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何故、疑似科学は科学を装うのか [疑似科学総論]

 例えば、この世には科学という操作的手法ではなく、観察の積み重ねだけで培う「経験則」による理論(例:ことわざ的なもの)や、独自の世界観と自然現象で構成された理論(例:占いや魔術)も命脈を保っていますし、両者のコラボレーションで作り上げた技術(例:鍼灸・気功・霊視)もお盛んです。
 だから、別に科学的でないからといって、効果が絶対に無いわけでも無いし、人々に受け入れられないわけでもないはずです。

 ですから、それが正しいと信じさせるのに、あえて「科学的である」という(結果としての)嘘を付く必要はないはず、と思います。 
 なのに何故、「科学的である」と言ってしまうのか、ちょっと推測してみましょう。

 まず、「科学的」というものを1つの品質表示と考えてみましょう。科学者達は、この「科学的」という品質の地位を高めるため、日々努力し、クオリティの高いものにのみ貼り続け、後から品質に満たないと判明した物は必死で回収してきました。おかげで、「科学」というのは、現代ではほとんど問答無用のブランドとなることができました。

 一方、「科学以外」のものはそのあおりを受け、その正当らしさをアピールするのに、中国ウン前年のバックボーンとか、心の襞に食い込むようなアフターケアとか、マスコミへの露出度とか、体験者の喜びの声を沢山乗っけるとか、いろいろ面倒な手続きが必要になってしまいました。

 逆に、「科学」はというと、問答無用のブランドとなった事で、「科学的」と言っておきさえすれば納得させられる、という風潮が出てきてしまいました。そして確かに、「科学的」と言った事に対し「本当に科学的か」疑う人はあまり出てきません。

 そこで、いわば「虎の威を借る狐」よろしく、「科学」のブランドを偽装表示するメリットが生じてきたわけです。
 むろん、「疑似科学」を主張する人全てが、意識的に偽装しているとは言いません。念のため、以下のように3つに分類しておきます。

(1) 『無知による疑似科学』=過失犯

 知識不足、あるいは誤解により、必要とするプロセスに欠陥があり、間違って「科学的」の品質表示をしてしまったもの。
 ただし、このようなものを生み出した人が、自分の勉強不足を理解しつつ、キチンとした「科学的」でありたいと考えている場合(例えば大学の学部生とか)、その場合方法の欠陥を指摘されれば「科学的」の品質表示はすぐに撤回されます。そのようなケースについては、それを「疑似科学」とするのは、少し酷な気がしますが、指摘されるまでは間違った品質表示がされ続けていたわけですから、仕方ないかもしれません。

(2) 『偽装による疑似科学』=故意犯

 自分の理論の売り込みのために、「科学的」というブランドの力だけを詐欺的に利用しようとする立場。それが本当に科学的理論に成りうるかどうかには興味ははなから無く、その理論が「科学的理論であるかのように見せる」にはどのような舞台設定が必要か、という事を優先課題とする。

(3) 『信念による疑似科学』=確信犯

 自分の信じる理論は正しい、という事が前提であり、「科学的」というブランドを当然のように貼り付けてから、その表示の妥当性を示せる根拠を探す立場といった主客転倒型。様々な研究・事例の解釈や妥当性について、「科学的か」ではなく、自分の信念との一致不一致で判断しようとするフシもある。
 「無知による疑似科学」が、初期段階における誤解に基づくタイプとすれば、この信念によるものは、「科学的」という品質表示に必要なプロセスを、後から勝手に設定しようとするタイプ。

 むろん、『偽装~』や『信念~』が意図的に作り出されるケースもあれば、『無知による疑似科学』が、欠陥を指摘されてもなお、当人のプライド等の感情的な問題や、周囲の思惑により撤回が拒絶し続け、『偽装~』や『信念~』に移行する場合もあると考えられます。

 往々にして、「疑似科学」の人達はいくら誤りを指摘されても、「科学的」という品質表示を剥がそうとはしません。それは、どんな時に剥がすべきかという、剥がし方を知らないからかもしれません。


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