捉えている、って事ですか?
ま、彼に聞けば「浜岡原発」は安全性が不十分だから、とか言いそうだけどね。
でも、今回の事例を考えれば、「安全性が不十分」だった事は事故が起こってから分かる仕組みになっているから、あんま筋のいい言い訳とは言えないね。
それか万一「浜岡原発は首都圏に近いから」なんて理由で言うなら、「じゃ、首都圏以外の人間なら多少死んでもかまわないのか」とぶっ飛ばすよ。
---じゃぁ、菊地先生はどの原発なら止めなくても安全だと考えているんでしょう。
んー、そこまでは考えていないんじゃない。
「どれを再起動すべきかは“悩ましい”」と問題解決を棚上げしつつ、「でも、とにかくこのままでは問題がある事は明白だ」と自分の立場の正当化だけ確保しそうね。
で、「自分の主張は正しいんだから」、あとはその自分の考えに従って「どの原発の再起動を認めるかを争点としろ」と、と他人に丸投げするんだよ。
---あと、「気づいている人と気づいていない人がいるのだと思います。」って何なんでしょう?
さっき言った自分の立場...つまり「浜岡止めてもいいけど、全て止めてはダメ」...という「自分の立場」について、「分かってくれる人と、そうでない人がいる」と言っているわけ。
つまり、自分中心に世の中の人を2分化しちゃってるのよね。
それだけですごく恥ずかしい気がするのに、さらには、「気づいてくれない人は無邪気にすぎる」なんて言い出す。
これって冷静に読めば、「俺を尊重しない奴はバカだ」と言っているのと同じよね。
そんな事を平気で口に出せる神経がすごいよ。
---なんでいきなりここでそんな話をするんでしょう?
文脈の繋がりも文章も滅茶苦茶だから分かりにくいだろうけど、おそらく、ここのくだりは「原発推進も反原発も脱原発も無邪気」の理由を説明しているつもりなんだよ。
ま、菊地さんの「自分と同じように考えてくれない奴らは『無邪気』認定」というすごい判断基準をより明らかにした、ってことだね。
そんなしょうもない事を明確にするために、文章構成をぶちこわすなんて、やっぱり「自慰」よ「自慰」。
---ちょっと...お願いしますよ(泣)
【安易な正当化の問題】
---ただ、菊池先生が持ち出す根拠にも一理あると思いますが...例えばこれとか
節電でしのぐという考えかた自体は悪くないのですが、ときとして「○○は贅沢だから止めろ」という健常者視点の乱暴な意見になってしまうのが気になっています。バリアフリーの中には電気で実現しているものが少なくないのだし、高齢者や体力のない人には夏の冷房が重要なのだから、簡単に贅沢と言って欲しくはない。駅のエスカレーターは贅沢か、という問題はきちんと考えたほうがよいです。自分は平気だから他人も平気なはずだ、というのでは乱暴にすぎます。
確かに、今年は熱中症で倒れる人が多いみたいだし問題よね。
電気不足だから、というよりも、それに伴う過度の節電意識による“自粛”原因で、特に高齢者や体力のない人に負担がかかってるのは事実でしょう。
ただ、この人は「その問題は不可避か、解決できないか」までは踏み込まないよね。
むろん、そこを判断するのは難しいわけだけど、難しいからといって「節電」という選択肢を否定するのは早急すぎるわ。
---菊池先生は節電による対策を否定しているんですか
まわりくどい言い方をして、ぼやかしているけど、その結論が『再起動が必須』なんだから、否定しているとしか判断できないよね。
---ちなみに、否定しない前提で書くなら、どんな言い方になるんでしょう
私が同じ問題でものを言うならば、
『もし、日本が「自分は平気だから他人も平気なはずだ」という考え方にとらわれる人ばかりなら「節電」という選択肢は弱者にとってリスクが高いものとなるでしょう。だから、「節電でしのぐ」という選択肢を選ぶ場合、その「節電」のレベルを健常者と弱者でちゃんと分けて考えるようにするべきだ。』
となるね。
---例えば、そういった主張を菊地さんが聞いたら何と言うと思いますか?
その場合「再起動は必要」という結論にならないから、否定しようとするんじゃない?
『健常者と弱者の線引きは悩ましい問題だけど、議論に時間がかかって間に合わないから...』とモニャモニャ言いそう。
---あくまで“仮に”ですけど、もし実際に菊池先生がそう言ったとすればJudgementさんは何と応えますか?
自分で先に「弱者」という概念を持ちだしといて、後になって線引きがまだ、というのはおかしいよ、って事と、「じゃぁ。原発の安全性の検討には時間をかける必要は無いとでもいうの?」って言うと思うよ。
---最後の『自分は平気だから他人も平気なはずだ、というのでは乱暴にすぎます。』というのは良いこと言っている気がするんですけどね。
確かにこのフレーズ自体は正論だと思うよ。
たださ、今この状況の中で「原発リスク」をすっ飛ばして“再起動”の話ができる菊地さんを見ていると『原発の事故は、自分は平気だったから他人も平気なはずだ』と考えているような感じなんだよね。
泥棒が「人の物を取るのはいけない」と言うようなモノで、言っている事は正しいけれど、言っている人が間違っている、って感じ。
---ちなみに、福島の節電事情はどうなんですか?
一応、輪番停電になってもその対象から外される、って事になってるみたいだけど、それでもちゃんと節電しているよ。
ついでに言っておけば、皆さんも節電で暑くて大変だとは思うけど、福島はそれに輪をかけて大変なのよ。
特に小学校や幼稚園の小さい子供が可哀想。
エアコンがある学校自体あまり無いのに、この暑いさなかに閉めきった教室で過ごす事しかできない。「窓を開け放して風を通す」事や「外で涼を取る」、「プールで水浴びする」ってコトが全部できないんだから。
せめて、子供ぐらいは涼しい中、元気に過ごして欲しいと思うんだけどね...
放射性物質がばらまかれた状況は、節電による悪環境をさらに増幅する、ってのは知っておいて欲しい。
---でも、人が死ぬ、って言われると、私も再起動は仕方がないと思うのですが
電気がないと生きられない人たちがいることも考えたいところです。
大規模停電の怖さを考えると(人が死にます)、単純に発電可能量を足し算して、かつかつで足りるという話ではだめで、マージンがどれだけ必要かも含めて話をしないと。また、中には発電可能量を足す際に、どの発電所も点検のために止まるということを忘れる人もいるように見受けられます。
ああ...『死ぬ死ぬ論法』ね。
---死ぬ死ぬ論法?
勝手に私が言っているんだけどね。
ホメオパシー批判あたりで味をしめた彼らの安易な正当化手法よ。
はてブでは「弱者人質論」というフレーズが出て来ましたけど、そっちも言い得て妙。
---でも、やっぱり人が死ぬのは避けなくてはいけないんじゃないでしょうか。
そりゃモチロンだめよ。
だけど、これは「再起動したら解消されるかもしれないこと」であって、「再起動しなければ解消できないこと」じゃないよね。
本気でその人達を死なせたくないなら、まず真っ先に「健常者は節電して、弱者に優先的に電気を配分する」ぐらいの意識を持たなければだめでしょ。
それができなければ『再起動』したって「健常者」が優先的に電気取っちゃって、弱者のリスクは変わらない事になるんじゃない?
---でも、さすがにカツカツな状況だと、不慮の停電の危険も高いのでは?
じゃぁ例えば、各電力会社でそれぞれ手持ちの発電所の1つを「弱者専用」にして、他と切り離し、他が停電起こそうが、そこだけは安定供給するようにするのはどう?
モチロン、その分さらに健常者の取り分は減るけど、「弱者の死」を本気で心配するなら、これぐらいの事をしてもいいはずよね。
---そのシステムを作るのに時間がかかるのでは?
今になって作ろうとするから時間がない、って話になるんであって、本当に心配だったのなら、電力不足になる以前から話をしていたはずよね。
それが、自分達の取り分が減ってから、思い出したように「弱者が~」と言い出すのは付け焼刃感アリアリよね。
---今回の事態になって初めて気付いた、という面もあると思いますが。
だったら、そもそも「一般の家庭用電源」で命を繋いでいる実状にこそ異を唱えるべきでしょ。だって、「再起動」しようがしまいが、大きな地震があれば大規模停電が起きるわけだし。
---実際にそれでお亡くなりになった方がいましたよね。
例えば、家庭用発電機を配布する、なんてのが最も確実で現実的かもしれないよね。
ホンダなんかでは、カセットボンベ使用の発電機とか作ってるし、あとは病院みたいに停電持にすぐに電源が切り替わるシステムがくっつけられればなお安全よね。
---でも、その方式もコストがかなりかかるんじゃないですか?
いや、ここでコストの問題をからめちゃいかんでしょ。
「弱者のためにも再起動を!」なんて言っているヒューマニストが、「だけど弱者のためにコストをかけるのはちょっと...」とは言えないはずじゃない。
それと、じゃぁ「再起動」はコストがかからないか、というとそうとは限らないんじゃない?ま、それについては後で詳しく言うつもりだけどね。
とにかく、本当に「電気がないと生きられない人たち」を心配しているのなら、「再起動」という結論に飛びつく前に、もっとより確実な方法を考えるべきじゃない。
なのに安易に「弱者の死」を使って、自分の「再起動」を正当化しようとするから、「弱者人質論」って言われちゃうんだ。
---菊地先生は弱者をダシにしているだけなんでしょうか?
まぁ、菊地さんも菊地さんなりに、弱者のためにと考えているとは思うよ。
ただ、持論である「再起動」の枠組みから一歩も動かないから、「弱者」の視点でちゃんと考える事が上手くできてないんだと思うよ。
---悪気は無いということですね。
でも、やっぱり「人の死」という重いテーマを持ちだすなら、もうちょっとキチンと考えるべきだと思うね。「悪気は無いけど、本気でも無い」ってのは、取り上げられた当人、ここでいえば「弱者」の方に、失礼なハナシだと思うんだ。
そこらへんを分かってないまま適当に話すから、「ホントは自分が電気を得たいから、『人の死』を利用している」と思われてもおかしく発言をしちゃうんだよね。
---菊地先生にはそんなつもりは全く無いと思いますけどね
少なくとも自覚は無いでしょうけどね。
でも自分は「再起動」で思考停止してよく考えないくせに、人には「電気がないと生きられない人たちがいることも考えたいところです。」と考えるよう強要し、しかも死ぬ死ぬ脅すのはどうかと思うよ。
---再び『死ぬ死ぬ論法』のようですが、これはどうなんでしょう
また、経済への影響を心配すると、経済より安全がだいじだというかたがおられるのですが、経済が落ち込むとたくさんの人が死ぬのではないでしょうか。電気料金の値上げが回りまわってどういう影響を生むかも、ちょっとくらいは考えるべきで、何も考えないのは無邪気にすぎると言うべきでしょう。
ま、「経済が落ち込むと人が死ぬ」というのは間違いないでしょうし、再起動をしなければ、そうなる危険もあると思う。
---じゃ、やっぱり「再起動」は必要?
今の福島のはなしをちょっとさせてもらうけど、今回の原発事故のせいによる土壌汚染が、福島県の生産物の流通に大きな影響を与えている事は知っているよね。
---基準値越えの出荷停止だけでなく、風評被害も大変みたいですね。でも、その分保証が出ているんじゃないですか?
一部出ているものもあるけれど、まだまだ全然、って感じなのよ。
風評被害分になると、保証するみたいな話は出てても、具体的に支払うところまではまだ行っていないしね。
結果、経済的に大ダメージを受け、どのくらい保証されるかも分からないのが現状だし、おそらく実質的な被害が全てカバーされる事は期待できないと思う。
---つまり、原発が事故を起こしても経済が落ち込む、って事ですね。
んで、最初に「経済が落ち込むと人が死ぬのは間違いない」と断言したのは、実際に原発事故による経済的落ち込みによって、先行き不安で自殺した、って事案が発生しているのね。
これは、多分菊地さんが記事を書いた後の出来事だけど、避難勧告が出されている地域で、農場の壁に苦境を書き付けた上で自殺した方がいらっしゃって、事故さえなければ、今でものどかに農業とか畜産業を営んでいただろう、って思うとホントせつない。
また、6月頃には「福島県の経営者の自殺防止対策」なんて、やるせない対応のニュースが流れたりもしてる。
---「原発のせいでも経済が落ち込んで人が死んでいる」って事ですね。
もちろん、他の県の人にとってはそれは対岸の火事であって、やっぱり「自分の目先の経済の方が気になる」っていうのが率直な思いだろうし、それは仕方ないと思う。
だとしても、実際に原発事故で経済が落ち込んで人が死ぬ、という状況の中で、まるでそんな事なかったかのように、「原発が止まって経済が落ち込むと人が死ぬ」と言うのはやめて欲しいよ。
せめて、「確かに原発事故の影響は深刻だけど、それ以上の死者を出さないためにも」ぐらいは言って欲しかったね。
---菊地先生はその事件を知らなかったのでは?
4月5月の段階で少なくとも1件は発生していたはずよ。でも、全国区のニュースにはならなかった可能性もあるから、知らなくても無理はないかもしれない。
だけど、今福島が原発事故のせいで物が売れなくて困窮状態にある、って事はさすがに想像できないわけないんじゃないかな。
---ところで「経済より安全がだいじ」って誰が言ったんでしょうね?
それは知らんけれど、私は「安全だからこそ経済も安定する」と思うけどね。
菊地さんにとっては、自分達の経済が安定さえすれば、そのせいで誰かの経済や安全が危険にさらされたとしてもいいのかもしれないねぇ。
---電気料金の値上げについてはどうですか?
さっきちょっと言いかけたけど、本当に「再起動」はコストがかからないのかな。
というか、菊地さんの考えでは「再起動した場合今まで通りの価格設定でやる」って事が前提になっているみたいだよね。
でもさ、今回の事故では、結局東電だけでは補償出来ないから国が負担しなきゃ、って話になってるんだよね。そして、そこまでしても足りるかは不安なわけだ。
同じ問題を繰り返さないためにも、今後は当然万一の時の補償体制を確保しなくてはいけない、って話にならなきゃならんと思うんだけど。
そうなったら当然保険料やら保証金やらが今までより多く必要になるんじゃない?
そうなれば、原発を動かすからこそ、それらの出費を電気料に上乗せしなければならない、という事も十分あり得るよね。
―――実際にどうなるかはフタを開けてみなければ分からないですけどね。
ただ、「値段を上げないために原発を動かせ」という主張は、「原発は動かしても補償体制のグレードアップはするな」と言っているのと同じコトなんだよね。
電気料金、あるいは税金を上げずに、補償だけ増やすなんて無理なんだから。
この人、「ちょっとくらいは考えるべき」と言ってるけど、当人はちょっとぐらいしか考えていないと思うよ。
---これはどうなんでしょう。『脱原発』容認のような、否定のような、よく分からないんですが。
多くのものが「電力の安定供給」を前提に作られています。長期的には脱原発が事実上の規定路線になったと思いますが、オイルショック以降何十年もかけて、現在の電力の体系ができてしまったので、転換にはやはり相当の時間がかかると考えるのが自然でしょう。
だから、菊地さんの場合は「脱原発」か否かとか、そういう次元じゃないのよ。
彼は「とにかく早く電気をフルパワーで使わせてもらいたい」派なの。
それがすぐできるなら「脱原発」でもなんでもいいし、それが現実的に難しいから、「短期的な脱原発」にうだうだとイチャモンばかり並べ立てるんですよ。
---イチャモンって...でも、間違った事は言ってませんよね。
彼が言っているのは「転換」つまり「3.11以前の電力供給量を保つ」のを原発以外の手段で実行するという話で、それは確かに相当の時間がかかるでしょう。
でも、福島原発の事故を受けた今の状況においては「原発は大丈夫なのかという事を相当の時間をかけた上で判断しなくてはならない」と考える事も“自然”じゃぁないでしょうかねぇ。
---ここまで読んで気付いたんですけど、菊地先生は色々現状の問題点を挙げただけで、「だからこの手段ではダメなんだ」とか「だから、再起動しかだめなんだ」という明確な結論を言っていませんよね。
これを考えろ、あれを考えろと、問題を投げっぱなしなんだよね。
その一方で自分は真剣に考えずに「難しい」程度でお茶を濁すんだよね、この人。
まぁ、単なる「問題提起」であるんならば、そのやり方でもいいんだろうけどさ。
でも、この人は「再起動すべき」という結論までを、“反原発運動といえども認めなくてはならない”ほど正しいモノであるかのようにと強く主張するんだよね。
そこまで言うんなら反証に対する検討を「問題提起」で留めるのはおかしいし、ずるい。
まぁ、菊地さんの言う「考えろ」とは、「自分の答えに合うように考えろ」という意味なんだろうね。
---そして、それをしてくれない人を『無邪気』認定する、って事なんですね。
【菊地さんは何派?】
---ところで、菊地先生は「反原発運動」も否定、「脱原発」も難有り、なんて聞くと、自身は「原発推進」派なのかな、と思っちゃう人もいておかしくないと思いますが、それについても、こうやんわりと否定してますよね。実際何派なんでしょう?
しかし、この文章くらいでも「原発推進派」に見えちゃうんですかね。
何度も言わせないでよ。
彼は「とにかく早く電気をフルパワーで使わせてもらいたい」派でしかないの。
もっと言えば、このご時世にもかかわらず、平然と「原発リスク」を無視して「節電するのもうざったいし、他の方法は間に合わないから、手っ取り早く既にある原発を動かせばいいんじゃねーの」ぐらいの考えしか無いのよ。
「電力不足」の解消が目的の全てで、手段は問わない。原発かどうかは全く関係ないし、再起動した原発が爆発して付近住民が多大な被害を受けようが全く関係ない、って立場なのね。
---あの...最後の後半のくだりに関しては、そこまで言っていませんよね
言ってはいないけど、気にもしない、って事は「関係ない」と言ってるのと同じよ。
---結果的には「原発動かせ」と言っているので、「原発推進派」に入るんじゃないでしょうか。
あんたもくどいね。
っていうか、それは本物の「原発推進派」に対して極めて失礼よ。
さっきも言ったけど、彼は「電気が不足すると困る」と言う素朴な考え方を垂れ流し、かつそれを充足させる最も安易な方法として「再起動」に飛びついているだけなんだ。
紛いなりにも「原発」にフォーカスを当てた上で賛成している彼らと一緒にしちゃいけないよ。
---なんだか、話を聞いていると菊池先生がどんどん低レベルの人に見えて来ちゃうんですが...でも、やっぱり大学の先生なんだから、何か深い考えがあったりするんじゃないでしょうか?
「大学の先生だから深い考えがあるんだろう」って思える方が不思議よ。
考えてもみなさいよ、高校卒業してからずっと大学という閉鎖的な社会に暮らし続けていて、しかも物理学とかいう浮世離れした分野の先生なんだよ。
その人がまともに社会の事を語れるって事を期待する方がおかしいんじゃないカナ。
昔だったら、「大学の先生は世間知らず」というステレオタイプがあったから、専門以外の事でたわごとを言っても、仕方がないと笑って聞き流したもんだけどね。
---それはJadgementさんの偏見ですよね。
まぁ、それはそうね。それに、そうでない大学の先生も絶対いると思うよ。
ただ、肝心の問題に目を向けず、安易に「人が死ぬ死ぬ」で押し切ろうとする菊地さんに関しては、「大学の先生だから深い考えがある」の良い反証事例だと思うよ。
念のため言えば、あくまで専門外についての評価だから。彼の専門領域の業績まで否定しようってんじゃないからね。
---菊地先生については「御用学者」説も出ていますが
実際のトコロは分からんけど、個人的にはそこまで大したタマじゃないと思う。
どっかの御用学者に乗せられちゃってる、ぐらいはあるかもしれないけどね。
だって、いくら物理学者だからといって、「原子力発電所設計」の専門家でもないし、ましてや「放射線の人体影響」の専門家でもないから、政府も抱き込もうとは思わないんじゃない?
【自意識だらけの撤退宣言】
---最後の方ではこんな風に言っています。どうも尻すぼみ感がありますが....
この話にオチも結論もありませんし、特に提案もありません。
反論されても、僕はそれに対して有効な反論はできないと思います。
敵味方とかall or nothing的な二分法で語れた時代は終わったと言いたいだけですが、単に乱暴な話を書いているだけと思っていただいてもかまいません。
原発論者に対して、無邪気だなんだとさんざん好き放題に揶揄しておいて、今更何なんだ、って感じだよね。
これから分かるのは、菊地さんって人は、「結論も提案も無く、反論に対する有効な反論はできない」状況であるにも関わらず、「再起動しかない」事を確信しちゃうし、さらにはそれに従わない他者を「無邪気」呼ばわりして印象操作しようとする方だ、って事よね。
ま、言われなくても、私には読んでて分かったけど、ワザワザ最後に自分でタネアカシして念を押す、ってのはさすがにビックリ。
---何故わざわさ自分のダメな所を明らかにするような事言うんでしょうか?
本人はそれが本当にダメだとは思ってないからじゃない?
この発言は「言いっぱなしで終わりたい」という欲求による、「反論を受け付けない、あるいは反論があっても対応しないための作戦」のつもりなんだと思う。
んで、そういう事を安心して言えるのは、わざわざ反論しなくても、“自分を分かってくれて”支持してくれる人がいるからだと思うし、そういう人達は「バカを相手にしない方便なんだ」と良い方に解釈してくれるだろうしね。
---なんか...ますます、ダメですね。
まぁ、あくまで菊地さんのブログなんだから、言いたいこと言えばいいと思うよ。
反論が聞きたくなければ、聞かなきゃ良い。
...それをわざわざ変な理屈くっつけて宣言する必要もないと思うけどね。
ただ、「反論に対する有効な反論はできない」という自覚があるくせに、その程度の話で他者を「無邪気」と決めつけたり、さらには「人の死」を軽々しく語る、という事をおおっぴらにやるところは人間性を疑うけどね。
---最後の敵味方云々のフレーズが意味不明なんですが。
その「意味不明」が正解だと思うよ。
彼が言うように、それっぽくてかっこよさげなフレーズを「口に出してみたかっただけ」。そこに意味を求めちゃいかん。
ま、私が思ったのは、「二分法で語れた時代はいつから始まってたの?」って事だけどね。そんな時代が過去から続いていたとは、私も不勉強で知らなかったよ。
むしろ、私個人の感覚としては、ブログやツイッターによって「ネット右翼」だの「ネット○○派」なんだのが跳梁しはじめた今こそ、「二分法で語る人が多い時代」じゃないかと思うんだよね。
てか、菊地さん自身、「気づいている人と気づいていない人がいるのだと思います。後者は無邪気にすぎる」なんて、しっかり二分法で語っちゃったりしてるしさ...。
---「単に乱暴な話」ってどういう事なんでしょう?
素直に「よく考えないで言ってます」って事なんでしょ。
他人には「考えろ、考えろ」って言うクセにね。
---最後の最後にまたこんな事言ってますよ
キャッチフレーズだけ繰り返しておきます
........................
最短二年程度ですべての原発を止めうるというのが現実味を帯びてきた状況下では、原発推進も反原発も脱原発も無邪気ではいられない。
.......................
もうひとつ考えついてしまったキャッチフレーズは
.......................
原発推進と反原発の蜜月時代は終わった
.......................
ですが、これはレトリック嫌いのかたにはさらに怒られるでしょうね。でも、思いついて、気にいったので書かずにはいられませんでした
同じよ、同じ。
「そのフレーズを口に出してみたかっただけ」。
“思いつき“の”お気に入り“なだけで、中身が無い。
「レトリック」なんて偉そうにカタカナ使っておりますが、中身がないものを修辞しても仕方ないんだけどねぇ。
レトリック嫌いだろうが好きだろうが、怒るというより呆れる代物。
---一通り見ていきましたが、「良いとこ無し」って感じになっちゃいましたね。
結局、彼は他人が「自分の見るように見てくれない」事が気に入らないだけなんだ。だから「反論に対する有効な反論はできない」と自覚しているのに、気に入らない奴を揶揄せずにはいられないんだね。
でもそれだけだと見透かされちゃうから、「もっともらしく」装うため、自分でも良く考えていない問題を思い付くがままに並べ立ててみせてるだけよ。
その程度のお話に「良いトコ」を求めちゃいけないわ。
---散々ですね...。
kikulogの過去の記事『想像力』には何て書いてあったか知ってる?
必要なのは想像力だ
「他人は相当に素朴にしか物ごとを考えないのに対し、自分は素朴には考えない」と思いこめるというのはかなり問題で、そういう立場から書かれた「ニセ科学批判批判」に見るべきところは何もない。しかし、それが「科学に携わるもの」の立場で書かれると、非常に迷惑だったりする。
まぁ、内容としてはなかなかいいんだけどさ。
「電気無いと困る事」をまるでみんなが知らない事のように語ってみせたり、「自分のように考えない奴は無邪気だ」的な事を平気で言う人が、偉そうにこれを書いてたと思うと、ギャグかブラックジョークとしか思えないよね。
---『再起動』については、自分は「科学に携わるもの」の立場で書いたわけではないからいいんだ、って言い訳するんじゃないですか?
【Judgementの意見】
---ところで、Judgementさん自身は『再起動』についての考えはどうなんですか。冒頭でも少し触れましたが、もう少し詳しくお願いします。
まぁ、散々菊地さんには文句言ったけど、正直なところ、私だって今まで原発設置県に住みながら「原発」について明確な立場というものは持ってなかったし、今もどう捉えるべきか迷ってるよ。
ただ、最初に言ったように、「原発是か非か」という問題は、事故が起こってしまった今だからこそ、今回の原発事故の被害が全て明らかになり、そしてその被害がどこまで回復されるのかが見定められるまでは評価できないはずだと思ってる。
---ということは、保留って事ですか?
ちゃんと言えば「適切な判断ができないから保留」ではなく、現状では「保留するのが適切な判断」だと思ってる。
「電力不足だ、さぁ困った、だから原発を動かそう」なんてのは、ものすごく目先の事しか見て無くて、実際にリスクを負う原発設置地域の人の事なんて全く考えてない発言だと思うんだね。
---とりあえずは「再起動」はするな、って感じですか?
それも最初の方で言ったように、私如きが「するな」と言ったって、何の影響力も説得力も無いわけだから、そこまで偉そうな事は言えないけれど、あくまで個人的な話として言えば「望まない」し「望んではいけない」という感じかな。
---「望まない」というのは?
今の福島の事故の対処状況を見る限り、未だ「いっぱいいっぱい」なんだよね。
その状況で別の原発動かしてトラブルになったら、どちらかを見捨てるか、どちらも手薄になると思うのね。それを考えると、事故が起きる危険は低いとしても、万一起きた場合、さらに深刻な事態を引き起こすんじゃないかと思うのよ。
未だ結構大きな地震がちょいちょいある状況は、そうなる確率を引き上げているように思えるし、今この状況だからこそ、原発関係者はかなり疲弊しているように見えるから、人的ミスも怖い。
だから、せめて福島原発が落ち着くまでは、再起動検討どころか、積極的に全ての原発を止めておいた方がいいのではないか、と考えちゃうね。
---では、「望んではいけない」というのは?
福島では第二原発は無事だったんだけど、それを再起動していいかと言われれば...ま、今そんな事言うバカはいないと思うけど...断固として「NO」って言う。
万が一にも、再び同じ目にはあいたくないからね。
でもそれは、他の原発設置県だって同じ気持ちだと思うんだ。
誰だって「福島と同じ目」にあいたくないし、私だってもう誰にもあわせたくない。
それによって、電気不足になって福島の復興が遅れるかもしれないよ。
だけど、福島県民だからこそ、他県に「私達の電気のために原発を動かせ」とは言えないし、言ってはいけないと思うのよ。
---逆に「望む人」についてはどう思いますか?
原発のリスクを請け負う人がそれでも「望む」ならいいんじゃないの。
例えば、原発が動かすことで給料をもらえる人もいるだろうし、そういった諸々のメリットデメリットを含めて、設置自治体が「望む」なら、それを止める理由は無い。
私が「望まない」のは、福島のリスクを少しでも下げたいってエゴに基づくものだしね。
だけど、また菊地さんの話に戻るけど、原発のリスクを請け負わない立場の人間が公然と「望む」のは、ちょっと待てコラって感じなんだよね。
---でも、発言できる人が限定される、ってのも不健全じゃないでしょうか。
うーん、たしかに、冷静に考えるとそうだね。
ま、部外者でも提案するのは良いって事にして、だけどその場合実際にリスクを負うのは「自分」ではなく「自分以外の誰か」であるという事はちゃんと配慮して欲しいね。
---菊地先生は、そこが欠けていると。
何というか、この人は「再起動」を軽く見ているよね。
『節電』に関しては問題を列挙するだけして、『再起動』に関する問題には触れない。
まるで『節電』には問題があるけど『再起動』には何も問題が無い、みたいな印象を与えようとしているよね。
いや、確かに施設があって、燃料もあれば、あとはスイッチ入れればOK、っていう点では簡単なんだろうけどさ。
---問題は、「スイッチを入れる」事でリスクや不安を抱える人がいるって事ですよね
ま、「社会的に可能か」を考えるのは苦手な人だから、「物理的に可能か」どうかだけで判断してしまっているのかもしれないね。
---ところで、菊地先生はどこに向かって『再起動』を求めているんでしょう。
当人としては、国や電力会社や既存の原発論者を相手にしているつもりじゃないの?
でもさ、例えば、国や電力会社が積極的に動いても、もし現地の人達が再起動に反対して、その結果電力不足が生じて人が死んだら、いま安易に振り上げている「弱者の死」という伝家の宝刀はどこに振り下ろすつもりなんだろうね。
その反対運動をした現地の人に向かって「お前らが安全を求めたせいだ」とでも言うのかしら。
---言えないでしょうね。
ま、それぐらいは分別つくだろうから、そん時は政府相手に「あんたらが、再起動の説得をしきれなかったから、人が死んだぞ」と言うんじゃないかな。
あるいは、身内だけの場で「だからオレが言ったじゃないか」とブツクサ愚痴るとか。
---ちなみに、説得は可能だと思いますか?
説得できるかどうかは別として、今原発の周辺地域...っていっても今回の事故で「周辺」の範囲は広くなったけどね...の人が少しは「動かしてもいいかな」と思えるような事故時の保証について私が考えた事を並べてみるよ。
・ ばらまいた放射性物質をすぐさま除染し、全地域の放射線量を事故前の値に戻す
・ 除染により集まった放射性物質を責任持って県外で処分する。
・ 緊急避難の場所と手段の確保
・ 被ばくの影響に対する補償とフォローの完備
・ 売れなくなった生産品は全て買い取る
・ 以後、支障無く出荷・流通できるよう、風評対策もしっかり取る
・
...これが、彼らがして欲しい「最低限の保証」だと思う。
---これで「最低限」ですか?
そうよ。
事故時の付近住民の行動制限とか、子供の将来の不安とか、そういうストレス的な事に対する賠償は入ってないからね。
---これは果たして保証できるものなんでしょうか
ま、ほぼ不可能って事ぐらいは分りますよ。
現に、福島ではいくら渇望してもやってもらえてないしね。
でも、だったらどこまではできて、どこからはできないのか、できない代わりにどういうメリットを与えてリスクと相殺するか、という事を考える叩き台になるんじゃない?
それと、このような保証が不可能だと言うのならば、そこで一歩下がって「一部の国民にだけそういうリスクを架す、というのは平等を保証していると言えるのか」という事も考える必要があるんじゃないかな。
---現実的には「再起動」はされると思いますか。
これを書いているうちに、どんどんそっちに向かっている感触はあるよね。
まぁ、今年はギリギリ乗り切れても、どんどん点検で停止して再起動しなかったら、かなりヤバイと私も思うしね。
だから、なんだかんだ言っても「再起動」はされると思う。
だけどそこで、「電気が無いと困る」という世論に流されて、暫定的、なし崩し的に「今まで通りのまま再起動」なら、非常に無責任な話。
『「再起動」が必要だからこそ、「事故の影響」をしっかり把握して、二度と事故を起こさない、万一起きても今の福島のような状況を繰り返さないという事をしっかり考えなくてはいけない』というのが私の提言なんだけどね。
【なぜ菊池先生はおかしな事を言ってしまうのか】
---今までのJudgementさんの批判を真に受けるとして、ですけど、そういった菊池先生の問題の本質はなんだと思いますか?
少なくとも意図的にそういう事をしているわけじゃないと思うよ。
随分昔に取り上げたコトバだけど『イノセント』なだけ。
菊地さんは、心の底から「良かれと思って」、そして「正しいと思って」言っているんだと思う。
多分、この記事を読んだとしても「弱者を気遣う“正しい”自分の事を否定するのだから、Jadgementという奴はやっぱりおかしい人間なんだ」ぐらにしか思わなくてもおかしくないね。
---万一読んだとしても、既に「反論されても、僕はそれに対して有効な反論はできないと思います」と言っているからリアクションは望み薄ですしね。
まぁ、「再起動」以外の発言を見ると、菊池さんも原発事故被害者の事をまったく心配していないわけじゃない事は十分わかるんだよ。
なのに何故『再起動』に関しては、その問題を切り離してしまったのか、それは当人に聞かないと実際のところ分からない事ではあるけれど、少なくとも「その人達を見捨てる」とかそういう悪意的な意識までは無いと思うんだよね。
ただ、そちらを切り離したくせに、「弱者」だのなんだの自論に都合のいい事ばかり持ち出してくるから、やんなっちゃうのよ。
---重要な問題の切り離し、は置いておいても論調がなんかおかしくなってしまっているのは何故なんでしょう?
単純に「様々な不確定な要因が絡み合う状況をそのままにして考えるのが上手くない」からだと思う。
数式で表せられる問題じゃないし、無理に要因を切り離せば今度は「現実」から乖離しちゃうから、誰にとっても難しいといえば難しいんだけどね。
にもかかわらず、どうも菊池さんの根底には「根拠の無い万能感」があるみたい。
例えば、『再起動』という自分の結論に身の丈以上の「確信」を持っているから、『反論されても、僕はそれに対して有効な反論はできない』くせに、「原発推進・反原発・脱原発」を見下す事で自分が高みにいる事を示したいと思っちゃうし、「自慰」的な言い訳でも言わずにいられない。
何というか、専門外の話をする時も、専門の話をしている時と同じように、上から見下ろすスタンスを保ちたい、って感じがするんだよね。
そのあたり、私にはどうしても「ニセ科学信者」的な危うさを感じちゃう。
---専門外の話が怪しいって感じですか?
念のため言うけど「専門外の事は言うな」と頭ごなしに言いたいわけじゃないからね。
そんな事言ったら、専門外の事ばかりの私は何も言えなくなっちゃうしね。
そうじゃなくて、専門外なんだからもっと慎重に考えるべきなのに、そこをおろそかにしちゃって、かつ口調は「わかっているつもり」になっている、って彼の傾向が問題なのよ。
---専門の話の方は大丈夫なんですか?
私は物理の専門家じゃないから、大丈夫かどうかなんか判定できないけど、例えば、「ガイガーカウンターミーティング」なんて彼の専門を生かした素晴らしい仕事だと思うよ。
正直、私もあの情報は非常に役に立った。
---ちなみに現状で「正しく測る」意味はあるんですか?
十分あるわよ。
さっき分からないと言った「被ばくリスク」を判明させるため、現在私達は人体実験を架せられた状態なんだな。
体を張ってんだから、ちゃんとした測定を元に、ちゃんとした結果を出して欲しいよね。
---なんともブラックな解釈ですが...
【終わりに】
---最後になりますが、何かありますか?
まぁ、散々色々文句言ったけど、正直なところ現状のストレスが溜まって、誰かに当たりたい、ってところもあったと思うんだよね。
勢いに任せて青臭い事も言ったような気もするけど、まぁいいか。
---巷では同じような事を言う人もいるようですが、その中で『再起動』が選ばれたのはたまたまですか?
いや、何回か言ったけど、そこに「ニセ科学」レベルの底の浅さと「ニセ科学信者」レベルの自尊心の強さが見える上に、それを書いているのが「ニセ科学批判」の旗手である菊地さんなんだ、という「残念感」が大きいね。
---「ニセ科学批判」する人がそれじゃいかんだろう、って感じですか。
念のためいっとくけど、「ニセ科学批判」の権威を失墜させて、「ニセ科学」を擁護しようとは全く考えてないよ。
「ニセ科学」と同レベルのものだから、批判しているわけだしね。
---動機はそれだけ?
実はそれ以上の動機付けがあるんだ。
それは実は菊地さん自身の発言ではなく、その発言を受けてやり取りがされていたコメント欄の方の話なんだけどね。
---管理者責任として断罪したい、って話ですか?
いや、オープンな掲示板という性質上、発言の責任をいちいち菊地さんが取る義務は無いと思うよ。
ただ、その問題の発言は、菊地さんの「死ぬ死ぬ論」を真に受けた人が、それをさらに正当化するために言っているような代物だったから、そんな人達をたしなめるためにも、その拠り所としているだろう『再起動』での菊地さんの発言を批判したかったの。
---それで目的は果たせましたか?
いや、長々と書いたけど、まだ気が済まないね。
それぐらい私にとっては酷い発言だったのよ。
だから、それについては、番外編として...ま、心情的にはそっちが本編なんだけど...もう一本この形式で記事を書きたいと思う。
---その「酷い発言」って何ですか?
「原発事故での死者はいない」よ。
ホント、これは震えるほど腹が立つし、悔しい。
そういう認識だから、平気で「電気不足で人が死ぬから再起動」なんて言えるんだろうけどさ。
まぁ、詳しくは番外編で書くので...
---では、ひとまずこの記事は終了という事で
興味がある方は「原発事故での死者はいないのか」も読んでね。
]]>
-
原発事故と専門家
https://naked-kings.blog.ss-blog.jp/2011-07-26
いいかげん死亡説が流れそうなので、何か書いておきます4ヶ月も未更新なのに毎日のようにブックマークから飛んできてくれている皆さん、ありがとう。おかげで、少し前向きになれた。
ただの日記
Judgement
2011-07-26T00:26:12+09:00
4ヶ月も未更新なのに毎日のようにブックマークから飛んできてくれている皆さん、ありがとう。
おかげで、少し前向きになれた。
仕事の方は平常に戻りつつあるけど
外界の状態はいまだ異常。
夏なのに、外で遊ぶ子供をほとんど見ない。
家に閉じこもっているか、夏休みを利用して疎開しているのだろう。
この状態がいつまで続くのかを考えると非常にストレス。
ようやく殆んどの学校で表土除去が始まったけど
子供が野や山で安心して遊べる日がくるのだろうか。
【専門家の迷走】
あの日からずっと放射線の影響についての情報を追い続けているけれど
今のところの結論としては科学的には「分からない」とするのが正解なのだろう。
専門家が語る「安全だ」、「危険だ」というのはあくまで主観的判断。
自分のポジションに合わせて、閾値を上げ下げしているにすぎない。
無責任に「安全だ」と言ってた奴も腹立たしいが
無責任に「危険だ」と煽っている奴も腹立たしい。
でも、最近新聞で
「専門家の責務は、自分で判断する必要になる”正しい知識”を広める事だ」
と言っていた人もいた。
うん、確かにそれが最も間違いが少ないやり方だと思う。
でも、その”正しい知識”とやらが「正しい放射線の測り方」であっても、
測った結果の身体の影響については「正直分からない」では
判断のしようが無いではないか。
...これもまた腹立たしい。
と、専門家に腹を立ててみたが、実際はそれもお門違いなのでしょう。
専門家でも意見が割れ、説明しあぐねるような未曾有の事態が起きた事
そちらの方が問題なんだよね。
だから多分専門家は悪くない、ウン。
【ふざけるな!】
だけど、kikulogの菊池先生には、ホントウに幻滅した。
モチロン、彼がわざわざ「放射線の正しい知識」を伝道しようと努力している事はすごく有り難いと思っている。
でも、原発事故のせいでこっちは生きるか死ぬかの重いテーマを突きつけられた現状の中
「人が死ぬから原発再起動を」
なんて、まるで今回の原発事故の教訓など何もないかのように言うのはねぇ...
実は、今まで何も書いていなかったかというとそうではなくて
このkikulogの『再起動』に対する記事を書いていた。
5月末からだから、2ヶ月?
むろん、時間のある時ちょびちょび書いていたわけで、
まだ完成していないし、もう暫くかかるけどね。
ただ言っておくけど、原発被害県の怒りだけで書いてないからね。
あの文章の論法・論旨がメチャクチャ稚拙なんだ。
言うなれば、ABOFAN氏と遜色が無いくらいにね。
ニセ科学批判なんぞぶちたてた張本人のくせに。
「ブルータス、お前もか」って感じで...だから幻滅したのだ。
まぁ、詳しくは記事をアップするのでご期待あれ。
【おわりに】
最近になって、また地震が増えてきた気がする。
でも、最近では揺れても冷静で
震源地付近の方々は大丈夫か?と心配する余裕はできてきた。
福島及び被災各地の早期復興を心から願っています。
]]>
-
あの日から7日
https://naked-kings.blog.ss-blog.jp/2011-03-17
これを書いたからどうだ、という訳ではないのだけど私が体験した事や思った事なんかを、書き記しておく。次にもし万一、どこかで大きな災害があった時に読み返そうと思う。
未分類
Judgement
2011-03-17T23:08:07+09:00
私が体験した事や思った事なんかを、書き記しておく。
次にもし万一、どこかで大きな災害があった時に読み返そうと思う。
【7日前】
私の住むところは震度6強。
全てのライフラインが途絶えました。
道路沿いの塀が崩れ、道路の陥没もありました。
幸いな事に住居も家族も被害は大した事はありませんでした。
だけどその時、自分は「被災者」だと思いました。
震源付近の海岸線の被害が酷い、と聞いた時
自分の被害を基準にして
2倍?いや10倍ぐらいだろうか、と想像しました。
【翌日】
被害が酷いと言われる地域に行きました(物見遊山ではありません)。
道中のラジオで状況が刻々と伝えられて来ました。
自分のところの10倍どころではない事が分かってきました。
宮城や岩手の海沿いの町が丸ごと消えているようでした。
そして、向かっている福島県沿岸部も同じ様な状況のようでした。
【被災地】
山を越えその地域に入ると、
屋根瓦が崩れた家が多々あり、地震の爪痕を感じさせましたが
カーディーラーのショールームのガラスが大破していたのを見た以外
派手な壊れ方をした家は特に見当たりませんでした。
車も普通に流れており、混雑した様子もなく
日常とそう変わらないように見えました。
国道の海側には所々の家々と田んぼと林が見えます。
その林の向こうには、いくつかの集落がありました。
大きな港や商店街があるわけでもない
いわゆる「海辺の田舎」の風景が
その向こうに広がっていたはずでした。
車を走らせている道路から見える風景は
林の向こうの集落が既に無くなっているなんて信じられないほど
普段と変わらぬ静かな感じがしました。
【某体育館】
道路から見えない部分の現実
その惨状のほんの一部が、某高校の体育館にありました。
そこには、不透明な袋に収められたご遺体が並べられていました。
数は数えませんでした。数えたくもありませんでした。
こんな事が無かったなら
おそらく私が一生かけても見ないであろうご遺体の数でした。
でもそれは、惨状のほんの上澄みでしかありません
現場で捜索をしている警察や消防の方々が見ている状景は
さらにさらに悲しいものであるに違いないのです。
でもその状景は、
整然と並べられたご遺体を見た私には想像できませんでした。
そして、検索している人達だって、
自分達が見ているものと同じ、あるいはそれ以上の状景が
海岸線沿いにどこまでもどもまでも続いているなんて
きっと、理解の外にあるでしょう。
この時、自分の「被災者」気取りは吹っ飛びました。
そして、災害とは「理解できないもの」と思い知りました。
【緊急放送】
自分でもよくわからない絶望を感じているさ中、町に放送が流れました。
「原子力発電所が爆発したので、車内か室内に入ってください。」
そういえば、この町から20数キロ先に原発がありました。
聞き逃したのかもしれませんが
この町に入るまでの報道では、それに触れたものはなく
すっかりその存在を忘れていました。
「この世の終わり」という単語が頭をよぎり、そして
「少なくとも自分の人生は終わった」と真面目に思いました。
しばらくして、「今のは誤報です」と流れました。
幾分ホッとしましたが、疑念と不安は消えませんでした。
するとまた暫くして、再び最初と同じ放送が流れました。
そして爆発は事実でした。
その事実は事実として捉えるしかないけれど
どう捉えていいのか分からない事実でした。
不思議と町の大きな混乱はなかったようでした。
【お亡くなりになった方々のこと】
TV等で地震の状況を知る皆さんへ
今出てる死者数は、引き上げられ確定したものだけなんです。
それは、実際の死者数のきっと数%にすぎません。
今は、生存者救助が優先されなくてはなりません。
また、余震による津波の恐れで、水没地区にも迂闊に近寄れません。
時がたてば、肉体はその形状を保てなくなります。
すでに波で沖に運ばれてしまった方も大勢いらっしゃるでしょう
原発の周囲の集落も軒並み被害にあっています。
だけど、きっとそこの方々のご遺体は、
捜索してもらえる可能性すら僅かでしょう
万一見つけられたとしても、手をつけてもらえないかもしれません
原発を中心に40km
そこはずっと被害状況の空白地帯になるかもしれません。
そんな方々が
「死者」としてカウントすらされていない方々が、
震災の犠牲になりがら、今なお「生きる者」のために
安息を得ないまま何も言わず犠牲になり続ける方々が
太平洋沿岸部に、今もなお数えきれないほどいらっしゃるのです。
【震災を語る人達】
メディアは
緊迫状況から徐々に収束方向にシフトし始めているようにみえます。
そのうち、普通のバラエティー番組が流れ始め
思い出したように被災地情報が伝えられるだけになるでしょう。
ネットを覗けば
今回の震災について原因や結論等を語り始める人もいます。
阪神淡路と比較して「死者数が“少なかった”のは前回の教訓が」云々と、
尚早すぎる評価を語っていた人もいました。
私的な感情を述べれば、それらは
表に出て来れない死者へ冒涜に思え、何か腹立たしい。
そして、原発がどうなるかわからず不安な状況なので
「まだ、こっちの災害は終わっていないんだよ!」
と言いたい気分にもなります。
でも、そうやって「客観的に語れる人」がいるという事は
今回の震災でもほとんど無事だった人がいるって事で
そんな方たちがいるから
被災者に多くの助けの手が差し伸べられるんだという
希望でもあるような気もします。
私の町を、他県の緊急車両が通り過ぎると
ものすごく有り難く、そして気分が少し落ち着きます。
【おわりに】
今現在、私の住む地域は、着々と復旧が進んでいます。
電気もガスも水道も回復しました。
食料品やガソリンの入手が困難、など不便はありますが
生存の危険はとりあえず感じません。
(原発を除けば)
おそらくそう遠くない時期に、
私の周りは「地震直前」に時間を巻き戻したように
「日常」に戻ると思います。
でも、私が「日常」に戻った後も、
あそこには沢山の「非日常」が残り続けるのでしょう。
いろいろと書き連ねましたが
結論は見つけていませんし、見つからない気がします。
今は「仕方がない」としか言えません。
でも何で「仕方がない」のかは分りません。
とりあえずは
家も何も無くなってしまった被災者の方々、
今生きている方々の「日常」を取り戻す事が先決だと思っています。
]]>
-
補講:社会における科学的方法の困難さ
https://naked-kings.blog.ss-blog.jp/2011-03-10-2
前の記事ではしょった部分をまとめて記事にしておく。
他ブログいっちょかみ
Judgement
2011-03-10T22:56:50+09:00
【心理学から見る科学的知見の限界】
心理学なんかやってて思うのは、人間というのを科学的に扱おうとすると、非常に手間がかかるって事。
その最も大きな原因は「個人差」なんだよね。
自然科学分野では基本的に“無関係なノイズ”を徹底的に排除する事で仮説を評価します。飼育環境を制御し個体差を小さくしたモルモット、極限まで精製した薬品、無菌室、遺伝子操作、そして精緻な計測機器とテクノロジーを駆使した高度な観察機材...
条件が統制できればできるほど、精緻な仮説が検証可能になる。
...でも、相手が人間であれば、そんな統制は技術的にも倫理的にも不可能。
クローンで個人差のない個体を複数得る、なんて事もできないよね。
だから、心理学ではノイズの排除ではなく、ノイズを相殺する方向で考えるのだ。
つまり、個人差を個人差で打ち消させ効果のみを取り出そうとするわけ。
でも、個人差による変動幅が大きいから、被験者が少ないとすぐ「偶然の範囲内」と言われてしまうから、必要な被験者数というのは結構な数になる。
んで、そこを頑張って何らかの「科学的知見」が得られたとしましょう。
そしたらその知見を実社会にそのまま活用できるか、っていうとそうではないんだな。
何故か?
科学の目玉である「再現性」は、「特定の条件下」でこそ発揮されるから。
心理学における「特定の条件」とは、“物量作戦で内因・外因の影響を相殺して捉えられる場合”なんだよね。
だけど、実際には個性や環境要因がバリバリ効いている状態であるわけで、そうなると、安易に「再現性」が保証される、なんて言えない。
あと、一般化された理論が特定の個人に還元できるとは限らないという問題もあるよ。
例えば「10人に7人がそうである」という知見から、集団内にどのくらいにそんな人がいるかは予測できるけれど、目の前の人が7/10の人か3/10の人かなんて、改めて確かめてみないと分からない。
【心理学だけの話ではない】
こういった心理学の実社会での適用の問題は、実は自然科学であっても同じ。
統制された条件下による科学的研究で確固たる知見が得られても、それが科学技術としてすぐ活用できるとは限らないんです。
それでも、相手が機械や植物や動物の場合、ある程度人間の都合で限定した条件を作り出したり、そのもの自体に統制のための細工を施す事は可能だから、その分人間相手よりかは工夫の余地は大きいかもしれない。
一方、同じ人間を扱う医学あたりは、心理学の事情に近いんじゃないかな。
「特定の人から採取したシャーレの中のガン細胞を確実に殺せる」方法を発見したからといって、「様々な個体差のある人間の安全性を確保しつつ体内で活動するガン細胞を殺せる」ようになるとは限らない。
「一般化された理論を個人に還元できるとは限らない」という問題も心理と同様。
医者も「なるべく治る可能性の高い治療法」を施したいんだろうけど、ある方法で目の前の患者が治るかどうかはやってみないと分からない。だからこそ、一度処置したらしっぱなしではなく「経過観察」をするわけだ。
「正しい治療法」なんてどこにもなく、上手くいって初めて「結果として(その人に対する)正しかった治療法」が分かるだけに過ぎない、ってのが実状でしょう。
まぁ、強いて云えば「ひとつの治療に拘らず、経過次第で対応を変える」のが、個性を持つ人間の体に対する「望ましい治療法」なんだと思う。
同様の事は、前の記事で触れた「科学的エビデンス」とやらにも言える。
まず「科学的なエビデンス」をどうやって得るか、というところから考えてみよう。
【自然科学的方略】
自然科学的手法で考えるならば、全く同じ「社会」を2つ用意して、一方には施策Aを施し、もう一方には何もしないで、結果を比較すれば良い。
でも、それは無理だよね。
じゃぁ、例えば朝鮮半島の北部では施策A、南部では施策無し、みたいにして比較してみてはどうでしょう?
そもそも、初期条件が違いすぎるわけだから、差が見られてもそれが施策の差であるとは言えませんよね。
例は極端だったかもしれないけれど、多かれ少なかれ「初期条件の差」という問題は、「科学」の前に立ちはだかる。「似たようなもの」を対象にしようとしても、何が似ていれば「初期条件の差」が無いとみなせるのか、って事から分からない(面積?人口?気候?1人当たりの所得?物価?離婚率?)。
ちなみに、“科学的な方法としての妥当性評価”として、クックとキャンベルって人が「科学的方法尺度」(妥当性が低い順にレベル1からレベル5まである)というものを提唱しているんだけど、それを参照すれば、この方法は『レベル3』。
クックらによれば、『レベル3』は最低限解釈可能なデザインとされていますが、実験条件と統制条件が等価ではない事の問題は当然指摘されています。
【縦断的検証】
「同じものを2つ」が無理なら、1つのものを「実施前」と「実施後」で比較したらどうでしょうか?
残念ながら、「科学的方法尺度」では、この方法についてさっきより低い『レベル2』、“不適切なデザイン”とされています。
これは、「病気の人がいました、ある処置をしました、治りました、だから処置には治療効果があります。」と言うのと同じですからね(ニセ科学批判に興味がある人であれば、何故問題かはすぐ分かるでしょう)。
これで得られた結果は「科学的エビデンス」というよりも、旧来の「事例的エビデンス」の範を出ないものだと考えられます。
【横断的検証】
では、心理学でよく使う手法ではどうでしょう?
複数の自治体をランダムに2つに分け、片方で施策を実施し、もう片方で実施しない事にして、変化の違いを比較するわけだ。
対象とする自治体はかなり多くないと意味がないからお金はかかる、そもそも各自治体の承諾が取れるかもわからない...といった懸案事項は多々ありますけどね。
ただ、もしそれができれば「科学的方法尺度」でも、『レベル4~5』、最も優れたデザインと評されるもよう。
ですが、私は素直に『レベル4~5』を当て嵌められないとも考えています。
何故なら「社会」を対象にする場合、どうしても「盲検法」の実施が困難、という問題があるからなんですね。
医療では薬剤の効果を検証する際、薬投与群と偽薬投与群で比較するのが一般的だけど、その際、被験者には自分がどちらの群に属するか知らせない、といった「盲検法」の手続きが要求されています(さらに、投与側もどちらか分からない「二重盲験法」もある)。
それは「情報による心理的効果の差」があれば公平に比較できないから。
でも、個人ならいざしらず、「社会」相手はとなると「盲検法」はまず不可能。
そんな大がかりな実験なら、当然マスコミも話題にするし、そもそも、自治体はそれを執行するために、内容を知っていなくてはならないし、住民に黙っているわけにもいかない。
となると、出てきた結果が「施策の効果」なのか、「施策実施という情報による差」なのか分からなくなる。
つまり、「社会」相手の実験では、対象とする「社会」に対し情報を遮断できない限り、科学としては見過ごせない欠陥を含まざるを得ないわけデス。
まぁ、昔のソ連とか、北の将軍様の国とかなら可能かもしれないけどね...
【効果の評価】
せっかくだから、ついでに「科学的方法尺度」に基づく施策(プログラム)効果の評価の方法について紹介しておきましょう。
『効果がある』
少なくとも2件のレベル3~5の評価に置いて統計的に有意な望ましい結果が得られ、全ての証拠のうち大多数が有効性を示す
『有望である』
1件のレベル3~5の評価に置いて統計的に有意な望ましい結果が得られ、全ての証拠のうち大多数が有効性を示す
『効果がない』
少なくとも2件のレベル3~5の評価に置いて統計的に効果がなく、残る証拠の大多数も同じ結論を支持
『不明』
上記3つのどれにも分類されないもの。
ところで、『効果がある』基準と、『効果が無い』基準をもう一度読みかえしてみてください。
「『効果がある』とは言えない」=『効果がない』ではないんですね。
一見、『効果がある』と『効果がない』の条件は背反しているように見えるかも知れませんが、そうではありません。例えばレベル3~5の評価が0件である、あるいはレベル3~5の評価とそれ以下のレベルでの評価が共通しない、という状況では「『効果がある』とは言えない」すなわち『効果がない』ではない事が分かると思います。
じゃぁ、そんな場合どう判断するか?
そう、『不明』、つまり「分からない」とするのです。
【不明の価値】
実生活で「科学的」に思考するには、この『不明』が重要なんです。
それが無ければ、「No」は単に「Yesではない」という“消極的な意味”しか持たないし、「Yes」だって「Noではない」という“消極的な意味”しか持たない。
「不明」という領域を設ける事で初めて「Yes」や「No」という判断に、“積極的な意味”を持たせる事ができるのです。
前の記事に「正しいかどうか判断する前に、正しいかどうかを判断できる状況かを判断する事が必要」と書いたけど、まさにこの事を指す。
判断材料が不十分な状況で無理に判断するのは科学ではなく博打です。
このような考え方は、科学を使って実生活で仕事をする上では「必須」であると私は捉えています。
とはいえ、皆さんの中には「科学の事は結構理解しているつもりだけど、そういう話を聞いた覚えが無い」と思う人もいるかもしれません。
実は私も、勝手に「科学の師匠」と思っている人に出会うまでは、大学でも一応科学っぽい事はやっていたつもりですが、この事はあまり考えたことはありませんでした。
まぁ、そういう人のためにもう少し詳しく説明してみます。
【実験の場と、実生活の場の違い】
「科学」を『実験の場』と『実生活の場』に分けて考えてみましょう。
『実験の場』では、条件を統制して“より理想的な状況”の中、物事の発見に努めます。
そのような環境においては、明確に「ある」が示せなければ、「ない」と判断してもあまり間違いがありません。
そして、おそらく多くの人が認識している「科学」とは、この『実験の場』について語られているものではないのかと思います。
一方、『実生活の場』では、既に述べていますが、条件の統制が難しいわけです。
そうなると、「ある」としても明確に出るとは限らないし、「ない」としても偶然によりあるように見えるかもしれません。
そのような環境で、「科学的」に判断しようとするなら、十分な根拠が無ければ「ある」も「無い」も外す危険が高まります。そのため、“根拠”が足りなければ「分からない」と判断を保留するのが安全なわけです。
【医療という『実生活の場』】
分かりやすい例として、「医者」を取り上げましょう。
「あなたはガンです」という判断が間違うのは困りますが、「あなたはガンではないです」という判断が間違うのも、同じくらいかそれ以上に困るでしょう。
でも、「ガンじゃないとは言えないから、ガンだ」という判断では前者のミス、「ガンとは言えないから、ガンじゃない」という判断では後者のミスの危険が高まります。
だから、どちらかの判断を積極的に支持できるレベルの情報が揃っていない状況ならば、「分かりません、もう少し詳しい検査をしてみましょう」と判断するのが、間違えないためには必要なんです。
これが「医学」いわば『実験の場』であるなら、「開いてみてガン細胞が見つかればガン、そうでなければガンじゃない」とシンプルかつ確実な判断ができます。
でも、「医療」という『実生活の場』ではそんなこと無闇にできないですよね。「検査結果」という間接的な情報を手掛かりに判断しなければならず、しかも極力間違えないようにしなくてはならないから大変なんです。
また、そこに「個人差」という面倒な要因もからんでいるのも忘れてはなりません。
ある著名な心臓外科の話で、「何人もの心臓手術をやってきたけれど、同じ形の心臓は2つとして無かった」というのが印象に残っています(言われてみれば当然なんですが、実際に見ていないと人体模型や、図版といった「画一的なもの」を頭にうかべてしまいます)。
で、「科学」ってのは「個人差」はむしろ除外する方向で考えるわけですが、『実生活の場』においてこの「個人差」は無視できません。
そこを上手く処理できるのは、「経験」だと考えられます。
医者の例でいけば、実際に症例を扱った事のない新米医師と、沢山の患者の様々な症例を扱ってきたベテラン医師とでは、同じ量の「知識」があっても、適切な対応を施すという場面では格段の差が出るわけです。
ただし、それは「経験」が「科学」を上回る、という意味ではありません。『実生活の場』で「科学」を効率良く適用するには「経験」も必要だというコト。
「経験則」だけではダメ、かといって「科学」だけでもダメ。両者を両輪として上手くできるかどうかは、『個人の資質』に負うところになっちゃうかもね。
間違っても『科学であれば誰がやっても同じ』なんて思わない方がいい。
【まとめ】
さて、「科学的エビデンス」に関する総括は、前の記事に書いたので、見落としていたら読み返してみてクレ。ただし、私の評価が適切か、という点については疑ってかかってくださいね。
繰り返し同じ事を言うようになるけれど、『実験の場』の論理をそのまま「社会」、つまり『実生活の場』に持ち込んでも上手くあてはまらない、って事は、『「科学」を「社会」で活用しようとしている人』にとっては「ありきたりの事実」でしかありません(多分)。
でも、その事実は、一般の方や科学者(研究者)という両極端の層には、あまり認識されていないんじゃないのかな、と思う事がままあります。
ただ、それはその人達の「思慮が足りない」ってわけじゃないと思うんだね。
『実験の場』が活動の拠点である科学者、そして別に科学で飯を食っているわけではない一般人の方にとっても、そういうのは「関係無い世界の話」なわけで、認識されていないのは、認識する必要が無いからなのでしょう。
だけど、例えば「ニセ科学」というモノをネタにしつつ、科学を根拠に社会を語ろうという場合、それは『実生活の場』の話になります。
その際は、今回お話したような事を、意識的に認識して欲しい、なんて思います。
]]>
-
社会と「正しさ」についても考えてみた
https://naked-kings.blog.ss-blog.jp/2011-03-10-1
個人的な感覚なのかもしれないけれど「正しい」というのはどうも危険な感じがする。特に、それが「社会」なんてものにくっついたりするとね。 今回はその感覚の根拠について述べてみる。
他ブログいっちょかみ
Judgement
2011-03-10T22:53:05+09:00
今回はその感覚の根拠について述べてみる。
吊し上げるわけではないのですが、ハブハンさんの記事を見てみましょう。
んー、別にタテマエもホンネもなく、「ある局面では科学的であることが正しい」と言ってしまえる私は「科学主義者」ですw
条件つきなので「科学『絶対』主義者か?」と言われると、やっぱり否定するけど。
あ、ここで言う「正しい」は「科学的に正しい」とは異なります。「社会的に正しい」かな。「科学的な正しさ」とは別に、「科学的であることの正しさ」もあるというのが、ここで書こうと思っていることです。
「ある局面」ってのは「コミュニティで共有されている、定量化可能な目的を達成するために、コミュニティとしての行動を選択し、実施する局面」です。
さらに、こう主張することの前提として「定量化可能な目的を達成する上で、科学は最も効果的かつ効率的なツールである」ってのがあります。
公共の利益のために私たちはそれぞれコストを支払っているんですが、同じコストを掛けるなら、より有効に使うべきだ、そして有効に使うためには科学的手法を採用するのが「社会的に正しい」ってことですね。
極めて穏当な事を言おうとしているのは分かるんだけどね。
でも、もし私がこのような文脈で話をするのであれば、あえて「正しい」ではなく「望ましい」と言うかな。
さらに念を入れて、「私が考える社会にとっては」と付け加えるかもしれない。
何故か?
「社会」について「正しさ」を決め付けるのは危険だと思うから。
何が危険か?それは、『間違う危険性』と『間違っても気付かない危険性』だ。
その事について、いくつか理由を挙げてみよう。前の記事に関連している箇所や、次の記事に関連している箇所もあるので、必要に応じてそちらも参照してクレ。
【観察の限界を留意しない“確証型”の思考】
数学のように全ての条件が規定され、単一で単純なパラメータで表記されているのであれば、”確証型”の思考で「正解」を導くことは可能。
でも、「社会」がそうか、というとそうではないことは明らかだよね。
見る角度、切る角度で様相は全く異なる。
ついでに言えば、「正しい」見方、切り方なんてものも無い。
それぞれの角度、切り口がどれも「社会」。そして、そんな諸々の集合体こそが「社会」。
私達はそれぞれが小さな窓を通して、社会の一部を見ているにすぎない(それは、前の記事で述べた「自然科学が小さな窓を通して、自然の一部を見ている」といっしょ)。
となると、(理由は前記事で書いたつもりだから端折るけど)「社会」に対しても”確証型”の判断はそぐわないと考えられるわけです。
しかし、「社会的に正しい」というフレーズの背景には、“確証型”の思考パターンが存在すると予測できます。加えて、その“確証型”の判断を正当化させるための「社会の矮小化」なんていう態度も感じられます。
それをひと言でいえば「結論を急ぐための『短絡的な判断』」。
物事が単純であればあるほど「正誤」の判断はし易くなるわけだけど、だからといって「正誤」を判断したいからと物事を勝手に単純化しちゃいけない。
科学では、例えばノイズだらけの状況では判断を保留する。つまり、「正しいかどうか」判断する前に、「正しいかどうかを判断できる状況か」を判断する事が必要なんです。
【“確証型”の思考の問題】
んで、この “確証型”の思考パターンにはやっかいな性質がある。
(以前も書いた気がするケド、改めて書いておく)
それは一度「正しい」と確証したら、以降の情報はそれが「正しい」前提で判断してしまう事。つまり、バイアス(偏見)が強力に働くんですね。
そもそも人間の傾向として、“確証”の情報を積極的に探したがる。そして、一度“確証”すれば、その傾向はますます強まる。
例えば100の“反証”の中に1の“確証”があれば、そちらの方に目を向け、他は気にならない。しかも、“確証”(と思える)情報に対しては、多少の瑕疵があっても傍証として有効と評したりする。
一方、“反証”は基本的に眼中に無いし、目に入っても僅かな瑕疵を見つけ出し、それが“反証”の妥当性の全否定の根拠であるかのように捉えて安心する。
“反証”に瑕疵が見つけられなくても、自分が今まで見つけた“確証”を並べ立て、「これらが否定できないなら、私は正しい」という態度を取る。
(中には、“反証”を読みもせず、そうする人もいる)。
このようないわゆる“確証バイアス”に陥れば、どんな情報があっても、最初の判断はまず修正されない(強化方向にしかいかない)。
「あー、確かにニセ科学信者とかそうだよね」と思う人もいるかもしれない。
そうなんだけど、「ニセ科学信者」に限った話じゃなくて、誰しも持つ傾向なんだな。
「ニセ科学」を“確証”しちゃったのが「ニセ科学信者」ってだけで、別な事を“確証”しちゃって“確証バイアス”を発揮しまくっている人はそこらにゴロゴロいる。
そして、一旦動き始めると修正や歯止めが効かないトコロがやっかい。
つまり『固執的』になるのが“確証型”の怖さなんだよね。
【社会を“確証型”で捉える危険性】
『短絡的な判断』に『固執的』のセットって、かなり恐ろしい。
結果として「当たっていれば」まだマシだけど、社会の複雑さを考えれば『短絡的な判断』が当たる確率なんて宝くじと同じくらいじゃないかな。
となると、現実的と照合すればするほど矛盾が出てきたりするんだけど、それでも『固執』しようとする。都合の悪いものを見ないようにするため、どんどん視野を狭める。そうなると『排他性』も帯び、当人の自覚の有無にかかわらず、『攻撃的』になっていく。
(過去の学生運動あたりが良い実例じゃないかな)。
だから、私はどんなに穏当な主張であっても、「社会的に正しい」というポリシーの元でなされると非常に不安になるのだ。
【社会における科学的手法の採用】
もうひとつ、科学と社会について私が考えたのは、「科学」がどこまで「社会」に通用するか、という問題。
モチロン、携帯電話、電子レンジ、パソコンといった家電製品、そしてその便利さを維持するためのエネルギー製造、交通インフラの整備、気象予報と対策、そして医療、生活の様々な側面が「科学により新たにできるようになった事」、いわば「科学技術」によって安全かつ効果的、効率的になった、というのは事実と言っていいでしょう。
とはいえ、ハブハンさんが言う「科学的である」とは、(最近のやりとりの内容に基づけば)「科学技術」ではなく、「科学的な仮説」、「科学的な方法」、つまり問題を客観的に評価する方略だと捉えなくてはならないでしょう(ハブハンさんが『科学的手法を採用するのが「社会的に正しい」』とおっしゃるのもそういう意味だと思います)。
その事で私がパッと思い付くのは、昨今の行政等の分野で言われている「有効な公共政策や政策実務は科学的エビデンスに基づいていなければならない」なんて事。
...「エビデンス」とは、直訳すれば証拠や根拠。
それでも意味は通じそうだとは思うけどカタカナ言葉を使うのが慣例のようだからとりあえずそれに従っておく(ちなみに、単に“エビデンス”と言った場合、「科学的エビデンス」を指す、ってのがトレンド゙らすぃ)。
では、その発想が無かった時代はどうだったかといえば、「事例的エビデンス」つまり「以前それをしたら上手く行った(いかなかった)」という経験に基づく根拠に基づいていたり、「人気プログラム」つまり流行っているものに乗っかったり、イデオロギーに基づいたりして、公共政策等が決定されていた(過去形で書いたけど、今もそうかも)。
それじゃいかん、と言うことで「科学的エビデンス」が登場したわけだ。
ハブハンさんはこの辺の話を想定しているのかもしれないし、想定していないとしても考えている事に親和性は高いと思う。
あるいは行政の方は知らなくても、医療の分野で「エビデンスに基づく医療」という話が出ている事をご存じであれば、それと同じようなもの、と捉えればいいと思う。
【科学的エビデンスの有効性】
私も、こういった試みは面白いと思っている。でも、ハブハンさんのように「そうするのが正しい」と言えるほどはその有効性を評価していない。
詳細は書いてみたらかなり長くなったので別記事で書くことにして、ここでは大部分を省略し、まとめと結論だけ書いておく。
「科学的エビデンス」に基づいて何かしようとする場合、まず先立つものとして「科学的エビデンスになると言える研究」がされていなくてはいけない。
都合良くそんなのがあればいいけれど、無ければ「行動を選択し、実施する」前に、そういう研究をしなくてはならない。
しかし、それには金と時間がかかるし、そもそも「科学的エビデンスになると言える研究」ができる条件がなかなか整わない(故に、目的に合った研究を既に誰かがしてくれている確率は低い)。
そして、「科学的エビデンス」があった、あるいは作れたとして、それに沿って「行動を選択し、実施した」としても、期待どおりの成果が得られるか分からない。
この「分からない」というのは「100%ではない」とかそういう意味ではなく、文字通り「分からない」のだ。
さらに、こう主張することの前提として「定量化可能な目的を達成する上で、科学は最も効果的かつ効率的なツールである」ってのがあります。
そのあたりを考えていくと、「社会における定量化可能な目的達成指針」という事に関しては「科学は最も効果的かつ効率的なツール」とは言えません。
念のため言えば、「ではない」ではなく「言えない」ですからね。
「事例的エビデンス」の問題が指摘され「科学的エビデンス」という考え方が産まれたわけですが、じゃぁ「科学的エビデンス」という考え方に問題が無いかというと...ポリシーとしては素晴らしいけれど、実現できるかが怪しい。
「最も~である」と言うには、他の手段(例えば「事例的エビデンス」による決定)と比較できていなければならないけど、おそらく現状としてはそれを比較できる段階に無い(つまり「最も」と言える根拠が無い)。
グラウンドで一番足の速い人が、山道でも一番早いとは限らないんです
(詳細は別記事を読んでください)。
誤解があるとアレなので念押しすれば、今対象にしているのは、「科学技術の活用」ではなく、「科学的な検証方法」の活用ですからね。
例えばCO2削減という目標があるとしましょう。
ある特定のCO2を除去するための方法として、祈祷やら超能力やら疑似科学やらと比べ「科学技術」が最も効果的かつ効率的なツールとは言えるでしょう。
しかし、それを社会全体のテーマとした場合において、効率・費用対効果・負担軽減等を考えた上で、何に対するCO2をどの程度除去すればいいのか、という事については「科学的に」検討するのは難しいし、ひとつの結論を導けたとしてもそれが上手く行くとは言えない、って話。
【結論】
今回説明したように、少なくとも社会に対しては「科学は最も効果的かつ効率的なツールである」事を前提にできる根拠に欠けると考えられる。そのため、それを前提にした判断(「社会的に正しい」)には妥当性が認められない。
(1)個人の行動に対しては、科学的であることが正しいとは言えない。
個人が自分のためだけに行う(公共性のない)行動は、目的を達成する上で有効である必要も効率的である必要もない(もちろん、個人がそれを指向しても構わないけど)。
(2)定量化不可能な目的に対しては、科学的であることが正しいとは言えない。
つーか、いかなる方法でも定量化出来ない目的を達成するための行動はそもそも科学的たりえない。
よって、これらの事に異論を挟まないけれど
(3) 定量化可能な目的であっても、科学的であることが正しいとは言えない。
を付け加えざるを得ない。
なお、私は社会に対し「科学的」な目線を向ける事に否定的なわけではないからね。
何にせよ「根拠」を求めるのはいいと思う。
上手く行くかどうかはやってみないと分からないのは仕方ないけど、やった後でその「根拠」の妥当性を再検討できるメリットは多い。
同様に、元になる「根拠」を作ろうとする試みも重要。
「成功すると言える根拠が得られなかった」という結果は“失敗”に見られる事も多いですが、「そのやり方では上手く行かないかも」というのも重要な情報なんだよね。
科学と同じ。Try&Errorの蓄積、というのが大切。
その中で、「科学的な形式を整える」というのは、その資産を次代に継承するのに最も良いやり方だろうな、と思っています。
まぁ、これは研究する側の視点で、長期的な展望を考えた場合の話。
でも、そりゃ社会の中には「上手く行った」だけを“有効性”の指標としている人もいるわけだ。そして、そういう判断する人にとっては、そういった「科学的手法」は非常に迂遠であり、金の無駄使いにしか見えないだろうな、とも思う。
ただし、そういう人達もまた
公共の利益のために私たちはそれぞれコストを支払っているんですが、同じコストを掛けるなら、より有効に使うべきだ、
と言う権利を有する「コミュニティの一員」だったりする。
では、どちらの言い分を聞くのが「正しい」のか?
それこそ、「正しさ」を求めようとすると、ややこしくなる。
【個人的事情】
なお、私はハブハンさんの主張を否定したいがために、ワザとあれやこれやとイチャモンをこねているわけではないよ(少なくともそのつもりはない)。
「社会」の中で「科学」を飯のタネにしている私の正直な実感を述べただけです。
とはいえ、こんな事を考えるのは、
1 ちゃんと考えていないと、ほぼ間違いなく大きなミスをする。
2 ミスをすれば下手すると職を失う。
3 そりゃ困る
...という個人的な事情に基づくものでもあるんだけどさ。
「科学」を持ち上げてくれるのは嬉しいんだけど、持ち上げすぎてはいけない。
まぁ、一般の方であれば持ち上げようと何しようと、結局のトコロ「科学」は人任せだから問題ないんだろうけどね。任される側としては、そんな希望と憧れまで詰め込まれた「科学の範を超えたもの」を当然のように要求されるようになりそうで困る。
しまいには、「できるのは科学だから当然、できないのはあんたの失敗」みたいに言われたりするしねぇ...。
「社会」の難しさ、「社会」での「科学」の難しさを、ぜひ皆さんにも考えて欲しい(ま、それは自分のために、なんだけどね)。
【最後に】
ちなみに、ハブハンさんに『「社会的な正しさ」を語るのは早急すぎるよ』とは言いたいけど、『こんな事も知らないで社会を語るな』とは言わないからね。
陳腐な言い回しになるけれど、社会には色々な側面がある。
ハブハンさんはその一側面を見ているだけかもしれないけれど、その側面はハブハンさんにしか見えないものかも知れない。だから、それについてハブハンさんが語ることは、社会の様々な側面を把握したい人にはとても有効な情報だと思う(少なくとも私にとっては有効だ)。
ただ、そこに「正しさ」というものを滑り込ませられると、やっかいなんだよね。
自分に見えている側面のみが社会だ(お前らの見ている社会なんて知らん)、と言われるのと同じ。
しかも、そのような狭い了見の人の語る社会は大抵参考にならないほど狭い。半径50mも無いような狭さ、固定的な面子、安直なイデオロギー...。
さらに悪いことに、そんな狭い了見の人ほど、その狭い社会認識を「みんなで共有するのが当然」と他人に押し付けたがる。
ハブハンさんがそんな人だ、と言いたいわけではない。
むしろ、またそうなっていないし、今後もそうなっては欲しくないと思うからこそ、今回私としてはソフトに書いたつもり。
常に「正しいのか」を疑問に持ち、修正を厭わない態度を取るのが、「社会」に対しても望ましいのではないのかと私は思う。
それこそが“科学的な態度”じゃないでしょうか?
]]>
-
科学と「正しさ」について考えてみた
https://naked-kings.blog.ss-blog.jp/2011-03-10
久々更新。 ハブハンさんに自分から話を振っておいて、中途半端なままにしてしまっていてスマヌ。 いいかげんハブハンさんの返事に対する返事を書いておかねば。
他ブログいっちょかみ
Judgement
2011-03-10T22:28:23+09:00
ハブハンさんに自分から話を振っておいて、中途半端なままにしてしまっていてスマヌ。
いいかげんハブハンさんの返事に対する返事を書いておかねば。
【おさらい】
ハブハンさんにおける『科学的に正しい』とは、「科学的な方法による検証をクリアしたこと」を意味する事が分かった。
これはいわば“定義”だよね。
それが分かれば、今後私達はハブハンさんが『科学的に正しい』と言った場合、それを「科学的な方法による検証をクリアしている」に置換すればいいわけだ(「何を指しているのか」とかとか「何が正しいのか」と疑問に思う必要は無い)。
だから、ハブハンさんも気になさらずに『科学的に正しい』をお使いくだされ。
【科学は「正しい」を確認しているのか】
というわけで、こっから先は「強いて言えば」のハナシ。
定義を知らぬまま最初に『科学的に正しい』と聞いた時に生じた私の違和感の理由について話す。
私は「科学」は『正しい』と判断しない(できない)ものであり、むしろ積極的にその立場を取ろうとするからこそすごい信頼性を保っている、そう捉えている。
だから、「科学」が『正しい』と判断しているように聞こえる『科学的に正しい』に違和感を感じたんだ。
ま、正直に言えば私も「科学的に正しい」というフレーズに違和感を持たない時期もあったけどね。
人の研究やら自分の研究の意味とか色々考えるうち、考え方が変わった。
【私の科学の捉え方】
科学ってのは、手続きを見る限りにおいては
「客観的に正しいものを発見」するためではなく、
「客観的に間違っているものを除外」するためのもの、だと思う。
科学が対象としようとしているのは『「客観性」と「再現性」を持つもの』。
んで、まずは「客観性」の方をなんとか整えた上で、「再現性」が無いものを順次除外する、という手続きを取っているわけだ。
だけど、それで残った(クリアした)からといって『「客観性」と「再現性」を持つもの』と言えるのかと言うと、それは分からないんだよね。
だって、仮にそれが本当は「再現性」を持っていなかったとしても、その事が必ず最初の検証で分かるとは限らない。
「間違っている」と判断が下せる結果がいつ得られるかは、人間は決められない。
だから「科学的な方法による検証をクリア」を私なりに言い直せば、
「現時点では間違っているとは言えない(正しさを示せているわけじゃない)」
程度に留めざるを得ない。
【反証型と確証型】
科学のプロセスは“反証型”、つまり「仮説を支持しない結果」が得られる事で仮説の「間違い」を示すんだよね。
一方、「仮説を支持する結果」が得られる事が仮説の「正しさ」を示す、という考え方は“確証型”の判断プロセス。
そして、そのなれの果てが「ニセ科学」。
この違いが分かりにくい人は、「部分から全体を判断する」という状況を考えて見て欲しい。
多分、両者の違い、そして“確証型”の欠点が明確になると思う。
そして、人間という小さな存在が世界を理解しようとするのは、まさに「部分から全体を判断する」状況。
それを“反証型”でアプローチする科学の成果は言わずもがなだし、“確証型”でアプローチするニセ科学の危うさも言わずもがなだろう。
【まとめ】
科学は「正しいと判断できない」
...こう言うと、それが科学の欠点のように聞こえるかもしれない。
でも、私はそれを「”あえて”正しいと判断しない」と捉える。
そして、それこそが科学の長所なんじゃないのかな、と思うのだ。
「今は間違っていると言えないだけ」に留める事により、「ホントに間違っていないのか、他の可能性は無いのか」と追求し続ける原動力になる。
それが、科学による知見の信頼性と更新性を産んでいるのじゃなかろうか。
また、「正しいと判断できない」代わりに、科学は「間違っていると判断できる力」を持っている。
そのおかげで誤った迷信や因習、経験則を墓場送りにしてきたわけ功績を忘れてはイケナイ。
なお、「ニセ科学」は、科学のプロセスを”確証型”と錯覚する事で産まれているんじゃないかと考えている。
本来の科学は、“100の確証”があっても、“1の反証”があれば覆される。
だけど、ニセ科学は“100の反証”があろうとも“1の確証”にこだわる。
そしてそれは、“確証”が有無を言わさぬ「正しさ」の証明と錯覚しているからじゃなかろうか。
...そんな事も考えているから、なおさら私は「科学」と「正しい」をセットにして欲しくないんだなぁ。
科学の成果を使う側の人にとっては
「科学という手法で(ある程度の)正しさが判断されている」
と言われた方が分かりやすいし安心かもしれない。
けれど、少なくとも科学という手法を用いる側の人間はそう捉えるべきではない
...と後者であるつもりの私は思うのである。
≪オマケ:仮説と検証の思考実験≫
例えば『「2→4→6」の中で規則性を見つけろ』
と言われたら「+2」と答える人が多いだろう。
問われているのは、『数列から見出すことができる「規則性」』なので、
数列との辻褄が合っていれば「正解」と言える。
でも、『ある法則により「2→4→6」となった。その法則は何か』
と言われた場合は、問われているのは、
『数列の元になっている“ひとつだけ”の「法則」』という事になる。
そうなると「+2」は正解とは言えない。
だって、「+2」という法則“しか”想定できないわけではないから
(例えば、「前の数字より大きい数を出力」、「偶数を出力」、「整数を出力」といった法則も否定できない)。
だから、次に「8」が出ても、『法則が「+2」である』と確定できない。
その次に「10」が出ても、またその次に「12」が出てもやっぱり同様。
何かが確定できる場合があるとすれば、「+2」以外の数値が出た場合のみ。
そう、『法則は「+2」ではない』という事は確定できる。
つまり
「予想通りの答え」が得られても「正しい」とは判断できないけれど
「予想外れの答え」が得られる事で「間違い」と判断できるわけだ。
ただし、実際は「間違い」だとしてもそれを示す「予想外れの答え」が“いつ”得られるかは分からない。
また、本当はその他にも法則が考えられるのに見落としているかもしれない。
だから、”確証”があっても「正しい」と判断できない。
なお、棄却されない限り『法則は「+2」』も『法則は「偶数」』も同質と考えるわけではない。
前者の方が後者より棄却されやすいのにそれでも残っているのはすごいし、予測の範囲が狭いため使い勝手もいい、って差がある。
でもそれは「棄却されない」前提での評価であって、「正しい事」を担保するものではない。
それはマラソンの途中経過みたいなもの。
リタイアしてない人達の中ではトップ、という事は言えるけど、現在トップである事が最後までリタイアしない事を保証するわけではない。
そのような、仮説どうしの比較で相対的に見出される差異は、「正しさ」ではなく、例えば「相対的な優秀さ」とか「確からしさ」とか言うべきかな、と思う。
]]>
-
難しいコトバ
https://naked-kings.blog.ss-blog.jp/2011-02-05-3
spiklenci-slastiさんのコメントや、ニセ科学批判界隈の状況を見て考えた事を書く。 それは、ニセ科学批判の方々は難解なコトバを使うのだろうという疑問だ。 脈絡が無さそうでありそうな事をだらだらと書いてみる。
疑似科学批判批判批判批判
Judgement
2011-02-05T02:42:20+09:00
それは、ニセ科学批判の方々は難解なコトバを使うのだろうという疑問だ。
脈絡が無さそうでありそうな事をだらだらと書いてみる。
【牽強付会】
spiklenci-slastiさんのコメントをちょっと引用
このエントリの議論のなかに、誤読にもとづいている、または牽強付会ぎみなのではないかとわたしに思われる箇所がいくつかありました。
「牽強付会」、この言葉の意味を知る人は成人の何パーセントでしょうか?
まぁ、実際の数は知らないけれど、「こじつけ」というコトバを知る人より圧倒的に少ないことは予想されるでしょう。
もちろん、「頭の良い」部類の人はその意味は知っているでしょう。
そしてそれだけでなく、「その言葉が一般的にはあまり用いられない」ということも知っているはず。
なのに、「こじつけ」ではなく、あえて「牽強付会」を使うのはどういうコトなんだろう、って引っかかるんだよね。ワープロを使うと手書きなら書かない(書けない)ような漢字を多用する傾向が出るらしいがそれとも違うはず。
こういうのは、「他人に意図を伝えるためにコトバを選んでいる」のではなく、「自分の頭の良さをアピールするために言葉を選んでいる」んじゃないか、って思うんだ。
「情報伝達」そっちのけで「自分の能力を誇示したい」って感じ。
【滑稽】
これは私の身の回りの話だけど、わざわざ難しく言い換える人がいる。
例えば「証拠...つまりエビデンスは」なんて感じでね。
(たまに「証拠のエビデンスは」なんて言って「妻のワイフかよ」と影で笑われる)
当人は頭良いフリかもしれないけど、実は非常に滑稽。
(ちなみに比較的軽症の人は「エビデンス...つまり証拠は」と言ったりする)
また、そんな人はしまいに“覚えた言葉”を使いたくて使いたくてしょうがなくなり、無理矢理話を変な風にねじ曲げたり、いきなり話を飛んばしてまでしてその言葉を使う。
「それが言いたいだけちゃうんか」って、バレバレなんだけど。
知識自慢にこだわると、思考も曲がったり飛んだりするってコトだ。
いわば、「思考のベクトル」の硬直が起こる。
【ワザと使う?】
まぁ、私も、知性あふれる故(?)、ときたまうっかり同じような間違いをしてしまう時もあるけど、校正の時に発見すればなるべく言い換えるようにしている
※ タイトルとか目を引く必要がある箇所ではあえて使う場合もあるけどね。
んでも、例えばニセ科学批判界隈を見ていると、なんか“あえて”こういう言葉選びをするのが流行っている気がするんだよね(「牽強付会」の単語を他のトコロでも見かけた)。
それとか、さも当然のように何の説明もナシに「専門用語」をいきなり使う人も結構いる。
専門家どうしの会話ならいざ知らす、相手の素性も不明な掲示板等のオープンな場だったりするから、そういうのも「知識自慢」なんじゃないかと思う。
酷い場合には、相手がその言葉を使ったわけでも無いのに、いきなりそれを専門用語に変換して見せ、しかも何の説明も無く使ったりする(先ほどの「証拠...つまりエビデンスは」がもっと深刻化したような方だ)。そんなの混乱しか招かないのに、なぜあえてする、って感じだ。
「当然知っているよね、まさか知らないの?ふぅん」という自慢げな心の声が聞こえてきそうだ。
ま、つまるところ「ハッタリ」だよね。
【コトバの意味を問う】
ニセ科学批判の人の中には「相手の使った用語の意味を追求する」という芸風の人がいる。
それ自体は悪くないと思うんだけど、中には「相手の意図を知るために言葉の意味を確認している」のではなく、相手が付与している意味が、自分の知っている“「正しい知識」での意味”と違う、ってコトを指摘しようとしている感じの人がいる。
まぁ、私自身もそんな時期もあった気がするので、自戒の意味も合わせて言うけどね。
それは結局「相手の主張を聞く」という対話の態度ではなく、「相手の知識不足」を指摘することで「自分は知っているんだ」という優越感と共に、自分から対話を拒絶する態度なんだよね。
「自分は知っているんだ」というアピールを優先することで、自分に相手からの「情報が伝達される」のを遮断してしまうわけだ。
ニセ科学批判の方々は多かれ少なかれそういう傾向があるんじゃない?
ニセ科学蔓延防止の話の中で「正しい知識」という言葉がよく出てくるところからもそれが伺われる(私なんかは、「間違えない考え方」を重視した方がいいと思うけどね)。
ニセ科学批判批判に対し、「自分達の基準」を当て嵌めて判断し、「間違ってる」、「こんな事も知らない」と嘲笑し、「だから話をまともに聞く価値はない」と断ずる。
でも、そういうのって「気になるけど気にしたくない」という葛藤の最も安易な解消方法なんだよね。
そして、そういう安心の仕方は、正統科学に対するオカルトやニセ科学の態度とそう変わりはない。
【言葉による断絶】
こういう風潮って、例えばオタクみたいな閉鎖的な関係なんかでよくありそう。
そしてそれがまた「閉鎖性」を進行させるんだよね。
情報は外に伝わらないし、外から情報は受け入れない。
難しい「言葉」をアタリマエのように使いあうコトで、内部の者同士は外部の者に対する優越感を味わい、それが外部からすれば「得体が知れず、とりつく島もない集団」に見える、なんて温度差が産まれる。
それがどんどん「外部との隔絶」を深めてしまう。
【キケンな性質】
「コトバ」に関するそういった性質は、実は悪徳セミナーやら新興宗教やらで利用されている。
「自分達の仲間内」のみで通用するような言葉を使い合うことで、信者同士に特別な結びつき感、あるいは「その素晴らしいコトバを知らない」部外者に対する優越感を抱かせる。
さらに恐ろしいのは、その言葉に固定的な意味を付与し、それを積極的に多用させようとする事で、思考の範囲を硬直化させてしまい、所属する集団に対する疑問を生じさせ難くするのだ。
もう一つの問題としては、「難しそうでよく分からない」コトに対し、「難しそうでよく分からないから、きっとすごいんだ」と錯覚して飛びつく人が出てくる、ってのがある。
このあたりは、「ニセ科学」にダマされる人なんかまさにそうでしょう。
ちなみに、「意味が良く分からない」からこそ盲信する人がその集団を水増ししていくと、自らは説明できない彼らは、「数の力」を行使しようとしたりする。
そんな危険な「手口」を、ニセ科学批判の人が(知ってか知らずか)結果として使ってしまっているコトは、いかがなものか。
【説得力の代わりのハッタリ】
そういえば、ニセ科学批判やっている人の中で「深刻なビリーバーを説得するのはあきらめ、はまりそうな人をとどめる事に力を入れたい」みたいな事を言っている人がいた。
確かに。
ニセ科学の「ハッタリ」のとりこになっている人には、高尚な言葉の「ハッタリ」は効きにくい。
でも、はまりそうな人は本来「ろくに読まずに信奉する人」だろうから、先に高尚な言葉の「ハッタリ」をかけることができればイチコロだろう。
目的達成のために手段は選ばず、であるならそれでいいだろう。
でも、ビリーバーの説得をあきらめなくてはならない程度の説明力しか無いくせに、何が偉そうに「蔓延防止」なんだ。
【言葉の向かう先】
ニセ科学の批判のようなもの、あるいはニセ科学サイドやニセ科学批判批判サイドとの議論のようなもの、を見て思うのは、言葉を発する方向が「批判を伝えるべき相手」あるいは「言葉を交わす相手」になっていないんじゃないの、って事。
では、どこに向けて発しているかと言うと、「同じニセ科学批判の仲間」。
コトバも、言い回しも「仲間がお好みのもの」を選び、 「どう?今のオレの発言クリティカルでしょ」と、本来の相手そっちのけでアピールをしている感じ。
ある掲示板にアンチニセ科学批判な方が現れると、とたんに仲間がワラワラと集まり、矢継ぎ早に質問を浴びせかけて相手を怯ませた隙に、仲間どうしの会話に執着しはじめたりするしね。
「自分は言葉選びに気を遣っている」という人もいるが、何に気を遣っているかといえば「なるべく難しい言葉を、かつそれを間違えないように使う」という、自己の能力の誇示のための気遣いだ。
【狭い視野】
コメントのやり取りを見ていると、わざわざ1レス消費して、どうでもいいスペルミスや、ちょっとした“てにをは”のミスを訂正してみせる人がいる。
だけど「文脈たどれば補完して読めるからワザワザいいってば」って感じなんだけどね。
その人にとっては「自分の文章は細かいミスすら許せない」という厳格なスタンスをアピールしているつもりなのかもしれない(それが1レス浪費するほどのプライドなのかは置いておこう)。
でもそういう人に限って、単語はともかく文章が粗雑。
そんなんで1レス消費するぐらいなら、もうちょっと言葉の意味の方を説明すればいいのに、とか、もうちょっと文の構成を整えればいいのに、って思っちゃうほどね。
まさに「木を見て森を見ず」なんだよなぁ。
【伝えたい気持ち】
誰だか忘れたけど、ニセ科学批判サイドの人が、ニセ科学ビリーバー(だった気がする)のブログを見て
「この手の人はやたら行間を空ける」
みたいなコトを言っていた。
どちらかというとせせら笑うようなニュアンスでね(まぁ、私の個人的印象だけど)。
でもね、「伝えたい気持ち」があれば、なるべく“読みやすいよう”に、折り返しが無いように文の長さを調節したり、行間をあけたりするんだよね。
そして、使う言葉もそれを組み合わせる文章も「読む人」の立場で選ぶ。
「伝えたい」と口では言うけど、実際には「読む人」を考えず、ゴテゴテと難解なコトバをビッチリ並べ立てる、そんなので伝えたいのは、実のところ「ニセ科学の問題」ではなく、「頭の良い自分」だ。
なのに、偉そうに「ニセ科学に騙される人を少しでも減らすためにやっている」なんて言うな。
伝える気持ちなんてろくにないクセに、自己顕示欲をさらに満足させるためのネタとしてだけ都合良く使われるなんて、「ニセ科学に騙される人達」が可哀想だ。
そうでないならば、今からでも遅くない。
「言葉や文章の読みやすさ」にもっと気を使った方がいいと思う。
【頭のいい人】
色々邪推はしてみたけど、もしかしたら皆さんホントに頭がいいがために
「あたまのいいはなしかた」しかできないのかもしれない。
それならしょうがないけどさ。
「あたまのいいはなしかた」についていけないバカは、勝手に騙されてろ、って事か。
でもホントにホントに頭のいい人は
難しい事でも平易な言葉で説明する事ができるはずじゃないのかな。
【最後に】
おっと、大切な事を言うのを忘れてた。
今まで言った事は、全てのニセ科学批判者にあてはまるものではない
...と思う...多分。
なお、「お前こそどうなんだ」という批判は受け付けない。
私は「ニセ科学に騙される人を少しでも減らすためにやっている」なんて偉そうなコトは(多分)言ってない。
まぁ、それでもニセ科学批判の人よりかは、言葉や文章には気を遣っているつもりだけどね。
あと、その他の読者のみなさんへ
これは文章をパッと見ただけで書き手の自意識過剰ぶりがある程度掴めるテクニックになりますぞ。
ご活用あれ。
]]>
-
論理的に考えるコト・番外編~B面~
https://naked-kings.blog.ss-blog.jp/2011-02-05-2
(一連の記事なので、最初にこちらから読んでください) こちらでは、『論理的に考えるコト ~「心の闇」編~』のコメントから、spiklenci-slastiさん自身について検討してみます。 ちょいと(かなり?)毒が強いのでご注意を。
他ブログいっちょかみ
Judgement
2011-02-05T01:03:26+09:00
こちらから読んでください)
こちらでは、『論理的に考えるコト ~「心の闇」編~』のコメントから、spiklenci-slastiさん自身について検討してみます。
ちょいと(かなり?)毒が強いのでご注意を。
【嫌がらせかよ】
いきなりだけど、あなたの会社に、『これってセクハラかもしれないけれどさぁ』と言いながら、明らかなセクハラ発言をする奴いませんか?
無意識にセクハラ発言する奴も当然イヤだけど、この手の人間はまたさらに別なイヤさがあるよね。
こっちとしては、「わかってんなら言うなよ」って感じなんだけど、どういう理屈か知らんが、言っている本人はどうもそう言う事がセクハラ発言の免罪符になると思っているらしい。
場合によっちゃ、無意識に言うより、分かってながら言う方が悪質と取られるだろうに。
んで本題。spiklenci-slastiさんのコメントから
そんなわけで、認識の健全性が通常以上に不透明な状態にあるのですが、ここはひとつ(Judgementさんへの)「依存を当然と思う心」を発揮して、長文コメントを投下してしまおうと思います。以下の指摘の健全性について、どうぞご検討くださるようお願いします。
あのさぁ、あの記事読んで私が「依存を当然と思う心」に嫌悪感を抱いている事はわかんなかった?
なのに、なんでわざわざ『「依存を当然と思う心」を発揮して』なんて言うかなぁ。
つまりそれって、「私はあなたにわざと嫌なことをしますよ」と宣言しているのと同じなのに。
セクハラ宣言もこの宣言も、きっと「言われる前に自分から言ってしまおう」作戦なんだろう。
いわゆる、「自分はちゃんと分かっているんだからね、エッヘン」的な自己アピール。
だけど、それはされる側にとってはむしろ嫌悪感を増大させる、底の浅い自慢なわけだ。
それと「どうぞお願いします」と言う前に、「私はあなたにわざと嫌なことをしますよ」と宣言するなんて、、常識的に考えれば非常に狂ったお願いの仕方じゃないだろうか。
ひどく感覚的な表現になっちゃうんだけどさ...
「弱気」な自分である事を他人に押し付けて何とかしてもらおうとする「強気」な態度というか、「引きながら押す」という矛盾する行為が混在する故に、される側にとっては余計イライラすると言うか。
古い話だけど、昔流行った「ぼのぼの」ってマンガに「シマリス君」っていて、しょっちゅう「いじめる?」と言って小首をかしげる奴がいた。
それがかわいい、という人もいるだろうけど、私はダメだね。
「いいからどっか行け」って言うか、もしくは一息に踏みつぶしたい。
【まさにダメな依存心】
あとさ、「指摘の健全性について検討しろ」って、そりゃ本来私の仕事じゃないよね。
spiklenci-slastiさんが「私の指摘の方が正しい」って言って、それを受けて私が「なるほど、ではそうなのか検討してみましょう」というのが普通の流れだよね。
なのに、「読解の健全性を毀損しているか実際のところわからない」、「認識の健全性が通常以上に不透明」なんて、主張者自身が迷っているはずの代物を堂々と示してしまう。
それだけでもアレなのに、さらには「指摘の健全性について検討しろ」と、まさに批判をなげかけているその相手に丸投げするって、何この流れ?
これってさ、どっちに転んでも傷つかないためのイヤらしい布石じゃない?
万一私が主張を認め『健全ですよ』と言われれば「ああよかった、私が正しかった」
今回のように『全然健全じゃねーよ』と言われれば「ああやっぱり、そんな気がしました」
私はいつからspiklenci-slastiさんの専属カウンセラーになったんだ?
ホント、5万くらいはもらってもいい仕事だと思うぞ。
てか、『健全性』という言い回しも、なんか逃げを用意しているようでイヤなんだなぁ(詳細は後述)。
【ムカツク先言い訳】
とまあ、以上です。なお、言及しなかった部分の正当性についてわたしがなんらかの意思表示をおこなったとは考えないでください。というのも、当事者であるがゆえに見方の健全性をつよく保証できないという立場においても言及可能であると判断した箇所についてのみ指摘するにとどめましたので。
「言及しなかった部分の正当性についてわたしがなんらかの意思表示をおこなったとは考えないでください。」という物言いは、非常にムカつくね。
いや、全てに対して意思表示を行えとは言いませんよ。だけど、それならば「他は考え中」とかなんかでいいじゃない、あるいは何も言わなくていい。少なくとも私が「他は認めるんですか」みたいなコトを実際に口にしてから、そういうことを言え。
なんかさ、『お前はどうせ「言及しなかった部分は同意したと判断します」なんて言い出す奴なんでしょ、だから先回りして言っときますよ』って言われているようだ。ABOFANじゃないっつーの。
だいたいさ、「見方の健全性をつよく保証できない」というのは、あくまでspiklenci-slastiさんの事情であり、言い訳。「それでも言及可能であると判断した」という判断もspiklenci-slastiさんが勝手にしている事。
そんな私があずかり知らぬ理由や根拠によって、どう考えても恣意的にぶつけられている批判なのに、「まぁ、しゃーないか」と色々書いたわけだけど、そこでこんな「先言い訳」を言われると、正直萎えるわぁ。
そんな「先言い訳」をする余裕があるんなら、そもそも「以下の指摘の健全性について、どうぞご検討くださるようお願いします。」なんて言わないで済むように、自分を客観的に見れる努力をしてからコメントしろ、って感じだ。
今回、あの長いspiklenci-slastiさんのコメントのほぼ全てを取り上げて書いたのは、ある意味この「先言い訳」に対する当てつけみたいなもんだ。
おっと、そこで「そんならこっちも全てにコメントしてやる」ってムキにならないでいいからね。記事として書くからこそ、そんな無茶もある程度見やすくする事ができるわけで、コメント欄でやられたら大変な事になる。ご自分のブログ(あるか知りませんが)でやるならいいけどさ。
そうじゃなくて、部分の指摘ならそれでいいから、余計な事を言いなさんな、って話。
【逃げ道】
ところで、わたし自身は、この言及先のやりとりについて、ものすごくいろいろと思うところがあります。諸事情から若干のパニック状態にもおちいり、夏バテもあいまってすこしやせました(去年の夏は、すくなくともわたしの住んでいる地域は、めちゃくちゃ暑かったです。当時は、“このやりとりがぐでぐでになってるのは、夏の陽気のせいなんじゃないか”と、なかば本気で考えていました)。
知らんがな。パニック状態も、夏バテも、去年の夏の暑さも。
なんだよ、見ず知らずの人間の同情買おうとしてどうする。
少なくとも相手を間違っている。
多分このあたりが『健全性』というキーワードに繋がっているんじゃないかな。
今回のように『健全性』が否定されても、その理由をパニック状態や、夏バテや、去年の夏の暑さという、『不健全な状況』による一時的な影響だから、私の本質とは関係ない、という“逃げ道”用の近況報告だよね。
まぁ、そういう“逃げ道”を作っておくことで、精神の均衡を保つのは必要だよ。
こんなブログのたわ言で意気消沈したりなんだりする必要は全くない。
でもさ、それはspiklenci-slastiさんだけの問題なんだから、そういう逃げ道は自分の心の内にこっそり準備しておけばいいことなんだよ。
そんなの、わざわざ相手に聞かせるものではない。
いや中には、そういう事情もぜひ聞きたい、という奇特な人もいるかもしれないけどさ。
そういう人だと分かった時だけやった方がいいと思う。。
私は、あなたの心身の事情におかまいなしに厳しく言うけど、「夏の陽気のせいなんじゃないか」なんて問題を自分の外側に置こうとする性根こそが、“ぐでぐで”の原因のひとつだと思う。
【勝手な言い分】
そんなわけで、第三者の視点からこのやりとりについて分析しているものを読むというのは、きっとよい反省の機会となるだろうと考え、Judgementさんが予告なさっていたこのエントリには、かなり期待していました。しかし、残念ながら、このエントリは、そんなわたしの期待にこたえるようなものではありませんでした。これは別にこのエントリやJudgementさんをくさしているわけではなく、わたしの期待が、このエントリに対するものとしては、ずれずれだったというだけのことなのですが。
分かればよろしい。
んで、分かっているならいちいち言わんでもよろしいのだが。
いったいなにが言いたいのかといいますと。 Judgementさんがお蔵入りになさったこのエントリの残り3/4が、かりに、すでに書きあがっていたのだとして。そこに、わたしに対する批判的言及はふくまれていたのかな、と。そして、もしもふくまれていたのならば、また、もしもその原稿が現存するならば、それはぜひとも読みたいので、メールかなにかで送っていただくなりしたいな、と。じつはそれがこのコメントのかくれた本旨だったりします(もちろん、残り3/4がテキストとして存在してはいない場合などに、あらたに書きおろしてくれとは言いません。自分でもある程度の反省はできているつもりですし)。
あまったれるなぁぁぁぁぁぁぁ。
てか、「没にした原稿」という恥部を何で見ず知らずの個人にメールで送らねばならんのだ。
「服を着た写真だけでは物足りなかったので、裸の写真もメールで送って下さい」
というのを、知らん人から言われた事を想像してクレ。
...なんだろうなぁ、このイライラ感。
おそらく「引きながら押す」の匙加減が非常におかしな事になっていると思うんだが
それともそう感じる私の性格の方がおかしいんだろうか。
【意図がわからん】
あと、最後にわざわざこんな追伸を書いてくださっていますが...。
P.S. ブログ内の別所にて、高橋昌一郎さんの『知性の限界』と『理性の限界』をおすすめしていらっしゃるのを目にしました。これらの本に対しては、専門的知識にかんする記述において不正確なところがあるという指摘が存在します。具体的には、以下のようなものです。
http://togetter.com/li/55939
http://critical-thinking.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/post-52fd.html
http://critical-thinking.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/post-c311.html
なお、みっつめの、不完全性定理の説明についての批判エントリに対しては、
http://d.hatena.ne.jp/wd0/20100123/a
という指摘も存在します。しかしこれは、読めばわかりますが、高橋さんの本の記述を正当化するような内容のものではありません。同書からのかぎられた引用部分だけを見ると、たしかに、意味論に対する形式体系の完全性と、ゲーデルの不完全性定理が問題としている完全性とがおなじ意味であり、ゲーデルの不完全性定理が示しているのは「数学の世界」で前者が成立しないことだ、と言っているぽく読めます。しかし、引用されているのはかなり部分的な記述ですし、わたしもそんなに知識がないので、あんまりつっこんだことは言えないです。ということで、とりあえず、このような指摘が存在する、という点だけおしらせするにとどめておきます。
「おしらせされた」私はどーすれば良いのか。
「このような指摘が存在する」、ほう、存在するのね。
確かに、このインターネットという世界では、多様な物事に関する多様な指摘がある。
だから、そのような指摘が存在するのも不思議ではないだろう。
...
......
.........で?
私はこういうオチがない話は苦手だ。だから何、って感じ。
つうか、ここでは本の紹介記事も書いているけど、(記憶は定かではないけれど)多分この本に関してはコメント欄でcosiさんあたりに軽く勧めた程度だよね、だいぶ前に。
そんなのが、脈絡無く今いきなり言及されると、どうしてもspiklenci-slastiさんの黒い思惑を疑ってしまう。まぁ、単純に「あなたが読んだ本について、私はあなたよりももっと知ってますよ」という自慢のメッセージなんだろうけどさ...
ちなみに、私は「知識を得るため」というよりも、「人の考えの多様性」を楽しむために読書するタチだから、細かい話の正誤にはあまり興味はなかったりする(というか、細かい話はあまり覚えない。不完全性定理の説明がどんなものであったかすら忘れているし)。あと「不完全性定理の教本」として勧めてたわけじゃないはずだし、さほど問題は無いと思う。
あと、ここでも「引きながら押す」が発揮されているんだよね(正確には「押しながら引く」だけど)。
両論のサイトの紹介にとどまらず、「自分の感想」も加えて「押す」くせに、「わたしもそんなに知識がないので、あんまりつっこんだことは言えないです」なんて「引いて」みせるわけだ。
モヤモヤするなぁ、まったく!
んで、お知らせしたのは何故か、という肝心な部分の手前で「とどめ」ちゃう。
イライラ
てか、自分の感想をちゃっかり挿入しておいて、「おしらせするにとどめておきます」なんて、全然お知らせにとどめてねーだろ、って気も。
【最後に】
spiklenci-slastiさんのコメントを骨までしゃぶってみたが、いかがだったでしょうか。
あくまでspiklenci-slastiさんがやれって言ったから渋々やったんだからね。
ホントはこういうコトやりたくないのに(嘘)。
まぁ、私の精神衛生上の理由で付け加えておくけれど
別にspiklenci-slastiさんの全人格を否定したわけではないからね。それに、私から見たspiklenci-slastiさんがこうであるだけで、別の人が見ればまた別な見方があるでしょう。
だから、私のような人間が周りにはいない、とお思いであれば気にする必要は多分無い。
でも、私のような人間が他にもいそうだ、とお思いで、その人達を「イラッ」とさせたくないという気遣いをするつもりがあるのであれば、私が言ったようなことは頭の片隅においておいてくれ。
「自分は認めたくないコト」と「他人にそう見えるコト」は別モノですからね。
]]>
-
論理的に考えるコト・番外編~A面~
https://naked-kings.blog.ss-blog.jp/2011-02-05-1
(一連の記事なので、最初にこちらから読んでください) こちらでは、『論理的に考えるコト ~「心の闇」編~』のコメント欄に寄せられた、あるいみ当事者の1人であられるspiklenci-slastiさんの異論について検討します。
他ブログいっちょかみ
Judgement
2011-02-05T00:52:37+09:00
こちらから読んでください)
こちらでは、『論理的に考えるコト ~「心の闇」編~』のコメント欄に寄せられた、あるいみ当事者の1人であられるspiklenci-slastiさんの異論について検討します。
■■■■■■■■■■■■■第1章 【今書ける所】への異論
【序】
まず、【今書ける所?】について。
引用されているublftboさんのコメントが「記事のublftboさんの説明」とは「別の話を投げかけて」いるものであるとは、わたしは考えません。このコメントが投下されたのは、ublftboさんのエントリを受けて、rosechildさんが『「全ての議員はバカ」は「議員の半分はバカ」を含意すると思う』とコメントなさったその直後においてです。ここで、『「全ての議員はバカ」は「議員の半分はバカ」を含意する』というのは、『全ての議員はバカ』は『議員の半分はバカ』を肯定する命題である、という意味です。とすれば、これは、『全ての議員はバカ』という言明が『議員の半分はバカ』の否定となる、という主張と真っ向から対立します。したがって、rosechildさんのこのコメントは、ublftboさんのエントリの内容を否定するものであるということになります。そして、rosechildさんのこのコメントへの応答としてublftboさんが投下なさったのが、問題のコメントです。
正直なところを言っておくと、私は該当するコメントについて、最後まで「何が言いたいのかよーわからん」状態でした。
どこそこが間違っているとか、どこが筋が通らないとか、そういう次元ではなくて、使う文字と単語は基本日本語なんだけど、それを使って何を示そうとしているのかが分からない。
だから記事では、「まず、内容の詳細云々はさておき」と飛ばしちゃった感じ。
【引用】
spiklenci-slastiさんは、その前のrosechildさんのコメントとの対応を述べているので、対象となる2つのコメントをまずは引用しておく(ブランク行は省略)。
< rosechildさん>
今晩は。また参りました。
うーむ。「全ての議員はバカ」は「議員の半分はバカ」を含意すると思うのですがいかがでしょう。
ここでおっしゃっているのは「議員の半分はバカ、そして条件により残りの半分はバカじゃない」という全体で一つの命題の否定ということですね。これについてならば、全バカもしくは全notバカで否定になるということですね。
しかし『バカさという属性に関して「バカ/バカではない」の二値のいずれか』だとしても、「半分はバカ」から「残り半分はバカじゃない」は導けないのではないでしょうか。
「半分は」の「は」が言語学でいうところの「対照」の「は」であり「主題」の「は」ではないと考えるならば、前提でバカだと言及されていない人についてはバカじゃないと、「バカもしくはバカじゃない」という議員さんの属性に基づいて判断できますが、通常論理を考えるときに「○○は」と言及したならば、それは対照ではなくて主題の「は」である、つまり○○についてのみ言っているのであって○○以外については言及しないというのがお約束ではないでしょうか。ということで、どうもこの例はもひとつしっくりこないように思われるのですが。
集合については論理よりも一層冷や汗ものです。ご紹介の本を読んで勉強したいと思います。
< ublftboさん>
で、今書ける所で言えば。
「全ての議員はバカ」も意味する言明は、「ある議員はバカだ」的な特称判断ですよね。ベン図で言うと、二つの集合(議員集合とバカ集合)が重なっていればよいので、議員集合がバカ集合の部分集合であってもいいと。
つまり、
1)議員集合⊂バカ集合
2)議員集合∩バカ集合≠φ
この両方を意味する。
そして、「議員の半分はバカ」という言明は、量的な判断であるので、多分別の話なのだと思います。で、そこの所をちゃんと説明出来ないのですorz大村さんの説明では、その言明は、上で示した2)を意味するので、否定は、ベン図で言うと、二つの集合が重ならない、もしくは片方が部分集合、のどちらかになると
【指摘】
さて、こっからがspiklenci-slastiさんの指摘。
その、問題のコメントを、rosechildさんのコメントとの対応関係が明瞭となるように暗黙の前提を明示し、『別の話』ということばにフォーカスしたかたちで換言すると、以下のようになるでしょう(なお、ublftboさんご自身による解説がhttp://d.hatena.ne.jp/ublftbo/20100731/1280506795#c1280790981にあります)。
▼以下パラフレーズ▼
かりに、rosechildさんのおっしゃるとおり、『「全ての議員はバカ」は「議員の半分はバカ」を含意する』としよう。すると、『議員の半分はバカ』は、『全ての議員はバカ』である可能性を排除しない。つまり、後者は前者の否定とはならない。したがって、たしかにこのエントリ『バカじゃない、薔薇だ』は間違っているということになる。←ここまで文脈上の前提。ここからコメント本文の要旨→しかし、『全ての議員はバカ』である可能性を排除しない(『「全ての議員はバカ」も意味する』)のは、『「ある議員はバカだ」的な特殊判断』であろう。『議員の半分はバカ』は『量的な判断』であるがゆえに、そのような『特殊判断』とは『別の話』であり、『全ての議員はバカ』の可能性を排除するのだと思う。たぶん。とりあえず大村さんの説明では、そういうことになっている。(そしてもしもそれが正しければ、このエントリは間違っていないことになる。)しかしそれをちゃんと説明することはできないorz。
▲以上パラフレーズ▲
だとすれば、「今書ける所」なんて、何も無いんじゃないの、と私だったら考えるけどね(それをspiklenci-slastiさんに言ってもしょーがないんだけど)。
この応答が、rosechildさんが提示なさった反論の主旨をただしくふまえたうえでなされたものであると言えるかどうかはともかくとして(最初のrosechildさんのコメントは、あきらかに、『量的な判断』をもその射程におさめたものとなっています)。
うむ。多分私もrosechildさんの話をそう捉えたからこそ、ublftboさんが『量的な判断』を、rosechildさんの主張の対極にあるものとして持ち出している、という読み方ができなかったんだろう(ublftboさんがrosechildさんの主張を読み違えているコトまで推測しなくてはならんとは...)。
あと、そもそもublftboさんが言う『量的な判断』って、実際のところどういうコトを意味しようとしているんだろう?とも思った。それがおそらく『多分別の話』と述べる根拠なのだろうけど、その肝心な根拠が説明不足だから混乱させられる。
【なるほど!】
これはいちおう、rosechildさんによる反論をご自身のエントリ内容と対応づける、という体裁のものとなっています。『別の話』ということばはその対応づけのためにもちいられているのであり――ublftboさんがおっしゃっていたことは、ちょう乱暴に要約してしまえば、“rosechildさんのコメントの議論が、エントリが扱っている言明とは『別の話』にのみ適用され得るものなのではないか”ということです――コメントの前段あるいは後段においてublftboさんご自身が「記事のublftboさんの説明」と「別の話を投げかけて」いることを示すためにもちいられているのではありません。
ああ、なるほど。これは腑に落ちた。
つまり、「全ての議員はバカ~この両方を意味する。」の部分は、rosechildさんの主張をワザワザ“こめんどくさく言い換えたダケ”っつうコトだ。
まさか、単に言い換えただけとは思わなかったので、盲点だった...
...だけどさぁ、結果として『「全ての議員はバカ」も意味する言明は、「ある議員はバカだ」的な特称判断ですよね。』ってわざわざ言い換えた事で、かえって分からなくなったよね。
多分spiklenci-slastiさんも引っかかってたと思うケド、最初は『「全ての議員はバカ」も特称判断だ』という意味にしか読めなくって、「なんじゃこりゃ」と思った。
ずっと後の方になって『「ある議員はバカだ」的な特称判断は、「全ての議員はバカ」も意味する言明ですよね』という言い直しが入ったけど、それでも意図がよーわからんし。
まぁ、私がいまさら添削してもアレだけど『rosechildさんの言っている事は、「ある議員はバカだ」的な特称判断として捉えるもので、だから「全ての議員はバカ」も意味するんですよね。』と最初から書けよ、って感じ。
まぁこれもあくまでspiklenci-slastiさんの解釈上では、となるんだろうけど、私もそうだったに違いないと思えるようになった。
「今書ける所」と大上段に振りかぶって見せられたり、単なる「言い換え」で水増しされたりしたので、私は惑わされてしまったようです...反省。
でもさぁ、言い換えでわざわざ『特称判断』という専門用語を新たに持ち出す必要はあるの?そういう余計な事が話を分かりにくくしていると思うのだけど(このあたりもABOFANチックだ...)。
言い換えというおよそ主張ともいえぬ行為でここまでややこしくしてしまうなんて、ublftboさんもなんて罪なあんちくしょうなんでしょう。
つうか、だったら次の段落の頭は
そして、「議員の半分はバカ」という言明は、量的な判断であるので、
じゃなくて
ですが、「議員の半分はバカ」という言明は、量的な判断であるので、
と書けよ!って感じ。
【的外れ?】
んで、spiklenci-slastiさんに対し、負けを認めて反省するだけでもつまんないので、不平も言っておく。
したがって、ここにおいて、「別の話を投げかけてどーする」というJudgementさんのつっこみは、まとをはずしたものとなってしまっていると考えます
「まとをはずす」にはまずちゃんと既に「まと」があった事が前提になると思うんだけど、素朴な疑問として、果たしてublftboさんのあの文章は「まと」に成りうるんでしょうかねぇ。
(なお、ublftboさんのこのコメントは、表現が曖昧なこともあり、わたしも当時はすこし誤読しているところがありました。しかし、そんな自分を棚にあげて言ってしまいますが。「別の話」ということばに反応して「ズルッとずっこける」ような読解は、この言及先エントリおよびコメント欄のながれにおいては、さすがに無理があるでしょう。部分に目がいきすぎだと思います)。
おそらく、spiklenci-slastiさんがあの文章の数々の欠陥に目をつぶり、「対応があるはずだ」という信念の末この読解に辿りつけたんじゃない?
一方で、私はその欠陥に目をつぶれなかったので全体を理解しようとすればするほどわけがわからなくなった(だからといって、部分だけに目を落としてはダメだよねとは反省するけどね)。
実状は、ublftboさん自身の文章はちゃんと「まと」になってなくて、仕方なく私は私で、spiklenci-slastiさんはspiklenci-slastiさんで、それぞれ「どんなまとを示したかったのか」を予測しつつ、新たな「まと」を作ったんだよね。
その結果として、spiklenci-slastiさんのまとの方が、私よりも綺麗にできていた、って話じゃないかな?
それを「まとをはずした」と言われるのは、腑に落ちんなぁ。
使い物にならん地図を渡した人がいて、そのせいで別な場所に行っちゃったのに、それでも先に到着できた人に「何やってんだ」と言われてる感じはする。
【【第1章まとめ】】
とグチグチ言ってみたが、実際のところ私も「こりゃ読みきれてなさそうだ」という自覚が少しはあったんだ。だからこそ、ツッコミを『うっかりさん』程度に押さえ、「別の話を投げかけてどーする」と言うおちょくりで、わけのわからんものを軽く流そうとしたんだね(ま、押さえたとか軽いとかはあくまで当社比だけど)。
ところで、spiklenci-slastiさんの解釈の方が、実はublftboさんを『より悪質に』捉える事になるんだよ。
spiklenci-slastiさんはublftboさんのコメントの要約として、
rosechildさんのコメントの議論が、エントリが扱っている言明とは『別の話』にのみ適用され得るものなのではないか
なんて極めてソフトな口調で書いてるけど、それってこう言っているのと同じコト
「あんたの主張は、オレ様のエントリが扱っている話とは関係ねーんじゃね」
しかも、そんな風にrosechildさんの主張を却下する意図だけは示しながら、肝心の理由はといえば「そこの所をちゃんと説明出来ないのです」なんだから、理不尽にもホドがあるよね。
もし、私が最初からspiklenci-slastiさんパターンの読解に辿り付いていたら「こいつは理由もロクに言えないくせに、相手の話を理不尽に却下しようとする奴だ」と、もっと強く批判していたでしょう(残念)。
も、もしかして、実はspiklenci-slastiさんは
「Judgementの解釈は生ぬるい、奴はもっとドス黒いんだぜ」
ってな事をいいたかったのかしらん、なんても思っちゃったりして....
(絶対違うと思うケド)。
■■■■■■■■■■■■■第2章 憶測に関する異論
【序】
また、このコメントが「分からないことを分からないまま憶測でモノを言」っているものであるとも、わたしは考えません。「分からないことを分からないまま憶測でモノを言う」という評価が適切であるのは――すくなくともそれを直截にネガティヴな意味あいでもちいることが正当化されるのは――ほんらい「憶測」にすぎないものを「憶測」以上のものとして提示した場合にかぎられると考えます。そして、ublftboさんは、このコメントにおいて、『多分』や『ちゃんと説明出来ないのですorz』といった表現をもちいることによって、その内容が「憶測」であることを明示しておられます。一般に、やりとりがかみあっていない場面において、自身の認識を、できるだけ正確なかたちで(『今書ける所で』)開陳することは、たとえそれが「憶測」であったとしても、建設的な方向へ作用し得る行為であり、それ自体で非難されるべきではないでしょう。
「できるだけ正確なかたちで(『今書ける所で』)開陳」しているのならそうかもしれませんね。
んでも、正確どころか、いきなり新規な言葉を挿入してみたり、文や“てにをは”をろくに吟味しないでコメントを垂れ流し、不要な混乱を巻き起こすようなものにもそれは当てはまるの?
そんなコトこそ「分からないことを分からないまま憶測でモノを言う」事の弊害だと私は考えています。
ところで、spiklenci-slastiさん自身は、あのublftboさんのコメントを「できるだけ正確なかたちで(『今書ける所で』)開陳」していると思えたのでしょうか?(私にはそうは思えなかったのですが)。
【例え?】
たとえば――以下、言及先と似たような状況をつくろうとしたら、へんな例ができあがってしまいました。でもたぶん雰囲気は感じとってもらえると思います――あるひと(Aさん)が“直観主義論理の体系において(P→¬P)→¬Pは定理である”という主張をしているという場面を考えてみます。ここで、その主張に対して、Bさんから“マジで?” というコメントがとどいたとします。さらに、それを受けて、Aさんは“マジで”と答えたうえで、直観主義論理に対する自然演繹の体系におけるその定理の証明をしてみせたが、全然理解してもらえなかった、とします。このとき、Bさんが、たとえば、“よくわからないけど、直観主義論理の体系では背理法が成立しないと聞いた。この定理はまさに背理法を表わしているから、間違いじゃないのか”などと言ってくれれば、“一般に背理法と呼ばれる推論規則には複数の種類が存在する。直観主義論理の体系において認められないのは、ある論理式の一重否定を仮定して矛盾が導かれることをもってその論理式の肯定を演繹するという、狭義の背理法である。ある論理式の肯定を仮定して矛盾が導かれることをもってその論理式の一重否定を演繹することは、直観主義論理の体系においても認められる。意味論てきに説明すると……”とかいうふうに、認識の齟齬の原因を明確にふまえた建設的なかたちで議論をすすめることができて、みんなハッピーです。
ゴメン、よーわからん(じっくり読む気もナシ)。
「たとえ」るのは、できれば“分かりやすくする”ためにやってくれ。
というわけで、本人が明瞭に理解できておらず、それゆえに「正しいか間違っているか」もわからないような事柄についての憶測的な情報であっても、それがやりとりといくらかでも関連し得るものであれば、それを即座に「余計な事」と断ずることはできないと考えます(むしろ、それは、基本的には歓迎されるべきものである、とも考えます)。
問い返しばかりになってスマヌが、そもそもspiklenci-slastiさん自身は、あのublftboさんのコメントを「やりとりといくらかでも関連し得るもの」と素直に分かったでしょうか?
多分違いますよね。
おそらくは、「いくらかでも関連し得るもの」ではないかという前提を設けた上で、あれこれ試行錯誤し、ようやくうっすらと結びつきが読み取れた、というのが実状でないかしら。
だとすれば、そんな程度の代物を「やりとりといくらかでも関連し得るもの」と評するのは本末転倒だと思うのだけど。
そこまでしないと読み取れないもの、それをspiklenci-slastiさんは「歓迎」できるのカナ?
【切り分け?】
このublftboさんのコメントについて言えば、そこにふくまれる「憶測」は、『量的な判断』と『特殊判断』の切り分けという論点をあらたに提示するものとなっています(さらに、その切り分けの適切性を正当化する理路をublftboさんご自身が有しておられないことや、大村さんの本を読むことでublftboさんがそのような示唆を受けとられたことなどが、情報として提供されています)。
(※私注 『特殊判断』ではなくて『特称判断』だと思うので、そう捉えることにする)
あ...あれを「あらたに提示するもの」と言うのもあまりにも良く言い過ぎじゃない?
くどいようだけど、そもそも、あの文章が「何かしらを切り分けて」いる事を提示したものであるかといえば非常に疑問。
そもそもspiklenci-slastiさんの解釈が無ければ何かを切り分けているようにすら読めないし、切り分けているコトにしたとしても、具体的に何をどう切り分けているかは分からない。
単に、あれは『特称判断』と『量的な判断』という2つの単語を文中に挿入してあっただけよね。
spiklenci-slastiさんは、そんな代物を『切り分けという論点をあらたに提示するもの』なんて言い切れるのかしら?
この論点提示は、残念ながら、みのりのある議論へと通じるものではありませんでした。しかし、それは、このコメントの内容が「憶測」であったからでは――すくなくとも直截的な意味においては――ありません。
そう思うspiklenci-slastiさんの優しい思いに踏み込んでアレコレ言うつもりはないけれど...
私が見ている分には、「分からないことをよく分からない」のに、憶測でモノを言ってしまうぐらい、その「憶測」が「正しい結論」であるとublftboさんが信じ切ってしまっていたのが「原因」と考えるよ。
そのせいで、その「憶測(正しい結論)」を正当化させるハナシしかできず、支持しないハナシは理解しようともしなかったから、おのずと“みのりのある議論”にならなかったのだと捉えています(多分それらしい話は記事に書いていたと思うケド)。
【非難されるべきものではないはず?】
なお、わたしは、ublftboさんがもしもこのコメントに書いてあると同様の認識のもとでエントリ本文も書かれたのだとすれば、それは、「分からないことを分からないまま憶測でモノを言」ってしまっているという点において非難されても仕方のない行為であると考えます。
まぁ、そりゃそうだ。
(そして、ublftboさんはご自分でそのことに気づかれたがゆえに、Judgementさんも引用していらっしゃる『知識が足りていないと痛感した次第。ちょっとこれは宿題にしなくてはなりません』というコメントをなさったのでしょう)
「今書けるところ」なんて代物を、上手く説明できないほど問題を理解していない段階で書いてしまうのを見ると、『知識が足りていないと痛感した次第。』の痛感のほどが分かる、って私は思うなぁ。
しかし、上述したように、わたしは、ublftboさんのこのコメントについては、「分からないことを分からないまま憶測でモノを言」っているものであるとは考えません。そのため、わたしは、ublftboさんがここで「結局同じ事の繰り返し」におちいっているとも言えない、と考えます。
ublftboさんの該当するコメントが自身の認識について「できるだけ正確なかたちで」かつ「やりとりといくらかでも関連し得るものと分かるかたちで」示されていた、というのであれば、spiklenci-slastiさんのこの主張もいくらか説得力はあると思うのですが...。
(もしそうならば、私も「分からないことを分からないまま」とは言ってないだろう)。
すくなくとも、このコメントは、そこに書かれていることが「憶測」であるという点において非難されるべきものではないはずです(「内容の詳細」にまでふみこめば、いろいろとつっこみどころもあるかとは思いますが)。
spiklenci-slastiさんが広い心でublftboさんのコメントを許容しようとする心意気は十分分かった。
でも「非難されるべきものではないはず」と、それが自分以外の人もそう捉えるのが正しいかのような主張として成立する根拠はどこにあったのだろう。
spiklenci-slastiさんの「憶測でもこれこれこういう利点があるからいいんだ」という観点については「そうだよね」と同意できるところもある。
だけど、それでは実際のublftboさんのコメントが、そういう利点を期待できるものだったのか、という考証がぜんぜんなされていない。
spiklenci-slastiさん基準はおかしくないと思うけど、それにublftboさんのコメントが該当すると判断するのはおかしい、というのが私の正直な感想。
【【第2章まとめ】】
ドアを開たら、部屋全体がゴチャゴチャでわけわからん状況であった場合、「なんじゃこりゃ!」と非難するのが必要かつ十分なつっこみなんだと思うのね(そこで、あえて部屋に踏み込んでそのゴチャゴチャなものを1つ1つ検討してつっこむ必要も感じない)。
でもspiklenci-slastiさんはやさしいから、そのわけの分からん部屋を整頓し、不要なものは捨て、必要なものは外から持ち込んで、何とか体裁は整えてあげた、そんな状態だと思うんだよ。
だけど、spiklenci-slastiさんが勝手に整頓した部屋に私を再び招き入れて、「ね、あなたの非難にはあたらないでしょ」と言われても、困る。
途中途中挟んだ私のspiklenci-slastiさんへの問いの答えを正直に考えた上で、ご自分の観点の説得力がどの程度ありそうなのか、という事についてご再考願いたいところである。
なお、私は、「憶測」であることのみを問題として非難しているわけじゃぁないからね。
「論理的に考えよう」と他人には言っているという『状況』のうえで、いざ自分で説明するとなると論理的に考えないで「憶測」を持ち出しちゃうのはおかしいでしょ、というのがひとつ。
もうひとつは、「憶測」そのものよりも、話を理解せぬまま「憶測」を前提に語ろうとするせいで、意味が伝わらないヘンテコな主張(のようなもの)が垂れ流される、という問題。
つうか、「憶測でものを言うな」はublftboさんもおそらくそうであろう「ニセ科学批判者」の大義名分のハズなんだけどね。
■■■■■■■■■■■■■第3章 【答え甲斐が無い】に関する異論
【序】
つづいて、【答え甲斐が無い】における、わたしの「推理」にかんする箇所について。
Judgement さんによる、「てか、「単にA∩B≠φといった場合には、A⊂Bではない」のどこが「A集合とB集合共に要素が一つ以上存在する、という前提」なんだろうか。辻褄を合わせようとする気すら無いようだ」というご指摘は、もしも文章のコピペミスなどでないのならば、不誠実な引用にもとづいた不当な批判であると考えます。ublftboさんのコメントにおける『A集合とB集合共に要素が一つ以上存在する、という前提を書いたもの』という表現は、(上記の引用においては省略されている)文末の『(A≠φかつB≠φ)』にかかっていると読むべきでしょう。さすがに、『単にA∩B≠φといった場合には、A⊂Bではないという説明』を『A集合とB集合共に要素が一つ以上存在する、という前提』と対応づけるようなかたではないと思います。ぶっとびすぎています。
そう言われるとそうかもしれないねとちらっと思ってしまった私だけど、よく考えると「本文の問いに答えず、文末のしかもカッコ書きされた部分のみに反応する」という対応の方が「ぶっとびすぎ」じゃない?
もし、spiklenci-slastiさんの解釈の通りだとしても、やりとり自体は結局問いと答えが整合しないわけだから、「辻褄が合わない」と判断してもかまわないと思うんだケド、なんで私の方が「ぶっとびすぎ」と言われなければならんのだ。
【引用】
とりあえず、「コピペミス」とか「不誠実な引用」とかケチ付けられないよう、言及の対象箇所の実際のやりとりを引用しておく。
spiklenci-slasti 2010/08/05 07:20
『SとPの共通部分が空集合でない』という命題ではなく、『SのうちにPと非Pが混在している状態』を表現するために『S∩P≠φ』が用いられていた、ということがわかって以来、いろいろとほぐれてきたように感じています。
ところで、ひとつだけ質問させてください。
http://d.hatena.ne.jp/ublftbo/20100731/1280506795#c1280632590 より
▼以下引用▼
ちなみに、上の1)と2)などは、大村さんの説明をそのまま書いてあります。つまり、単にA∩B≠φといった場合には、A⊂Bではないという説明(A≠φかつB≠φ)。つまり、ベン図で言うと、ダルマ型の状態のみを指すと。
▲以上引用▲
ここで、『単にA∩B≠φといった場合には、A⊂Bではないという説明(A≠φかつB≠φ)。』というのは、YJSZKさんによる
『A≠φかつB≠φかつA∩B=φだとA⊄Bです。』というリプライを、
『A≠φかつB≠φかつA∩B≠φだとA⊄Bです。』と読み違えたことにより生じた記述でしょうか?
(なお、ここでYJSZKさんが提示されている条件『B≠φ』は不要です。実際は『B=φ』であっても『A≠φかつA∩B=φ』ならば『A⊄B』は常に成立します。)
それに対してublftboさんの答え
>(spiklenci-slasti 2010/08/05 07:20)
A集合とB集合共に要素が一つ以上存在する、という前提を書いたものだったと思います。つまり、議員集合とバカ集合はともに一人以上いる。
【迷走する言い訳】
なお、あのときわたしがした質問は、『A∩B=φ』を『A∩B≠φ』と読み違えたのか?というものでしたが、そもそも、なぜそのような発想にいたったかといえば。それは、『(A≠φかつB≠φ)』という、あまりにも自明なセンテンスの、あの文脈における存在意義を疑問に思ったからです。ですから、とうぜん、質問自体も『(A≠φかつB≠φ)』というセンテンスの存在を前提としたものとなっています。そのため、ublftboさんによる『A集合とB集合共に要素が一つ以上存在する、という前提を書いたものだったと思います』という回答も、納得がいくかどうかはともかくとして、とくにズレたものであるとは感じませんでした。
え~
ご自分で書かれたように、spiklenci-slastiさんは「A∩B=φ」と「A∩B≠φ」の違いを問題にしているわけですよね。なのに、spiklenci-slastiさんの問いに該当する部分ではなく、しかも自分の主張の「前提」の事だけを述べたわけだ。
これを「とくにズレたものであるとは感じませんでした。」と言い切るspiklenci-slastiさんに不信感を抱きます。ハッキリ言えば、ublftboさんを擁護(Judgementを批判)するために、“自ら発した問いの意味”すら歪めてしまっているんじゃないの?
『(A≠φかつB≠φ)』という、あまりにも自明なセンテンスの、あの文脈における存在意義を疑問に思ったのなら、なんでそれを先に聞かなかったの?
ホントは当時はそうは思っていなかったのに、今になってublftboさんの回答を「ズレたもの」ではないと言いたいがために、記憶の方を歪めているんじゃないの?
まぁ、本当のトコロはspiklenci-slastiさんしか知らないだろうけど、私にはそうにしか見えない。このspiklenci-slastiさんの文章からは、「そのような意図」は見えても「筋」が読み取れないんだもの。
再度引用しておきましょう。ublftboさんへの慕情やら、Judgementへの嫌悪やらを脇に置いて、他人が書いたものと思ってもう一度客観的に読んでみてよ。
あのときわたしがした質問は、『A∩B=φ』を『A∩B≠φ』と読み違えたのか?というものでしたが、そもそも、なぜそのような発想にいたったかといえば。それは、『(A≠φかつB≠φ)』という、あまりにも自明なセンテンスの、あの文脈における存在意義を疑問に思ったからです。ですから、とうぜん、質問自体も『(A≠φかつB≠φ)』というセンテンスの存在を前提としたものとなっています。
「『(A≠φかつB≠φ)』の存在意義を疑問に思ったから、『A∩B=φ』を『A∩B≠φ』と読み違えたのか聞いた。」という、まるで筋の通らない話が、本当にあなたが質問する時に考えた事なの?
だとすれば、ぶっとんでいるのはあなたの方だ。
私には、この文章は「A≠φかつB≠φ」というセンテンスを印象づけるためだけに作ったものに見える。「それは」とか、「ですから」で、“それらしく”繋げてあるけど、全体として意味が通らないし、補完する情報もない。
「とうぜん」なんて言い回しは十分筋を通した説明をした上で使うべきもの。
だけど、ここでのそれは「十分筋を通した説明をしたかのように“錯覚”させるため」に脈絡無く置かれたコトバにすぎない。
筋が通らないのが、単なるあなたの説明不足によるものなのか、それとも元々筋が通らないコトを無理矢理述べようとしているのか、それはあなたしか知らないコトなので自分で検討し直してクレ。
【ズレてない!?】
だいたい、「『(A≠φかつB≠φ)』というセンテンスの存在を前提とした質問」だったとして、それに対して「それを前提にした質問への答え」ではなく、「質問の前提を再認しただけのもの」が返ってきているのに「ズレたものであるとは感じない」とは、本気で言っているのだろうか?
「これはあんこが入っているパンですか」に対し「パンは小麦粉でつくったはずです」という返答が返ってくるようなやりとりが「ズレたものであるとは感じない」!?
spiklenci-slastiさんのublftboさんの返答に対する度量は極めてでかいようだ。
両者のやり取りの歪みを解消するために、自分の問いの構造すら犠牲にし、筋の通らない理屈をこねるという危険を冒す。
まぁ、それでspiklenci-slastiさんの気が済むならそれはそれでいい。
だけど、それを私にも飲むコトを強要しないでくれ。
どうしても飲ませたいなら、ウソでもいいからもう少しましな理由付けをしてくれ。
つうか、私に対して「コピペミス」やら「不誠実な引用にもとづいた不当な批判」やら、「ぶっとびすぎています。」やらとつっかかる前に、同じくらいの批判的精神をublftboさんにも向けてはいただけないだろうか。
それと、コメントの最後の方でこうおっしゃっていますが、
当事者であるがゆえに見方の健全性をつよく保証できないという立場においても言及可能であると判断した箇所についてのみ指摘するにとどめましたので。
自分の問いの説明も満足にできない上、その不十分な説明を根拠に正当化し、病的にまでublftboさんの肩を持つような話まで「当事者であるがゆえに見方の健全性をつよく保証できないという立場においても言及可能」と判断されてしまうのでしょうか。
【【第3章まとめ】】
やたらと攻撃的になっていてスマヌが、個人的な心情を述べれば、ホントに残念に思ったんだ。
当時のspiklenci-slastiさんのコメントである
『A≠φかつB≠φかつA∩B=φだとA⊄Bです。』というリプライを、
『A≠φかつB≠φかつA∩B≠φだとA⊄Bです。』と読み違えたことにより生じた記述
を読んだ時、私はまさに「あっ!そうかっ!!」と衝撃を受けた。
ublftboさんはウヤムヤにしたけど、おそらくこの指摘は「図星」だったんだと思うんだよね。さらに色々な発言を検討して、考察したりもしたんだけど、結局それは記事にはしなかった。
何故かというと、それに気付いたspiklenci-slastiさんへ敬意を払う、というのもあったし、spiklenci-slastiさんのスルドイつっこみで十分だろう、と判断したから。
それぐらい感心してた人が、ublftboさんの返答を正当化するためかなんか知らないけど、今になってあのクリティカルな問いの意義を台無しにしてしまうような、「『A≠φかつB≠φ』が実は問題の焦点だった」みたいなコトを言いだしたから非常に幻滅したんだよ。
まぁ、私が幻滅しようが何しようがspiklenci-slastiさんには毛ほども影響はないんだろうけどサ。
■■■■■■■■■■■■■第4章 【「自分は悪くない」という心の闇】に関する異論
【序】
さいごに、『読んでること前提なんて言っておりません。そう思っていたら引用などしないので。』というublftboさんのコメントに対する、【「自分は悪くない」という心の闇】におけるつっこみについて。
ublftboさんのこのコメントに対して、Judgementさんは、「てか、“そう思っていないのなら”、「あれほど言ったのに」とか「ここ最近のやり取りの中では一番疲れました」とかワザワザ言わないんじゃない?」とつっこんでいらっしゃいます。しかし、このつっこみがクリティカルなものとなるのは、直前のrosechildさんのコメントに“わたしたちが参考文献を読むことがそこまでつよく要請されているとは思っていなかった”とかいうような意味の記述がふくまれており、かつ、ublftboさんが、その部分に対して“そんなこと言っていないし思ってもいない”と応答なさった場合でしょう。
まぁ簡潔に言えば、『読んでること前提』ではなく『読むことを要請』ならばOKってコトね。
【言っていないからセーフ?】
『あれほど言ったのに』などのコメントからは、そのような要請がある程度以上の強度で存在していたことが示唆されますし、その点についてはわたしも当時すこしおどろきました(rosechildさんのコメントも、全体としては、そのようなおどろきを表現したものとなっていると思います)。しかし、『読んでること前提なんて言っておりません。そう思っていたら引用などしないので。』という、この突き放すような短文コメントそれ自体は、あの文脈においてもとくに矛盾をはらんだものではなく、したがって、セーフと言わざるを得ないと考えます。
spiklenci-slastiさんが「セーフ」という事にしたくなっている気持ちは分かった。
しかし、当時衝撃を受けた自分にウソをついていませんか。
そりゃおっしゃるように「言ってはいない」。でも「じゃぁ引用後に何であんな事を言ったのか」という疑問はそれで晴れたの?
『読んでること前提なんて言っておりません。そう思っていたら引用などしないので。』だったら、『読んでること前提なんて思っていないなら、「疲れました」なんてグチ言いません。』じゃないの?
【まったくの別物?】
“読むべきであること”や“読まねばならないということ”と、『読んでること』とは、まったくの別物です。わたしやrosechildさんが大村さんの本を“すでに”『読んでること前提』であるとは、ublftboさんはたしかに『言って』おられないし、また、そのような前提がなければでてこないような表現も、あのエントリおよびコメント欄のなかには、見あたりません。『私があれほど言ったのに、参考文献を読まれていなかったのですね[中略](愚痴です)。』という表現が示唆するのは、“あれだけ言ったのだから『参考文献』を読んでいてほしい”という希望や“あれだけ言ったのだから『参考文献』を読んでいるのでは”という期待がそれまでのublftboさんのなかに存在した、という程度のことであり、“読んでいるはずだ”という思い込み(『読んでること前提』)まではいきません。ということで、セーフです。
spiklenci-slastiさんが何をして“まったくの別物”と言い切ってしまうのか、その根拠は私には分かりませんが、要求している事は同じじゃないかな。
「読むべきである」→「読まねばならない」→「読んでいなくてはならない」で、要求の度合いは違うかな、とは思うけど。
また、以前から“読むべきであること”や“読まねばならないということ”を要請していたという状況の上での(例えば、該当する発言よりずっと前に『参考文献を読んで頂かないと埒が明かない』という発言をなさっています)『私があれほど言ったのに、参考文献を読まれていなかったのですね』という発言は、「当然読んでいると思っていたのに、読んでいなかったとは何事だ」という非難として捉えられるものではないのかな。
むしろ、「読んでいてほしい」という希望や、「読んでいるのでは」という期待程度のものであったのなら、わざわざ「読まれていなかったのですね」との確認するコトはないだろうし、ましてや「あれほど言ったのに」という表現はくっつけないんじゃない?
まあ、こまかいことを言えば、『そう思っていたら引用などしない』という文が、rosechildさんのコメントにおける『進んでいるとは全然思っておりませんでした』という表現の時間的含意を無視したものとなっている点は若干気になりますが(かつて『読んでること前提』で議論が進んでいたが、その前提に決定的な疑念が生じたため引用を決行した、という状況を想定することがじゅうぶん可能です)。
いやさ、「若干気になる」なら、そこを掘り下げてもっと疑おうよ。
素質は多分あるんだからさ。
あからさまなもの以外は全て「疑わしきは罰せず」ならば、「疑う」意味なんてどこにも無くなってしまうと私は思うケドなぁ。
【【第4章まとめ】】
感想を言えば「セーフ」という結論が先走って、説明が追いつかず、そのせいで安易なところに落ち着いてしまっている、という感じ。
まぁ、私のつっこみは「推測じゃないか」と言われれば、「そうですよ」と答えるよ。
でも「極めて可能性が高そうでしょ」と付け加えるでしょう。そのために見ているのが「言うべきところが欠けている」、「言わんでいい事をあえて言う」ところ。
それが私の芸風(?)。
それが気に食わん、と言われたら仕方がないけれど、spiklenci-slastiさんの「アウト」でないから「セーフ」、なんて安易な判断よりかは頭をつかっているつもりだ。
というか、spiklenci-slastiさんの判断基準もどうかな、と思うのは、上の【今書ける所?】とか【答え甲斐が無い】については、さんざん「言ってはいない」コトを推測で補完するコトで評価する一方で、こちらではうってかわって「言ってはいない」コトをだけを評価する。
それは、あまりにもなダブルスタンダードじゃないかしら?
■■■■■■■■■■■■■ 総評
spiklenci-slastiさんはコメントの冒頭の方でこうおっしゃいました。
そこで、僭越ながら、以下に、それらについての指摘をします。なお、わたしは言及先のやりとりの当事者のひとりです。したがって、そのやりとりを、完全に俯瞰的に、第三者視点で見ることは不可能です。そのへんの事情がわたしの読解の健全性を毀損していないとよいな、と思うのですが、しかし実際のところどうなっているかはわかりません。
私なりの答えを述べれば、一部を除き「読解の健全性を毀損している」と私は判断しました。
その最も大きな原因は、spiklenci-slastiさんの思考スキルとか当時者性とかの問題ではなく、「ublftboさんに対する病的とも言える気遣い」。それが、論調のほとんどを崩壊させてしまっていると私は捉えています。
別に私がublftboさんを嫌いだから、その人の肩を持つことを批判してる、ってわけじゃないからね。
spiklenci-slastiさんが客観的な判断の末に「ublftboさんの肩を持つ」のであれば私は納得するんだけど、spiklenci-slastiさんは「ublftboさんの肩を持ちながら」判断をくだそうとしているので、同じ立ち位置に無い私にとって説得力に欠けるものになってしまっているんだね。
spiklenci-slastiさんの文章にはところどころに「ublftboさん批判」的なものをちりばめておりますね。
それが「私はublftboさんの肩を持つつもりはないよ」という客観性を装うためのものであれば、そんな装いは「実質的な論調の歪み」によって吹っ飛ばされています。
そこまで悪意的でなく、本音は違うのに何らかの事情で「ublftboさんの肩を持たざるをえない」ための葛藤の現れだとすれば、もっと自分を信じ、もっと自分で考えましょう、と言いたい。
上の方でも触れておりますが、コメントの最後の方で
当事者であるがゆえに見方の健全性をつよく保証できないという立場においても言及可能であると判断した箇所についてのみ指摘するにとどめましたので。
とあるんですが、何をして、『健全性をつよく保証できないという立場においても言及可能であると判断した』のかすら疑問。
十分な説明できないような前提をどんどん持ち込んでみたり、かと思えばublftboさんに不利な解釈が十分成り立つ状況であってもそれを全て「セーフ」に入れてしまったり...そういうコトをしないと話が勧められない、といった箇所を、『当事者であるがゆえに』かどうかは知りませんが、『見方の健全性をつよく保証できないという立場においても言及可能である』と判断する、というのはどうなんでしょうね。
こういう判断すらも健全性が保てていなかったのではないでしょうか。
なお、「そんなコトはないと思うけど...」と期待しつつ、念のため書くけど
spiklenci-slastiさんに対する辛口の評価について、「自分が批判されたから、わざと否定的な評価を下しやがった」なんて邪推する気ならやめてよね。
時間と手間かけていちいち検討し、評価を下すのに頭をまわす、なんてめんどくさいコトを、見ず知らずの人間相手に報復する目的のためにやる程私は暇じゃない。
つうか、自分が批判した相手に「指摘の健全性について検討しろ」とお願いしたのはそっちなんだから、ここにきて“評価した人間の立場”を根拠に否定的に捉えようとするのは道理に合わないからね。
]]>
-
論理的に考えるコト・番外編~はじめに~
https://naked-kings.blog.ss-blog.jp/2011-02-05
えっと、「論理的に考えるコト~「心の闇」編~」の内容について、あちらのやりとりの当事者であるspiklenci-slastiさんから異議申し立てがあった。 その返事を書いたけど、非常に長くなったので、コメント欄ではなく、記事として返信する。
他ブログいっちょかみ
Judgement
2011-02-05T00:30:28+09:00
その返事を書いたけど、非常に長くなったので、コメント欄ではなく、記事として返信する。
【私のspiklenci-slastiさん評(過去)】
まずは、この私信的なものに答えておく。
いったいなにが言いたいのかといいますと。 Judgementさんがお蔵入りになさったこのエントリの残り3/4が、かりに、すでに書きあがっていたのだとして。そこに、わたしに対する批判的言及はふくまれていたのかな、と。
今更下書きを読み返す気はないけど、spiklenci-slastiさんに対する批判的言及はしてなかったハズ。
強いて言えば、「ublftboさんのこの話題に対する能力不足がアリアリと分かるのに、それでもなおネチネチと話に付き合わせようとするのが意地悪だなぁ」、なんて事は書いていたけど、それは私にとってはどちらかといえば好意的な評価。
spiklenci-slastiさんについては、あんなublftboさんの難解な発言をどうにか理解しようと根気強くインタビューを繰り返す態度、そして所々で明らかにする名推理から、高い対人能力と分析能力を感じてまして、お蔵入りにした部分の多分1/2ぐらいは「でもまぁ、この話はすでにspiklenci-slastiさんがつっこんでいるから、私が重ねて言うことも無いだろ」という理由で削ったものだった。
【私のspiklenci-slastiさん評(現在)】
だけど...こちらに投稿されたコメントを読んで正直幻滅した。
「貴重なご意見ありがとうございました、今後の参考にさせていただきます」的な対応で捨て置いてやろうかとも考えたほどね。
でも、その中の一部だけは、かのやり取りの中で見せた能力の片鱗が伺えた。
良いものは良いと言いたいし、そのおかげで自分の考えが変わったのなら、それは言っておきたい。
とはいえ、一部についてのみ言及し、残りについては『なお、言及しなかった部分の正当性についてわたしがなんらかの意思表示をおこなったとは考えないでください。』な~んてセリフは私は言いたくないので、他の部分にも言及するコトにした。
まぁ、ublftboさんのとこではすばらしい船頭ぶりを発揮し、興味深いやりとりをみせてくれてネタを提供してくれたコトに対するサービス、とでも思って欲しい。
【とばっちり?】
なお、コメントではこんなコトもおっしゃっていますが...
また、この「依存」の埋め合わせとなるかはわかりませんが(というか、ならないと思いますが)、わたしのこのコメントをあんまりなものと思われた場合に、Judgementさんがそれをさらなる「心の闇」解説エントリの土台となさることについて、「どんどん書いちゃってくださいな」というコメントを、先手を打ってここに書いておくことにします。こちらもどうぞご検討ください。
ああ、まったく埋め合わせにはなりませんが(きっぱり)、そこまで言うならそれなりに対応して差し上げます。
だけど、この「どんどん書いちゃってくださいな」という宣言が本音ではなくて、実際には色々文句言われるのは「疲れるし、気持ち良くないからイヤだ」と思っているなら、悪いことは言わないから読まないことをお勧めする。
いや、それはspiklenci-slastiさんのため、というか私のため。
どうもその手の人の中には、「気分が悪くなると」それを解消するためだけに、言いたいことを言い散らかしたあげく、「もーこねーよ」と後ろ足で砂をかける輩がいるようだからね。
一生懸命書いた上にさらに迷惑までかけられるぐらいなら、最初から読まないでくれた方がありがたい。
ただ、spiklenci-slastiさんのコメントからこの記事をアップするまでの間に、PseuDoctorとかいう人にかなりイラつかせられたから、その分私の中でのspiklenci-slastiさんへの風当たりは弱くなったから、批判も当社比60%ぐらいに押さえられている気がする(たぶん)。
その代わり、と言ってはなんだけど次から述べる注意事項を守って欲しい。
守れないと思うなら、さっき言ったように「読むな」。
これは、お願いではなく要求。
いや、spiklenci-slastiさんが信用できないわけではないけれど(だけど、信用するほど親しくないけど)、そんな人とは思っていなかった人に非常に幻滅するような事をされたからちょいナーバスになっているのだ。「万が一の保険」とでも思って欲しい。
文句があるなら、PseuDoctorとかいう人に言ってくれ。
【注意事項】
まず言っておきますが、spiklenci-slastiさんには特に返事は強要しません。
モチロン、返事してもかまわないけど、その際は下記のような事にご注意を。
「返事はしません」とかいう“返事”をワザワザ残すな。
無意味の極致です。絶対やめてください、勝手に黙って消えてください。
「まずはありがとうございます、詳しい返事は後日します」とかいう、守れるかどうかもわからん予告をするな。
色々書かれたら、何か言いたくてウズウズするのは分かるけど、「自分の体面を保つため」だけのためのコメントは私にとって正直どうでもいい、というか非常にイラつくので絶対書き込まないでください。
「とりあえず」と銘打った中途半端な内容の返事はするな。
「とりあえずはお返事するのが礼儀じゃないのか」なんて思わなくて結構。
それなりに頑張って書いたものに対し「とりあえず」で返事をするのは非常に無礼だと考えてクレ。
とはいえ、「返事するなら書いたこと全てにコメントしなければならない」なんて無茶は言いませんよ(そんな事されたら、コメント欄が無茶苦茶になる)。
どうしても返事を書きたいと言うならなら、
全部読んでから、しっかり考えて、その上で「どうしても伝えたいこと」、「どうしても指摘したいこと」だけを書いてくれればそれで十分。
なお、「とどめておきます」なんて含みを持たせる書き方をしたらアウトだからね。
言うべきコトなら全部言え。
ただし、言う事の意味が自分にしかない事は言うべきコトではない。
言うべきではないコトとは...
後から「期待していた事と違う」とか「言って欲しかったのはそうじゃなくて...」なんてたわけた事を言うな。
私は、私の視点・私の論点・私のスタイルでしか評価できませぬ
それを分かってお願いしているという前提で書くから、spiklenci-slastiさんが何をどう批評して欲しいのかなんて一切気に掛けないよ。
反論は大歓迎だけど、言い訳はするな。
「こういうつもりだった」「こういうことがわかって欲しかった」などと後からグチグチいう輩がやけにいるけど、そういう言い訳をする暇があったら次から「もっとわかるような書き方」ができるよう文章を磨け。
「説明不足」があれば、ただ粛々とそれを補足せよ。
...と言っても、人間どうしても言い訳はしたいものだろうからちょっとは許す。
でもその時に「自分の思いをただ垂れ流す」のはやめてね、気持ち悪いから。
私が「なるほど!確かにそうだ」と素直に思い直せるような筋の通った言い訳をしてくれ。
「自分を分かって欲しい」的な反応はやめて。
念のため言っておくけど、私はカウンセラーではない。あなたのお母さんでもない。
見当違いの人間にすがるのはやめましょう。
あとは
安易に「批判のためにこじつけてるんだぁ」なんて思う事で溜飲を下げるな。
私は「批判のための批判」をする気はないし、そんなくだらん事のためにわざわざ時間を割く気もない。
間違い、思い違い、カン違いは当然あると思うけど
少なくとも本気で思ったこと、考えたことを書くようにしている。
なのに、このような安易な結論に飛びつかれるなら、私に書くメリットは無いし、あなたもわざわざ読むメリットはどこにも無いだろう。
まぁ、具体的に明記する注意事項はこのぐらいにしておく。
あとは、あなたの人間性で判断してくれ。
人の文章を読んで、それについて書くのは非常に大変なんですよ。
(これも何日も時間を割いて書き上げました)
だけどそれも一応サービスとしてやっていますので、見返りは求めません。
安易な賛同や、上っ面の感謝を形式的にして見せる必要は全くありません。
つうか、するな。
その代わり、「書いた労力」を無にするどころか、それ以上の徒労感を与えるマネはしないでね。
【最後に】
まぁ、この注意事項はとりあえずspiklenci-slastiさんだけに適用って事で。
(一応はspiklenci-slastiさんのために書いた記事ですから、特別扱いです)
以上、納得したら本編にお進みください。
注意事項の意味が分からないのなら、分かるまで先に進まないでください。
なお、その他の方で、「そりゃおかしい」とか「spiklenci-slastiさんがかわいそう」などなどご意見がありましたら、お気軽にお書き込みくだされ。
]]>
-
ハブハンさんの「科学的に正しい」から、色々考えてみた
https://naked-kings.blog.ss-blog.jp/2011-01-15
前の記事について、ハブハンさんの応答がありました。 それについて書きたい事は色々あるのですが(文句じゃないよ)、少しずつやっていきます。 まずは、せっかく説明していただいたハブハンさんの区分について私なりに理解してみたい。
他ブログいっちょかみ
Judgement
2011-01-15T02:02:03+09:00
それについて書きたい事は色々あるのですが(文句じゃないよ)、少しずつやっていきます。
まずは、せっかく説明していただいたハブハンさんの区分について私なりに理解してみたい。
【ハブハンさんの分け方】
さて、「科学的に正しい」について、なんども考えてみたで、ハブハンさんはご自分の使う「科学的である」と「科学的に正しい」の指すものの違いを述べていただいた。
科学的である/ない:
ある主張(仮説)を検証し評価する手続きや方法が科学のお作法(Judgementさん言うところの「科学の枠組み」?)に則っている/いないこと。
科学的に正しい/正しくない:
科学のお作法に則って判断した場合、ある主張(仮説)が事実に合致している/合致していないと判断されること。
ハブハンさんが言う「科学のお作法」とは、「検証方法が科学的である」、つまり“再現性と客観性”を判断するのに適した手続きである(これに該当するものを「科学的な方法」と呼ぶ)、という意味なのかな、というのがこの時点での印象。
だから、ハブハンさんの使い分けはこの段階ではこんな風に理解した。
『科学的である』=「科学的な方法」で検証した(“行為”に対する評価)
『科学的に正しい』=「科学的な方法」による検証をクリアした(“結果”に対する評価)
この解釈の妥当性は、次のパラフレーズでも3分の2は裏付けられるでしょう。
「科学的である」:
「この主張、科学のお作法で検証して評価できそうですね」
「この主張の検証・評価で採用されている手続きや方法は、科学のお作法に則っていますね」
「科学的に正しい」:
「この主張、科学のお作法に則って判断するなら、正しい、と言えそうですね。ソレ以外の判断基準ではどうか分かりませんけど」
しかし、「この主張、科学のお作法で検証して評価できそうですね」というのは、「科学的な方法」の前段階への評価であるため、どうやら先の解釈では完全ではないようだ。
この部分、おそらく「仮説としての体裁」、つまり「科学的な方法」に耐えうる仮説であるかの話だと思うのだがどうだろう。
つまり、ハブハンさんの「科学的である」は、検証方法という行為に対してのみ使われるのではなく、仮説自体の評価にも使われる、という事だ。
この、仮説に関するアプローチについては、あのホパーを想起した。
【ホパーにおける科学の要件】
科学哲学界では有名人なのでこの業界(どの業界?)の人ならばご存じの方も多いと思うけれど念のため簡単に説明しておく。
ホパーは「科学」について「反証主義」を唱えていて、「科学的であるには反証(間違いである事を示す証拠)できる可能性が無くてはならない(反証可能性)」という考え方を持っていた。
「反証主義」においては、この“反証可能性”を持つ仮説を「科学的な仮説」と呼び、実際に反証が無いかを探すテスト(反証テスト)をクリアしたものを「科学的な知識」と捉える。
(そういえば、例の早川先生も「反証主義」の観点で「科学的であるか否か」を話していた気もする)
ハブハンさんの「この主張、科学のお作法で検証して評価できそうですね」というのは、「仮説が反証可能性を有する事」、つまり「反証主義」における「科学的な仮説」と同じ状況を指しているのだと私は捉えたのですがいかがでしょうか。
【ハブハンさんの分け方まとめ】
ところで、話を整理するために、今まで出てきた「科学的な仮説」と「科学的な方法」、そしてその結果をクリアしたものを「科学的な知識」と呼び、その3つの事象の関連性を考えてみる。
これらは全く独立しているわけではない。「科学的な知識」かどうかは、「科学的な方法」で確かめなくてはならないし、「科学的な方法」で確かめるには、「科学的な仮説」が必要である。
それらを考慮してみると、ある仮説と科学との関連性について以下の5パターンに分類される
A 科学的な仮説でない
B 科学的な仮説で→未検証
C 科学的な仮説で→科学的な方法以外で判断
D 科学的な仮説で→科学的な方法で判断し→科学的な知識と認定されず
E 科学的な仮説で→科学的な方法で判断し→科学的な知識と認定
おそらく、ハブハンさんにとっては「科学的でない」のが“A”で、“B~E”を「科学的である」と評価するのでしょう(Cのあたりは「科学的だけど、科学的でない」とややこしくなってしまうが、その条件までは考慮に入れていなかったのかもしれない)。
その上でD・Eを取り出し、“D”が「科学的に正しくない」、“E”が「科学的に正しい」と評価するわけだ。
【私が想定したモノ】
ちなみに私は前の記事においては、「科学的に正しい」とは、先の分類における“E”のことを指しているんだろうな、という予想の上で話していたつもり。
そういう意味では、まぁそんなにズレてはいなかったな、とは思う。
ただし、Eの部分を『「科学的に正しい」ではなく、「科学的である」と言い換えた方が良い』という私の提案が妥当であったかについてもう一度考え直すと...う~ん、これはどうだったかな、という感じになった。
B~Dもどこかが「科学的である」んだよね。
だから、「科学的である」の捉え方についてはハブハンさんのほうに軍配を上げざるを得ない。
そして、確かにEも「科学的である」んだけど、”Eだけに限定して言及したい時”に「科学的である」という表現を使うのは十分とは言えない。
つまり、ハブハンさんの「科学的に正しい」で示したい意図を考えれば、それを「科学的である」に変換できる、という主張は不適切だった、という事だ。
...と、白旗挙げた上で少し反撃すれば、「科学的である」についてはそういった科学の様々な面に適用されるのに、「科学的に正しい」と言った時だけ科学の特定の面を示す、というルールはちと説明不足な気がする。
というか、自分で使っておいてアレだけど、「科学的である」という表現自体、「何が」が抜けた漠然とした表現で、正確に伝わらない言葉なんでしょうね(「科学的である」とだけ言っても、何について評価しているのか分からない)。
簡略化しすぎずに、「科学的な~である/なし」もしくは「~が科学的である/なし」と言うように、何に対して科学的か否かを評価しているのかを明確にすべきなんだろうな、というのが今の結論。
(EX:科学的な仮説である 方法が科学的でない 科学的な結果である)
その上で言えば、ハブハンさんの「科学的に正しい」は「科学的な知識である」と変換可能であり、オマケに何についての評価をしているのかも分かりやすくなるんじゃないのかな。
何をしつこく変換にこだわっているのかというと、私は『「正しい」を使うべきではない』と考えているんだよね。
まぁ、その辺については後日。
【最後に】
なんというか、ハブハンさんの区別を検証しているうちに、私の指摘のイマイチさが露呈してしまった感ではある。
そんな私が言えたことではないけれど、あえて言えば、『科学』や『科学的』という言葉は、それだけでは“何も示さない”と言っていいほど広大で曖昧な意味を持つもの、なんじゃないかな。
そういえば、物理学者であるR・P・ファインマンは著書『科学は不確かだ!』でこのように述べています(ちなみに、これは「科学の定義」を述べているのではなく、「一般に『科学』という語が何を指すために使われているか」という事を推測しているもの)。
ところでいったいぜんたい科学とは何かということになると、「科学」という言葉は普通、次の三つのことのどれか一つ、あるいはその混ざったものを意味しているようです。ここでは僕らはあまり厳密でなくてもいいでしょう。あんまり厳密すぎるのは、必ずしもいいことではありませんから。
さて科学の意味ですが、ある場合には『ものごとを突き止めるための、特殊な方法』のことを指していることもあります。また『いままで突き止めたことを積み重ねた知識の集成』を意味することもあり、『何かを突き止めた結果できるようになる新しいこと、あるいはその新しいことの実行そのもの』を指していることもあるのです。
おそらく、『科学』というコトバに“共通認識”を求めるのは無茶な話。
今更「誰の認識が正しいか」を決められないぐらい、意味が拡散している。
だからこそ、『科学』というコトバを使って物事を語る際には(特に、一般の人に自分の考えを広くかつ正確に伝えたい場合)、「自分はどういう意味でその言葉を使っているか」を、くどいぐらい説明する必要があるんではないかと思った。
まぁ、それは『科学』というコトバにに限ったことではないんだけどね。
そっからまた色々考える事はあるんだけど、今回はこの辺で。
]]>
-
私も「科学的に正しい」について、もっかい考えてみた
https://naked-kings.blog.ss-blog.jp/2011-01-07
私も「科学的に正しい」について、もっかい考えてみた
他ブログいっちょかみ
Judgement
2011-01-07T01:45:02+09:00
新年一発目の今回に相応しく、ここでは初めて紹介するブログに関連する記事だ(と言ってもそのブログは以前からあるものだし、記事もちょっと前のものだけど)。
それはハブハンさんの「あぶすとらくつ」。その『「科学的に正しい」について、もっかい考えてみた』に触発されて考えたことを書く。
(記事内容に対する直接的な批判ではないので、ハブハンさんもご安心を)
ハブハンさんは「科学的に正しい」という表現が成立している前提の上で考察を述べられているが、私は「科学的に正しい」という表現自体になんか違和感を感じるのだ。
とはいえ、もしかすると過去に自分も「科学的に正しい」といった表現を使っていたかもしれないんだけど、私も“もっかい考えてみた”。
※ 今Googleで「科学的に正しい」を検索してみたら、同じような疑問を発している人がいた
念のため言っておけば、このフレーズが「科学的だから正しい」という意味で使っているわけではない、という事は分かっているからね。
おそらく、この表現を使っている人に説明を求めれば、「ちゃんと科学的に考えた場合そうなる、という意味だ」、という答えが返ってくるのだと思う。
でも、そこで疑問。
それを言うなら単純に「科学的である」でいいんじゃない?
【科学的であるなしと、正しいと間違い】
例えば、『科学vs オカルト』の場においては、「科学的である・ない」という表現が使われてきた(と勝手に予想)。
そこでの「科学的である・ない」という“判断”は、『科学』と『オカルト』を分けるための基準として機能するだけなんだね。
んで、分類した上で比較し、「信頼性」という比較項目における「科学」の優位性を主張しておいて、「まぁ、それを信じるのも夢があっていいかもしれないけどさ」と否定も肯定もしない、というのが“大人の対応”だったと思う。
んで、そういう場で、強いて「科学的に間違っている」とか「科学的に正しい」なんて表現を使う人は、そのコトバに「科学的でないから間違っている・正しい」という意味を含めていただろうし、そう捉えられても仕方ない状況であった。
また、そのような事を言う人は“良識を気取る方々”に『科学絶対主義』のレッテルを貼られ、他の「科学支持者」にまで蔑まれたりしてきたわけだ。
【非『科学絶対主義者』における正しさ】
しかし、今現在「科学的に正しい」を使っている人の多くは、おそらく自分は『科学絶対主義』ではない、と言うだろう(少なくとも表向きは)。
じゃぁ、どういう意味で使っているかというと、例えばハブハンさんや、記事で引用されていたきくち先生とかは、「科学の枠組みに含まれるコト」、あるいは「科学の枠組みに含めていいコト」を「科学的に正しい」と言っているようなのだ(私の読解ではね)。
で、それは再び言うけれど「科学的である」でいいんじゃないの?
「科学的に正しい」という表現に何の疑問も持てない人のために、もう少し補足。
「科学的」とは、それ自体が“科学的かどうか”という“判断”の結果を示している。そこにさらにあえて「正しい・間違い」という“判断”の表現を重ねて組み入れる必要があるのだろうか、という話。
私としては、「科学的に正しい」とは”蛇足“を含んだ変な表現ではないかと考える。
逆に問えば、何故「科学的か否か」の判断の他に「正しいか間違っているか」を付け加えなければいけないのだろうか。
【いくつかの仮説】
なぜそういう表現を使っているかについては、実際の所は当人に聞くしかないわけだけど、私なりにいくつか仮説を立てたので書いておく。
《仮説1 なんとなく》
一番ありがちなのは「なんとなく付けたくなった」とか「なんとなくそういう表現でいいと思った」というものだろう。
であれば、わざわざ『科学絶対主義』と誤解されるリスクがある表現を使うのではなく、シンプルに「科学的である・でない」という表現に改めるようオススメする。
《仮説2 ニセ科学に対する舌足らずな表現とその対句》】
本来であれば、ニセ科学について『(実際は科学的で無いのに)それを「科学的である」と言うのは“間違い”なんですよ』という事を言いたかったんだけど、それを色々省いちゃって「科学的に間違っている」と、ある意味「舌足らず」の表現を使ってしまい、それに対抗して実際の『科学』の説明をする際に、ニセ科学に対する「科学的に間違っている」という表現につられ、「科学的に正しい」を使うようになってしまったのではなかろうか。
《仮説3 建前に染み出す本音》
「ニセ科学」を否定する本音としては、「実は科学的でない」コト以上に「科学に反するものは間違っているに決まっている」と思っている。
しかし、一方で「科学的枠組み」に限界がある事は頭では理解しているし、科学を基準にして正誤を判断して「科学絶対主義」扱いされるのは嫌。
「科学は正しい」という本音と「科学の枠組みに限界がある」という建前の葛藤の末に、科学の枠組みの中の話だよ、と建前を通しつつ、「正しい」という本音を滑り込ませているのではないだろうか。
《仮説4 知識との照合欲求》
「科学は知識の積み重ねだ」という人がいる。
それを全面的に否定はしないが、それを言う人の多くは、科学を方法論的に捉え、科学的か否かを自分で「考える」のを忌避し、他人が考えた「知識」との照合で済ませたい、という欲求が見え隠れするように感じる。
また、そこには、「正解がある」とする事での安心感と、「正解を知っている」とする事による優越感も含まれているように思える(猜疑心の塊の私にはね)。
まぁ、邪推はおいておいて、その手の人にとっての「科学」とは、『「科学」という科目のテストを受ける』ようなもので、出題者(科学)の意図に沿った答えを言い当てるのが「正解(=正しい)」という感覚があるため、思わず「科学的に“正しい”」と口をついてしまうのではないか。
《仮説5 責任転嫁》
発話者がホントに言いたいのは「自分の主張は正しい」なんだけど、自信が無いから「いやね、私が言っているんじゃなくて、科学様がおっしゃっているんでゲスよ」という姑息な責任逃れをしようとする言い回しとしての「科学的に正しい」。
【最後に】
「科学的に正しい」の短いワンフレーズで色々と妄想を膨らませてみたけれど、簡単にまとめておく。
科学の枠組みの中の話をするのならば、シンプルに「科学的である」とか「科学的には」という表現で留めるべきであり、その表現で十分文脈は伝えられるはずだ。
(『科学絶対主義』的な主張を展開させたいなら別だけど)
「科学的に正しい」の「正しい」は蛇足であり、蛇足ゆえに色々な憶測を喚起させる。
だから、「科学的に正しい」という表現は使わない方がいい、と言うより“使うべきではない”。
...というのが、私の結論。
とはいえ、今まで「科学的に正しい」という表現を使ってきた奴は間違ってる、と言うつもりはなくて、仮に私の結論が正しいとしても、それこそ《仮説1 なんとなく》のレベルで使ってきたのであれば、以後改めればいいだけの話だと思う(それ以外の仮説に合致するなら、少々問題アリとは思うケド)。
モチロン、私の結論が正しいとは限らない。
だから、この話を聞いてもあえて「科学的に正しい」という表現を使うべきだ、使うのが適切だ、とお考えの人がいれば、ぜひその理由や動機を聞かせて欲しい。
...ただし、「表現の自由」を持ち出すのはナシの方向で。
]]>