「科学的」を把握した戦略を [疑似科学総論]
さて、前回のおさらいから。
〔(科学的)方法・視点〕→〔(科学的)理論・知見〕→〔(科学的)技術・推測・発想〕
この流れを把握してもらってから、「疑似科学」を効果的に批判する戦略について述べてみたいと思います。
【好ましい戦略】
効果的に批判する戦略は、相手の主張する「科学的」の段階に対し、一つ前の段階のプロセスが充足していない点を指摘する事だと考えています。
例えば「科学的」と示すのが“ある理論”であれば、それを導いた方法が適正でない(使用する方法が科学的ではない)からダメとする。
また、“ある推測”であれば、その推測の元となる理論を正しく理解して使っていないからダメとするのです。
一番大切なのは、相手の「科学的」の段階を明示し、その上で「それが科学的であるための前提条件」といった前の段階を根拠に批判しているといった立場を明らかにする事です。
うまくニュアンスが伝わらないかもしれませんが
相手が科学的だ、と言っているものと同じ段階の科学的なものと”比較”して批判するのではなく
相手の科学的の前段階を否定する事で、科学の俎上に載らない事をアピールするのです。
そういう意味では、批判者こそ注意深く、どんな「科学的」か意識的に明示して使う必要があります。
【好ましく無い戦略】
では、逆に好ましくない戦略とは何でしょう?
それは、相手の主張する「科学的」の段階と同じ段階のものをぶつける事、つまり、“ある理論”に対し、それと反する正統の「科学的理論」を用いたり、“ある推測”に対し、それと反する正統の「科学的推測」を用いて否定する、といったやり方です。
一見常套手段のようですが、それが好ましくないのは何故か?
前の戦略では、「疑似科学」における“科学的”を、その成立の可否という『根源的』な問題として扱っていたのに対し、この戦略では『相対的』な問題として扱わざるを得なくなってしまうのです。
同じ段階で争うと言う事は、相手の「疑似科学」を正統科学と同列の俎上に載せてしまうという事です。
ギャラリーにおいては
「少なくとも相手側の理論は、現行の科学理論と比較できる位置付けにあるんだな」
と誤解し易く、それにより「科学」と「科学以外」の対比ではなく、
「科学」という同じ範疇に含まれる両者が「多数派と少数派」あるいは「正統と異端」で争っているだけ、
と思われる危険が高まります。
また、このような戦略の前提には、暗黙裡に
「現有の科学的理論に反する=科学的理論として間違っている」
「現有の科学的推測に反する=科学的推測として間違っている」
という立場が含まれてしまいます。
このような前提は、おそらく相対主義者の格好の餌食となるでしょうし、何より正統科学を元に批判する立場の物が、正統科学の発展のプロセスを否定するような前提を持ち出してしまっては適切な批判とはなり得ないでしょう。
さらに、相手は『その前段階における科学的の充足』という枷をはめない限り、無節操に「理論」なり「推測」を並べ立てる事ができます。
それに対し、同様に正統の「理論」なり「推測」をぶつけようとすると、絶対に手駒が無くなります。
あるいは、正統科学としては『分からないとすべき』とか『判断すべきでない』というの結論を提示せざるを得なくなるかもしれません。
しかし、誰しも『分かる』と言い張る言い分の方が印象に残ります。となると、非常に妥当な判断を述べているのに「何も知らない奴」と誤解され、かえって不利になります。
この戦略は、泥沼化を狙う相手の思う壺で、ギャラリーにも誤った印象を与えかねないのです。
【結び】
そもそも、「疑似科学」の提唱者に「科学的」を注意して使え、と求める方がどだい無理な話で(注意して整理できるくらいなら、そんなの提唱しない)、むしろ、批判者側こそ、「科学的」を分ける事とそれをアピールする事を意識し、かつそれに沿って有効な戦略を使用する必要がある、というのが今回の結論です。
なお、「理論に理論をぶつける」というのが絶対ダメ、というわけではなく、最初に『根源的』な問題を徹底的に追及して息の根を止めてから、「実際の科学ではこういう理論になってますよ」と地ならしをするのは、痒いところに手が届くフォローだと思います。
ただし、息の根を止める前にそれをすると、みるみる息を吹き返し、今まで叩かれた事は無かったような態度で、相対主義者ぶりを発揮する危険が高いのでご注意を。
〔(科学的)方法・視点〕→〔(科学的)理論・知見〕→〔(科学的)技術・推測・発想〕
この流れを把握してもらってから、「疑似科学」を効果的に批判する戦略について述べてみたいと思います。
【好ましい戦略】
効果的に批判する戦略は、相手の主張する「科学的」の段階に対し、一つ前の段階のプロセスが充足していない点を指摘する事だと考えています。
例えば「科学的」と示すのが“ある理論”であれば、それを導いた方法が適正でない(使用する方法が科学的ではない)からダメとする。
また、“ある推測”であれば、その推測の元となる理論を正しく理解して使っていないからダメとするのです。
一番大切なのは、相手の「科学的」の段階を明示し、その上で「それが科学的であるための前提条件」といった前の段階を根拠に批判しているといった立場を明らかにする事です。
うまくニュアンスが伝わらないかもしれませんが
相手が科学的だ、と言っているものと同じ段階の科学的なものと”比較”して批判するのではなく
相手の科学的の前段階を否定する事で、科学の俎上に載らない事をアピールするのです。
そういう意味では、批判者こそ注意深く、どんな「科学的」か意識的に明示して使う必要があります。
【好ましく無い戦略】
では、逆に好ましくない戦略とは何でしょう?
それは、相手の主張する「科学的」の段階と同じ段階のものをぶつける事、つまり、“ある理論”に対し、それと反する正統の「科学的理論」を用いたり、“ある推測”に対し、それと反する正統の「科学的推測」を用いて否定する、といったやり方です。
一見常套手段のようですが、それが好ましくないのは何故か?
前の戦略では、「疑似科学」における“科学的”を、その成立の可否という『根源的』な問題として扱っていたのに対し、この戦略では『相対的』な問題として扱わざるを得なくなってしまうのです。
同じ段階で争うと言う事は、相手の「疑似科学」を正統科学と同列の俎上に載せてしまうという事です。
ギャラリーにおいては
「少なくとも相手側の理論は、現行の科学理論と比較できる位置付けにあるんだな」
と誤解し易く、それにより「科学」と「科学以外」の対比ではなく、
「科学」という同じ範疇に含まれる両者が「多数派と少数派」あるいは「正統と異端」で争っているだけ、
と思われる危険が高まります。
また、このような戦略の前提には、暗黙裡に
「現有の科学的理論に反する=科学的理論として間違っている」
「現有の科学的推測に反する=科学的推測として間違っている」
という立場が含まれてしまいます。
このような前提は、おそらく相対主義者の格好の餌食となるでしょうし、何より正統科学を元に批判する立場の物が、正統科学の発展のプロセスを否定するような前提を持ち出してしまっては適切な批判とはなり得ないでしょう。
さらに、相手は『その前段階における科学的の充足』という枷をはめない限り、無節操に「理論」なり「推測」を並べ立てる事ができます。
それに対し、同様に正統の「理論」なり「推測」をぶつけようとすると、絶対に手駒が無くなります。
あるいは、正統科学としては『分からないとすべき』とか『判断すべきでない』というの結論を提示せざるを得なくなるかもしれません。
しかし、誰しも『分かる』と言い張る言い分の方が印象に残ります。となると、非常に妥当な判断を述べているのに「何も知らない奴」と誤解され、かえって不利になります。
この戦略は、泥沼化を狙う相手の思う壺で、ギャラリーにも誤った印象を与えかねないのです。
【結び】
そもそも、「疑似科学」の提唱者に「科学的」を注意して使え、と求める方がどだい無理な話で(注意して整理できるくらいなら、そんなの提唱しない)、むしろ、批判者側こそ、「科学的」を分ける事とそれをアピールする事を意識し、かつそれに沿って有効な戦略を使用する必要がある、というのが今回の結論です。
なお、「理論に理論をぶつける」というのが絶対ダメ、というわけではなく、最初に『根源的』な問題を徹底的に追及して息の根を止めてから、「実際の科学ではこういう理論になってますよ」と地ならしをするのは、痒いところに手が届くフォローだと思います。
ただし、息の根を止める前にそれをすると、みるみる息を吹き返し、今まで叩かれた事は無かったような態度で、相対主義者ぶりを発揮する危険が高いのでご注意を。
最近思ったのは、ビリーバーの方達って自分ががなぜそれを信じたのか、というのをきちんと説明できないんですよね。
この辺がきちんと説明できる人は「科学的」なことも理解できるので、科学もどきやしょうもない陰謀論にははまらないのでしょうけど。
どうどうと「直観です!」とか居直られると、どうにも・・・
by トンデモブラウ (2008-05-14 09:59)
ちょくちょく書き込んでいただき本当に有難うございます。
何しろ、結構寂しいブログですので心の支えになります。
で、トンデモブラウさんのネタ振りに関しては、ちょうど抵触する話題を考えてまして、そのうち記事まとめたいと思います。
ですが、ベクトルとしてはおそらく全く逆の方向性です(サイエンス・ギャップ論での返信で匂わせてたのですが)。
「科学」というツールは、「疑似科学」から偽装を剥がし「オカルト」という正体を暴く事まではできるけど、その先の追求に「科学」というツールは使えるのか、という疑問があるのです。
例えば「ビリーバーの対岸にある人は、自分が何故信じないのかについて、きちんと説明ができるか」、「科学的な事を理解できている事と、それ以外を信じる事は相反する事なのか」、「直感ではダメなのか」、等と面と向かって言われたら、かなり厳しいと思いませんか。
詳細は乞うご期待!(いつになるかは未定)
by Judgement (2008-05-14 23:51)