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「優しさ」について [言論]

 トンデモブラウさんとnaokoさんのやり取りが続いていますが、実は私はその話題に踏み込む事を少し躊躇している。
 その理由の一つとして、キーワードの1つとして挙げられているものが、何を指しているつもりなのか、私が今ひとつ捉えきれていないからだ。
 
 あらかじめ言っておくけれど、これから問うことについては、イジワルしようとしているわけではない。
 真面目に「よく分からない」から素直に聞いているダケ。
 だから、できればおちゃらけず、真面目に答えて欲しい。
 
 多分改めて問われると難しい問題なのかもしれない。 
 だから100%完璧な回答をしてみろ、とは挑発しない。
 また、「一般論的な答え」(正確には「あなたが一般論的だと思っている答え」)は別に聞きたくない。
 
 あなた自身はそれについてどう考えているのか、どうあるべきかを、なるべく素直に詳しく語って聞かせて欲しいのデス。
 
 前置きはこの辺にしよう。 
 私が引っかかっているキーワード、そして私が意味を聞きたいこと、それは

 「本当の優しさ」ってナニ?   って事。


【質問の理由】

 2人のやりとり(プラスcosiさん)を読んでいると「本当の優しさ」という言葉が出てくるけど、もし私が『「本当の優しさ」を述べよ』と聞かれたとすれば、答えられないなぁ、と思った。
 そうなると、「本当の優しさ」が分からない私は、「本当の優しさ」の話には加われない事になる。

 また、二人とも「本当の優しさ」を元に話しているはずなのに、どうも噛み合っていないように見える。
 少なくとも、互いに相手の主張を「本当の優しさではない」と述べるわけだから、「本当の優しさ」なるものが、両者に共通しているのではない、という事は分かるカンジ。

 ならばどうでしょう。
 まずそれぞれが「自分にとっての(本当の)優しさ」を具体的に示してみては?

 そこで後出しジャンケンになっても不毛です。
 相手の見解と対比する形で自分の見解を述べないで、まずは自分の言葉で「自分にとっての優しさ」を述べ切りましょう。相手の見解をおかしい、という前に、それを自分がおかしいと思う基準となるものを最初に示しておきましょうよ。
 
 ちょっと言わせてもらえば、私は「本当の」というフレーズが出てくるとそれだけで眉に唾してしまうんですね。
 それは明らかな”絶対化”であり、どうやら価値相対主義者らしい私にとっては、そのフレーズだけで”ウソくさく”聞こえる。
 
 そもそも、互いに異なる「優しさ」を”絶対化”してやりとりしたって、「絶対に」噛み合わない。
 でも、互いに互いの「優しさ」を理解する、つまり自分の見解と相手の意見を”相対化”できれば、同意できる所で「噛み合う」かもしれないし、同意できないまでも「噛み合わせる」事が可能になる。
 
 それが「対話」ダヨ。

 できれば「本当の」に拘って肩肘張らず、素直な「あなたにとっての優しさ」を語って欲しい。
 稚拙でもいいからなるべく詳しく。


【ほんとうにほんとうの優しさ】

 宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」に、主人公のジョバンニが、キリスト教徒らしき人と話す場面がある。
 そこで主人公に「あなたの神様ってどんな神様ですか」と問われ、こう答える。

「ぼくほんとうはよく知りません。けれどもそんなんではなしに、ほんとうのたった一人の神様です」

 それに対してキリスト教の人は「ほんとうの神様はもちろんたった一人です」と言い、主人公はこう言い返す。

「ああ、そんなんではなしに、たったひとりのほんとうのほんとうの神様です」 


 私はこの場面が非常に好き。
 言葉で表せない苛立ちとせつなさが混ざったジョバンニの気持ちが痛いほど分かり、胸が詰まる。

 多分「優しさ」を語る人は、それぞれに信じているものが「ほんとうの優しさ」なんだろうね。
 それはよくわかるんです。
 でも、私が知りたいのは「そんなんではなしに」、「ほんとうにほんとうの優しさ」があるのかという事なんです。

 モチロン、それは実は無いかもしれないけど、そんなのは聞いてみないと分からない。
 それぞれにとっての「ほんとうの優しさ」を見た上で、見えてくるかもしれない。


【Judgement流「個人主義」】

 人に振ってばかりもアレなので、自分が考えた事を書いておく。
 まぁ、結論から言えば、「本当の優しさは何で有るか分からない」となってしまうのだけどネ

 まず、私は自分の事を「個人主義」と思っているのだけど、それはおそらく「一般的に言う個人主義」ではなく、私固有かもしれない「個人主義」だ。
 
 まずはそこから説明していこう。

 私流の「個人主義」とは、別に、「たった一人で生きていくさ(生きていけるさ)」という孤独主義ではなく、「他人なんてどうだっていい」という唯我独尊主義でもない。

 むしろ逆に、一人では到底生きられない(他人の協力が無いとダメ)し、そのためには他人を気にする必要がある(他人の存在を無視できない)と思っている。

 ただし、そういった「他人とのかかわり」は自分から何とかしないとダメだし、関り方についての判断や責任は自分が持つべきと考える。また、その判断の前提には、「自分と他人は同じではない」つまり、共通性よりも”個性”に重点を置く。

 「自分”個人”を基点にする」、「他者を自分とは異なる”個人”と捉える」の2つの意味で「個人主義」と言おうと思っている。


【他人との係わり合い】

 で、そんな私だけど、(信じてもらえないかもしれないけれど)例えば「困っている人」がいればなるべく助けてやりたいと思うタチだったりする。何故なら、他人の存在を無視できないカラ。

 そして、その時は「相手にとって何が必要か」を必死で考える。
 それは、「形だけの事」をするのは、相手にとっても自分にとっても”意味が無い”と思うからであり、自分が相手に何かをする以上、”相手にとって意味があって欲しい”と思うからだ。
 で、客観的に評価する事が「相手にとって他者である私」にできる最上の事だと考えている。
 もし、「何もしない」のが最良、と判断すればそうする。

 しかし、私の助言が、あるいは私の行動が「相手の望むもの」でない場合、前も言ったけど「冷たい」と言われることがよくある。
 果たして、そんな私は「優しくない」のだろうか。

 とはいえ、「優しい」と思われない事についての相手への不満は無い。
 「他者は自分とは異なる”個人”」なのだから、自分が良いと思った事が、相手に良いと思われないとしても全くおかしな事ではないという認識が根底にあるカラ。

 モチロン、自分としては「相手に良いと思われたい」という欲求はある。
 しかし、その欲求も、そして自分がした「相手にとって最良」という判断も、所詮「自分勝手なもの」と思っているから、相手がそれを「酌むべき」とは思わない。

 そういう意味では、自分の判断と、「その判断は優しいか否か」は独立したものなんだと、とりあえず思っている。

 逆に「よかれとおもって言っているのに」と言って感謝を要求する態度、というものはえらく尊大に聞こえる。
 でも、実はそういう押し付けがましいくらいの行為が世間では「優しさ」と解釈されるのかな、と思ったり...。


【疑問】

 そもそも、「優しさ」というのはどちらの判断なのだろうか。
 「優しくする」という気持ちを持って接するのが「優しさ」なのか
 「優しくされた」という気持ちをもたれる事が「優しさ」なのか。

 その両立、なんてはできれば言わないで欲しい。
 だって、両立していると誰が確かめられるんだ。

 それとも、する側が「優しくしていると思ってほしいなぁ」と思うことなのか
 あるいは、される側が「優しくしようとしているんだろうなぁ」と察する事なのか
 
 相手のためになりたい、というスタンスは「優しさ」なのか。
 そうだとすれば、「冷たい」と判断する事が誤りなのか
 そうでないとすれば、「それも優しさだ」と判断する事が誤りなのか

 「優しさ」の意味について色々疑念を持つこと自体が
 「優しい」事の証明なのか、あるいは「優しくない」事の証明なのか


 ゴメン、正直分からない。
 「優しさ」ってなんなのさ...



 色々疑念を述べたけど、別にこれに答える形でなくていい。
 頭の片隅に置きつつ、まずは「あなたの考える優しさ」について、素直に自由に述べてクレ。

 それを聞かせてもらってから、もう少し考えてみたい。 
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naoko

優しさってなんだろう、と悩んだことはあまりないです。
人の優しさが身にしみることって、誰でも普通にあるかと。
相手の行為ではなく、存在自体に支えられてる。
有り難いな、って素直に感じます。

それに対して、自分が人に相談を受けたとき、助けを求められたとき、親身に考え、相手の状況を考え、精神状態も考え、どう導くのがベストか、悩むというのも普通にあることかと。
そういう営為を「優しさ」との関連で考えるというのは、当事者的・主観的にはありえないです。

「本当の優しさ」
わたしとしては、「本人が言葉にできない気持ち(痛み・不安)を掬い上げようとすること」ですかね。簡単に言うと、〝相手を安心させること(←気休めじゃなく)〟。
そこまで持っていくのって、とことん付き合うよ、っていう覚悟がいるけど。

でも、人ってそのぐらいじゃなきゃ救われないし、自分も救われなかった。
どうあっても返せないものだから、深い感謝の気持ちがわく。
逆に、そう思ってのおせっかいや、取り越し苦労なら、親切の押し付けにもならないでしょ。
by naoko (2010-02-20 03:18) 

トンデモブラウ

じゃあ「冷たい」って何なの?
全ての感情的言葉が「○○」って何なんだろう、ことになりません。
まぁ厳密にはそうなんでしょうけど。

私が経験から思う(感じる)「優しさ」というのは、相手の気持ちを斟酌してそれを助ける行為を実践すること(対外的な優しいさの発露)、と自分の気持ちが落ち着く(安心する)ようになる行為(自分に対する優しさの受動)、といったところでしょうか。
なので、自分に対して微笑みかける好みの美女、というのも十分「優しさ」に含まれます。
「善意の押しつけ」は、「優しさ」に含みません。

私が本当の「優しさ」と書いたのは、それまで偽りの「優しさ」とか「優しいフリ」とかに対する相対的な表現なので。
by トンデモブラウ (2010-02-20 10:01) 

cosi

「本当の優しさ」については、あまり考えたことが無く、表現力も低いため、Judgementさんの話を読みながら、悶々と考え込んでしまいました。
で、コメント欄のnaokoさんの意見を読んで、「そうそう、そんな感じ」と思ってしまい、もう自分の言葉は出てきません。

naokoさんのコメントを読んで、思い出したのは、ミヒャエル・エンデの「モモ」です。批判も分析もせず、素直に、どのような話も忍耐強く聴くモモに、人々が自分自身を取り戻して、救われていきます。

私にとって、優しい人とは、怒らない人かな。
だから「本当の優しさ」は、「どんなことがあっても怒らないこと」とか「常に穏和」「常に冷静」「いつも機嫌がいい」「いつも楽しそう」とか、そういう感じです。
普段、どんなに穏和で冷静でも、反対意見に遭遇したり、嫌なことがあったりすると、頭に血が上る人は「本当の優しさ」を持っていないと思います。

「世間さまが許さない!」でのコメントを読む限り、トンデモブラウさんは、独断と偏見に満ちていると思います。
しかし、同時に、かなり優しい人のように思います。
すくなくとも、きくちさんやその親衛隊の面々よりは、随分優しい人です。
kikulogの中では、「掃き溜めに鶴」のような感じです。

でも、

>自分に対して微笑みかける好みの美女、というのも十分「優しさ」に含まれます。

これはまずいですね。(笑)
トンデモブラウさんは、微笑みの下心まで、見抜ける人ではなさそうなので、それこそ「ニセの優しさ」に、騙されまくっていることでしょう。
微笑まれて、安心して落ち着いている場合じゃないですよ!
まあ、私も人のこと言えませんけどね。
by cosi (2010-02-21 00:05) 

Judgement

私から振っておいて、放置してスマヌ。

まぁ、私が「優しい人」でないのは分かった。
私は「相手の気持ち」が分かって、
だけど、自分が分析した最良の結果がそれに正反対の事であったら
後者を伝える事を選ぶ。
「優しい人」と思われなくていいから「役に立ちたい」
そんな感じかな。

詳しくは後日まとめます!
by Judgement (2010-02-23 01:27) 

naoko

【Judgementさん】
>後者を伝えることを選ぶ
それはわたしもそう考えます。
そして、それを相手がすぐに理解できないということもわかっていたら、それなりに策を練るでしょう。
まずは、相手の頭の中の蜘蛛の巣を取り払ってから、とか。

そして、こうしたことは「優しい」とか「優しくない」とか、そんなこととは関係ないと思うよ。
状況を判断して、深刻と考えたら、それなりに真剣に向き合うし、逆に、そんなことは取るに足りない問題だと思ったら、そう相手に言うよね。あるいは適当にお茶を濁して早々に退散するとか。

>「優しい人」と思われなくていいから「役に立ちたい」
それでいいと思う。

ところで、例えば、人が「内面の不安」を抱えているときに、一番役に立つことは「安心させること」ということが多いです。
つまり、『役に立つこと=不安を取り去ること』、ですね。
〝不安〟は人の心を磨耗させ、正常な判断力もうまく働かなくなっている場合が多いから。

最近、人を〝安心させる〟ということが出来ない人が多いと思う。
わが子を〝安心〟させられない親とか、親を〝安心〟させられない子とか、生徒を〝安心〟させられない教師とか、部下を安心させられない〝上司〟や〝経営者〟とか。
by naoko (2010-02-23 04:47) 

cosi

「優しい人」は「怒らない人」と、シンプルに書きすぎました。
「感情的にならない人、感情の渦に巻き込まれて怒らない人」と言う意味です。
怒らないといけないときには、感情的でなく、事態を冷静に見極め、一番相手に届く方法を取れる人です。

だから、Judgementさんは、ブログのコメントを見る限りは、「優しい人」だと思います。実際のところはわかりませんが(笑)。私などは、必死でネット上だけでも、優しい人の振りをしようとしますが、ボロが出てしまいます。日常にいたっては、瞬間湯沸かし器のように怒ってます。

だから、naokoさんの、人を安心させられない人というのは、非常に耳が痛い話です。
本人の感情のコントロールが悪く、怒りや恐怖や不安に満ちていると、それが周囲に伝染し、周囲の人まで巻き込む気がします。
非常に、はた迷惑というか、存在自体が毒のような感じ。

人の感情の状態は、黙っていても周囲に伝わります。だから、大変な状況でも、怒りや恐怖や不安に溺れず、落ち着いている人の存在というのは、周囲にとって、安心させられる存在ではないでしょうか。そういう人が「真に優しい人」かなと、考えています。

どんな状況でも、というのが難しいところですよね。自分が心地よい境遇にいれば、たいてい誰でも落ち着いていられるわけですから。たまに、恵まれた境遇にいても、落ち着いていない、どうしようもない人もいますけど。
何か自分を脅かすもの、嫌なものに出会ったときに、瞬間的に怒りや恐怖が生じます。

『銀河鉄道の夜』のエントリのコメント欄で、Judgementさんが、「エゴ」と言う言葉を使われていましたが、「エゴ」の強い人間は、感情的になりやすいと、思います。心が狭いので、つまらないことで始終怒っちゃうわけです。自分のことを書いているから、確信を持って書けます(笑)。

それに、なにか体の不調があると、どうしても不機嫌になったり、怒りっぽくなったりします。
逆に、怒りすぎたり、恐怖を感じすぎると、体の病気にまでなるようです。体と心はつながっているようです。
怒りやすい体質気質、恐怖を感じやすい体質気質もある気がします。

アーユルヴェーダは、そのあたりを、三つのタイプに分けて、うまい表現をしていると思います。その点は現代医学よりわかりやすく、実用的であると思います。よく知りませんが、中国医学とか、漢方もそういう面があるようです。

ホメオパシーにいたっては、一人ひとりの体質気質を、全く固有のものと考え、その体質気質に近い性質を持った物を、探し出し、与えるというユニークな発想です。その発想自体を、私は非常に気に入っています。(現代のホメオパシー業者になんの問題もないとは考えていません。)

だから、代替医療も、現代医療も良く知らないのに、現代医療の素晴らしさを過大評価し、代替医療の危険性を大袈裟に煽るような発言は、大阪大学の教授の肩書きでするには、どうよと思うわけです。

批判するなら、それなりに、勉強してからにして欲しい。それも、公平にいろんな立場の本を読んだり、人の話を聴いたりして。なんだか、自分たちの理論武装のための本しか読まないとか、反対者のコメントの書き込みを禁止するとか、それこそ公平感に欠くと思います。(このあたりは、bandicootさん向けのコメントです)

また、どんどん脱線してしまいました。

だから、人を安心させることが出来ない人というのは、感情をコントロール出来ない人とか、どこか体の不調がある人なのではないでしょうか。
by cosi (2010-02-23 14:09) 

(た)

優しい人。
自分の荷物を人に背負わせない人、かな。
難しいお題だ・・・。

by (た) (2010-02-23 22:49) 

Judgement

 反応ありがとうございました。

 まず、私的な結論から言えば、『「優しさ」はどうあるべきか』という議論には積極的には首をつっこまない事にした。
 それは別に「くだらない話だから」、という理由ではないですから、気を悪くしないでね。

 なので、ボリュームはあるけど新たな記事は起こしません。

 なお、ここを他記事のコメント欄における「優しさ」のやりとりの続きに使っていただいていいですよん。

 んで、トンデモブラウさんがボヤいたように、本来「感覚的なもの」に厳密さを求めるのは野暮かもしれん。
 でも、だからといって、相互に相手の「感覚」を知らないまま、比較したり、否定・肯定するってのも、あまりにも無茶だと思うのね。

 各人の思う「優しさ」の意味が違う、というのは十分予測できた事ですが、結果として改めてそれが確認できたのはひとつの収穫じゃない?

 自分の主張を理解させるのにも、相手の主張を理解するにもさ。
by Judgement (2010-02-24 22:14) 

Judgement

 で、せっかくですから、それぞれ私なりに要約してみます。

≪naoko≫ver.
>本人が言葉にできない気持ち(痛み・不安)を掬い上げようとすること
いわば「掬い上げよう」という気持ちそのものが、「優しさ」って事か。
細かい事言えば、『安心させること』ではなく、『安心させようとすること』かな。
んで、『気休めじゃなく』というのは、その場しのぎの表面的なものではなく
とことん深い部分を掬おうとする、という事だろう。
んで、前半と後半を合わせ見れば
「優しさ」というのは、行為そのものとか結果で評価するものではないんだろう
結果として”おせっかい”や”取り越し苦労”になったとしても
行動の動機となる「優しさ」は否定されない、って感じかな。

≪トンデモブラウ≫ver.
>相手の気持ちを斟酌してそれを助ける行為を実践すること(対外的な優しさの発露)
>自分の気持ちが落ち着く(安心する)ようになる行為(自分に対する優しさの受動)
前者は”相手の気持ちを斟酌”はnaoko ver.と共通するケド
「助ける行為」を実線しないと「優しさ」ではないとのこと。
後者は、自分が実際に「安心」しないと、「優しさ」ではないわけだ。
また、「善意の押しつけ」は、「優しさ」に含まない、もnaoko ver.と違う。
あと、「本当の優しさ」というのは、絶対的な基準ではなく、相対的な基準という事ね。了解。

≪cosi≫ver.
>優しい人とは、怒らない人かな。
>だから「本当の優しさ」は、「どんなことがあっても怒らないこと」とか
>「常に穏和」「常に冷静」「いつも機嫌がいい」「いつも楽しそう」とか、そういう感じです。
あとで追記が入ったけど、私としてはこのcosi さんのが、一番具体的で分かりやすい。
その人の態度がポジティブな方向で安定している、って事だろう。
付け加えるならば、「人の話を受け入れる人」って感じかな。


私は「正解が分からない」立場の人だから、どれが妥当だとか言わないよ。
ただ、「上手い具合にばらけたなぁ」という感じがする。

ざくっと言えば
「心情」の問題とするnaokoさん
「行為と結果」を重視するトンデモブラウさん
「刺激の受容に対する反応の安定性」とするcosiさん
となるんじゃなかろうか。

《追記》
書いてる途中で(た)さんからの書き込みがあった。
「人の荷物を自分で背負う人」と思いきや、もうひとひねり
一瞬、「それって優しいの?」って思っちゃったけど
実はそういうあたり前の事が、当たり前でなくなっている気がするので
確かに「優しい」かなと思った。
それが「優しい」と思われる世の中ってのはちょっとアレだが。
by Judgement (2010-02-24 22:15) 

Judgement

それらを踏まえた上で、こんな事を考えた。

自分の思う「優しさ」に従って、気持ちを、行動を、態度を律する
というのは、簡単ではないけれど、なんとか目指すことができるでしょう。
でも、それを他人に「優しい」と思ってもらえるかは別。

「優しい」基準は、人それぞれだからね。
自分の「優しさ」が相手にとっての「優しさ」とは限らない。
トンデモブラウさんが言った単語だけ借りて言えば
「対外的な優しさの発露」と「自分に対する優しさの受動」はシンクロしないって事。

...と言うと「別に“優しいと思われたくて”やるもんじゃない」と言われるかも。
少なくとも3人はそう言うと思う。

それを踏まえた上での、現在の私の『本当の優しさ』観を述べる

各人、心に描く「優しさ像」は色々、という事を認識し
自分と他人の「優しさ像」は違う、という想像ができ
それ故「他人には優しく思われなくても当然」と踏まえつつ
それでも「優しくしようとする」というのが『本当の優しさ』

ま、これは皆さんの意見の総括としてじゃなく、あくまで私見ね。
by Judgement (2010-02-24 22:15) 

Judgement

んで、逆に「優しく見られたい」と思う人は、自分の思う「優しさ」というのを“絶対化”し
その「優しさ」が“優しい”と受け取ってもらえないと、相手をこき下ろす。
また、自分の「優しさ」の基準に合わないものを「優しくない」と糾弾する。
攻撃がエスカレートすればするほど、そんな自分を正当化するため、“絶対化”を強める

そんな人が、(自分の基準で)「優しくない」人を吊し上げ
「人間としての価値の欠損と決め付け」大仰に批判するわけだ。
それも裏を返せば「それを批判する私って、人間としての価値が高いのよん」
というのを暗に示そうという欲求があるのではないのだろうかと思っちゃう。

もし、それをツッコんだとき
「そうですよ、私は高尚な人間なんだ。文句あるか」
とまで言えるぐらいの人なら、まだいいんだ(文句はあるけどね)。

だけど、そういう人に限って
「そんなつもりはない!下衆の勘ぐりだ!」と否定した上で
何かを払拭したいかのように、自己正当化を延々とし、相手を非難する。
それがまたなんかあさましいんだよねぇ


...えっと、何の話だったったけ。
そうそう「優しさ」の話だった(途中から違う話をしているつもりに...)。


で、こういうのは、多分トンデモブラウさんも、「優しい人」とは認定しないよね
ってな事を頭に入れて、できればもう一度
「<対話>の無い社会」の「優しさ教」のくだりを読み返してみて欲しいなぁ
トンデモブラウさんさんの「優しさ」を尊重する気持ちを否定する事は言っていないと思うよ。

by Judgement (2010-02-24 22:16) 

Judgement

あと、また不道徳な事を言っちゃうケド
「優しくしなきゃいかんのかな」って、と思う事がよくある。

いや、「優しさ」を全否定するわけじゃなくて、
「優しさ」に疑問を持たざるを得ない状況がおかしいんだろうけどね。

自分なりの「優しさ」で感謝されようとは思わないけれど
相手から「優しさ」を要求されたり、「優しくない」と文句言われるのはかなり腹が立つんだよ。
(まぁ、皆さんの周りにはそんな人いないのかもしれないけど。)

そんな事言う奴を見ると「絶対優しくしてやるもんか」と思うんだよね。
人間できてないから。

そういう態度ってのは、「優しさへの渇望」で引き起こされていると言うより
逆に「優しさのインフレ」が原因で、「優しくされるのが当然」てな意識が芽生えている気がする。
それも、例えばお三方の言うレベルの「優しさ」が満ちあふれているのではなく
もっと、表面的で安易な「優しさ風」のもの、でインフレが引き起こされているみたいな。

なんつうか、そんな「自分が傷つくことに過敏な人」って嫌い
悪いけど、そういう人ほど徹底的に虐めたくなる。
ワザと傷つけようとまでは思わないけど(ちょっぴりは思うかも)
傷ついても一向にかまわない、って気持ち。

逆に、明らかに傷ついているのに
「大丈夫だから平気平気」なんて言っちゃう人には
優しくしてあげたくなっちゃうけどね。
by Judgement (2010-02-24 22:17) 

Judgement

んで、最後に冒頭に書いた
”『「優しさ」はどうあるべきか』という議論には首をつっこまない”
理由について書いておく。

まず、私自身の「優しさ」なんていうのは所詮“自己満足”と思っているから
(みなさんのもそうだ、というわけではないですからね)
人にそのポリシーを押し付けるべきではないかなぁ、というのがひとつ。

「優しさ」議論に参加しているのを見て
万一私が「優しい人」的なイメージを持たれると(持たれないだろうけど)
それに付け込んで甘えようとする「ガラスのハート」な野郎共が
出現しないとも限らない、というのがもうひとつの理由。

まぁ、そう言ってはいても、流れ次第では前言撤回するかもねん。


あと、「優しさ」そのものよりも、「優しさ観の形成や相違」には実は色々思うことがある。
それについては、機会があれば書きたいと思います。
by Judgement (2010-02-24 22:18) 

トンデモブラウ

Judgementさんの「役に立ちたい」は、「善意の押しつけ」と紙一重ですね。
他人の「役に立ちたい」って、かなり「優しい」ことなのに。
で、何が違ってどの辺が紙一重なのかと考えると、他人のために起こす行動が、本当にその人のためになっているのであれば、本来「役に立っている」ハズなのに、その当人の希望することでないと「善意の押しつけ」と受け取られる、という感じかな。
私に言わせると、後者は「善意の押しつけ」ではないですけどね。
あえて言えば、「善意の押しつけと誤解される優しい行為」でしょうか。
シンクロしていない弊害ですね。

私の書いた「善意の押しつけ」とは、他人のために起こす行動が、本当にその人のためになってないことなので。
他人に「優しく」したい(役に立ちたい)とか、「優しい」と思われたい、という衝動は充分「優しい」行為の必要条件を満たしていると思います。
そこを他人とシンクロさせるのは、やはり「対話」なのか。(・・・んっ)
by トンデモブラウ (2010-02-25 08:47) 

cosi

Judgement さんのまとめには、うなりました。
よくまあ、ばらばらなコメントから、すっきりまとめて、うまく表現出来るものですね。

>各人、心に描く「優しさ像」は色々、という事を認識し
>自分と他人の「優しさ像」は違う、という想像ができ
>それ故「他人には優しく思われなくても当然」と踏まえつつ
>それでも「優しくしようとする」というのが『本当の優しさ』

なるほどね。
by cosi (2010-02-25 12:45) 

naoko

よくまあ、三人三様の意見をすっきりまとめられるなあ、という感想は、cosiさんといっしょです(笑)。

欲を言えば、Judgementさんが、他人を見て、どういう人に触れ合ったとき、相手を「やさしい」と感じるか、も知りたかったカナ。
「この人は、なんてやさしい人なんだろう、自分もそうなれたらなあ」って深く感銘を受ける瞬間って、だれでも経験してると思うんだ。
そういうのって、当人の「やさしさ感」の形成には不可欠だから。

ま、これもちょっとデリケートな問題ではあるよね。
by naoko (2010-02-26 13:40) 

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