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例えの前にする事は? [嘘と社会規範]

 さて、何度苦言を呈しようともスタンスを変えない技術開発者さんについて、まともに言及してみよう。
 この人の話を聞いていると「上手い例えができればその例えの前提は承認される」というルールがどっかにあるのかな、と錯覚しそうになりますね。


【はじめに】

 技術開発者さんのコメントを見て思うのは、「それを語る際にまず確認しなくてはならない所を、当然のように”前提“にしてしまった上で語ろうとしているなぁ」という事だ。
 
 実際には、『「騙すなかれ」が本当に社会規範となっているのか』を考察するのが先で、その上で、発生原因を考えるのが筋だろう。
 しかし、技術開発者さんは、『そういう規範がある』という前提で、それを成立させるのに都合が良いモデルケースを一生懸命考えているにすぎない。
 見事な確証バイアスっぷりだ。

 これは、血液型性格判断信者が、(実際にはロクな差がまだ見つかっていないのに)やれ脳の血液型だ、体質型だ等とあれこれ「差が有る理由」を推測し、「だから差があってもおかしくない」と主張するようなもの。

 このような弁舌は、技術開発者さんと同じように『そういう規範がある』という確証を既に持ってしまっている人にとっては、「そうそう、そうだよね」とひざを打つような心地良いものなのだろうなぁ、とは思う。
 そして、それ故に「妥当な事を言っている」と錯覚してしまう気持ちも分かる。
 
 でも、実はそうである事の証左となるような事は何一つ述べていないのである。

 「嘘」や「社会規範」や「法」なんていう話題は、それこそ人文系の得意技で、様々な研究がされているし、それを紹介する一般向けの本も沢山出ている。私も有る程度は専門知識として持っているし、一般向けの本も興味の対象として色々と読み漁っている。

 もちろん、必ず正しい専門知識の上で語るべき、なんて硬い事は言わないけれど、「ウソ」に関して語るに、あまりにも軽薄すぎる捉え方しかしないというのは問題だ。

 技術開発者さんの主張は、「自分の常識」を無条件で「正しい」と判断をしてしまった上で、その判断に都合が良い「ウソ」のほんの一部分しか見ないで語っているのではないだろうか。
 そんな事では何万語費やそうが、『「騙すなかれ」が本当に社会規範か』を説明する事はできないだろう。


 ...さて、こういった私の視点を一回受け入れてみて、もう一度彼のコメントを読み返して見て欲しい。


【社会規範の成立原因?】
まあ、社会規範というのは成立原因を考えて貰う方が、考えずに「規範だから」と従われるよりも良いのだけど、考えたあげくに「意味がない」となるようなら、考えずに「規範だから」と従われる方がよっぽどマシであるものなんですね。

社会規範(道徳、倫理)には「数学の公式」みたいな面があるんですね。社会で「この円の面積を出しておいてくれ」なんて言われて、「円の公式がなぜ正しいのか」なんてのを勉強していなかったり、勉強しても忘れていたりしても、半径を二乗して3.14を掛けることだけ覚えていれば、まあものの役に立つわけですね。もちろん、円の公式の証明も思い出して「この式で間違いない、よし」とやってくれる方が良いと言えば良いわけです。一番、悩ましいのが、「公式はこうだっけど、証明を知らないから、使わない」というのは、「役に立たない奴」と言われる訳ね(笑)。

数学の公式ならまだ、探せばたいてい教科書に書いてあるのね。社会規範というのは、かなりの部分経験的な成立というのがある訳です。そのため、証明を簡単に思い浮かべることが難しいものもあります。社会規範のうち、とても強い規範に関しては「相互利害」という根拠が思いあたりやすい面があります。例えば「殺す無かれ」という規範に関して、「人を殺すが悪くなければ、自分が人を殺しても悪いとされない代わりに、人が自分を殺しても悪いとはされない。規範があって自分が殺されない方がどうも良いみたいだ」なんてね。

>「人を騙すのはよくないことである」は、一般的な倫理的価値基準かもしれない。
> でも、「それでも人は人を騙すものだ」も、また一般的であったりする。

或る意味、「騙すなかれ」なんて規範もまた、相互利害から経験的に生まれてきた規範だと思いますが、実のところ「殺すなかれ」に比べると、かなり弱い規範であり、相互利害的な例がスルスルと浮かぶようなものでもなく、また、実際に「騙すつもりはなくても騙した形になる」ことも多く存在するものではある訳です。ただ、八百屋の大将がお客から「この前のダイコン中が傷んでいたわよ」と言われた時に、大将が「どうもすいません、お詫びに今日の代金を100円負けときます」なんてやるのは、意図しなくても「中までまともなダイコン」と騙して売ったことになる、つまり社会規範に反してしまったままであるのを嫌がるからです。私は、もし、そこで八百屋の大将が、「そんなこともありますよ」と開き直ると、八百屋のおかみさんが大将に食わせようと魚屋で買った魚が古くても「そんなこともありますよ」で我慢しなくてはならないなんて例え話をしたりしますけどね。まあ、そういう割とスッキリしない「相互利害」の例えくらいか浮かばない面はあるわけです。

人間個々は、そうやって「騙すなかれ」という規範に時々は抵触しながら生きてしまう訳ですが、そうやって抵触しながらも「社会としてはこの規範がきちんと機能している方が生きやすい」と感じてきた面はあるだろうと思います。それゆえ、公式の証明は忘れても公式を使うみたいに、「これは社会規範だ」と「守った方が良い」とできるだけ守ろうとしてきた面がありますね。

by 技術開発者 (2009-04-24 15:54)

 社会規範(数学の公式のアナロジー)について。
 私は「成立原因が分からない規範は無意味」なんて言っていないわけで、何故そんな事を、わざわざ例えまで交えて長々と述べるのか不明。

 社会規範が「かなりの部分経験的な成立」だとか、「相互利害が強い規範」と言うのはまぁ、半分ぐらいは当たっているだろう。

 問題は、いきなり『「騙すなかれ」=相互利害から経験的に生まれてきた規範』と言い切ってしまうところだ(問題点は【はじめに】参照)。
 しかも、「騙すつもりはなくても騙した形になる」事の非まで述べている。

 『「騙すなかれ」という規範に時々は抵触しながら生きてしまうけども、「社会としてはこの規範がきちんと機能している方が生きやすい」と感じ、「これは社会規範だ」と「守った方が良い」とできるだけ守ろうとしてきた面がある』
 だってさ。

 「ウソをつくのは悪いことだ」と思って自分がそうする、というのならば別にかまわないのだけど、それを社会にまで要求しようとするのならば、その前にもう少し「ウソ」について考えてからにするべきだろう。
 ある実験によれば、10分の会話中3回はウソをつく、という結果が得られている。
 もしも本当に、「騙すなかれ」という規範があるとすれば、時々どころか“常々”抵触していると言える数値だ。

 ウソや騙し、というのは非常に本能に近い行為だという事を知らないと、自分が実は無意識的に「ウソや騙し」を連発している事に気付かない。

 「できるだけ守ろうとしてきた」というのは、
 そういう”ウソ”を知りつつ、常に自省し『ウソを付かない人生』という過酷な道を歩いているのか?
 あるいは「身の程を知らない」故の大言なのか?
 それともその言葉こそがウソなのだろうか?


【原始人の冬越し?】
>線引きの問題というより、程度の問題なんですね。

なんていうか、社会規範というのは非常に実利的なものなんですね。人類が「自分たちが生き延びるのを有利にしよう」という実利的目的に基づいて、自分たちの手で形作ってきたのが社会規範ですからね。

私がこさえてみたたとえ話に「原始人の冬越し」というのがあります。冬は雪に閉じこめられる地域まで進出した原始人の群れが、秋の蓄えを少しずつ食いつなぎながら冬越しをしている訳ですね。当然、「春が早く来ないかな、そうすればもっと食えるのに」みたいな話はしたと思います。でもね、そういう希望がいつの間にか「今年は春が早く来るに違いないから、もっと蓄えを食おうよ」という話になってしまうと危ないですよね。こういう話が出て、皆が心を動かされてしまうと、「春が早く来るなんて話には根拠がないから、蓄えに手を付けるな」なんて言う話は隅に追いやられたりもする訳ですね。そうして、春が来る前に蓄えを食い尽くした頃に冬の最後の大寒波がやってきて、共食いをしながら冬を乗りきるなんてね(笑)。まあ、あくまでたとえ話というか物語にすぎないんだけど、そういう事とかから「根拠のない話を言いふらすんじゃないぞ」みたいな規範が人類の文化の中に発生したのかも知れないと思うんですね。

この場合でも「春が早く来てくれると良いな」みたいな願望を述べることまでは止める規範じゃないでしょうね。それが「春が早く来るから、蓄えはもっと食べても良いんだ」という話にすり替わる事を警戒する方向にこの社会規範は働いてきたのだろうと思います。

なんていうか、カウチポテト論なんて言い方をするんだけどね。社会規範に関して考察をするときに、「自分がそのなかで生きている社会」という認識の無い議論はとんでもなく危険なんですね。

by 技術開発者 (2009-04-27 10:10)

 「原始人の冬越し」の例で結局何が言いたいのかというと、『「根拠のない話を言いふらすんじゃないぞ」みたいな規範もある』って事なんでしょうね。

 問題は、やっぱり『それが本当に社会規範となっているのか』を考察するのが先だろ、という事(問題点は【はじめに】参照)。

 『社会規範に関して考察をするときに、「自分がそのなかで生きている社会」という認識の無い議論はとんでもなく危険なんですね。』とありますが、まず「自分が社会規範だと思い込んでいるのは、本当に社会規範なのか」(あるいは、社会規範の表現として適切か)を考えるべきではないのかな。

 「自分の常識が無条件で正しい」という危険な考えを持っていなければ、ですが。


【食料の貯蔵と分配?】
社会規範って言うのは、誰かが定めると言うより、人間というものの群れが「生きやすさ」を求める中で自然発生する実利的なものだろうと考えています。

猿と人の文化の違いなんてことで、「食料の貯蔵と分配」なんて部分を考えていくとね。どこかで「奪う無かれ」という規範の成立が必要に成ってくるのね。猿の群れでは弱い個体が手に持っている食料を強い個体が強奪して食べるなんて行動も良く観測されるのね。こういう行動に何らかの歯止めが掛からないと、貯蔵もできないし、ましてや分配という正反対の行動も発生出来ない訳です。分配という行為が最初に起こったのが親個体から子個体へであっても強奪という行為を止める部分が無いと親個体は子の個体が食べ終わるまでは守らなくてはならなくて、それは親個体が食料を手に入れる時間を減らす事になるからね。apjさんが言われる「社会コストの低減」という部分が各原始的に人類の群れの淘汰機構として働き、何らかの形で、こういう規範を成立させた群れの方が、他の群れより生存上有利になることで「生き延びて拡大する」という事がおこったのではないかと考察している訳ですね。

おそらく「人を騙す」あるいは「嘘を付く」という事も、人類が言語を発明し、それにより群れのコミニケーションが強固になる過程で発生したのではないかと思うわけです。でもって、それを咎めない群れもあれば、それを咎めるという規範を持った群れも存在した時期があるのかも知れないと思ったりします。そして、「嘘を嫌がる」という規範を成立させ、「嘘をつくものを咎める」という事をやった群れの方が、他の群れより生存上有利になることで「生き延びて拡大する」という事がおこったのではないかと考察している訳ですね。

>Judgementさんの議論に何が抜けているのかはっきりしなかったのですけど、技術開発者さんの書き込みへの反応を見る限り、法的思考(とそこに到達する前の割と入り口での規範についての思考)がほぼ完全に抜け落ちているんじゃないかという気がしてきました。

なんていいますか、規範に関する文化の伝承というのも、実は淘汰をくぐり抜けているのかも知れないと考えたりするんですね。つまり一度「奪う無かれ」とか「騙す無かれ」という規範を作り上げても、それを次の世代に伝承させなかった群れあれば、なんとか次の世代に伝承しようとした群れもあって、伝承させなかった群れは、同じ規範の再構築にエネルギーを費やす分生存上不利になって淘汰されたいったという考察です。

このようにして、現在、生き延びている人の群れの多くは、少なくとも「群れの仲間からは奪うな、群れの仲間は殺すな」という規範文化を受け継いでいる様に見えます。

by 技術開発者 (2009-04-30 13:59)

 『おそらく「人を騙す」あるいは「嘘を付く」という事も、人類が言語を発明し、それにより群れのコミニケーションが強固になる過程で発生したのではないかと思うわけです。』だって。
 ウソや騙しの歴史なんて大それた事を言うのなら、もうちょっと嘘研究の本を読んでからにしましょう。「人を」が無ければ、ウイルスですら「騙す」し、「言語的なウソ」よりも「非言語的なウソ」の方が歴史も古い。

 また、「嘘」により群れから迫害される事もあるでしょうが、「嘘」が「群れのコミニケーション」を高めるのに必要な場合もある。
 現実の対人コミュニケーションにおける嘘の効用を全く無視して、悪い所だけ取り出して「規範であるべき」というならば、およそ全ての事柄が「規範で規制されるべきもの」と言えてしまうでしょうね。
 そんな「規範の乱用」を、技術開発者さんの個人的な求めによっていくらやってみても、実際の社会の規範になっているかは別の話。
 自分の前提に都合の良い狭い部分ばかり注目していると、いつまでたっても堂々巡り...。


【仮説・仮説・仮説】
こんにちは、基本的な規範と、時代的な規範の話も書いておかないと片手落ちかも知れませんね。

上で述べたのは、まさに人間の社会が成立するための基本規範についての話です。私は「共同体規範」なんて呼んでいます。人間がまず群れとして「分配や貯蔵」「情報の共有化」と言った猿にはない「群れの強み」を持つにいたる過程で必要となる規範である訳です。

人類の文化の発生過程を追うと、そういう共同体規範の次ぎに、機能組織の成立と、その機能組織が機能的に動くための規範というのが発生してくると思っています。例えば、原始人が個々バラバラに狩りをしていたのが、勢子と仕留め役に分かれて巻き狩りを行うようになったりする訳ですね。そして、そこにはその機能体としての規範は成立してくる訳です。例えば、「勢子は途中で疲れても声を出して追うのを止めるな」とか「仕留め役は怖くてもちゃんと槍を突き刺せ」とかですね。私は、こういう規範を「機能体規範」と呼んだりします。

こういう規範は時代が代わって新たな機能体になると価値を失って、別な規範にとって代わったりする訳です。農耕が始まって、春のちょうど良いときに種まきをする方が収穫が良くなると「種まき長老が良いと言うまで種はまくな」といった規範になっていったり、皆で灌漑工事をやるのなら、「掘る溝の傾斜が計算出来る奴が言うように溝を掘れ」とかですね。

これらの機能体の成立も機能体の中で通じる機能体規範が意味を持つのも、基本的には「群れ全体が生き延びやすくなる」ということで成立し、ある意味で守られる訳ですが、人類の歴史の中では「群れ全体が生き延びやすくなる」方向ではない規範が成立してしまうこともあった訳です。群れが大きくなると、「政治を行う」という機能体が発生し、その機能体が必ずしも群れ全体が生き延びるのに良い方向では無い規範を構築して押し付けるといったことは現実にあったわけです。まあ現実に、今の日本だって「貧富格差の増大は経済活力を高めるから、所得再配分を進めるような政策はするべきではない」という新自由主義的な規範を国民の皆様が熱狂的に支持した結果(自民党が議会の2/3をとっている)として、大不況に陥っている訳ですけどね(笑)。

そういう意味では「規範の価値を疑う」というのは大事ではあるのね。ただね、ここで「考えが中途半端だと逆の結論」が得られるという事ね。共同体規範というのは、実のところ根拠が経験則的でその伝承もまた経験則なのね。そういう意味ではとても疑いやすくなってしまうしろものなんです。それに対して機能体規範というのはその機能体が社会に与えるメリットが具体的で、そのためにスッキリと納得しやすい面があるのね。「貧しい者を食い詰めるところまで貧しくしちゃダメだよ」なんて意識は共同体規範からかなりきているのね。それに対して「貧富の差を拡大させて、やる気を高めて経済のパイ全体を膨らませよう」なんてのは経済活動という機能体の方から出てくる意識ね。なんとなく、スッキリとわかる機能体規範には根拠があって、曖昧な伝承規範に過ぎない共同体規範には根拠がない様にみえるというのが怖い所ね(笑)。

by 技術開発者 (2009-04-30 14:49)

 まぁ、ご大層な仮説の数々ですが...

 『そういう意味では「規範の価値を疑う」というのは大事ではあるのね。ただね、ここで「考えが中途半端だと逆の結論」が得られるという事ね。』ですか。
 まぁ、そんな事もあるでしょうが
 「考えが中途半端だと、『まぁいいや。とにかく規範は正しいって事にしちゃえ』という日和見的な結論」になっちゃう事もあるよね。

 “疑う”とは言いがたい、「都合の良い情報のみの選択」という確証バイアスしか働かないのであれば、いつまでもその態度は変わらないのでしょうが....。


【原則と例外?】
>「人を騙してはいけない」というのは道徳規範、と言った時に、「じゃあ手品師はどうなんだ」という疑問が生じるほどに文脈が共有されない、とは考えられないんですよ。小学校じゃあるまいし。
>…というあたりで、もやもやとしています。

参考になるかどうか分からないけど、法学なんかでは「原則と例外」という整理をしますね。そして、原則には説明や証明を求めないけど、例外は説明や証明が求められる訳です。

例えば、「貸したお金は返さなくてはならない」が原則で、「不法な原因で給付されたお金は返さなくて良い」が例外なんですね。だから、なんであれ、お金の貸 し借りの事実があると「返さなきゃ成らない」という方が先に立つわけですね。それに対して、「実はあの金は賭場で『お客さんいくらか回しましょうか?』と 給付された金である」と例外要件が成り立つと「返さなくて良い」となる。このとき、「その貸借は不法原因給付である」と説明や証明する責任は例外を主張す る方が出さなくてはならない訳です。

法律の適用においては、この「原則と例外」は厳密でして、apjさんにも時々説明したこととして、刑法第230条「名誉毀損罪」の方が原則で刑法第230条の2「公共の利益のための特例」が例外なんですね。そのため、apjさんのように「この浄水器の宣伝文句は科学的では無い」とやっていると常に原則である「名誉毀損罪」の成立の危険性にサラされることになる訳です。そのため、apjさんはその書き込み において、常に例外であるところの「公共の利益のための特例」が成り立つようにしておく必要があるし、実際に心がけておられる訳です。

法律から離れた、いわゆる社会規範においても、この「原則と例外」は常につきまとうのだろうと考えています。「嘘をついてはいけない」という原則があるので「それは嘘だよ、良くないよ」は説明や証明をさほど必要としない様に文化が構築されているのだろうと思うわけです。そして、その原則の中で、「物語(フィクション)なので構わない」という例外が成り立たせるためには、例外であると言う方が「フィクションである事の明示があり、社会通念的に事実と信じ込むこ とは稀である」とかの説明や証明が必要とされるという風に文化が構築されているのじゃないかと思います。

by 技術開発者 (2009-05-07 11:13)

 その法律というものが、社会規範における最低限の事、という「狭い範囲」をカバーしたもの、という意識がすっかり抜け落ちていますね。
 Apjさんへの返事でも書いたけど、「法律の枠内」だけ見れば、「法に抵触する行為」が原則であり、除外規定は「例外」なのですが、そもそも現行の日本の法律では、原則様々な自由を保障した上で、「最低限守るべき事」として例外的に定められているものなのですよね。

 『「嘘をついてはいけない」という原則がある』って
 勝手に自分の説に都合の良い様に原則や例外を設定しないでください。
 その前に、社会にはどれだけウソが浸透しているか
 そして、それらのウソがいずれも「社会にとって悪いもの」なのか考えてみてね

 「社会規範」や「嘘」についてこれほど語る前に、自分の思い込みだけでなくて色々本などで他人の考えに触れて見る事をオススメします(細かい事ですが「法律から離れた、いわゆる社会規範」とありますが、「法律」も社会規範です)。
 例外と言えないほど沢山の嘘がこの世には溢れていますよ。


【終わりに】

 どうでした?
 apjさん曰く、技術開発者さんのコメントは
『私が見た限り、技術開発者さんの書いている内容は、六法の基本書を読んで、消費者関連の法の立法の趣旨などを考えていれば、自然に導き出せる範囲の話でしかありません。』
 だそうだけれでも、私にはその片鱗も見えないのですが...。

 自分の狭い視点と憶測だけで立てた仮説だらけの話を、したり顔でさも正しい答えを知っているかのような含み(含みだけ)で語っているようにしか私には聞こえない。
 (まぁ、したり顔の口調はキャラクターだろうけど)


 技術開発者さんは
 『「根拠のない話を言いふらすんじゃないぞ」みたいな規範』があると言ったり
 『「騙すなかれ」という規範をとできるだけ守ろうとしてきた』と言ったりしてましたよね

に も か か わ ら ず
ここでは、技術開発者さんは、“自分で掲げた規範”をあえて破って
「根拠のない仮説」を言いふらしたり
「作り話」という“ウソの範疇に入るもの”を並べたんですね。


 モチロン、私個人としては、仮説という不確かな物を土俵に上げる事も、例え話というウソをつく事も、対人コミュニケーションにおいて重要な“ウソ”だと思っていますよ。

 ただ、そういうものまで「規範」で抑制すべき、と言っているような技術開発者さんが、その規範と自分の行為を、どうおり合いつけているのかなぁ...
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zorori

おはようございます。

例え話批判に例え話でコメントするのもなんですけど、国会で法律の議論をしているときに、「基礎物理理論的にそれは正しいのか」と疑問を呈しておられるような印象をうけました。要するに、違う土俵で相撲をとっているような違和感があります。「ウソ」について人間心理のレベルから思考を積み重ね、社会生活でのウソ(詐欺商法など)の是非を判断しようとする試みは結構ですが、結論に達するのはいつになるか分からないと思います。当面の商取引ではウソはだめという近似解で十分だし、それでうまくいくんじゃないでしょうか。

レベルの違う極めて根源的な疑問を呈し「お前の主張は確実といえるのか」と詭弁を弄する人がいます。で、確かにそのレベルから考えれば確実ではありません。しかし、確実ではないのは、相手の主張だけでなく、自分の主張も同じなのです。結局、議論をうやむやにする詭弁でしかないわけです。

そもそものニセ科学の議論における「ウソはいけない」という規範が、心理学のレベルから考えるとなにか訂正や修正が必要だという積極的な提案ができるなら大変結構なことと思います。でも今のところ「それは確実なのか」という疑問を呈しているだけじゃないかという気がします。

例えば、「ウソはいけない」は無いけれど、社会規範として「いけないウソ」は有るといっても、実はなんの提案にもなっていないと思いませんか。社会規範というのは、して良いことやしてはいけないことです。ですから「いけないウソ」がいけないのは同義反復に過ぎないと思います。「社会的に害を与えるウソ」はいけないも同様です。規範になるのは、社会的に害を与えるものの具体的リストじゃないかと思うんですね。それぞれが「社会的に害を与える」を勝手に解釈すれば規範になりませんから。それよりも近似的に「ウソはダメ」とした方が実用的でしょう。社会的規範とは概ねその程度の大ざっぱなものだという気がします。

技術開発者さんのたとえ話は、「ウソはいけない」は先験的なものではなくて、社会的合意で形成されてきたものだという過程を説明して、今の社会では「ウソはいけない」と考えておおむね間違いないというだけで、別に「ウソはいけない」は常識なのだと仰っているようには思えませんでした。

by zorori (2009-05-09 08:17) 

Judgement

>社会規範というのは、して良いことやしてはいけないことです。
>ですから「いけないウソ」がいけないのは同義反復に過ぎないと思います。
>「社会的に害を与えるウソ」はいけないも同様です。
>規範になるのは、社会的に害を与えるものの具体的リストじゃないかと思うんですね。
>それぞれが「社会的に害を与える」を勝手に解釈すれば規範になりませんから。

ものすごく不思議なのは、このzororiさんの話は、私が『「ウソはいけない」は社会規範』という事に関して既に提示した問題点そのものなんですね。
う~ん、多分「BERSERK」を読んでないうちに書き込みされた気がしますので、まずそっちも読んでみて欲しい。
その上でまだ疑問が残るのであればその時説明します。

>技術開発者さんのたとえ話は、「ウソはいけない」は先験的なものではなくて、
>社会的合意で形成されてきたものだという過程を説明して、
>今の社会では「ウソはいけない」と考えておおむね間違いないというだけで、
>別に「ウソはいけない」は常識なのだと仰っているようには思えませんでした。

『今の社会では「ウソはいけない」と考えておおむね間違いない』
さて、その根拠はどこにあったでしょう。
「ウソはいけない」を前提にして、「こんな風に説明ができる」というのは散々聞かされましたが...

zororiさんにしても、結局のところご自分ではどう考えているのでしょう。
例えば、仮に「人間心理のレベルから思考を積み重ね」るが”いつ結論に達するか分からない”からよくないとして、じゃぁzororiさん自身は、何を根拠に『「ウソはいけない」は社会規範』と言えばいいと考えているのでしょうか?

>当面の商取引ではウソはだめという近似解で十分だし
>それでうまくいくんじゃないでしょうか。

と、思っているならなおさら
何故そこに留めずに『「ウソはいけない」は社会規範』と風呂敷広げるのでしょう?

>違う土俵で相撲をとっているような違和感があります。

 「違和感」だけの感想を言うのは自由ですけど...。
 私は『「ウソはいけない」というのは規範かどうか』というリングでずっと待っているのですが、『「ウソはいけない」というのは規範』と主張する側は一向にリングに上がってこない。
 まぁ、「土俵が違う」なら違うでいいと思いますよ。
 でも、どうも「違う土俵がそこにある」事が非常に気にくわないようで、リングには上がらないくせに必死に場外からマイクパフォーマンスをしに来る人がいる感じ。
 私はそのマイクパフォーマンスに反応しているだけなのに、今更「土俵が違う」と言い出すのならば、まずは必死にマイクパフォーマンスをしかけてくる人に文句言ってくれ、という感じですね。

>レベルの違う極めて根源的な疑問を呈し
>「お前の主張は確実といえるのか」と詭弁を弄する人がいます。

ただそれだけを言うなら「詭弁」なのでしょうが。
私は根拠と対案を示しているわけで、それを事を考慮した上でこういう事例を出しているのかな?

むしろ、今回のzororiさんの弁法こそ、詭弁的な箇所が見られ危ういですよ。
(以下参照)

>それよりも近似的に「ウソはダメ」とした方が実用的でしょう。

私の視点は実際は「心理学的視点」よりも前の段階
「ウソ」という現象をなるべき客観的に観察する、というだけです。
つまり「ウソ」という現象になるべく近似しようと色々考察を重ねているわけですが
zororiさんは何をして、何をどう「近似」と言っているのでしょうか

もし、自分は考察を重ねより近似させる努力をしてないくせに
「それなら結論に達するのはいつになるか分からないから」
「100%確実にはならないから」
という理屈に逃げ、自分の主張も同等のものだと言わんばかりに
>しかし、確実ではないのは、相手の主張だけでなく、自分の主張も同じなのです。
>結局、議論をうやむやにする詭弁でしかないわけです。
というのであれば、それこそ「悪しき相対主義」そのもの、じゃないかな?
by Judgement (2009-05-11 21:53) 

zorori

こんばんは、

一般的にウソについて考察することを否定しているわけではありませんし、脱線話として多少の考察もしています。ただ、ニセ科学批判の場面で「ニセ科学はウソだからいけない」と言ったら何か問題があるのかそれが分からないのです。

私が思いつく問題は、「ウソが悪いとは限らない」という反論が有る事ですが、その反論が出たと言うことは、ニセ科学がウソであることを認めたわけですから、それで十分だと私は思います。あとは、それぞれがニセ科学のウソが社会規範に抵触するかどうか判断してもらえば良いのじゃないかと。

もう少し実際的に考えると、この様な反論をするのはニセ科学批判の批判者であって、ニセ科学の主唱者はウソだとは認めません。また、ニセ科学批判の批判者はニセ科学を擁護しているわけでもありません。彼らの狙いは社会規範の成立という簡単には結論のでない世界に引き込んで議論をうやむやにすることじゃないでしょうか。つまり、ニセ科学批判者の言っている事は絶対正しいとは限らないという当たり前のことを言っているに過ぎないと。彼らは何か自分の主張があるのではなく、ただ絶対確実なことはないといって他者の否定をしているだけだと思います。

こういう事情を考えれば、ウソの是非という議論はニセ科学批判にとって不毛だという気がします。批判批判者は引っかき回してくる雑音みたいなもので、ニセ科学批判はやむを得ず雑音を消さざるを得ないだけであり、本来、対応しなければならないのは以下のような人でしょう。

1.ウソだと分かって悪徳商売をしている連中、あるいは科学だと思い込んでいるビリーバー
 彼らは、ウソをついているとも「ウソは悪くない」とも決して言いません。ウソかどうかだけが論点です。

2.ニセ科学に騙されている被害者
 彼らにもウソであると知らせれば十分です。ウソと分かったあとでどうするのかは彼らに任せれば良いと思います。

ニセ科学批判というのは、法律には問題が無いという前提で法律の条文に照らしてある行為が違法であると摘発しているようなものだと思います。しかし、うまくいかない事例が出てくれば、法改正が必要となるでしょう。では、ニセ科学批判でそのような具体的事例があるのかというと、そう言う指摘は無いと思います。批判批判者の言い分は「どんな事例にも問題無く適用できるという保証はない。」であって、具体的な問題事例の予想すらないのです。SFのウソのような害のないウソはありますけど、それに対応するニセ科学の事例はないのではないでしょうか。

以下は疑問への返答です。

>『今の社会では「ウソはいけない」と考えておおむね間違いない』
さて、その根拠はどこにあったでしょう。

>例えば、仮に「人間心理のレベルから思考を積み重ね」るが”いつ結論に達するか分からない”からよくないとして、じゃぁzororiさん自身は、何を根拠に『「ウソはいけない」は社会規範』と言えばいいと考えているのでしょうか?

先ず、上述のようにニセ科学批判ではウソかどうかが主題であって、ウソの是非は別次元の土俵が違う話ではないかと私は考えています。でも、土俵を移して説明してみます。

「ウソ」には大きく狭義と広義のウソがあると思います。標語的な規範は簡略に表現されますから、狭義のウソのことをウソと表現していて、それは暗黙の了解であると思うのです。広義のウソとは「事実と違うことを言葉で表現したもの」で狭義のウソとは「他者が考えている最も大きい文脈において誤解を与える言葉や態度」と言うことです。例えば、次の様な例で考えます。

次の文には間違いがあります。
 日本の首都は大阪です。

二番目の文は広義のウソですが、二つの文をセットにした大きい文脈では狭義のウソには当たらないと考えます。手品や小説のウソも広義のウソですが、文脈を含めると狭義のウソではないと思います。狭義のウソは他者に誤解に基づいた行動を起こさせて害を及ぼす危険性があります。他者に害を及ぼすのがなぜ悪いのかというと実はそれも無条件ではありません。他者が同じ社会に住む仲間である場合に限られます。同じ社会に住むということは社会的合意に従うということで、相手も害を及ぼして欲しくないと言っているのでそのようにしようと取り決めただけで根拠はありません。別に他の規範にしたって構わないと思います。規範の成立としてはここで終わりですが、なぜそう言う規範に取り決めたのかというと、多くの個人がそう言う規範にした方が自分に得であると判断したか経験的に知ったからでしょう。個人の判断は規範の成立メカニズムの説明であって、規範の根拠ではないことに注意してください。規範は取り決めに過ぎませんから他のものでも構いません。

それで、暗黙の了解を前提として省略してよい場合もあるだろうし、暗黙の了解について掘り下げて議論する場合もあるだろうと思います。それは状況次第だと思います。他の規範「人を傷つけてはいけない」も、医者の手術もいけないのかという反論に対応するためには、もう少し説明が必要でしょうが、傷害犯を批判する場面では、そこまで言う必要はないでしょう。障害犯が自分は医者のつもりで傷つけたのだという弁明はしないと思います。

>と、思っているならなおさら
>何故そこに留めずに『「ウソはいけない」は社会規範』と風呂敷広げるのでしょう?

確かに、商取引やニセ科学批判の場面における社会規範と限定すべきかもしれません。そうしなかったのはニセ科学批判について議論していると思ったからです。

> でも、どうも「違う土俵がそこにある」事が非常に気にくわないようで、リングには上がらないくせに必死に場外からマイクパフォーマンスをしに来る人がいる感じ。
> 私はそのマイクパフォーマンスに反応しているだけなのに、今更「土俵が違う」と言い出すのならば、まずは必死にマイクパフォーマンスをしかけてくる人に文句言ってくれ、という感じですね。

ああ、ひょっとしたら、既にニセ科学批判における「ウソはいけない」という規範が有効かという土俵ではないと言うことですか。私は相変わらずそういう土俵の話だと思っていて、社会的規範としての「ウソはいけない」の是非は別の土俵ではないかと述べてきましたけど、まるっきりお門違いのコメントを書いていたのかもしれません。一般的社会的規範としての「ウソはいけない」の是非を論ずる土俵ということでしょうか。そうだとすれば、上記の広義と協議のウソのようなことを考えています。そういう土俵が気に入らないわけでは全くありません。

>zororiさんは何をして、何をどう「近似」と言っているのでしょうか

上記の様に、社会的規範の正確な意味を簡潔な標語的表現で近似するという感じでしょうか。暗黙の了解は省略してあるので近似だということです。あるいは、法律の各条の前に括弧書きで(○○の禁止)と書いてあるようなものです。


>もし、自分は考察を重ねより近似させる努力をしてないくせに
>「それなら結論に達するのはいつになるか分からないから」
>「100%確実にはならないから」
>という理屈に逃げ、自分の主張も同等のものだと言わんばかりに
>>しかし、確実ではないのは、相手の主張だけでなく、自分の主張も同じなのです。
>>結局、議論をうやむやにする詭弁でしかないわけです。
>というのであれば、それこそ「悪しき相対主義」そのもの、じゃないかな?

上記のように、そう言う努力をする必要のない土俵だと勘違いしていたようですね。
ニセ科学批判ではウソであるということを示すのがメインであり、せいぜい、そのウソがどのような被害をもたらすかぐらいまで考えれば十分ではないかと思っていたからです。

by zorori (2009-05-12 20:44) 

necromancer

kikulogを含めこういうブログを定期的に眺めるのは、ニセ科学批判に(肯定的な意味で)興味のある人々が大部分だと思うのですが、色々な観点から疑問に感じたり問題ありと思う書き込みにも当然出会うわけです。でも、特に皆が一目置いているらしい重鎮さんに対しては、そういうのをちょっと批判しただけで、ニセ科学批判批判と見なされて叩かれそうな雰囲気を感じるため、そういう書き込みは控えておくというような人が結構いるのではないでしょうか。
ここでJudgementさんが取り上げた技術開発者さんはまさにそういう1人であると思うのですが、彼の「自分だけの前提」云々に関しては、以前Judgementさんも書き込んでいたkikulogの「血液型と性格」のエントリーで、地下に眠るMさんという方が、疑似科学の論法との類似性を指摘して以来、私は疑問に思っていました。また、当の相手との直接の議論を避けて、「皆さん」相手の何らかの示唆にとどめるというスタイルも地下に眠るMさんは批判しており、上から目線の過激な文体でしたが、内容そのものは納得のいくものでした。
とはいっても、これは私の単なる好き嫌いや印象の問題かもしれないとは疑っていたわけですが、ここでの書き込みでそうではないことがわかりました。「前提」の話もさることながら、直接の議論を避けた、Judgementさんを揶揄することが目的の茶々としか見えないような書き込みが目立ちますね。そして自分が批判された部分に関しては一切議論せず、一方的な理屈で一方的に終了宣言する。こういうの、科学的って言えるのでしょうか。
by necromancer (2009-05-22 01:28) 

Judgement

 うん。私も何で重鎮なのか良く分からないのですが、何故か仲間ウケはいいみたいですよね。
 いつも、誰かの話を元に例え話をしたり、事例を挙げたりするぐらいで、特に何か新しい提案をするわけでもないみたいなのに...。

 まぁ、彼が固定化された語り口調で何か言う、というのが「ニセ科学批判」という場の風物詩みたいな扱いになっているのかもしれませんが...。

 多分発言のベクトルが「対立相手」ではなく、「仲間」に向かっていて
「いやいやいや、皆さんのいう事は全くもって正しい事でね、ホントこんな簡単な事わからない奴はダメに決まってますよね」
 という、「迎合 & 聞こえるようにする陰口」的なところが、発言を向けられている「仲間」にとっては、非常に心をくすぐるものなのかな、と思います。

 で、本来の「対立相手」に「何言ってんだこいつ」と思われようと、necromancerさんのようなギャラリーにもなんか変な印象を与えようと、彼の目的は「仲間」の歓心を得るためだけだったりすれば、全く気にもならないのかもしれません。
 なにせ、いざとなればその「仲間」が守ってくれますから。

 基本的に彼は仲間の意見をトレースした例えをするので、トレースされた人が彼を認める事は、実は自分を認める事であり、逆に彼が批判される事は、自分が批判される事と同値になるのですね。
 だから、うかつに彼を批判すれば、そのトレース元の重鎮から攻撃を受けるかもしれないので、それを恐れる人は、彼を批判できないわけです。

>こういうの、科学的って言えるのでしょうか。

ありゃ、科学だなんだ言える次元のお話じゃないでしょ。
当人も別に科学を意識しているわけじゃないでしょうね。

ところで、「BERSERK」の最後の技術開発者さんのコメント (2009-05-14 17:04)は明らかに私宛でしたが、その時ばかりは「素の彼」が出ちゃっていたのが、何か興味深い。
by Judgement (2009-05-23 01:29) 

necromancer

>>こういうの、科学的って言えるのでしょうか。

>ありゃ、科学だなんだ言える次元のお話じゃないでしょ。

ありゃ、普段から「科学的」という言葉を勝手に拡大解釈して使っていたため、うっかり自分だけに通じる使い方をしてしまった。この種の議論の進め方として「合理的」かぐらいのつもりでした。申し訳ない。
by necromancer (2009-05-24 00:35) 

alice

一年ちょっと前にニセ科学批判を知り、そういった活動から恩恵を受けながら、それ自体には価値を感じつつ、一部の活動者のスタイルについて疑問を持ち続けていたものです。

最近のJudgementさんの一連のエントリは、私のもやもやした違和感を代弁してくれたと感じました。

特に、「ダブスタなんじゃないか」「派閥で動いているのじゃないか」「前提がおかしいってことを考え直そうとしていないのじゃないか」この3点はずっと疑問に思っていたことでした。

これらは別段科学者に限らずどんな人でも陥りがちな穴ですが、「ニセ科学批判をすることが社会に貢献そのものだ」、という盲目的な立ち位置が、その人格的なマイナス点を覆い隠すべく機能しているような気がして、怖くてなりません。

今回の論争は、おそらく最終的にはどちらも相手の有利を認めないまま別れ別れになることと思いますが、それでもこのやりとりはおおいに価値あることと思います。


by alice (2009-05-31 21:56) 

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