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論理的に考えるコト その1 [他ブログいっちょかみ]

 ちょっと最近の話題とは趣を変えて、今回は「論理」に関するお話。
 ublftboの日記というブログにおいて「バラーチャイルド氏記念」及び「バカじゃない、薔薇だ」の記事で『論理』について盛り上がっている(た?)もよう。

 まずは、発端となるお話を「バラーチャイルド氏記念」から引用する。
 ある議会で議員さんが、「議員の半分はバカだ!」と辛辣な発言を行いました。
 当然、議会は紛糾。当の議員さん、強い抗議を受け、謝罪を余儀なくされたのでありました。さて議員さん、しぶしぶながらも、適当に謝意を表し、「議員の半分はバカではありません。」と発言。

 この話について、『「論理的」に考えてみると、どう見ることが出来るでしょうか。』というのが、ブログ主であるublftbo氏の問題提起だ。

 これを発端に、なかなかすごい流れになっていったんだけど、それはひとまず置いておいて、私なりの「考え」を述べてみよう。


【文章読解】

 まずは「論理」に拘らず、直感的に捉えれば「ああ、この議員は謝罪のフリをして、実は訂正していなかったんだよ、ってのがオチなんだな」という感じだった。 
 野暮な解説を付け加えれば、間に謝罪を挟むから、「議員の半分」で指した集団は前と後で同じなんだろう、と受け取られ、前言を否定しているように聞こえてしまうんだよね、ってのがミソなのだろう。

 感覚的にはそんな感じだけど、果たして「論理的」に考えるとどうなるだろうか。


【発言1:「議員の半分はバカだ!」について】

 最初の「議員の半分はバカだ!」を≪発言1≫として、これを分析してみる。
 もし≪発言1≫が「議員の半分はバカであり、議員の半分はバカではない」であれば、言っている事はかなり明確にはなるんだけど、あくまで≪発言1≫で述べているのは半分に関してのみ。

 「半分はバカなんだから、残り半分は当然notバカだ」と考えるのは一見論理的であるけれど、ちょっと待てよ。そう言えるためには、“この議員は全ての議員についてバカ/notバカの判断を終えている”という【前提】が必要となる。

 何故なら、議員全てについて判断していなくても、議員の総数は分かっていて、かつバカ議員のカウント中にその半数を満たせば「最低限」という意味で、「議員の半分はバカだ!」と言うこともできるわけだ。
 つまり、この文章からは、少なくとも次の2つの可能性が存在が認められる。

A.議員の“きっかり”半分はバカだ!→残り半分は非バカだ
B.議員の“少なくとも”半分はバカだ!→残り半分については今のところ不明

 じゃぁ、どちらの状態なのかというと、残念ながら文章からは分からない。
 分からないのに【前提】を決め付けて判断するのは「論理的」とは言えないだろう。
 だから、両方の可能性を許容する捉え方をする必要がある。

 その場合この議員の発言は「少なくとも50%はバカがいる(非バカは多くても50%)事は示している」と捉えるのが適切と考えられる。


【余談】

 「議員の半分[だけ]はバカ (バカ=50%)」と言っているのか「議員の[少なくとも]半分はバカ(バカ≧50%)」と言っているのか、という事を問題にしたけど、ちなみに、論理から離れ、行間を読むとすれば最も適切なのはBの方だと思われる。

 だって、これは議会に対する「批判」なのだから、批判相手のダメな部分を最小限に限定してやる必要は無いでしょう。むしろダメな部分が多いという”含み”をあえて持たせたがるはずじゃないかな。
例え、この議員さんが実際は『=50%』だと知っていても、上記の理由で『≧50%』と捉えられる言い方を選択するだろうね、戦略上。別にウソを言う事になるわけではないし。


【発言2:「議員の半分はバカだ!」について】

 次に、謝意を表してから言った「議員の半分はバカではありません。」を≪発言2≫として分析してみる。

 この場合も「議員の半分は」について、また「=50%」か「≧50%」かという問題が出てくるけど、それは先程の説明と同じになるので、端折って結論だけ「少なくとも50%は非バカがいる(バカは多くても50%)事を示している」と捉えるのが適切、としておく。

 ただし、その前段階に大きな問題があって、「議員の半分」が単なる「議員の量」としての表現なのか、あるいは≪発言1≫で批判した「議員の半分」と同じ集団を示しているのかが不確定。

 「議員の半分はバカであり、議員の半分はバカではない」と続けて言った状況であれば、明らかに前者として受け取られるけれど、途中に「謝意」と言う“間”が空くことにより、主語の差し示すところが不確定になっている。

 ...モチロン、そこを問題にするのは野暮な話で、「同じ集団とは明示していないのだから、違う集団と解釈できる」から、上の話は小話として成立しているんだけどね。
 でも、「論理的」に考えようとするならばそこは見逃せない。だって、「同じ集団とは明示していないのだから、違う集団と解釈してもいい」ならば、「違う集団とは明示していないのだから、同じ集団と解釈してもいい」はずでしょう。

 ...ということで、この「議員の半分はバカではありません。」は下の2つの解釈ができる。

a.≪発言1≫で言った「議員の半分」は本当はバカではない
b.≪発言1≫は置いておいて、ここの議員の少なくとも半分はバカではない


【結論】

 状況別に見ていこう。
 aの場合、単純に『前言の完全否定』でいいでしょう。
 bの場合2つの状況が考えられますね。
 ≪発言2≫で示される「非バカな議員」の割合として設定できるのは50%~100%の範囲だけど、これを「50%」と値を【設定】した時に限り≪発言1≫と『矛盾が無い』状況となり、それ以外の値では、多かれ少なかれ≪発言1≫が『下方修正』されます。
 それを踏まえ、最終的にこの話全体を「論理的」に読み解くと...

 ≪発言2≫は、≪発言1≫と『矛盾が無い』、『下方修正』、『前言の完全否定』のいずれとも取れるものである、というのが結論。
 言葉を変えれば『必ずしも前言を否定するとは限らない言い方であった』とも言える。
 もっと簡潔に言えば「どうとでも取れる玉虫色の発言と判明する」となるかな。

 だからなんだ、と言われると困るケドね。
 だって、ublftbo氏が論理的に考えろ、って言ったから...

『あいまいな言語の意味を論理で明確にするのは難しいが
 あいまいな言語が本当にあいまいである事は論理で明確にできる』

 ...ってまとめちゃだめかな?
 

【あいまいだから面白い】

 論理では特定できないモヤモヤ感、見ようによってはどちらにも見えるってのがこの話の「おもしろさ」なんだろうと思ったり。
 心理学で有名な図版に、「クラインの壺」とか「老婆と若い女」なんかがあるけど、それと同じ感じなんじゃないかな。
AIMAI.jpg

 この話を読んで思い出したジョーク。
ある婦人を「ブタ」と愚弄した件で訴えられた男がいた。
「彼女に謝罪する事。そして以降、彼女をブタと呼ぶ事を禁ずる」という判決が下された。
「裁判長、ところで私がブタをマドモアゼルと呼ぶのはかまわないでしょうか」
「それはかまいません」
それを聞いてから男は自分を訴えた婦人に向かってこう言った。

「申し訳ありませんでした。マドモアゼル」



【おまけ】

 元の話を、「ジョーク」として成立させるのであれば、『さっき言った「議員の半分」はバカではありませんでした』と対象を明示させた上で、続けて『バカではなく大バカです!』と言わせるかなぁ。

 ただ、それを許容すると、論理の俎上に非常に乗りにくくなるんだよね。

 実は≪発言1≫の解釈で頭に浮かびつつも外したものが一つあって、それは「C.議員の半分はバカだ!→残り半分は大バカだ!」って設定。つまり、バカもその人の中では「普通バカ」と「大バカ」の少なくとも2つに分けられているかもしれないって話(現実にはいそうでしょ)。

 でも、それを許容しちゃうと、≪発言2≫とのからみが非常にややこしくなる(それこそ『バカではなく大バカです!』とも言えるので、「バカではない」はあらゆる可能性を含む事になっちゃう)。

 だから、今回は「まぁ、屁理屈の域かな」とあえて除外した。
 この除外理由は「論理的」とは言えないだろうけど、「論理的」な話を崩壊させるよりかはマシかと。
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コメント 2

なめこ

クラインの壺じゃなくて、ルビンの壺ですよ。
by なめこ (2010-08-07 02:32) 

J@携帯

ありゃりゃ、失礼。
クラインは三次元版メビウスですよね。

いつか直しておく
by J@携帯 (2010-08-07 09:53) 

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