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今更、千と千尋の神隠し [思い付き]

 今日初めて千と千尋の神隠しを見た(本当に今更な話です)。
 で、この映画から読み取れる意味については、当然既に多くの方が言及していると思うのだけれども、それ承知の上でちょっと考えた事を書いてみる(ただ、宮崎映画はわざと暗喩を散りばめている気がするので、ちょっと乗せられた感がある)。
 ちなみに、ネタばれがあるので、見ていない人(私以外にいるのか?)は注意!!

 この映画では、「外部から取り込む醜悪により自己が醜悪になる」というパターンが繰り返し提示されます。

 千尋の両親、オクサレ神(河の神)、カオナシ、ハクがそれ。
 ただ、単なる繰り返し、ではなく
 ・千尋の両親は、自分から進んで取り込み、豚になった。
 ・河の神は、なすがままに受け入れ続け、オクサレ神になった。
 ・カオナシは、欲につられた者を取り込む事で、肥大した化け物となった。
 ・ハクは、自分の欲求に付け込まれて取り入み、盗みの手助けをする者となった。

 少々無理があると思うが、カオナシと疑似科学を主張する者は似ていると思う。
 様々な事を吸収しようとするが、吸収できるのは自己に迎合するものだけである。そして、迎合するものばかりを集めるうち、外観は醜悪化する。

 一方、千尋は必要な物が分っており、必要なものだけ受け入れる。
 欲望につられず、理性的な判断をするものを、カオナシは取り込めない。
 これは、疑似科学が「都合のいい情報」ばかりを受け入れ、「本物の科学」を受け入れない事の暗喩に捉える事ができます。
 さらに言えば、
 千尋の両親:疑似科学を喜んで受け入れるタイプ(何も考えず飼いならされる家畜というイメージ)
 河の神:疑似科学系に勝手に自分と同一化されて名誉を貶められる偉大な科学者
 ハク:真面目な研究なのに、曲解されて疑似科学系の根拠にされてしまう科学的な研究
 なんていった見方もおもしろいかもしれません。
 
 ...まぁ、多分作者の意図は違うだろうけどね。
 (あんまり裏読みしすぎるとトンデモさんになっちゃいそうだし)。

 こういう見方をすれば、「科学」と「疑似科学」に関する教訓的な映画にもなるなぁ、と考えてみただけです(「人に頼るな、自分で考えろ」という教訓も含まれている気もしますし)。
 そういえば、ラストシーン「目の前のどれか」の選択を迫られ「どれでもない」という回答をする、というのも、「今AとBしかない場合、AかBを選択する」と安易な判断を許さない、いわゆる「ゼロ回答」を視野に入れる科学的態度に通じるものがありますね。

 で、ストーリーでは外部から取り込んだ醜悪を排出させるアイテム「ニガ団子」が出てきます(それを与えたのが「河の神」で、私の見方では「ガリレオ」とかに位置づけられるのも、妙に辻褄合いますが)。
 
 私も、疑似科学にとっての「ニガ団子」とは何か考えたい、そして彼らに食べさせたい。
 
 ちなみに、千は「カオナシがあそこ(欲望の開放の場であるゆ屋)にいるのがよくない」と看破します。
 疑似科学系の人も、元は純粋な人だからこそ、たまたまはまったものが醜悪な性質を持っていたせいで、一時的に醜悪に肥大化しているのかもしれません。

 え~、古いネタを元にした話題でした


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