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利口ぶる馬鹿(解説編) [kikulog「血液型と性格」関係]

これは、「利口ぶる馬鹿(たとえばなし編)」に連動しています。
先にhttp://naked-kings.blog.so-net.ne.jp/2008-03-28を読んでください。 

ABOFAN氏が一度口を開けば、ツッコミどころが湯水のように溢れ出る。
というのが、私の感想ですが、このような支離滅裂さの原因は自分が使う「言葉」に対する決定的な理解不足にあると睨んでいます。


 「言葉」の意味を自分自身に取り入れる方法について、“理解”する方法と、“解釈”する方法の2つを挙げます。
 なお、ここでは両者を以下のようなものとします。

【理解】その言葉に付随する様々な新しい情報を仕入れ、それらを正しく組み合わせる事で、今まで知らなかった概念を捉える。
【解釈】言葉の意味について、自分の既に持っている知識を組み合わせる事で推測し、今まで知りえている概念に収める。

 新しい言葉について、自分の持っている世界観を広げた結果として取り入れるのが“理解”、自分の持っている世界観の中の位置付けを決めるのが“解釈”と言い換える事もできます。

 元々広い世界観を持っている人であれば、新しい言葉に対しても“解釈”で済ます事が可能です。世界観が広く無い人は、その言葉を取り入れようとすると、世界観を広げる努力が必要になります。
 しかし、実際は世界観が狭いのに、世界観を広げる努力が面倒だと思う人や、あるいは根拠なく自分の世界観は広いと勘違いしている人が言葉を取り入れようとするとどうなるでしょう?
 そう。そんな時、自分の世界観にはまらないその言葉を“解釈”しようとするのです。

 実際は自分の知識に無い概念構成を、自分の知識だけで解釈しようとするのですから、本来の意味を引き継ぐ事はまず期待できません。すると、当然の事ながら、その意味には様々な綻びができます。
 しかし、この手の人は、そのような綻びについて、自分の解釈の問題とはつゆも思わず「その概念が実は正しくない(間違っている)」事を示している証拠と思い込んだり、あるいは表面上辻褄が合うように勝手に自分の思い込みをくっつけて構成してしまったりします。
 そのようにして作られた意味は、元の意味の原型を留めません。名前だけ同じで、中身が全く違うものと言うのが妥当でしょう。

 でも、当の本人は、その名前と自分で勝手に作った“解釈”をセットにして、それを知識に組み込んでしまいます。
 すると今度はどうなるか?
 次に新たな言葉に出くわして、それをまた“解釈”しようとする時、その誤った知識を使ってしまうんですね。
 ただでさえ当人の身の丈に合わない“解釈”という行為なのに、そこで使う知識も誤っているのですから、「誤解スパイラル」というべき悪循環に陥ります。


 だけど、当人にとっては、意味は自分で勝手に決めたのと同様ですし、辻褄が合わないものは“その概念が間違っている”と位置付けてしまっているため、全て辻褄が合うように見え、中々おかしい事に気付きません。
 それどころか、色んな事が解釈できている(と思い込む)自分について、「自分って何でも分かる天才!?」と勘違いしているのかもしれません。


 そのような人の物事の説明は、本来の意味を理解している人にとっては、「何でそうなってしまうのか全く分からない」ほどメチャクチャなものにしか映りません。
 「どこが間違っているか」という局所的な話ができないくらいで、「とにかく何もかも間違っている」としか言えませんが、そういう事を言うと、「具体的で無いから何とも言えない」と突っぱねるわけですから困りものです(かといって、とりあえず局所的な間違いを指摘しても、「そうではないはず」としか言わないわけですが)。
 一方、本来の意味を知らず、その人の使う言葉がファーストコンタクトの人にとっては、「何となく正しいことを言っている」ように聞こえる危険性も高いわけで、始末に負えません。



 「負けず嫌い」な人は結構います(かく言う私も...)
 負けず嫌いも大きく2つに分けられます。
 1つは、他人に負けているものを無くそうとする人
 もう1つは、とにかく自分が負けていると思いたくない人です。

 前者は、自分に負けているものが存在する可能性が十分有る事を前提としつつ、それを無くそうとします。そして、自分と他者の関係性の中で勝とうとします。
 そのためには、新しい知識について“理解”しなくてはなりません。何故なら、他者と共通の土壌を持つ事が前提なのですから、独りよがりの解釈をしても、他者に対し恥をかく事はあっても、勝つ材料にはなり得ないからです。

 後者は、自分には負けている事が無い、という事が前提となります。この前提は、他者との関係性を求めず、自己完結しています。自分が「負けた」と思わない限りそれでいいわけですから、そう思わないための理由も、自分にさえ納得できればOKです。
 その際、“解釈”というプロセスは(当人にとって)非常に楽で便利です。他者と同じ土俵に立とうとしないのですから、他人と違う解釈をしてしまっても気にもなりません。
 手の届かない葡萄を「あれはすっぱいに違いない」とのたまった狐のように、事実はどうあれ、自分さえ納得できる理由があればいいんです。

 で、後者でかつ「議論好き」は、議論の場で何をするかと言うと、ガラクタと化した知識で自分を囲い徹底的に防御します(その様相はゴミ屋敷なのですが、当人の目にはきらびやかなお城にでも映っているのでしょう)。攻撃らしい攻撃は、相手についての印象操作ぐらいの姑息な事ばかりです。
 その醜悪さゆえ近づく者がいなくなると、そこで「誰も反論できなくなった」から“勝ち”と自分を満足させるわけです。


 ABOFANという人の議論(?)に付き合っていると、上記のような思考パターンを感じます。
 彼はしばしば難しそうな単語を突然使い始めます。
 (「自分はこんな言葉も知っているぐらい頭が良いんだ」というハッタリの意味も多分にあるでしょう)
 その時、それが今までの文脈にどのように関連するのか、については大抵語られません(自分の頭の中だけの意味で辻褄が合っているのかもしれませんが、そんなの他者には到底分りません)。
 それについて、自分の知識不足なのかな?と思って改めて調べてみても、やっぱり本当の意味の上では彼の主張と辻褄が合わないものである事が非常に多くあります。
 そこを追求していくと、どんどん説明がブレ、曖昧かつ感覚的になり、しまいには、沈黙に近い状態になってきます。
 その時、「どのように相手にキチンと説明できるのか」を考えているのではなく、きっと「どのようにしたら“それでも自分は間違っていない”と自分自身が納得できるのか」を考える事にリソースを費やしているであろう事は想像に難くありません....。

 なお、自分が説明に窮し、沈黙した場合においては、それは自分の負けではなく、「相手の勉強不足のせいで話しにならないんだ」と(自分だけ)納得したがるようです。
 とことん自己中心的というか、何と言うか….



 「知らざるを知る」という有名な言葉がありますが、知らざるを知れば、新たな知らない知識を正統な手段で獲得する事ができます。
 しかし、「知らざるを知らない」人は、新たな知らない知識を「知っていた」事にしたいがため無茶をし、結局のところ「知らない」と同じ、いや、むしろ「知らない」より始末に負えない状況に陥るわけです。


その事が「利口ぶる馬鹿ほど始末に負えないものは無い」なのです。
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Hirosuke

「頭のいいオバカ」って奴等もいますよね。
こんなふうに・・・。
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「麻生さん、本当は阿呆でしょ?by Obama」
http://tada-de-english.blog.so-net.ne.jp/2009-02-15
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by Hirosuke (2009-04-09 13:16) 

Judgement

初めまして!コメントありがとうございます!!
でもこめんなさいっ!
英語がダメな私には何とコメントしてよいのか思いつきません...
by Judgement (2009-04-16 00:58) 

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