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「疑似科学」について考えてみる [かため(当社比)の話]

 「疑似科学」という言葉がどれだけ市民権を得ているか、誰が使い出したのかといのは正直なところ私には分かりません(それが仮に外国の方だとしたら、その言葉は原著の方の物か、訳者の物か、といった問題もあるでしょう)。

 「疑似科学」の類義語として、「ニセ科学」・「似非科学」・「ブードゥ科学」・「トンでも科学」・「インチキ科学」等、様々な物があり、しかも、これらの語は必ずしも「疑似科学」と全く同義ではなく、使用者の疑似科学的なものに対する批判的スタンスが上乗せされていると感じられます(では、「疑似科学」という語はそのような批判的スタンスが含まれないか、というと、これまた使う人によっては含んでいるかもしれません)。

 「疑似科学」については、「疑似科学と科学の哲学(伊勢田哲治著 名古屋大学出版会)」の序章で、「科学のようで」、「科学でない」ものを一時的な目安としています。

 ただし、この本の著者は、これについて疑似科学の定義ではなく、また明確な線引きの基準などあり得ない立場をとっています。では最終的に、著者は「疑似科学」と「科学」の違いをどう捉えているか、については、皆さんに同書を読んでもらうのが最良と思います(すいません、何度か読んではいるのですが、中々人様に解説できるレベルで頭に入ってはいません)。

 では、「科学のようで」、「科学でない」という所だけ拝借して、まずはあれこれ自分で考えてみたいと思います。

(1) 「科学ではない」とは

 大抵は、「俺の説が科学的に正しいのだ」と言うわけですから、「科学的理論」との比較が妥当かと思われます。そのため、「科学的理論」として先に列挙した条件に一致しない事を指す事にします。
 なお、そもそも当の本人が『仮説』と『理論』の区別を十分にしていない事が往々にしてありますが、実際には「科学的」かどうか、つまり客観的か、論理的かの検証で事足りる場合の方が多い印象も持ちます。

(2) 「科学のよう」とは

 何を「科学のようだ」と感じるかは実際人それぞれでしょう。言っている人の肩書きにそれを感じる人もいれば、見慣れぬ記号の入った数式、データや統計、科学的理論の名前、小難しい専門用語等もそう感じる一因であるかもしれません。
 “それ”を受ける側の人間が、“それ”を「科学のようだ」と感じるか否かは、受け取る側の認識の問題であり、一貫した指標にはなり得ないものと考えられます。
 同様に、“それ”を発信する側の人間が、“それ”のどこが「科学(のよう)だ」と考えているかも、発信する人物により変動すると考えられます。

 そのため、“それ”にどのような要因が内包されれば「科学的なようだ」という印象を生み出すのか、といった点でアプローチするのは、個々人のバラツキが生じる点で基準化が難しいと言えます。
 ですから、ここでは(私は)、シンプルに“それ”に対し「科学(的)だ」と発信側が評価している、といった外部属性の付与の存在が「科学のよう」となる条件と設定したいと思います。

 その上で、具体的に「どのように科学的な装い方をしているか」が必要となった際には、“それ”に「科学(的)だ」と言う意味付けをした人が複数いる場合、それらを一絡げにして扱うのではなく、重複しない部分があるであろう事を前提として、個別に扱う必要があると考えられます。

 以上のことを踏まえ、用語に「疑似科学」を入れておきます。


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