SSブログ

BERSERK [嘘と社会規範]

 さて、つぎはapjさんのコメントにまとめて言及する。
 今回、”遠慮”を30%減ぐらいにして、比較的アグレッシブに書いてある。
 apjさん及びapjさんと親しい方にとって「何て事言うんだ」というものになっているかもしれない。ただ、私もそれなりに彼女から揶揄は浴びせられているので、このぐらいは言わせてもらってもいいだろう。


【はじめに】

 「『ウソをついてはいけない』という社会規範が有る」と信じて疑わない人は、もしかしたら子供の頃に大人から聞かされ、それを今までずっと信じてきた純真な人なのかも知れない。

 しかし、それを教えてくれた(かもしれない)その大人自身はどうだっただろう。
 その人は全く「ウソ」を付かなかったのだろうか?
 また、実際の世の中に目を向けるとウソが溢れている。
 その中には、「社会を円滑に進めるたのウソ」だってあるわけだ。

 そのような現状を見ると、「『ウソをついてはいけない』という社会規範が有る」という事自体が"ウソ"ではないのかと疑えはしないだろうか。


【全般的な話】

 「『ウソをついてはいけない』という社会規範が有る」
 と言った時、その人の頭の中には「社会規範に反するウソ」の事しかないのだろう。
 しかし、その人の頭の中にある「ウソ」が何であるかは他の人は分かりっこないので、自分の認識している「ウソ」に当て嵌めて考える事になる。
 幸いにして、言っている人と同じ認識の人は「そうだそうだ、当然だ」となるが
そうでない人にとっては「乱暴な(不適切な)一般化」に映る。

 いや、ちゃんと頭の中の「ウソ」が何であるのかはキチンと説明していると言う人もいるだろう。
 では、それを最初の命題に含めるとどうなるだろう。
「『“社会規範に反するウソ“をついてはいけない』という社会規範が有る」
 という、非常に循環論的なおかしなものになりやしないだろうか。

 循環論法に陥ってまで「『ウソをついてはいけない』という社会規範が有る」と言い張るよりも、「社会規範に反するウソがある(社会規範に反しないウソもある)」と考えた方がよほど合理的であるし、様々な事が無理なく説明できるようになるのではないかと思う。


 その合理性を拒絶してしまうのは、おそらく「『ウソをついてはいけない』という社会規範」はその人にとって、動かし難い前提になってしまっているのだと思う。だから、それを脅かす事実があった場合、その前提を否定するよりも、それを脅かす事実の方を除外事項としようとしてしまうのだ。

 そのような身勝手な区分けは、最終的にさっきも述べたように
 「『“社会規範に反するウソ“をついてはいけない』という社会規範が有る」
 という何の説明力を持たない主張をするはめに陥ってしまう。

 疑問を持たないで正しいと信じてしまうと、それに疑問を持っている人に対する的確な説明ができないのである。


【ウソと法】
> むしろ、安易に「社会」や「一般」を持ち出してそこに理由付けしちゃう方が、私には「荒っぽく」見えるんですね。とりあえず、自分で言う事の妥当性の責任はあくまで自分で持とうよ、って感じ。
 
 字面しか捉えていないように見えます。

 「社会」や「一般」を持ち出す場合って、法がどうなってるかとか判例がどうなってるかというあたりを踏まえてるのが当たり前なんですよ。裁判所で争った場合にどういう判断が出るか、なんてことを考えているわけでして。なので、実はそれなりに精密だったりします。
 その認識が欠けたままで、自分で考えよう、というのは、トンデモへの第一歩では。

 他人の儲けに関わるニセ科学をニセだと指摘すると、訴訟のリスクはあるわけで、裁判で勝てる範囲でやるというのが妥当な範囲ってことになります。グレーゾーンはありますが。

>「人を騙すのはよくないことである」と大上段に振りかぶってはいけないのでは?

 えーと。大上段どころか誰にでも分かりやすくしたつもりですけどね。なぜいけないのかがさっぱりわかりませんけど。
 「取引における信義誠実の保障」という社会的法益、とでも言い換えましょうか?法規制にひかからないグレーゾーンまで考えるなら、もうちょっと法から離れた括り方もあるでしょうけどね。

by apj (2009-04-29 13:03)

 なんだか、良く分からない理屈でトンデモ呼ばわりされてしまいましたが...

 私が認識する限り、法においては「ウソはいけない」という規定はなく、むしろ原則言論の自由を認めた上で、「コレはダメ」という例外として「特定の状況下での」もしくは「特定の結果を導く」ウソに限定して処罰規定を設けているわけです。

 だから、法は、「社会規範に反する『ウソ』」(の一部)を規定しているにすぎず、「『ウソをついてはいけない』という社会規範が有る」事を裏付けるものではないはずです。

 「社会規範に反する『ウソ』」があるというのは私も認めるんだけれど、「『ウソをついてはいけない』という社会規範が有る」と言う場合、「社会規範に反する『ウソ』しかない」と言う事になりません?
 
 両者は、必要条件と十分条件ぐらいの隔たりがあるのです。
 必要条件を満たすからといって、「社会」や「一般」を持ち出すのはやっぱり安易だし、荒っぽいのではないのかなぁ。

 モチロン、apjさんが「法」を持ち出して言いたいことはなんとくなくわかるのね。そして、私個人としても、客観的な判断基準として法律を参照するのはすごく分かりやすく、実効的だと思います。
 でも、それは別に無理して「『ウソをついてはいけない』という社会規範が有る」前提を必要とするものではないんすね。

むしろ「社会規範に反するウソがある」と考えた方が
→「法律は最低限の社会規範を明確に示したものである」
→「法律は特定のウソについては処罰規定を設けている」
→故に、法律に反するウソは「社会規範に反するウソである」
と、無理なく合理的にまとめられる。

>えーと。大上段どころか誰にでも分かりやすくしたつもりですけどね。
>なぜいけないのかがさっぱりわかりませんけど。

 えーと、わかりませんか?

 apjさんはきっと、「人を騙すのはよくないことである」というのは当然すぎる程当然と思って、一切の疑いを持ってないのでしょうね。だから、「誰にでも分かりやすいはず」と思うのでしょうが、疑わないからこそ、荒っぽい括りである事にいつまでも気付かないのではないでしょうか。

 apjさんだって、「ニセ科学批判」という括りに対しては具体性が無く、妥当性に欠ける、という事をおっしゃいますよね。「ウソ」というのだって、同じ事だと考えればどうでしょう。
 「ウソは」と言ってしまうと、色々な「ウソ」が混在してしまい、的を射たものも、的外れなものも含む。
 だから、適切じゃないんじゃない?と言っているわけです。
 
 別に私はapjさんを批判するために「メタ」な話をしようとしているのではないのですね。『ウソにも様々な様態がありますよ』、という社会を観察すれば明らかな事を元に話しているだけです。
 でも、apjさんはどんどんどんどん視野を狭めようとする。
 私には「何かを認めたくないため」に自分に有利なフィールドに駆け込もうとしているように見えますが。


【市民運動的態度】
>というか、すごいです。
>「もしかして、あなたがこの世の規範を作っているのですね」
>と言いたい感じ(その確信感はどこから?)

 どこからきたかといえば、そりゃあ、数年に渡って悪徳商法被害者へのアドバイスを続けるという活動から出てきたものでしょうね。
 確信感があるとしたら、法学をそれなりに学んでいるというところから出てきているんじゃないかな、と思います。私が見た限り、技術開発者さんの書いている内容は、六法の基本書を読んで、消費者関連の法の立法の趣旨などを考えていれば、自然に導き出せる範囲の話でしかありません。

>「自分がそのなかで生きている社会」という認識を「自分が正しいと思う視点」に固定してしまった議論こそ、まるで「思い込みの激しい市民運動」みたいで、もっととんでもなく危険だと思う。

 現実の被害を発生させている悪徳商法対策への、相当多数にわたる個別の説得やら対処方法やらから立ち上がってきた話を、「自分が正しいと思う視点」「思い込みの激しい市民運動」と言い切るあたり、空理空論をもてあそんでいるだけの空虚さを感じますね。
 Judgementさんの議論に何が抜けているのかはっきりしなかったのですけど、技術開発者さんの書き込みへの反応を見る限り、法的思考(とそこに到達する前の割と入り口での規範についての思考)がほぼ完全に抜け落ちているんじゃないかという気がしてきました。

 いずれにしても、現実を見ないで理屈だけ、というのは、「思い込みの激しい市民運動」の特徴ににしっかりあてはまりますので、この言葉、Judgementさんにそっくりお返しいたしますよ。

by apj (2009-04-29 18:29)

 apjさんと私では、技術開発者さんの書いている内容の評価がまるっきり違うわけで、そのあたりは別記事にまとめましたが、どのあたりに「六法の基本書」が反映しているのか、とか、「消費者関連の法の立法の趣旨などを考えさえすればいいのかい」って所は詳しく聞きたいところだ。

 というか、なんというか...「思い込みの激しい市民運動」との類似点を指摘されて気分が悪いのは十分分かるのですが、類似してて困るならば「実は思い込みの激しい市民運動と同じ所があるのではないか」と疑う事が大切...じゃないみたいですね。
 「そういう評価」をはなから受け付けないものと決めてかかるから、認知的不協和の解消法として私への個人攻撃に終始してしまっている。

空理空論をもてあそんでいるだけの空虚さ?
法的思考がほぼ完全に抜け落ちている?
現実を見ないで理屈だけ?

 これらの罵詈雑言に、根拠も説明も示さないんですね。
 とりあえず、「思い込みの激しい市民運動」のレッテルを返すという目的のため
 都合良い解釈を並べてみただけかしら?
 (そして、自省の態度は片鱗も見えないわけだ)。

 自分が承伏できないからといって、空理空論と決め付けていいのかな。
 自分の“法的思考”というものが、実は非常に狭いものでしかない可能性は考えないのかな。
 自分の見ている現実とはまた別の現実があるという事は考えられないのかな。

「私達は社会の事を考えてやっているんだ、ちゃんと話し合ってやっているんだ」
 という自負の上で、「部分否定」すら「全否定」と捉え、
 とりあえず薄っぺらな否定の言葉を並べ、全力で相手を貶めようとする。

 そんなapjさんから、「思い込みの激しい市民運動」のレッテルを返してもらうわけにはいかない。


【どうしても含めなくてはならない理由?】
何て言うか、本末転倒ですね。自分トコにも書いたのですけど、

---------------------
 なぜ「人を騙してはいけない」を規範にするべきかというと、人は万能ではないので、必ず誰かの行為を信頼して暮らしていて、それで社会が回っているからである。
(中略)
 人は騙してもいい、騙される方が悪いのだということになったら、各個人で、いちいち真偽を確認しなければならなくなって、判断のためのコストが跳ね上がることになる。それを怠ると、不当に財布の中身を奪われることになる。こんなことにならないためには、「人を騙してはいけない」という規範にみんなが従った方が良いだろう。
---------------------

 で、

> この本を読む限りにおいて、菊池誠先生は「ニセ科学」を通して、「疑う事」を学んでもらおうとしているのではないのかな?

> むしろ『他人の行為への信頼を前提にしていては損をするかも』→『だから疑おう』
> という話を菊池先生はしているのではないのか?

 「疑う」の範囲を決めないと話がわからなくなりますよね。単純に、今正しいとされていることを疑ってもっと深くあれこれ調べた結果新発見につながった、という場合も「疑う」だし、嘘が蔓延していて信じると損をする社会的状況にあるから自衛のために、という場合も「疑う」。
 「疑う」に前者の効能があることは確かですが、後者の「疑う」は、既に嘘が社会に溢れている場合の対症療法ですよね。
 ただ、対症療法だけで良いとする理由も無いので、「いや、やっぱり騙すのはよくないよ」というのを共通認識にすることも意味があるでしょう。嘘をつきにくい社会にすれば、騙す(ことに荷担する)人も減るでしょうし。


> 『「人を騙してはいけない」は社会規範』を「ニセ科学」の定義にどうしても含めなくてはならない理由が知りたい。

問いの立て方が違っている気がするんだけど。
これについては、私は次のように考えています。
---------------------------
 じゃあ、なぜ「ニセ科学」という括りを設けたのかというと、他の騙しについては既に別の括りで名前がつけられ社会的対応がなされていたけど、科学を騙った嘘についてはたまたま残っていたからではないか。産地偽装、消費期限偽装、耐震強度偽装等々と呼ぶよりはやや広い括りで、しかしこれらと並記される位置に、「ニセ科学」があるのだろう。
---------------------------

 度が過ぎると薬事法にひっかかったり、景表法や特商法にひっかかることになるんだけど、そのハードルを越えない騙しはたくさんある。また、全ての騙しを全部法的に処理できるわけでもない。しかも、ハードルを越えたということは少なからぬ被害が既に発生しているということを意味する。注意喚起で対策が済むならその方が良いんだけど、現実には、「道徳の押しつけ」などと言いつつ不当な金儲けを容認する人がたくさんいるせいで、なかなか大変だから、自衛策も含めて考えようね、といったあたりじゃないかと。

by apj (2009-04-29 12:13)

 何で『「疑う」の範囲を決めないと話がわからなくなる』のだろう。
 わざわざ2つの範囲に区切ってみせているけど、結局の所「知識の進歩にも対処療法としても有効」ってだけで、何が分からなかったのか分からない(次の文ではいきなり違う話に持って行っているし)。

 というか、話がわかるわからないの問題ではなく、私は菊池先生の主張を要約しただけなのだけどね。
 なんでここに噛み付くのかな。

 で、待望の「ニセ科学」の定義にどうしても含めなくてはならない理由なんだけど...

>度が過ぎると薬事法にひっかかったり、景表法や特商法にひっかかることになる
うん

>そのハードルを越えない騙しはたくさんある。
そだね
というか、山のようにあるだろうね

>また、全ての騙しを全部法的に処理できるわけでもない。
うん。
だけど、全ての騙しを全部法的に処理すべきなの?
やっぱり「騙し=悪」という前提なの?

>ハードルを越えたということは少なからぬ被害が既に発生しているということを意味する。
そりゃそうだ。

>注意喚起で対策が済むならその方が良いんだけど、なかなか大変だから自衛策も含めて考えようね
うん。

>といったあたりじゃないかと。
え!?
どっ、どのあたり?
『「人を騙してはいけない」は社会規範』を「ニセ科学」の定義にどうしても含めなくてはならない理由は?

>問いの立て方が違っている気がするんだけど。
>これについては、私は次のように考えています。
 どういう気がしようがそれは勝手だけど、「これについては」と言いつつ、“これ”について触れないのは反則ではないのかな(というか、apjさんは私の主張を理解した上で答えているのかしら、それとも理解せぬまま答えているのかしら)。

>現実には、「道徳の押しつけ」などと言いつつ不当な金儲けを容認する人がたくさんいるせいで、、、
 そんな人達って具体的に誰かは知りませんが
 だったら「道徳の押しつけ」に見えないよう自省してみればいいんじゃないのかと思う。
 それと、もし万一、そんな自省なんてする必要が無いと思っているならば、そう言われても仕方ないかと。


【社会の把握:】
 Judgementさんの議論って、現実の被害や加害に連続的につながっている問題について、深刻なことになる前に議論やら指摘やらで何とかできる分は何とかしようという話をしているのに、その議論や指摘の部分だけを取り出して何か重大なことのように誤認させるように誘導しているように見えますね。現実の社会を見てないというか。

by apj (2009-04-29 12:48)

 私は、「ニセ科学に対する働きかけ」について必要性を感じた上で、その邪魔にならないように、認めるところは認めた上で、おかしい部分を指摘しているだけなんですが...。
 「何か重大なことのように誤認させるように誘導しているように見える」なんてのは、髪の毛一筋の批判も許さないという狭量さが招いた誤認かと。

 もっ、もしかして
 「自分らは真剣に何とかしようと頑張っているのだから」という事を理由に
部分的な違和感や、誤りを発見しても「つべこべ口に出すな」
という言論統制かしら。


 「社会のために何かをしたい」という心意気は素晴らしいものなのだけど
 自分達のしている事を「社会」で正統化させるというのは非常にやっかいなものですね。

 そのような大義名分を得ちゃっていると考えてしまうと
 自分へのどんな些細な指摘も、気にくわなければ全て
 「社会への挑戦」と問題を転化させてしまう。
 「社会」を盾に、思考を停止させてしまう、という事がままあります。

 そんなハメに陥らず、きちんと是々非々な思考をしたいならば、やっぱり
 「自分で言う事の妥当性の責任はあくまで自分で持とうよ」
 と言う事が必要なんじゃないかな。

>現実の社会を見てないというか。

 社会は複雑であり、様々な切り口が存在する、と言う事が「社会学」の前提だ。
 自分が把握できる社会は「社会全体」のほんの一部でしかない。
 だから、こういうセリフは、現実の社会をよく見ている人には言えない。
 こういう事を言えるのは、「自分は社会の全てを見ている」と思い上がった考えを持つ人ぐらい?

※ 真に誠実な人は、常に「自分は誠実か?」と疑い続けている。
  だから、自分から「自分は誠実だ」とは言わない。
  むしろ、「自分は誠実だ」と口に出せる人は、実は誠実ではない。
  ...という話に似ている。

 確かに、apjさんの見ている社会も「現実の社会」のひとつではあるけれど
 それは他の切り口を否定できる根拠には成らない。


【ケーキを食べればいいのに?】
> 私がapjさんよりも法的思考を持っているかどうかは確かめようがないけれど、私が無いと何故言えるの?

 そのちょっと前あたりに書かれた内容(特に技術開発者さんへのコメントから)。

> 私がapjさんよりも法的思考を持っているかどうかは確かめようがないけれど、私が無いと何故言えるの?私が大学で何を学んだか、今の仕事で何をやっているかも知らないくせに。

 じゃあ、何やってるか明かせばいいだけのことだけど、明かしてませんよね?「知らないくせに」という、情報にならない余計なことなら書く手間をかけるくせに。こんなことを書くよりも、ストレートに「○○やってます」で済むはずだけどね。
 何をやっているか明かさないでいるのだから、書かれた内容だけで判断されても仕方がないのでは。
> ある集団を批判した時、その批判に値しない人は正々堂々「その批判は的外れだ」と声を挙げられる。一方で”批判に値する人”は「確かにそうだ」と正直に言うだろうか。
> もし、都合の悪い人が沈黙するとすれば、実際にはある集団における”批判に値する人”の方が大部分であっても、表に挙がるのは「その批判は的外れだ」という声ばかりになる。
> しかし、実は「的外れ」の方が例外である可能性もあるのではないか。

 ある集団を批判した時、

・批判に値する人が少数いたけどその人達は都合が悪いから黙っていた。
・批判にあてはまらない人の多数は、そんな議論に労力をかけたくない等の理由(他にも理由は人の数だけあるだろうけど)から黙っていた。
・批判にあてはまらない人のうち少数が声を上げた。

ということが起きていた場合、あなたの仰る『「的外れ」の方が例外』とどうすれば区別できるのかがわかりません。表に出てきた議論の様子を見ている限りは同じに見えるんじゃないですか?

by apj (2009-05-04 15:48)

 「知らない属性を勝手に決め付けて批判する事」を問題とされているのに
 「何やってるか明かせばいいだけ」だってさ。
 「パンが無いならケーキを食べればいい」論法?

>こんなことを書くよりも、ストレートに「○○やってます」で済むはずだけどね。
 あはは、何ともイノセントな。
 ホントにそれで済むの?ネットの世界で。
 
>何をやっているか明かさないでいるのだから、
>書かれた内容だけで判断されても仕方がないのでは。

 それは正論ですが、書かれた内容をどう判断したのか、その妥当な理由を明らかにしないと、「勝手に決め付け」と評されても仕方がないですよね。

 で、apjさんは
 理由は良く分からないけど「技術開発者さんの書いている内容は法に沿ったもの」と捉え、これまた理由は良く分からないけど「それに対する私の反応から法的思考の欠如」を決め付けたのですよね...。

 私はAさんの意見を正しいと思った。
 だからそれに対するBさんの態度から○○と思った。

 ...これだけでいいなら、誰を何とでもいえるよ...。

 (次段については、PseuDoctorさんが先に私の意図通りの指摘してくれたから深くはつっこみません。)


【最後に】

 私は、apjさんの「ニセ科学」への対処の業績は認めている。

 でも、今回のコメントで感じた事を正直に言えば
 「批判するのは上手くできるが、批判された時の対処が下手」という事である。
 (一応ここではapjさん限定の話として)

 「攻め」には強いが、「守り」に弱い。
 相手の「攻め」を見極め、的確に「盾」で受け止める事は考えず
 「攻撃は最大の防御」とばかり、相手の刃を無視して、自分の刃を振り回す。
 しかも、「敵がいる所」ではなく、「敵がいると思っている所」に。

 まぁ、そういうやり方もあるのだろう。
 そうしているうちに「話にならん」とあきらめる人もいる。
 (某A氏がそうだ)

 ただ、相手の刃を見極め、突かれた弱点を鎧で覆う、という工夫をした方が後々いいんじゃないかなぁ。
 私はそういう期待をしていたのだけど...

 非常に悲しかったのは(別に私が悲しんでもしょうがないが)
 否定的なニュアンスだけ伝える事のみが目的と言えるような、キーワードが散見された事。

「字面しか捉えていないように見えます」
「現実を見ないで理屈だけ」
「本末転倒」
「問いの立て方が違っている」
「誤認させるように誘導しているように見えます」
「現実の社会を見てない」

 満足な根拠を示さず、こんな都合の良い上から目線を前提としようとするやり方は、私にとっては「ABOFANメソッド」に位置付けられています。
 自分が否定された事が悲しいんじゃなくて、apjさんともあろうものが、こんな薄っぺらい印象操作をあからさまにしちゃった事が悲しい。

 こういうのって、先生が生徒に注意する場合なら通用するけど、相手かまわず振り回していると、相手の印象を落とす前に、「高圧的なイメージ」で自分の印象落としますよ。
nice!(0)  コメント(21)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

nice! 0

コメント 21

NO NAME

凶暴化した女王様に意見するほどドMじゃないんですが、ここで違和感が解消されるということなので来ました。
感想としては、ちょこっと違うなぁ、と。

 「『ウソをついてはいけない』という社会規範」は、「人がウソをつくのはデフォルト」というのを前提としてあるんじゃないかなぁ。
個人的には、「社会を円滑に進めるたのウソ」も容認しない、という社会でも一向に構いませんけど。
その「社会を円滑に進めるたのウソ」というのも、言うなれば結果オーライなウソなわけで、ウソをつかれた人に有効に働くウソなのか、全く逆効果のウソなのか、ウソをつく時点では確定していない訳ですよね。

自分を客観的に見れ、とか、中途半端に判り易く対症療法(ドSさん、こっちが正しいです。disraffさんご指摘ありがとう。)的に応えると足元すくわれるよ、というのは間違っていませんが(というか正しい。)、現場でインチキと対面している人たちに向けて言うのは蛇足に感じます。
そんな深く考察する頭脳はインチキ側にはいないし。(全くの個人的経験と主観です、すまぬ。)
血液信者の某氏ぐらいかな、新しく仕入れた単語をちりばめたがるのは。
最近では「科学は自然の近似」が旬みたいだ。(ヤレヤレ・・・)

技術開発者さんの例え話に噛み付くのも、ちょっと大人気ない感じ。
個人的は技術開発者さんの例え話は、いつも正鵠を射ているとは思いませんが、大好きです。
(Judgemntさん向けではなく、ROM向けな)例え話なので、表面上の具体性にある一部分をデフォルメしたものでしょう。
そこに土台部分の認識が共有されていないだの、専門的にはどうこうというのは、ちょっと反則気味。
そういうツッコミは無駄だとは思わないけど、インチキ側にはいないって。(くどい?)
例え話はウザいからやめてね、って言えばいいのに。(成り代わって考えてみました。)

というMっ気のないつもりの素人の感想でした。
by NO NAME (2009-05-09 15:09) 

Judgement

いらっしゃいませ。
別に私は「凶暴化」はしちゃいませんよ。
(タイトルの指す先は、あえて言いませんが...)
「無秩序な暴力」と「サディズム」は別物デス。「刃物でメッタ差し」が凶暴化とすれば、「死なない程度に慎重に切り刻む」のがサディズム。

>その「社会を円滑に進めるたのウソ」というのも、
>言うなれば結果オーライなウソなわけで、
>ウソをつかれた人に有効に働くウソなのか、全く逆効果のウソなのか、
>ウソをつく時点では確定していない訳ですよね。

このような事から仏教では「ウソ自体に罪はない」と考えていますね。
で、そっからの話も既にしています。
興味があれば過去の記事も参照してね。

>現場でインチキと対面している人たちに向けて言うのは蛇足に感じます。

まぁ、私も当初は「蛇足」と思って【おまけ】扱いにしたのですが
その【おまけ】への喰い付きのいいこといいこと。
となると、「蛇足」ではなく「本質的な問題なのかな」と思って
一生懸命対応しているだけなんですけどね。

>技術開発者さんの例え話に噛み付くのも、ちょっと大人気ない感じ。
>例え話はウザいからやめてね、って言えばいいのに。

あはは、私は「大人げない」と言われて恥ずかしくなるほど大人じゃないよ。
でもね、ちゃんと一旦は「例え話はウザいからやめてね」的なたしなめをしているんですよね(「こんな説明ではいかが?」のコメント欄を確認してクレ)。
で、言っても相変わらずだから、今回の記事に繋がったわけ。
一応は大人の対応は踏まえているでしょ。

>専門的にはどうこうというのは、ちょっと反則気味。
これは、「したり顔」で語るなら、それなりに勉強しろ、ってあてつけ。
だって、彼、はなから「上から目線」なんだもの。腹立つよね。
反則気味なのは、さほど根拠の無い話をさも当然のように語る態度の方だと私は思っているよん。


んで、今回さほどSになり切れないのは、NO NAMEさんの視点の取り方が好ましいから。
自分の判断は主観的という事を知っているから、自分の語れる範囲を分かってらっしゃる。

私が眉を顰めるのは、”自分の見ている範囲の世界”と”自分の先入観”でモノを語っているにすぎないのに、やれ「これが社会規範だ」などと押し付けるような人。
それが本当に社会規範なのか自分で満足に説明できないくせに、「社会規範」という権威だけ体よく借りよう、という虎の威を借るキツネのような権威主義的な人なのですね。
by Judgement (2009-05-11 22:12) 

トンデモブラウ

NO NAMEさんって誰よ・・・私でした。
なぜかHNが空欄に。
過去記事は全て眼を通しているともりですが、記憶力と読解力には自信がないので、そこんところは大目にみてやってください。(初めての人と同じ情報量じゃん、というツッコみはなしの方向で、ここはひとつ。)

で、あえて技術開発者さんの弁護をすると、ヘンテコな科学的説明(と称するもの)を受け入れる土壌のある人々は、Judgementさんレベルの深い思慮はないので、技術開発者さんのわかり易いデフォルメされた例え話で「ウソはいかん」と言われると「おぉウソはよくないよね。」となるし、「ウソにもいろいろあって、ウソはダメというのがデフォルトじゃないのだよ。人間はウソをつく葦である。」と軽く学術的に言われると、「ほぉ、やっぱウソが根本的にダメでもないよね、やっぱ。」となってしまうのだと想像します。
情報発信の方向性の問題かな。
まぁこれは技術開発者さんの書き方と受け取り方にもよるのだろうけど、丁寧な説明ととるか慇懃無礼な上から目線ととるか・・・個人的には今までのコメントから優しそうな感じはしましたけど。
これは、幇間キャラの私が「黒く塗れ!運動」(kikulog参照)にほんのり軽く賛同してくれたから弁護するわけではなくって、本音でそう思ったから。
でも本来なら「社会規範」を専門的に説明すべきなんでしょうね。
(まぁそうされても私の理解が追い付くかは疑問。)

それにしてもインチキ批判の人達ってみんな大人ですよね。
私はネタレスが基本な幇間キャラなので、爪先立って憧れるだけですけど。(基本、ナマケモノ。)
by トンデモブラウ (2009-05-12 10:33) 

Judgement

NO NAMEってあんただったのかよっ!
じゃぁ、もっとドSで良かったわん(なんてね)。

>情報発信の方向性の問題かな。

ただ、「今何が争点になっているか」ってのをちゃんと捉えないと、なんとも明後日なコメントになっちゃうのだね(明後日な文章を分量だけ満たし「何か言ってる感じ」だけかもす、というのであれば、それは「ABOFANメソッド」)
ホント、ただのapjさんの幇間って感じで、そういうのはその人の所でやってくれって感じ
...ってトンデモブラウさんに言ってもしょうがないけど。

>丁寧な説明ととるか慇懃無礼な上から目線ととるか・・・
>個人的には今までのコメントから優しそうな感じはしましたけど。

はたから見ればそうかもしれないけど
言葉を向けられる当事者としてよく読めば、「悪意」アリアリよ。
「(笑)」の置き所がなんともいやらしいわけですね。

>それにしてもインチキ批判の人達ってみんな大人ですよね。
そうかなぁ?
まぁ、少なくとも私は大人でいようとは思わないけどネ
by Judgement (2009-05-13 00:25) 

技術開発者

こんにちは、 Judgement さん。

>まぁ、少なくとも私は大人でいようとは思わないけどネ

私は、「大人に近づこう」ともしないお子様相手に語る言葉を持ちませんので、以降は書き込まないことにします。

>ちゃんと一旦は「例え話はウザいからやめてね」的なたしなめをしているんですよね(「こんな説明ではいかが?」のコメント欄を確認してクレ)。

ここは、Judgement さんの庭だから、自分に気に入った書き方をする人だけ集めて楽しくおやりください。

by 技術開発者 (2009-05-14 17:04) 

apj

 社会規範について議論する場合であっても、実例を伴わない批判は無力です。具体的なケースへのあてはめができないような議論をしている限り、厨二病(お子様)の域を出ません。

 また、ある規範を受け入れることについて批判するのであれば、それは、別の規範をもってこなきゃいけません。規範に抵触するものは別の規範、というのが、この手の議論をするときの基本です。逆にいうと、規範の体をなしていない自分勝手な屁理屈を持ってきても、議論にすらならないんですよ。

 そうそう、「上から目線」云々ですが、上下は相対的ですのでね。私と技術開発者さんが普通の人達に通じる内容でコメントしているときに、勝手にわざわざ下の方にポジションを取って「上から目線」などと言われても、「だって好きで下の方に居るのはあなたでしょ?」としか言いようがありません。

 ということで、どうぞ以後はお好きなだけ稚拙な論をご提供ください。それでも、反面教師として誰かの役には立つでしょう。
by apj (2009-05-14 18:20) 

Judgement

【技術開発者さん】

>>まぁ、少なくとも私は大人でいようとは思わないけどネ
>私は、「大人に近づこう」ともしないお子様相手に語る言葉を持ちませんので、
>以降は書き込まないことにします。

あ~あ、やっちゃった。
誰かに促されたわけでもないのに『「もう書き込みません」宣言を書き込みする』んですね。
「人のせいにして、自分に向けられた批判を全てリセットし無反応を決め込む」
まさに、ABOFANメソッド!
そういう「すっぱいブドウ」的な自分への言い訳は、いい大人はあまり口に出さない方がいいと思う。

細かい事を言えば「大人でいようとは思わない」って、そもそも大人が言うセリフなんだよね。
それを「大人に”なろう”とは思わない」と言っているかのように曲解して、決め付けて、自分の正当化に使おうとするだなんて、何焦っているのでしょう?

というか、たしなめた後でもそれを無視して同じ反応をし続けた厚顔な人が
「例えの前にする事は?」には暫く反応が無いと思ったら
「少なくとも私は大人でいようとは思わないけどネ」
のひと言を言った途端、いきなりその言葉尻をつかまえて撤退宣言なんですね。
へぇぇぇ。

まぁ、自分の虚栄心を維持する事に執着して子供じみた弁法に陥るような人は、確かに「お子様相手に語る言葉すら」持たないでしょうね。

>>ちゃんと一旦は「例え話はウザいからやめてね」的なたしなめをしているんですよね
>>(「こんな説明ではいかが?」のコメント欄を確認してクレ)。

でちゃんと「元のコメント欄」や「例えの前にする事は?」見てくれたカナ?
あなたのコメントの問題は「例え話を好む事」自体にあると言うよりも
・ 記事の内容を無視した自分の思い込みを披露するために例え話をする。
・ 冗長で複雑で例え話にする意味がほとんど無い。
って事が一番の問題なのね。

 「人の話を聞かない、自分の話を伝える気が無い」ような自己満足のためのコメントは、他人の庭のリソースを消費してするものではない、って意識は持ってないのかなぁ。

「そんなの持ちたくない。俺は他人の家に勝手に上がりこんで好き勝手喚くのが好きなんだ」
というのであれば、ゴメンナサイ。
確かに私の庭に入り込んで欲しくは無い。

>自分に気に入った書き方をする人だけ集めて楽しくおやりください。

私にとっての「気に入った書き方」というのは、『自分の視点を絶対とせず、相手の視点を理解した上で、自分の視点と相対評価するする書き方』デス。
そういう書き方であれば、私への痛烈な批判だろうが、なんだろうが確かに「楽しい」ね。

 一方、『「自分の視点は”みんなの視点・正しい視点”である」、という前提の上でしか語れない』のは、確かにつまらないなぁ(私にはね)。

 あ、でも技術開発者さんのようなコメントでも、「なんでもいいから自分の意見に賛同の意を示してもらう事が無上の愉しみ」といった人に対してすれば喜んで受け入れられるんじゃないかな?

 私の庭にあれこれ言う前に、自分の特性を生かす方向をきちんと見極めた方が良いと思う。
 そうすれば、正面から批判を受けて、逃げ出すハメにも陥らないでしょう。


【apjさん】

おやおや、技術開発者さんと仲がよろしいようで。

しかし「ある規範を受け入れることについて批判するのであれば」ですって。
私、くどいくらい説明したつもりだったけど、全く伝わってなかったみたい。

apjさんは「ある規範」って勝手に「規範」である事を決定事項にしているけど
私がずっと問題にしてきたのはapjさんが「社会規範」と言い張る「嘘はいけない」は、”本当に社会規範なのか?”って話なんだけどなぁ。

私の説明不足...なのかなぁ
私が「社会規範に抵触しないウソがある」って事を挙げている事ぐらいは読んで分かるよね。
で、それを根拠に『「嘘はいけない」という事は社会規範であるとは言えない』という事を言っているのよ。

「醤油味のラーメンがある」としても、「味噌味のラーメン」もあるならば
「ラーメンは醤油味だ」とは言わんでしょう。

念のため言っておけば
「社会規範に抵触しないウソがある」から「どんなウソも社会規範に抵触しない」
とは、ひとっことも言ってないからね。

でも、なんかapjさんは、そのように勝手に曲解している気もするなぁ
もし、そんな曲解をしているとすれば、きっとそれは
『「嘘はいけない」は社会規範』という事を、自分自身は絶対に信じて疑えないからこそ
他人がそれを疑う事すら信じられず、無理矢理別の解釈をしようとしているからじゃないかなぁ。

>それは、別の規範をもってこなきゃいけません。
>規範に抵触するものは別の規範、というのが、この手の議論をするときの基本です。

すいません、「規範に抵触するものは別の規範」って言っている意味が本気で良く分かりません。
ニホンゴデOKデスヨ
(基本だとすればここまでわけが分からなくていいのでしょうか?)

>逆にいうと、規範の体をなしていない自分勝手な屁理屈を持ってきても、議論にすらならないんですよ。

すいません、逆に言われても意味が分かりません。
でも、apjさんが私が自分勝手な屁理屈言っていると決め付けたい気持ちは十分分かります。

>社会規範について議論する場合であっても、実例を伴わない批判は無力です。

はい、そう思います。
だから、私は「社会規範に抵触しないウソがある」という実例を示していますね。
一方で、apjさんは「ある条件を充足した場合、ウソが社会規範に抵触する」実例は示すのですが
(ハッキリ言えば、私もそれは知った上で言っているのですが)
「嘘はいけない」自体が社会規範である根拠、というのは出されていませんよね。

>具体的なケースへのあてはめができないような議論をしている限り、厨二病(お子様)の域を出ません。

私は(社会規範として成り立たない)具体的なケースへの当て嵌めしてますよ。
自分の視点に入る(入れたい)の範疇のみが「具体的ケース」なのかな?

気をつけて。下地を固めるのをすっ飛ばして「具体的」と言い出すのはABOFANメソッドよ。

あと、私は特定の条件下の一部のケースに当て嵌められたとしても、ケースバイケースであれば『「嘘はいけない」は社会規範』という一般化はできないと思っているんですが、apjさんは違うのかな?
少なくとも、一部の出来事を短絡的に一般化”してしまわない”事を「厨二病」とは呼ばないと思う。

>そうそう、「上から目線」云々ですが、上下は相対的ですのでね。
>私と技術開発者さんが普通の人達に通じる内容でコメントしているときに、
>勝手にわざわざ下の方にポジションを取って「上から目線」などと言われても、
>「だって好きで下の方に居るのはあなたでしょ?」としか言いようがありません。

どういう根拠で言っているのか知りませんが、少なくともapjさん自身が自分のコメントを「普通の人達に通じる内容」と思って疑わず、その前提で話を進める人である事はわかりました。
また、相手の主張を正確に捉えられていないのに、とりあえず「下にいる」と判断する事は欠かさない人だという事も十分分かりました。

あ、もちろん、少なくとも私は「apjさんが何を言いたいか」分かってますよ。
分かっているから「私の主張に対するものとしてはズレている」事も分かるわけですが。

理解する事と、納得する事は別ですよね。

言っちゃぁ悪いケド、私はapjさんの主張を理解した上で、上から目線で批判している。
でも、apjさんは「納得しない(受け入れない)」のは理解してないせいだと決め付けてません?
だからこそ「勝手にわざわざ下の方にポジションを取って」のようにしか考えられないのでは。

>ということで、どうぞ以後はお好きなだけ稚拙な論をご提供ください。
>それでも、反面教師として誰かの役には立つでしょう。

う~ん、「稚拙な論だ」と言いたいがために、稚拙な論を展開するのは得策とは言えないと思うけどなぁ。

これもapjさんの『「もう書き込みません」宣言の書き込み』なんですかね。
「人のせいにして、自分に向けられた批判を全てリセットし無反応を決め込む」は...

まぁ、何と言うか、ここまでBERSERKされてしまうと何とも心苦しい気もしますが、今のapjさんには、ダメなところを指摘する事しかできないなぁ


《ちょっとだけ法の話》

 私は、「法を根拠に、ニセ科学を”社会規範に反するウソ”」と評価する事は妥当性があると認めてますよ。それは「法」が「社会規範の十分条件」と理解しているから。

 しかし、「法」って言うのは『特定の行為に対して限定的に行使される』ものです。

 特定の行為、というのは例えば「第246条 人を欺いて財物を交付させた者は、十年以下の懲役に処する。」であれば、「人を欺く意図」と「財物の交付目的」の両者が認定されないと成立しないわけです。

 なのに、片方に「ウソ」を含むからと言って、『「嘘をついてはいけない」という規範を具体的に盛り込んでいる』というのはあまりに短絡的。だって、「嘘をついた」だけで規範違反とできないからこそ、「財物の交付目的」とセットになって初めて規律違反になるんでしょ。

 また、この条文が『「嘘をついてはいけない」という規範の証左』となると言うのなら、同様に『「他人に財物を交付させてはいけない」という規範』もある事になってしまうからね。
 
  「ウソ」が関係する法の解釈の話は日を改めて記事にしようと思うけど(多分週は明ける)、できればapjさんも、自分の信念に固執せずに、まっさらな状態で、法なり社会なりを解釈してみて欲しい。
by Judgement (2009-05-15 01:56) 

トンデモブラウ

傍観者かつニセ科学批判よりの者ですが、apjさんとのズレはず~っと感じてました。
技術開発者さんとapjさんがなぜにこうまで短絡的に反発するのか、ちょっと分からないというか、今までの活動内容(知っている限りですが)から不思議に感じます。
最初の匿名コメントで書いたとおり、「『社会を円滑に進めるたのウソ』も容認しない(社会規範からはずれると扱う)」でもOKという立ち位置なので、私はJudgementさんの幇間でもないと思うのですが。
そこまでこだわる問題でもないような気がするし・・・
インチキの最前線で戦っている人に共通するシェル・ショックとかPTSDのようなものだと心配だ。

頭のいい人は妙な深読みとかデフォルトなのか。
大人げないぞ~。
by トンデモブラウ (2009-05-15 08:34) 

ウッちょん

おはようございます。
ようやく一連のエントリを読み終えました。私にはなかなか難しい話です。
今のところ最大の疑問としては、「『ウソはいけない』が社会規範でないならば、ニセ科学を批判対象たらしめている社会規範て何よ?」というのがあります。これが解決すれば色々と腑に落ちるんですが。
続編を楽しみにしておりますです。
by ウッちょん (2009-05-15 09:36) 

torque may

初めまして

社会規範の話に興味があり、一連の話、興味深く拝読いたしました。今回の技術開発者さんのコメントには何となく違和感を覚えておりましたが、Judgementさんの記事を読んで、違和感の元がわかりました。

私は進化生物学を学んでいました。動物の社会で社会規範、つまりみんなが従わなければいけないと思っているルールが存在するというのはまれな話です。ところが、ヒト社会では確かに社会規範なるものが存在しており、これがなぜかというのが進化生物学の最大の興味の一つと言っていいと思います。

進化生物学的には、ある戦略、この場合は嘘はいけないというルールを持つという戦略、が安定に存在するには、そのルールに従わない戦略を持つ個体の排除がなされなくてはなりません。で、嘘をつかないヒトだけで構成されている集団は嘘つきの排除が可能か、という問いを考えたとき、それは多くの場合困難です。嘘つきは、嘘をつかないヒトたちが得られるものに加え嘘をついた分だけ得をするわけですから(自分が損するような嘘はつかないというのは前提にしてもいいですよね)。ヒトと動物をいっしょにすな、という反論もあるでしょうが、少なくとも進化生物ではそう考えらています。ヒトは自分が損する嘘もつくことはあると思いますが、そちらは進化心理学の方で。

各個体がこう行動すれば集団として有利だから各個体はその行動をする、という考え方は進化生物学的には群淘汰と呼ばれていて、遥か昔に否定されています。で、技術開発者さんの原始人の冬越しの話に違和感を持ったのですが、そもそもそんな話が可能かと言うと、そうとは考えにくいんですね。
---引用---
「今年は春が早く来るに違いないから、もっと蓄えを食おうよ
(中略)
そうして、春が来る前に蓄えを食い尽くした頃に冬の最後の大寒波がやってきて、共食いをしながら冬を乗りきるなんてね(笑)。
---引用終わり---
これは、グループ構成メンバーで公平に食料を分けるという前提が無いと起きない話です。その集団に、他人の分け前を奪い取ってでも生き延びるという個体がいると、他個体は餓死するかもしれないが自分だけは生き残れますから。つまり、群淘汰の説明と同じ過ちに落ち込んでいると思うのです。集団にとってこの行動が有利だからこの行動をとる。その行動がすなわち規範であると。その規範に全ての個体が従うという前提があれば問題の無い議論ですが、実際はそうではありません。つまり、やはりJudgementさんがおっしゃられるように、技術開発者さんは嘘をつかないという規範が存在し、皆はそれに従っているという前提で話をしてるんだなあ、と思いました。前提として既にあるとしているのに、何故それがあるかという説明をされても意味が無いかと。

確かに、apjさんもおっしゃられるように、嘘かどうか自分で確認する社会というのはコストが多大になります。もし、コストを負っていない嘘をつかない集団とコストありまくりの嘘つきだらけの集団が戦えば、前者が勝ちます。このことから、嘘をついてはいけないという規範は簡単にできあがると思われがちですが、基本的には群淘汰的な考え方ですので、そう簡単には説明できんだろと思います。最も、「ついてはいけない嘘」というものがある、ということさえどうやってできたんだ、とも思いますが。ヒトは難しいです。

技術開発者さんとapjさんは、Judgementさんが述べられている「ついてはいけない嘘」の部分についてのみ語っているのであって、このことさえ認識できればこれほど議論はこじれなかったはずと思います。しかし、「ついてはいけない嘘もあればついて良い嘘もある」と認めれば、ではどの程度まで嘘は許されるのかという量的な議論をする必要が出てきます。それを回避するため、何が何でも「嘘をついてはいけない」という前提に固執しているのかなと思ったりもします。そもそも、どうしてここまで攻撃的にならなければならないのかよくわからないです。

kikulogなどで技術開発者さんは冷静に的確なコメントをする方だなあと思っておりましたが、今回の子供じみたコメントには驚きましたし、残念にも感じました。apjさんに至っては、
---引用---
どうぞ以後はお好きなだけ稚拙な論をご提供ください
---引用終わり---
って、すごく嫌らしい文章ですね。めちゃめちゃ上から目線じゃないですか。日頃、言論には言論でとおっしゃられている方の発言とは到底思えません。

Judgementさん、最後の方は不適切な表現と言われても仕方が無いですし、また長くなってしまいました。不要と思われたら削除してください。


by torque may (2009-05-15 20:11) 

zorori

torque maysさん、おはようございます。

進化生物学について多少興味がありますので教えて下さい。ニセ科学批判の話題とは無関係です。単に進化生物学への興味ということです。

>動物の社会で社会規範、つまりみんなが従わなければいけないと思っているルールが存在するというのはまれな話です。

これは、本当ですか?サルとかイヌを見ていると存在するような気がするのですが、それは気がするだけでちゃんと調べると存在しないのでしょうか。

>で、嘘をつかないヒトだけで構成されている集団は嘘つきの排除が可能か、という問いを考えたとき、それは多くの場合困難です。

嘘をつかないヒトだけで構成されている集団なんて存在しないのは当たり前というか、嘘つきが存在するからルールが成立するのではないでしょうか。完全に一匹オオカミならば、うそつき戦略が有利ですよね。基本は個体(遺伝子かもしれませんが)なのでウソつきがデフォルトだけど、集団生活を選択したヒトはそれを抑えるルールが発達したという気がしますが。仮に群淘汰であれば、群が基本ですので嘘つきは生物学的に完全に排除されて禁止ルールなど存在しないのではないでしょうか?

>このことから、嘘をついてはいけないという規範は簡単にできあがると思われがちですが、基本的には群淘汰的な考え方ですので、そう簡単には説明できんだろと思います。

私には群淘汰的な考え方には思えないのですが。ヒトは個体の戦略として集団生活を選択し、集団生活なのでウソ禁止の規範が出来たというだけに思えます。ヒト以外の動物でも集団生活をしていればウソ禁止のルールはあるように見えるんですが。



by zorori (2009-05-16 08:20) 

田部勝也

>torque mayさん

私も進化生物学については興味があります。グーグルで調べてはみたのですけど良く分からなかったので、2点だけ質問させて下さい。

(1) 生殖によって伝播する複製子(DNA・遺伝子)に依らない、「文化」や「規範」といった、いわゆる「ミーム」のようなものも、進化生物学でいう群淘汰や血縁淘汰などの言葉で説明されうるのでしょうか。たとえば、「ウソをつくな」という「文化」や「規範」には、ウソをついた個体を罰したり軽蔑したりするなどの「嘘つきの排除」のための強いシステムが内在されるのが普通だと思うのですけど、そのように考えるのは「進化生物学的には群淘汰と呼ばれていて、遥か昔に否定されて」いるのでしょうか。
仮に、「グループ構成メンバーで公平に食料を分ける(もしも他人の分け前を奪い取ってでも生き延びようとする個体を見つけたら厳しく罰する)」という「文化」が(突然変異によって?)発生した「群A」と、「他人の分け前を奪い取ってでも生き延びるという個体」の存在を容認する「文化」を持つ「群B」があれば、どちらの群れのほうが生き残りやすいだろうか。また、「群A」のうち、ウソをつく事に寛容な「文化A-1」と、ウソをつく事に不寛容な「文化A-2」がそれぞれ(突然変異によって?)生じた場合、どちらの文化が生じた群れのほうが生き残りやすいだろうか――といった事を考えるのは、「進化生物学的には群淘汰と呼ばれていて、遥か昔に否定されて」いるから、無意味だという事でしょうか。

(2) もしも、(1)で私が考えたような事がすでに「進化生物学的には群淘汰と呼ばれていて、遥か昔に否定されて」いるのだとしたら、「文化」や「規範」が淘汰されるメカニズムはどのようなものでしょうか。
一応、DNAによって発現・伝播する性質が群淘汰によっては進化しない理由は理解しているつもりですし、「進化的に安定な戦略(ESS)」の概念も聞いた事はありますが、「文化」や「規範」の淘汰は、群(集団)中の対立遺伝子の頻度の変化とはあまり関係がなさそうですし、そもそも「文化」や「規範」は群の上に発現し、群単位で伝播するもののように私には思えるので、(1)のような考え方に代わる正しい「文化」や「規範」の淘汰のメカニズムを想像できないでいます。
by 田部勝也 (2009-05-16 23:06) 

田部勝也

Judgementさんと私とで「社会規範」という言葉からイメージされている内容がだいぶ違うような気がしますが、自分の考えていた/いる事を述べる事でその点の齟齬が際立てば、今後のJudgementさんの説明に役立つ事もあるかもしれない――と勝手に自分の行為を正当化した上でコメントしてみます。個人的な体験談以上の事は書けないのですけど……。

私はマキアヴェッリの「天国への道を知る最良の方法は地獄への道を探究することである」を座右の銘にしていて、「人はどんな過ちを犯しうるのか」というのが最大の関心事であるような人間なので、Judgementさんがご紹介されている「自己欺隔のメカニズム」については、一通り聞いた事はあります。
また、短い間でしたが中学・高校で教員もしていました。学生時代に教員養成課程でそういった話も聞かされました。在職中も私はわりと教員の研修会や勉強会に積極的に出かけていったつもりですが、そういった経験を通して、生徒指導に際してそういった知識は必須であるという認識を持たされました。
余談ですし、本名で書き込んでいるので、あまり詳しい事は書けませんけど、叱られた事に対する言い逃れ(意識的なのか咄嗟に出た無意識的なものかは分かりませんが)をした生徒で、最初はその言い逃れがウソである事を自覚していましたが(当時の家族や友人との会話などからその点は判明しています)、次第に事が大きくなるにしたがって、そのウソを「本当に真実の事」であると思い込むようになり、記憶が捏造され、最終的には「周りの人皆が自分を騙してウソの自白をさせようとしている」と本気で主張し出す――といった苦い経験もしました。

一応そういった「自己欺隔のメカニズム」に関する知識は(聞きかじり程度とは言え)あるという事を顕示しておいた上で、私はこれまでずっと「『ウソをついてはいけない』という社会規範が有る」と漠然と無批判に信じ込んでいた事を告白します。Judgementさんの話を一通り聞いた後でも、この感覚は変わりませんでした。

私は日常的に意識的・無意識的にウソをついています。ウソをついた事にまったく気づかないままでいる事もとても多いのだと思います。
でも、「自分はいまウソをついた」と自覚したときには、そのウソの内容にかかわらず、とても居心地が悪いというか、何とも言えない罪悪感に似た感覚を覚えます。すぐに「これは“良いウソ”だったんだから仕方ない」とか「きっと誰に聞いても“それは許されるウソだ”と言ってくれる」とか「この程度の小さなウソなら別に気にするほど大した事ではない」とか「むしろここは本当の事よりもウソをつくべき場面だった。自分は正しい判断をした」とか「(誰にともなく)ごめんなさい。ごめんなさい。……」とか、そういった正当化をしないではいられない感覚です。
また、私は手品が好きで、最近はあまりしなくなりましたが、10~20代の頃は宴会やコンパの席で良くしていました。また、いくつかの学校に勤務しましたが、あまりに授業態度の悪い中学校で、毎回授業の最初の10分間を理科手品の時間にして、生徒の興味を教壇に向けさせる工夫をしていた事もありました。そのときには「これはあくまで手品であるという事を皆ちゃんと理解しているだろうか。(念力だけでロウソクの炎を消せると本気で信じた七田眞みたいに)見たままに超能力みたいなモノだと本気で信じ込んでいる人はいないだろうな」という事にまったく無頓着でいる事はできませんでした。
こういった感覚が無条件に生じるような性質が生得的に人間に備わっているとは思えないので(根拠はないですけど)、「『ウソをついてはいけない』という社会規範が有る」(だからその規範を犯したときには、その規範違反に対する自己正当化を必要とする)と漠然と無批判に信じ込んでいたわけです。

もう1つそう信じ込んでいた根拠があります。
私は生徒を叱る時、3つの事を常に強く意識していました。「追い詰めない(逃げ道を作っておく)」「過去の話に言及しない」「自分の感情を偽らない」の3つです。
1つ目については、叱られたときに、反省せずにすぐ言い逃れをしようとする生徒に対して、「人間なんだから誘惑に負けてしまう事もあるし、知らず知らずのうちに悪い事をしてしまう事はある。良かれと思って悪い事をしてしまう事だってあるだろう。それは誰でも分かっている。その事を怒っているんじゃない。自分のした事をどう思っているのかを聞いているんだ」と、良く言っていました。で、「“悪い事”をしても、それを“悪い事”だと自覚できているうちは大丈夫だけど、“悪い事”と自覚できなくなったら人間として終わりだ。たとえば、ウソをつく事に感覚が麻痺して、いつも“別にこのくらいのウソくらいついても良い”“良いウソなんだから構わない”と思うようになったら、もう人として終わってる。そうならないように、“なんで自分は悪くないのか”を言う前に“実際に他人を怒らせているという事”を考える必要があるだろう」――と、(自分の事は棚に上げて)いつも言っていました。
私はこんなろくでもない人間なので、当然、同僚や保護者や生徒たちから厳しい非難をいつも受けていました。でも、上の説教(?)については明白に非難された記憶がありません。逆に「こういう叱り方は良いかも」と言われた事もあります。「人として終わってる」とまで言っているのに何の文句も出なかったのは、「『ウソをついてはいけない』という社会規範が有る」と思っているのは私だけではないのかなぁ……と漠然と思い込んでも不自然ではない気がします。

「実際の世の中に目を向けるとウソが溢れている」「“社会を円滑に進めるためのウソ”だってある」という事と「『ウソをついてはいけない』という社会規範が有る」という事は、別に両立しない事でもないので(たとえば自動車の制限速度に関する社会規範とかもそうですよね)、単純で純真な私は「“『ウソをついてはいけない』という社会規範が有る”という事自体が"ウソ"ではないのかと疑」う事もなく育ってきてしまったのかも知れません。
個人的には、「社会を円滑に進めるためのウソ」のような「良いウソ」の判断は恣意的になりがちですし、その判断に十分な素養と能力をいつも誰でも持っているとは限らないので、「『(どのようなウソであれ)ウソをついてはいけない(「良いウソ」でもつかずに済むのならばそれにこした事はない)』という社会規範が有る」社会のほうが住みやすい気はします。もちろん、「そういう社会のほうが望ましい」と「そういう社会である」とはまったく別の話なわけですけど、両者はしばしば混同されやすいものですから、自分が混同しているという事になかなか気づかないものなのかも知れません。

そんなわけで、私はこれまでずっと「『ウソをついてはいけない』という社会規範が有る」と漠然と無批判に思い込んでいました。そして、Judgementさんの文章を一通り読み終わった後でも、「“『ウソをついてはいけない』という社会規範が有る”という事自体が"ウソ"ではないのか」という話をなかなか納得できないでいます。心情的に受け入れがたい現実に対して私が今どのような心理状態に陥っているのかは、きっとJudgementさんのほうが的確に把握されるでしょう。

以上、できる限り誠実に正直に書いてきたつもりですけど、もちろん無意識的に無自覚な自己欺瞞に満ちている事を否定できるほど、私は自分に自信を持っているわけではありません。それは私のどんなコメントについても同様です。でも、私の知的能力では、これ以上深い自己懐疑・自己探究をしていても有意義な何かを発見できる気がしませんし、いつまでも何も言えないで本当の自分探しの迷宮に陥るのも不毛な気がしますので、差し当たり、「自分としては、これならば不誠実ではないだろう」と勝手に考える段階で投稿させていただきました。
by 田部勝也 (2009-05-16 23:15) 

zorori

田部勝也さんのコメントを読んで、少し混乱していたことに気付きました。
生物的な進化と文化とか社会規範の変化とはまるでタイムスパンが違いますね。生物的には全く変化していない期間で文化などは栄枯盛衰するのですからまるでスピードが違います。群淘汰というのが生物の進化の話なら、そもそも社会規範とは関係ありませんが、文化にたいしても群淘汰的なものは否定されているのかというのが私の疑問です。

それ以前の疑問として、
「生物進化学」は文化としてのウソも適用範囲なのか、
「ウソ」は文化ではなくて、生物学として扱えるものなのか、
と言い換えても良いかもしれません。

私の全く感覚的な憶測では、生物学的には人間は「ウソをつく」し「集団生活をする」ように出来ている。これは遺伝するので教育しなくてもよい。集団生活のルールは「文化」に属し、教育が必要。「ウソをつくな」は文化。というところです。
by zorori (2009-05-17 09:12) 

torque may

zororiさん
>サルとかイヌを見ていると存在するような気がする
「社会性」というと、あると言っていいと思いますが、「規範」となるとどうでしょうか。イヌやオオカミは集団で狩りをするので、これを社会性と言っても問題はないと思います。しかし、集団で狩りをするといっても、ヒト社会のように分業がなされているわけではなく、取った餌をみんなで分けることもしません。個々が自分の餌量を最大にしているだけという普通の自然選択であって、規範なるものをわざわざ持ち出す必要がないのです。

>集団生活を選択したヒトはそれを抑えるルールが発達した
一度集団生活をすると決めたら、こういうルールを発達させたほうが良いのは理解できます。また、そのルールが個体の適応度を最大にし、克つ集団の適応度を最大にするというものであれば問題ありません。しかし、コンフリクトがあれば、ルールに従わず、自分の適応度を最大にする個体が集団に侵入できてしまいます。集団内の全個体が同時にその規範を持ち、破ることは無いという条件でも無い限り、個体の適応度を下げる規範を内在した集団が維持されるというのは難しいのです。

田部勝也さん
「ミーム」とは、自然選択のアナロジーでヒト社会の慣習や流行などを説明するためにひねり出された概念だと理解しています。自然選択は、形質にばらつきがあり、形質ごとに適応度が異なり、その形質が(適応度に比例して)次世代に伝われば自動的に起こる、ということを前提にしています。ミームもその前提を共有していますので、考え方は群淘汰ではなく自然淘汰です。血縁淘汰との関係はよくわかりません。ミームにとって血縁とは何かがよくわからないからです。

>「嘘つきの排除」のための強いシステムが内在されるのが普通
その通りです。ヒトでいうと警察ですね。こういう罰則機構(policingと言います。まさに警察ですね)が発達する理由も進化生物学上の謎なんです。働かないミツバチをみんなでいじめる、というのはあるようですが。

>仮に、「グループ構成メンバーで公平に食料を分ける(もしも他人の分け前を奪い取ってでも生き延びようとする個体を見つけたら厳しく罰する)」という「文化」が(突然変異によって?)発生した「群A」... (以下略)
「群れ」というのをあたかも一つの個体と考えると正しいのですが、群れの中の個々体にこういう考えが起こるかどうかを考えないといけません。嘘つきだらけの集団に、嘘はいけないと思い、嘘をつかないヒトが産まれました。そのヒトの運命やいかに。嘘をついてはいけないという規範が集団中に広まるには、このヒトの子孫が繁栄できる理屈を考える必要があります。

>「文化」や「規範」の淘汰は、群(集団)中の対立遺伝子の頻度の変化とはあまり関係がなさそう
集団内にその文化がかっこいい、まねしてみよう、と思う個体が増えないと流行しないですよね。ですから、集団中の頻度と大いに関係があると思います。

>(1)のような考え方に代わる正しい「文化」や「規範」の淘汰のメカニズムを想像できないでいます。
(1)の考え方には賛成できませんが、「文化」や「規範」の淘汰のメカニズムがいったい何なのかということに対しては興味津々です。ヒト社会では、ここで皆さんがおっしゃられていることが、もしかしたら正しいのかもしれません。しかし、進化は個体単位で起こるという前提に立つと、個体の行動を制限する規範が進化するのが何故なのかよくわからんのです。ですから、規範の進化は興味深いのです。

蛇足ですが、以下の論文で最新の知見がまとめられていますので、興味のある方はご覧ください。群淘汰が可能な条件なども書いてあります。
Nature 437, 1291-1298 (27 October 2005)
Evolution of indirect reciprocity
Martin A. Nowak & Karl Sigmund

Judgementさま、関係のない議論でどうもすみません。

by torque may (2009-05-18 19:15) 

zorori

torque mayさん、ありがとうございます。

ちょっと勘違いして質問してしまいましたので意図が伝わらなかったかもしれません。疑問はいろいろありますが、エントリーのテーマとも関係ありませんので再質問は控えます。お手数を取らせました。
by zorori (2009-05-18 20:33) 

Judgement

 えっと、zororiさん、ちょっとその言い草は目に余ります。

 torque mayさんが、キチンと答えてくれたのに、まるで、「あなたの答えは私の役には立ちませんでしたよ」って言ってるみたいじゃないですか?

 「エントリーのテーマとも関係ない」事を自分で質問して答えさせたのに、自分の欲しい答えじゃなかったけど「エントリーのテーマとも関係ない」からやめるって、そりゃないんじゃない?

 こんな「人の答え」を軽視するような人に、当然「再質問」の権利なんて無いと思うけど、答えさせた者の責として、「本当はどういう意図があったか」ぐらい説明すべきじゃない?
 あと、torque mayさんの答えの具体的内容について、何か応答すべきでしょう。

 エントリーのテーマとの乖離は、持ち主が許可します。
by Judgement (2009-05-19 23:53) 

zorori

Judgement さん、

そうですね、田部勝也さんのコメントの後の私のコメントで私の勘違いについては説明したつもりだったのですが、もう少しきちんと説明します。

最初は進化生物学で動物社会の文化であるルールを説明できると思っていたのです。それも、群淘汰的な考え方はせずに、個体(正確には遺伝子)の淘汰というレベルで説明できるのではないかと思っていたのです。

というところに、torque mayさんが社会規範のようなルールは動物社会ではまれだし、ルールは群淘汰的な説明であってこれは否定されていると仰ったわけです。それで、詳しい説明を聞きたいと思いお尋ねしたわけです。

その後、田部勝也さんのコメントを見て、人間社会のルールは人類発生以来、いろいろと栄枯盛衰があったことを思い出しました。生物としては全く変化していない期間にです。ということで、そもそもの私の考え方がおかしかったのだろうと思いなおしました。そこで、二番目のコメントのように私の疑問を整理しなおしたのです。再掲すると、

・文化にたいしても群淘汰的なものは否定されているのか
・「生物進化学」は文化としてのウソも適用範囲なのか、
「ウソ」は文化ではなくて、生物学として扱えるものなのか、

最後にtorque mayさんのお答は結論は書いてありますが、なぜそうなるのかという疑問は残っています。しかし、その説明は多分簡単ではないだろうと思い、再質問は控えたというわけです。

一応、torque mayさんのお答えへの応答は以下のようになります。

・進化生物学で「ウソ」という文化も扱えそうだな。
・動物社会の集団行動と人間社会のルールの違いがわからない、私には程度問題に思える。
・ウソ禁止ルールはウソつきの侵入によって破壊されるというがなぜか。単純なシミュレーションゲームにおいても、うそつき戦略にしっぺ返し戦略(ウソつきには罰をあたえ、正直者とは協力する)は条件次第で勝てることが分かっているし、人間社会のルールは進化生物学以外の説明がひつようなのか。だとすると、やはり、文化は進化生物学では扱えないのではないか。などとうまくまとまりません。





by zorori (2009-05-20 20:54) 

Judgement

そういう素直なトコが好きよん。
by Judgement (2009-05-20 21:14) 

田部勝也

>torque mayさん「ミームもその前提を共有していますので、考え方は群淘汰ではなく自然淘汰です」

ミームに対して自然選択の考え方が適用できるのは当然だと思っています。「“文化”や“規範”といったミームは、DNAとは異なった仕組みで“自然選択”が行われうるのではないか」と考えるのはどれだけ不自然なのか――という事を知りたいと思って質問しました。
ちなみに、前のコメントでは少し分かりづらかったと思いますが、私は「ミームはいわゆる“(古典的な)群淘汰”によって自然選択される」とは思っていません。ただし、ミームに対する選択圧は、DNAの表現型に対して働くわけではないと思われるので、通常の生物学におけるダーウィニズムの言葉をそのまま安易に用いて現象を説明するのには慎重であるべきではないかとは思っています。少なくとも私のような素人相手には(安易に目的論的な言葉で進化を説明するのが危険なのと同様)誤解のもととなるものだと思います。
なお、torque mayさんのコメントにおける「自然淘汰」と「自然選択」の言葉の使い分けは、意識されたものでしょうか。私はこれまで両者をずっと同じ意味で使っていました。

>torque mayさん「しかし、進化は個体単位で起こるという前提に立つと、(後略)」

まさにその前提に対して「“文化”や“規範”というものは、その前提で考えなければならないものなのでしょうか」という疑問を述べたわけなのですけど、そういう疑問を発するというのは素人だからという事なのでしょうか。torque mayさんの返信からは、ちょっと良く分かりませんでした。

直感的に考えると、「文化」や「規範」に対する選択圧は、DNAの表現型に対して働くわけではないと思われるので、自然選択が個体単位で起こるという前提に立たなければならない理由が思いつきません。
たとえば、「ある規範Aに従うと脳神経学的に強い報酬が与えられる傾向を持つ」という表現型を持つDNA(ないしDNA群)と「別の規範Bに従ったほうが脳神経学的により強い報酬が与えられる傾向を持つ」という表現型を持つDNA(ないしDNA群)とが、ある選択圧のもとで自然選択にかけられるような場合を考えるのならば、通常の生物学におけるダーウィニズムの言葉で考えても何の混乱も生じえないと思います。さらに極端化して言えば、「それに従うと脳神経学的に最も強い報酬が与えられるような規範」の自然選択は、通常の生物学におけるダーウィニズムの言葉をそのまま使って説明できそうに思えます。
でも、現在私が目にしている様々な「文化」や「規範」は、「それに従うと脳神経学的に最も強い報酬が与えられるような文化や規範」として存在しているわけではないように、私には見えるわけです。
たとえば、「自由主義」と「共産主義」、「ルーズソックス」と「オーバーニーソックス」の栄枯盛衰を自然選択として述べようとする場合、通常の生物学におけるダーウィニズムの言葉をそのまま安易に用いて説明するのは妥当なのでしょうか。

>torque mayさん「嘘つきだらけの集団に、嘘はいけないと思い、嘘をつかないヒトが産まれました。そのヒトの運命やいかに。嘘をついてはいけないという規範が集団中に広まるには、このヒトの子孫が繁栄できる理屈を考える必要があります」

あらかじめ「進化的に安定な戦略(ESS)」の概念は聞いた事があると述べておいたのですけど……。
私は「文化」や「規範」というものが、そのように発生・発現・伝播するようには見えないと述べているわけです。極端な話をすれば、群れのボスが「今後群れの中でウソをついた奴は殺す」と(勝手に)決め、群れのメンバーにそのような教育を強制するという「突然変異」によって「文化」「規範」が生まれという事もありえそうです。このような特殊な「得点配分」が存在している場合、(初期値はどうであれ)「ウソをつかない」戦略がESSとなる事もありえそうです(もちろん違うESSが成立したり、そもそもESSが成立せず最初にボスが決めたルールが崩壊する事態もいくらでも思いつきますが)。
そう考えると、「文化」や「規範」が内在する「罰則機構」は、「突然変異」として(かなり恣意的に)発生するとしても、それほど有り得ない話とも思えない気がします。だから、「こういう罰則機構が発達する理由も進化生物学上の謎」と言われると、「私が考えつくような事はプロの研究者ならとっくに考えているはずで、自分が見落としているような何か大きな理由があるのだろうか」と考えてしまうわけです。それで先のコメントのような質問をさせて頂いた次第です。

この話をさらに推し進めると、「ある“文化”“規範”を持った群れは、別の対立する“文化”“規範”を持った群れよりも、(ある選択圧のもとで)より生存に有利となりうる」といった事の考察も、あながち荒唐無稽でもないように素人には感じられるのですが、それは素人ゆえの浅はかさなのでしょうか。

>torque mayさん「集団内にその文化がかっこいい、まねしてみよう、と思う個体が増えないと流行しないですよね」

それはもちろんそうだと思います。でも、少なくとも人間において、それは実際に生じうるようなミームのうち、どのミームが生き残るのかという選択圧としてはそれほど強くないのかも知れないような気がしています。
仮に、集団中の全個体が不老不死で不妊だったとします。それでもミームの「突然変異」「繁殖」「自然選択」は起き続けるような気がします。ある一個体に対してさえ「かっこいい、まねしてみよう」と思うような「文化」「規範」は無限にありうるように思うからです。むしろ、日本において戦時中と戦後で「文化」「規範」ががらりと変わった(ように見える)ように、環境要因に関わる選択圧のほうが強いのではないでしょうか。
そのあたり、進化生物学ではどのように考えられているのか、興味がないわけではありません。
by 田部勝也 (2009-05-25 05:14) 

torque may

Judgementさん、お気遣いありがとうございます。

もともとは、嘘をついてはいけないという規範を前提にするな、というJudgementさんの主張の一助になれば良いかと思いコメントしました。けれども、あまり役に立たないばかりか、議論があらぬ方に行ってしまい、恐縮の限りです。zororiさんの言われるようにエントリー違いですので、進化生物の話はこれで最後にしたいと思います。今回はJudgementさんの好意に甘えます。

まず断っておきますが、進化学の概念で、ヒト社会のすべてが説明できているわけではありません。ヒト社会のありよう(なぜ規範が存在するのか等)を説明する論理は他にあってもおかしくないと思います。けれども、進化生物学者はヒト社会も進化の3原則、変異と選択と遺伝、だけで説明したいと考えているのです。この手持ちのカードで、例えばヒト社会には規範がありほとんどのヒトが従うのはなぜか、という疑問に答えようとすると、規範なんてあり得ないという否定的な答えしか出てこないのです。そこで、いろいろな条件を付けて解決しようと試みているのです。進化学以外の説明があっても良いのですが、それらが進化の3原則に抵触すれば、進化生物学者は受け入れません。群内の個体が全てこのルールに従った場合有利になるので、という群淘汰的な説明をされると、全ての個体がそのルールに従うことを可能にするメカニズムを示してくれと思うのです。群淘汰が否定されたのは、そのメカニズムを提示できなかったからです。

長くなり恐縮ですが、以下個別に応答します。
zororiさん
・「生物進化学」は文化としてのウソも適用範囲なのか
適用したいと考えている。文化や規範がある理由を説明できる他の理論があれば教えて欲しい。
・文化にたいしても群淘汰的なものは否定されているのか
集団内の個体がその文化に一斉に従うようになるという理屈が提示できない限り、否定される。
・動物社会の集団行動と人間社会のルールの違いがわからない、私には程度問題に思える。
程度問題であって欲しいと思っている(同じ理屈で説明できるから)。しかし、人間社会のルールの維持機構も、群淘汰抜きで説明されるべきと考える。
・ウソ禁止ルールはウソつきの侵入によって破壊されるというがなぜか
例え話で申し訳ないですが、安全を保つためみんなでお金を払って警備員を雇うことにしました。そして安全な社会ができました。そうなったとき、警備員を雇うのに必要なお金を払わずに、安全だけを享受するフリーライダーを排除するのは容易ではないです。フリーライダーを罰すれば良いと思われるかもしれませんが、フリーライダーを罰するのにコストがかかるとすると、そのコストを逃れてフリーライダー排除の利益を享受する、メタレベルのフリーライダーを排除するのは容易ではないです。ちょっと話がずれますが、科学の発展には貢献しないで、科学というのに付与されている社会的信用だけを享受するというのが、ニセ科学の性質の一つではないでしょうか(ずれるというよりも、こちらが当ブログの本論ですよね。ちょっとだけからめました、喜)。
・しっぺ返し戦略は条件次第で勝てる
まさにその通りで、その条件が何かというのを調べているのです。しっぺ返しの場合は、同じ個体と多数回相互作用(ゲーム)すると、というのが条件です。嘘禁止の規範は見知らぬ人同士でも通用するので、しっぺ返しだけで説明するには弱いように思います。

田部勝也さん
おっしゃりたいことを完全には理解できていないと思います。誤解がありましたらごめんなさい。
・自然淘汰」と「自然選択」の言葉の使い分け
混乱させてごめんなさい。特に分けておりません。どちらもnatural selectionの訳ですので、気にせず両方を使っております。なぜ訳語が二つもあるのか知ってたら教えてください。もしかしたら、集団と個体群も混用しているかもしれません。
・“文化”や“規範”というものは、その前提で考えなければならないものなのでしょうか
規範にしても遺伝子にしても、「もの」もしくは「概念」が集団中に広まるか消えていくかを考えていくわけですから、進化生物学的な考え方(というより集団遺伝学)で問題ないはずです。私にはこれ以外にどんな説明があるのかわかりません。
・群れのボスが「今後群れの中でウソをついた奴は殺す」と(勝手に)決め、群れのメンバーにそのような教育を強制する
こういうのを規範と言っていいのかどうかわかりませんが、可能な話かもしれません。群の中の個体の考え方を一斉に変えることを可能にするメカニズムの一つだからです。もしそのボスが、ルールに従わない個体をたちどころに発見し、確実に抹殺し、そして、それらを実行するのに何の労力もかからないのならば本当に可能かもしれません。しかし、これが正しいとすると、ヒト社会に規範があるのはかつてこのような極端な状況があったからだ、という主張をしていることになりますが、よいですか。田部勝也さんは、個体の行動を制約する何らかの原理があるというを前提をお持ちのように思います。その前提を満たすために、全知全能のボスという極端なものを登場させる必要があったのではないですか。私はそんな原理は無いと考えています。個体が行動を自由に選べないのなら、進化的に安定な戦略という概念なんかそもそもありませんし、囚人のジレンマも起きません。
・この話をさらに推し進めると、(中略)、あながち荒唐無稽でもない
ここでまた群淘汰の話に戻るわけですが、特殊な例を持ち出して普遍的な現象の説明に用いるのは、かなり抵抗があります。
最後の段落はほぼ同意です。むしろ、ここだけ読むと論点がなんであったのかわからなくなるぐらいです。
・「文化」「規範」は無限にありうる
だから「流行」が起こるんじゃないですか。

Judgementさん、どうもお騒がせしました。
by torque may (2009-05-29 19:38) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。