血液型と性格にまつわるニセ科学の蔓延防止策 [血液型分類による性格類型説]
前回の結論は「能見さんは単なる素人のおっさん」だったけど、とはいえ、「素人だから虐めないようにしよう」とは考えない。
それとこれとは話が別なのだ。
素人だろうと玄人だろうと本として世間に示した以上、世間から評価を受けるのは当然。
当人は称賛が寄せられる事ばかり期待しているだろうけど、そうは問屋が卸さない。
批判だってまっとうな評価なんだから。
とっくに鬼籍に入った人を鞭打つなんて非道な...
と思うお優しい方もいるかもしれないけれど、死後も評価されたいと思うから「本」という永続性のあるメディアで自分の意見を世間に向けて発信する事を決めたんだろうしね。
そーいうことで、私個人としては「能見叩き」は大歓迎(B研さんとこなんか、微に入り細に入りの徹底的な批判は大好きで、どんどんやって欲しいと個人的には期待している)。
ただ、今回は、「血液型分類による性格類型説」の蔓延防止に効果的かという観点ではどうなんだろう?という話。
【蔓延防止に有効か】
確かに皆が「科学的だから」信じているならば、「科学的ではない」事を示すのは効果的だろう。
しかし、本当に「科学的だから」信じているのか、に疑問を呈したのが前々回の記事だ。
私が捉える限りにおいては、一見『頑固な「能見支持者」』に見える人も、実は「自分独自の解釈」に頑固なだけ。そして、支持者層の大多数は、おそらく能見氏の著作なんてろくに読んではいないだろう人であり、「始祖の能見氏が科学的かどうか」なんて、はなから検討材料になっていないと見受けられた。
さらに付け加えれば、マスコミも最近では掌を返し、「科学的ではない」という主張を積極的に取り上げるようになっている。
となれば、もし支持者層が「科学的だから信じる(科学的でないなら信じない)」人で多数を占めているのであれば、今頃は絶滅しかけててもいいはず。
だけど、現実はそうではない。増えてはいないかもしれないけど、さほど減ってもいないわけだ。
「それはマスコミのアナウンスが不十分だからだ」と言うかもしれないが、それはどうだろう。
「血液型分類による性格類型説」はマスコミにより蔓延したならば、マスコミが「血液型分類による性格類型説は科学的ではない説」を流せば、その情報は同じ層に蔓延するはずではないだろうか。
そして、マスコミにより「血液型分類による性格類型説」を信じたならば、マスコミにより「血液型分類による性格類型説が科学的でない」事も信じるはず。
だから、実は大抵の人は、まさにその通りに、「科学的ではない」って事はある程度受け入れた上で、「だけど、やっぱなんか信じちゃう」ぐらいの感覚で受け入れているんじゃないのかな。
【外れ値】
モチロン「科学的ではない」事を示す事は、蔓延防止に微塵も役に立たない、と言いたいわけではありません。
例えば、ABOFANクンのように能見氏を盾にしつつ、より歪んだ論理を強引に展開させるような人間が現に存在する。そんな人間が「間違った科学」を言いふらす事をのさばらせておけば、「科学的だ」と確信するやっかいな信者を発生させる危険性が増すわけだ(現に、例の人のHPを見ると、彼のおかげて「納得」してしまったような人のコメントがちらほら見られます)。
それに対し、キチンと「科学的ではない」事を説明する事で、そんな輩の姑息な盾を奪うと同時に、能見氏の同じ過ちを踏襲する愚かさ露呈させるという、一石二鳥の効果が期待できる。
しかし、例えばABOFAN氏が「血液型と性格の関係」の支持者のスタンダードかというと、とてもそうは思えない。むしろ、「外れ値」だからこそあれだけ目立つ。
彼のHPだって、某巨大掲示板の「血ヲタ叩き」あたりは、「血液型分類による性格類型説」の撲滅を錦の御旗にして、すぐ「閉鎖、閉鎖」と騒ぐけど、単に「目立っている」という事だけで標的になっているんじゃないかと思う。
あんなハードなのHPを詳細に読むなんて人は、間違い探しを目的とした人か、同類のハードな信者ぐらいだってば。
軽い気持ちで「血液型と性格の関係」にアプローチするつもりの人は、トップ頁を開いただけで逃げ出すよきっと(そんな人達が求めるのは、単に結論であり、分かりやすさだから)。
まぁ、それでも頑張って読んでみようという「フラットな探求者」もたま~に出現するかもしれないけど、次に超えなくてはならないのは、あのABOFANクン特有のぶっ飛んだ論理(?)展開だ。
それすら乗り越えて、「納得できる」に到達できるのは、かなりレアな特殊技能だと思うよ。
つまり、ABOFANクンという「外れ値」に触発されてしまうような人もまた「外れ値」の可能性大、ということ。
そう考えると、私はABOFAN(HP)が、蔓延を助長しているとはあまり思わない。
それよりも、「血液型と性格情報アーカイブ」及び、かの「ABOFANへの手紙」のミラーサイト(ホントは本家なんだけど)として、存在する事のメリットの方がでかいんじゃないかな。
で、「外れ値」は、奇矯だからこそ目立つし目障りだから、抹殺しておくには越した事はないけど、所詮「外れ値」なわけで、抹殺しても「本体」は痛くも痒くもないのではなかろうか。
つまり、「科学的ではない」事を示す事で局所的な効果は出るだろうけど、その効果は「蔓延」という広い現象に対しては、微々たるものですよという事がいいたい。
【どのように対策すればいいか】
私は、趣味として「ABOFANクンいびり」をやっていただけで、「蔓延防止」という大義名分を振り回すつもりはないのだけど、まぁ、それに関連する色々なテクニックを意図的に潜ませていたりもする。
それはおいおい話す事として、ここでは他人の手柄を述べよう。
<まずは前提の話>
そもそも「能見氏の科学性」なんて当人がそう言っているだけで、最初からそんなものは無いんですよね。データの扱いも統計もなってないし、用語の整理も定義もできていないし、論理もおかしい。そんなのを無理矢理くっつけて、都合の良い仮説を並べているだけだ。
っていうか、コレ「素人のおっさんが書いた一般書」だよ。
それを求めるのは、場末の食堂でフランス料理のフルコースを出させようとするものじゃないかな。
...というぐらいの「常識的な判断」は、普通の人はできる、というのが私の前提です。
(「ニセ科学」の悪質さをデフォルメするために、大衆の能力を低く見積もるのは失礼)
だから、科学者でもないただのおっさんが「科学的」というのを、読者は鵜呑みにしているわけではない、と捉えます。
では、何故信じているのかといえば、やっぱり「(理由はどうあれ)当たっているから」でしょう。
つまり、「血液型分類による性格類型説」が蔓延する原因は、「科学的」という他人による“(偽の)保証”があるからではなく、「当たっている」という自分自身の“実感”により保証されていると感じてるからだと、考えています。
で、「当たっている」事で、初めて「素人のおっさん」に対する信頼が生まれる。
それにより、「素人のおっさん」が吹聴する「科学的だ」という事も、「(理屈はよーわからんけど)信じていいのかな」となっているのだと思う(そのあたりの詳しい理由付けは前々回の記事参照)
※ 心理学的には「ハロー効果」かな?
となると、「科学的」というファクターは。「当たっている」から“おまけ”で信じてやっているようなもの。だから、『おまけ』を打ち消しても、「血液型分類による性格類型説」を信じる本当の理由『当たっているから』は残り続ける。
...となると、何をすべきかはだいたい分かりますよね。
あ、「当たっていない事」を示す、ではありませよ。
『当たっていると感じる事』が正しい証拠にならない事を示す事です
【実例】
おそらく、作家の松岡氏は、私と同様に考えているのでしょう。
(ネタバレになりますが、ここに来るような人は既に読んでいるでしょう)
彼の小説『ブラッドタイプ』において、主人公達が取った「血液型差別を無くすための手段」は、「科学的でない事」を示す事ではなく、「デタラメでも当たっているように感じる」という心理的バイアス(バーナム効果)を立証する事でした。
そして、おそらく心理学者はとっくの昔にその結論に辿り着いていたのでしょう。
だからこそ、「科学的かどうか」といったヨタ話に付き合う如き検証はそこそこに切り上げて、「何故信じるのか、どう信じるのか、それはどう変わるのか」に重点を置いた研究を積み重ねているのですね、たぶん。
ただ、現実には「血液型性格判断は科学的ではないとされている」程度は述べる良識があるマスコミでも、「バーナム効果」を積極的にクローズアップして紹介するのは躊躇するでしょうね(定番の人気コーナーであろう「星占い」の否定になるもん)。
【まとめ】
「何が間違っているのか」とかいう『発信側の問題』の追求をするのは、それはそれで意義があると思うけど、あくまで「蔓延防止を目的にする」と言うのであれば、蔓延の主体である「騙される側」に目を向け、「何で信じるのか」という『受信者側の問題』を考えないといけない、というのが結論。
それに関連して批判的な事を言っちゃおう。
私は以前『騙す側』の視点で「何故騙されるのか」についての記事を書き、その中で、『騙す側』としては、知的レベルの高い人の方が騙しやすいという事を述べた。
だけど、それについては結構否定的な意見が出されたね。
そんな事を言う方々は、「バカだから騙される」、あるいは「騙されるのはバカだ」という意識がビッシリと根を張っているのでしょう。
私と皆さんのどちらが正しいか、というのは置いておいて、もし、そんな意識を持っているとすれば「ニセ科学批判」のスタンスというものは、途端にどす黒いものに色を変えてしまいますよ。
「騙される人が出ないよう、騙す人を徹底的に排除しよう」
そのコトバは
「バカがかわいそうだから、(バカとは違う)利口な僕らが騙す人をこらしめなくちゃ」
に変換されてしまう。
非常に腹立たしい「上から目線(←あえて使う)」じゃないか。
そして、「騙される人を守る」と気炎を吐く事で、相対的に自分を「騙される人」に対する強者の位置に置くわけだ。
このあたりは、「過保護な親」を思い浮かべさせる。
子供を過小評価する事で、相対的に自分が強者でいられる状況に満足感を得ている、って感じ。
ついでに...
『騙す側』は、『騙される側』をあまりナメない(失敗すると死活問題だしね)。
むしろ、『騙される側』をナメているのは、『騙される側を守る』と自称する側じゃないのかな、と思う今日この頃だ。
ちなみに、現実には「自分は騙されない」と思う人ほど騙しやすい人はいない。
ご注意を
《長い余談:FAQなイチャモンに先に反論》
バーナム効果の話を出すと
「バーナム効果では、血液型と性格の関係がある事は否定されない」
と言う人がいそう。
確かに「当たっていても当たっていると感じる」わけですから、一理ある。
でもね、「素人のおっさん」のファンタジーがまぐれ当たりする確率はどれくらい?
ゼロじゃなくても、極めて低いよね。
それだけでも、「当たっている可能性」に配慮するよりも、「当たっていない」という前提で考えるのが妥当だ、って思えないかなぁ。
しかも、それだけで十分と思う私と違って、心理学者はあえて能見氏の主張の妥当性について、能見氏よりかはずっと適切な方法で検討し、その上で棄却しているわけだ。
...ああ、それでも信者は「あれはやり方が十分ではない」と言うんだろうなぁ。
でも、そんな奴らにとっての“十分な方法”ってのは、「自分に都合の良い結果が出る方法」でしょ。「結果から方法を評価」するようなバカに真面目に付き合うだけ無駄。
というか、「根本的に間違った方法の結果」で“ある”と言われたのを鵜呑みにしているくせに、「それよりかも妥当性のある方法」で出た結果にはイチャモンつけるってのは、支離滅裂よ。
ついでに言えば、心理学者のデータに対して、この一部には有意差がある、こう構成すれば有意差が出る、と重箱のすみつつくような話をするのは本末転倒。
まず、定番だけど統計をよく知らないくせに、よくそんな事が言えるね、ってのがある。
20項目ぐらいをそれぞれ検定をかけて危険率5%で評価すれば、「“血液型と性格に全く関係が無くても”1項目ぐらいは偶然の大きく隔たったデータにより「有意差」が出るといった話は、「多重比較の問題」といって基礎中の基礎の知識。
でも、ある方(本人の名誉のため某Aクンとしておく)はつい最近まで「危険率5%というのは、20個有意差が出たとすれば、1個ぐらいは間違いだ」といった解釈をしていたようだ。
だから、「多重比較の問題」なんてどこへやら、何度も検定かけようと、どっかで「有意差」の結果が出さえすればそれは95%の確率で正しい、とでも思っていたのだろう。
これじゃまるで話にならない。
そもそも、能見氏のもっと根本的な問題に、信者のくせに気付いていない。
能見という素人さんは
・ 不十分なデータと不適切な検証
・ 「自分の観察眼」というどこに信頼性を求めていいか分からない感覚的な評価
こんなノイズだらけの情報を元にしてもなお、「血液型で性格が分かる」と豪語しているわけですね。
ここで「信号検出理論」を考えてみる。
これは、簡単に言えば、信号が小さくてもノイズ成分が小さければ信号が検出できるけど、信号が大きくてもノイズ成分も大きくなれば信号の検出は難しくなる、といった感じの話。
釣りを想像してもらうといい。
「魚の引き」に伴うウキの動きは、水面が静かなら小さくても正確に判断できるけど、大波のなかでは大きくても正確に判断するのは難しいのと同じ。
で、能見氏は、観察状況は『ノイズ成分が大きい』にもかかわらず、その観察結果で「血液型で性格が分かる」と言えるほどでかい信号を検出した、と主張をしているわけですね。
もしもその信号が本当の信号であれば、だけどノイジィな条件で既にでかい信号なんだから、「ランダムサンプリングをしたり、よりバイアスの低い評価をさせたり、主観を排除する評価をしたり」する事で、ノイズを相殺したり除去したりする事で、もっとはっきりくっきり「とんでもない大きな差」が出てしかるべきでしょう。
なのに何?
部分的な有意差がどうのこうのと「ワラにすがるような」事言わなければならなくなるような「こすっからい差」しか出なかったんだよね。
その時点で、『能見氏は血液型の影響を看破していたのではなく、単にノイズを血液型の影響と錯覚していただけ』と言うことが決定。
とすれば、そんな思い違いの上でなされた、「血液型で性格が分かる」という大前提や、それに伴う「○型はXな気質」等という主張も、一緒に崩壊する事になるわよねぇ。
って考えると、「有意差の有無」なんてギリギリの次元で語ろうとする時点で、その人も「能見氏の主張」を否定しているようなもんなんだから、「能見氏の正しさ」を示すためと言ってそんな事を言い出すのは「本末転倒」。
おお、それでも
「でもでも、そこまで大きな差はなくても、“関係する”と言える程度の小さな差はあるかもしれないじゃないか」
と食い下がるのかな。
そうね、そうでちゅね。
確かに「絶対無いと言えるのか」と言われたら「知らん」としか言えないわ。
でも、そんなの、結果を知った後の「あなた」の願望でしかないよね。
しかも「あなた」の願望の元となる「“能見氏”の主張の妥当性」は先に崩壊しているのに、何を引き摺っているのかしら。
それって「徳川埋蔵金の地図」を検討したら「全くの偽造」と判明したにもかかわらず、「でも、その地図が示す場所に徳川家も小銭くらい埋めたかもしれないじゃないか」とダタをこねるようなものだよ。
瓦礫の中から必死で使えそうなモノを探すのはかまわないけどさ。
使えるものを見つける前に、人を巻き込むな。
それとこれとは話が別なのだ。
素人だろうと玄人だろうと本として世間に示した以上、世間から評価を受けるのは当然。
当人は称賛が寄せられる事ばかり期待しているだろうけど、そうは問屋が卸さない。
批判だってまっとうな評価なんだから。
とっくに鬼籍に入った人を鞭打つなんて非道な...
と思うお優しい方もいるかもしれないけれど、死後も評価されたいと思うから「本」という永続性のあるメディアで自分の意見を世間に向けて発信する事を決めたんだろうしね。
そーいうことで、私個人としては「能見叩き」は大歓迎(B研さんとこなんか、微に入り細に入りの徹底的な批判は大好きで、どんどんやって欲しいと個人的には期待している)。
ただ、今回は、「血液型分類による性格類型説」の蔓延防止に効果的かという観点ではどうなんだろう?という話。
【蔓延防止に有効か】
確かに皆が「科学的だから」信じているならば、「科学的ではない」事を示すのは効果的だろう。
しかし、本当に「科学的だから」信じているのか、に疑問を呈したのが前々回の記事だ。
私が捉える限りにおいては、一見『頑固な「能見支持者」』に見える人も、実は「自分独自の解釈」に頑固なだけ。そして、支持者層の大多数は、おそらく能見氏の著作なんてろくに読んではいないだろう人であり、「始祖の能見氏が科学的かどうか」なんて、はなから検討材料になっていないと見受けられた。
さらに付け加えれば、マスコミも最近では掌を返し、「科学的ではない」という主張を積極的に取り上げるようになっている。
となれば、もし支持者層が「科学的だから信じる(科学的でないなら信じない)」人で多数を占めているのであれば、今頃は絶滅しかけててもいいはず。
だけど、現実はそうではない。増えてはいないかもしれないけど、さほど減ってもいないわけだ。
「それはマスコミのアナウンスが不十分だからだ」と言うかもしれないが、それはどうだろう。
「血液型分類による性格類型説」はマスコミにより蔓延したならば、マスコミが「血液型分類による性格類型説は科学的ではない説」を流せば、その情報は同じ層に蔓延するはずではないだろうか。
そして、マスコミにより「血液型分類による性格類型説」を信じたならば、マスコミにより「血液型分類による性格類型説が科学的でない」事も信じるはず。
だから、実は大抵の人は、まさにその通りに、「科学的ではない」って事はある程度受け入れた上で、「だけど、やっぱなんか信じちゃう」ぐらいの感覚で受け入れているんじゃないのかな。
そんなの憶測だよ、と言われればそれまでなんだけど、そんな事を言う人がいるならばぜひ聞きたい。
そういう人は「血液型分類による性格類型説」を信じる大多数層はどう想定しているの?
『「科学的じゃない」という情報を聞いても、やっぱり科学的だと信じるバカ』って事?
まぁ、その可能性は否定しないけど、もしそうなら「バカは死ぬまで治らない」の如く、できる対策なんてまるでなくなっちゃうなぁ。
【外れ値】
モチロン「科学的ではない」事を示す事は、蔓延防止に微塵も役に立たない、と言いたいわけではありません。
例えば、ABOFANクンのように能見氏を盾にしつつ、より歪んだ論理を強引に展開させるような人間が現に存在する。そんな人間が「間違った科学」を言いふらす事をのさばらせておけば、「科学的だ」と確信するやっかいな信者を発生させる危険性が増すわけだ(現に、例の人のHPを見ると、彼のおかげて「納得」してしまったような人のコメントがちらほら見られます)。
それに対し、キチンと「科学的ではない」事を説明する事で、そんな輩の姑息な盾を奪うと同時に、能見氏の同じ過ちを踏襲する愚かさ露呈させるという、一石二鳥の効果が期待できる。
しかし、例えばABOFAN氏が「血液型と性格の関係」の支持者のスタンダードかというと、とてもそうは思えない。むしろ、「外れ値」だからこそあれだけ目立つ。
彼のHPだって、某巨大掲示板の「血ヲタ叩き」あたりは、「血液型分類による性格類型説」の撲滅を錦の御旗にして、すぐ「閉鎖、閉鎖」と騒ぐけど、単に「目立っている」という事だけで標的になっているんじゃないかと思う。
あんなハードなのHPを詳細に読むなんて人は、間違い探しを目的とした人か、同類のハードな信者ぐらいだってば。
軽い気持ちで「血液型と性格の関係」にアプローチするつもりの人は、トップ頁を開いただけで逃げ出すよきっと(そんな人達が求めるのは、単に結論であり、分かりやすさだから)。
まぁ、それでも頑張って読んでみようという「フラットな探求者」もたま~に出現するかもしれないけど、次に超えなくてはならないのは、あのABOFANクン特有のぶっ飛んだ論理(?)展開だ。
それすら乗り越えて、「納得できる」に到達できるのは、かなりレアな特殊技能だと思うよ。
つまり、ABOFANクンという「外れ値」に触発されてしまうような人もまた「外れ値」の可能性大、ということ。
そう考えると、私はABOFAN(HP)が、蔓延を助長しているとはあまり思わない。
それよりも、「血液型と性格情報アーカイブ」及び、かの「ABOFANへの手紙」のミラーサイト(ホントは本家なんだけど)として、存在する事のメリットの方がでかいんじゃないかな。
で、「外れ値」は、奇矯だからこそ目立つし目障りだから、抹殺しておくには越した事はないけど、所詮「外れ値」なわけで、抹殺しても「本体」は痛くも痒くもないのではなかろうか。
つまり、「科学的ではない」事を示す事で局所的な効果は出るだろうけど、その効果は「蔓延」という広い現象に対しては、微々たるものですよという事がいいたい。
【どのように対策すればいいか】
私は、趣味として「ABOFANクンいびり」をやっていただけで、「蔓延防止」という大義名分を振り回すつもりはないのだけど、まぁ、それに関連する色々なテクニックを意図的に潜ませていたりもする。
それはおいおい話す事として、ここでは他人の手柄を述べよう。
<まずは前提の話>
そもそも「能見氏の科学性」なんて当人がそう言っているだけで、最初からそんなものは無いんですよね。データの扱いも統計もなってないし、用語の整理も定義もできていないし、論理もおかしい。そんなのを無理矢理くっつけて、都合の良い仮説を並べているだけだ。
っていうか、コレ「素人のおっさんが書いた一般書」だよ。
それを求めるのは、場末の食堂でフランス料理のフルコースを出させようとするものじゃないかな。
...というぐらいの「常識的な判断」は、普通の人はできる、というのが私の前提です。
(「ニセ科学」の悪質さをデフォルメするために、大衆の能力を低く見積もるのは失礼)
だから、科学者でもないただのおっさんが「科学的」というのを、読者は鵜呑みにしているわけではない、と捉えます。
では、何故信じているのかといえば、やっぱり「(理由はどうあれ)当たっているから」でしょう。
つまり、「血液型分類による性格類型説」が蔓延する原因は、「科学的」という他人による“(偽の)保証”があるからではなく、「当たっている」という自分自身の“実感”により保証されていると感じてるからだと、考えています。
で、「当たっている」事で、初めて「素人のおっさん」に対する信頼が生まれる。
それにより、「素人のおっさん」が吹聴する「科学的だ」という事も、「(理屈はよーわからんけど)信じていいのかな」となっているのだと思う(そのあたりの詳しい理由付けは前々回の記事参照)
※ 心理学的には「ハロー効果」かな?
となると、「科学的」というファクターは。「当たっている」から“おまけ”で信じてやっているようなもの。だから、『おまけ』を打ち消しても、「血液型分類による性格類型説」を信じる本当の理由『当たっているから』は残り続ける。
...となると、何をすべきかはだいたい分かりますよね。
あ、「当たっていない事」を示す、ではありませよ。
『当たっていると感じる事』が正しい証拠にならない事を示す事です
【実例】
おそらく、作家の松岡氏は、私と同様に考えているのでしょう。
(ネタバレになりますが、ここに来るような人は既に読んでいるでしょう)
彼の小説『ブラッドタイプ』において、主人公達が取った「血液型差別を無くすための手段」は、「科学的でない事」を示す事ではなく、「デタラメでも当たっているように感じる」という心理的バイアス(バーナム効果)を立証する事でした。
そして、おそらく心理学者はとっくの昔にその結論に辿り着いていたのでしょう。
だからこそ、「科学的かどうか」といったヨタ話に付き合う如き検証はそこそこに切り上げて、「何故信じるのか、どう信じるのか、それはどう変わるのか」に重点を置いた研究を積み重ねているのですね、たぶん。
ただ、現実には「血液型性格判断は科学的ではないとされている」程度は述べる良識があるマスコミでも、「バーナム効果」を積極的にクローズアップして紹介するのは躊躇するでしょうね(定番の人気コーナーであろう「星占い」の否定になるもん)。
【まとめ】
「何が間違っているのか」とかいう『発信側の問題』の追求をするのは、それはそれで意義があると思うけど、あくまで「蔓延防止を目的にする」と言うのであれば、蔓延の主体である「騙される側」に目を向け、「何で信じるのか」という『受信者側の問題』を考えないといけない、というのが結論。
それに関連して批判的な事を言っちゃおう。
私は以前『騙す側』の視点で「何故騙されるのか」についての記事を書き、その中で、『騙す側』としては、知的レベルの高い人の方が騙しやすいという事を述べた。
だけど、それについては結構否定的な意見が出されたね。
そんな事を言う方々は、「バカだから騙される」、あるいは「騙されるのはバカだ」という意識がビッシリと根を張っているのでしょう。
私と皆さんのどちらが正しいか、というのは置いておいて、もし、そんな意識を持っているとすれば「ニセ科学批判」のスタンスというものは、途端にどす黒いものに色を変えてしまいますよ。
「騙される人が出ないよう、騙す人を徹底的に排除しよう」
そのコトバは
「バカがかわいそうだから、(バカとは違う)利口な僕らが騙す人をこらしめなくちゃ」
に変換されてしまう。
非常に腹立たしい「上から目線(←あえて使う)」じゃないか。
そして、「騙される人を守る」と気炎を吐く事で、相対的に自分を「騙される人」に対する強者の位置に置くわけだ。
このあたりは、「過保護な親」を思い浮かべさせる。
子供を過小評価する事で、相対的に自分が強者でいられる状況に満足感を得ている、って感じ。
ついでに...
『騙す側』は、『騙される側』をあまりナメない(失敗すると死活問題だしね)。
むしろ、『騙される側』をナメているのは、『騙される側を守る』と自称する側じゃないのかな、と思う今日この頃だ。
ちなみに、現実には「自分は騙されない」と思う人ほど騙しやすい人はいない。
ご注意を
《長い余談:FAQなイチャモンに先に反論》
バーナム効果の話を出すと
「バーナム効果では、血液型と性格の関係がある事は否定されない」
と言う人がいそう。
確かに「当たっていても当たっていると感じる」わけですから、一理ある。
でもね、「素人のおっさん」のファンタジーがまぐれ当たりする確率はどれくらい?
ゼロじゃなくても、極めて低いよね。
それだけでも、「当たっている可能性」に配慮するよりも、「当たっていない」という前提で考えるのが妥当だ、って思えないかなぁ。
しかも、それだけで十分と思う私と違って、心理学者はあえて能見氏の主張の妥当性について、能見氏よりかはずっと適切な方法で検討し、その上で棄却しているわけだ。
...ああ、それでも信者は「あれはやり方が十分ではない」と言うんだろうなぁ。
でも、そんな奴らにとっての“十分な方法”ってのは、「自分に都合の良い結果が出る方法」でしょ。「結果から方法を評価」するようなバカに真面目に付き合うだけ無駄。
というか、「根本的に間違った方法の結果」で“ある”と言われたのを鵜呑みにしているくせに、「それよりかも妥当性のある方法」で出た結果にはイチャモンつけるってのは、支離滅裂よ。
ついでに言えば、心理学者のデータに対して、この一部には有意差がある、こう構成すれば有意差が出る、と重箱のすみつつくような話をするのは本末転倒。
まず、定番だけど統計をよく知らないくせに、よくそんな事が言えるね、ってのがある。
20項目ぐらいをそれぞれ検定をかけて危険率5%で評価すれば、「“血液型と性格に全く関係が無くても”1項目ぐらいは偶然の大きく隔たったデータにより「有意差」が出るといった話は、「多重比較の問題」といって基礎中の基礎の知識。
でも、ある方(本人の名誉のため某Aクンとしておく)はつい最近まで「危険率5%というのは、20個有意差が出たとすれば、1個ぐらいは間違いだ」といった解釈をしていたようだ。
だから、「多重比較の問題」なんてどこへやら、何度も検定かけようと、どっかで「有意差」の結果が出さえすればそれは95%の確率で正しい、とでも思っていたのだろう。
これじゃまるで話にならない。
そもそも、能見氏のもっと根本的な問題に、信者のくせに気付いていない。
能見という素人さんは
・ 不十分なデータと不適切な検証
・ 「自分の観察眼」というどこに信頼性を求めていいか分からない感覚的な評価
こんなノイズだらけの情報を元にしてもなお、「血液型で性格が分かる」と豪語しているわけですね。
ここで「信号検出理論」を考えてみる。
これは、簡単に言えば、信号が小さくてもノイズ成分が小さければ信号が検出できるけど、信号が大きくてもノイズ成分も大きくなれば信号の検出は難しくなる、といった感じの話。
釣りを想像してもらうといい。
「魚の引き」に伴うウキの動きは、水面が静かなら小さくても正確に判断できるけど、大波のなかでは大きくても正確に判断するのは難しいのと同じ。
で、能見氏は、観察状況は『ノイズ成分が大きい』にもかかわらず、その観察結果で「血液型で性格が分かる」と言えるほどでかい信号を検出した、と主張をしているわけですね。
もしもその信号が本当の信号であれば、だけどノイジィな条件で既にでかい信号なんだから、「ランダムサンプリングをしたり、よりバイアスの低い評価をさせたり、主観を排除する評価をしたり」する事で、ノイズを相殺したり除去したりする事で、もっとはっきりくっきり「とんでもない大きな差」が出てしかるべきでしょう。
なのに何?
部分的な有意差がどうのこうのと「ワラにすがるような」事言わなければならなくなるような「こすっからい差」しか出なかったんだよね。
その時点で、『能見氏は血液型の影響を看破していたのではなく、単にノイズを血液型の影響と錯覚していただけ』と言うことが決定。
とすれば、そんな思い違いの上でなされた、「血液型で性格が分かる」という大前提や、それに伴う「○型はXな気質」等という主張も、一緒に崩壊する事になるわよねぇ。
って考えると、「有意差の有無」なんてギリギリの次元で語ろうとする時点で、その人も「能見氏の主張」を否定しているようなもんなんだから、「能見氏の正しさ」を示すためと言ってそんな事を言い出すのは「本末転倒」。
おお、それでも
「でもでも、そこまで大きな差はなくても、“関係する”と言える程度の小さな差はあるかもしれないじゃないか」
と食い下がるのかな。
そうね、そうでちゅね。
確かに「絶対無いと言えるのか」と言われたら「知らん」としか言えないわ。
でも、そんなの、結果を知った後の「あなた」の願望でしかないよね。
しかも「あなた」の願望の元となる「“能見氏”の主張の妥当性」は先に崩壊しているのに、何を引き摺っているのかしら。
それって「徳川埋蔵金の地図」を検討したら「全くの偽造」と判明したにもかかわらず、「でも、その地図が示す場所に徳川家も小銭くらい埋めたかもしれないじゃないか」とダタをこねるようなものだよ。
瓦礫の中から必死で使えそうなモノを探すのはかまわないけどさ。
使えるものを見つける前に、人を巻き込むな。
こんばんは。
テレビなどで「証明されたわけではありません」なんて最後に小さくテロップが出るようになりましたが、これが本質的な解決になるわけではありませんが、意義は大きいと思います。
一つは、(BPOのおかげで)言い訳をしなければならないような、「取扱注意」なものであると認識させるところまで追い込んだということ。二つ目に、信じている人はまあ信じるわけですが、根拠がないと明言することで、占いや俗流スピリチュアルと同次元のものであると示すことができること(だから信じなくなるというわけではなくて、どこかで研究されてて根拠がきっちりあるようなものではない、と認識すること)、三つめに、否定的な人が自信をもって否定できるようになること、ぐらいでしょうか。
三つめが結構重要なんじゃないかと思ってるんですが、否定的に思ってる人も、圧倒的多数は根拠を持って否定しているわけではないですよね。たとえば家庭で議論になったとき、自信をもって「だってテレビだって根拠ないって言ってるだろ!そんなモノ信じるな!」とピシャリと言えるのは大きいのではないか、と。
まーそれもテレビという「権威」に頼った主張なわけなのですが、個別の問題に関する限りは、その手の「権威」がせめて「根拠はない」ぐらい言っておくのは影響があるのでは、と思います。思うだけですが。「蔓延」問題は、受信・発信とも実に曖昧ファジイな理屈で情報がやり取りされているので、難しいですね。
逆の意味で、某Aクンのサイトは、アンアンみたいな雑誌を作る人にとっては心の支えになるんだろうと思います。「あれだけデータ出して関係があるって言ってる人がいるんだから、まあいいんじゃない?」みたいな。
話の出所と流通の仕方は一旦分けて考えるのがいいんだろうと思います。
> 知的レベルの高い人の方が騙しやすい
随分昔ですが、大学院生だったころ、懇親会で東大の物理のセンセイが「血液型と性格に関係はあるんだァッ!!!」と強く主張するのを目の当たりにして以来、知的レベルとは関係ないんだなあ思っています。「方が」と言えるかはよくわかりませんが(そのセンセイ本業では立派な業績をお持ちの方です)。ちなみに小サンプルによるバイアスがかったデータを根拠にしてました。「その3人がさあ、全員◯型だったんだよ!」みたいな。その人、本業でもデータの統計的な取扱をよくやってたんだけどなあ…。(^^;;
by FSM (2009-08-29 23:15)
>三つめに、否定的な人が自信をもって否定できるようになること、ぐらいでしょうか。
>たとえば家庭で議論になったとき、自信をもって
>「だってテレビだって根拠ないって言ってるだろ!そんなモノ信じるな!」
>とピシャリと言えるのは大きいのではないか、と。
私にとっては、FSMさんの挙げた例は、ダメの部類に入っちゃう。
「テレビで言ってた」で自信を持っちゃいかんですよ。
マスコミは基本的に『こういう事を言う人がいますよ』という情報を右から左に流すだけ。
テレビが権威を持っているのではなく、テレビは権威を伝えるだけ。
...という事が周知されないのも、色々なモノが蔓延する理由だと思います。
>「蔓延」問題は、受信・発信とも実に曖昧ファジイな理屈で情報が
>やり取りされているので、難しいですね。
「曖昧ファジィ」は”My私”的ですよ...
それはおいておいて、”それだけではない可能性”を考えるのは知的好奇心を刺激しますが、その結果を「曖昧」に落とし込んでしまうと何も始まりませんよ。
一個一個”それでもある可能性”を考えて対策を考えるのも大切。
(モチロン、その対策がすべてで無い事を忘れないのも大切)
「大学教授」...しかも理系...
まぁ、その属性でも色んな人がいると思いますが、
私の知識においては「騙しやすい人」の筆頭です...
by Judgement (2009-08-30 22:44)
「占い」レベルの信じる信じないというお話に、「科学的」じゃないという反論は確かに次元が違い過ぎますね。
その戦略が、全く無駄なことだとは思いませんが。
翻って、「科学的」ってどゆこと?という興味を引くだけでも有効じゃないだろうかと。
こういう程度の問題というか線引きのレギュレーションをはっきりさせる方法をしっかり理解しておけば、世の中の「何かヘン?」に気づき易くなるでしょ。
あと、騙しやすさと知的レベルは関係あるんじゃろか?
いかにも個人的経験のみで胡散臭い。
>「バカだから騙される」、あるいは「騙されるのはバカだ」
ではなくて、「騙される人=バカ」なのですよ。
「騙すヤツは卑怯もんです。」
悪魔にあやまれ!
ちなみに「バカ」は知的レベルと次元の異なった単位です。
by トンデモブラウ@いやんバカ (2009-08-31 22:22)
え、誰が私にあやまってくれるの?
>「科学的」ってどゆこと?という興味を引くだけでも有効じゃないだろうかと。
確かにそうなんだけど、それはニセ科学蔓延対策とは別の所に置いてもかまわないものかなぁ、とも思ったり。副次的な効果しかないならばニセ科学蔓延対策とは言えないような。
>あと、騙しやすさと知的レベルは関係あるんじゃろか?
>いかにも個人的経験のみで胡散臭い。
確かに、個人的経験のみで胡散臭いケド、そもそもその経験を積んでいる人が僅少である点で貴重よ。
とはいえ、信じてもらわなくても、私にはメリットになりこそすれ、デメリットにはならないしぃ。フフフ。
by Judgement (2009-09-01 01:06)