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小話 [思い付き]

疑似科学分野ではメジャーだと思う私の好きな小話を一つ紹介(うろおぼえでアレンジ入っていますが)。

連日人で賑わうとある「奇跡の泉」にある事務所。
ずらりと並んだ杖を前に得意げな所長。
「この泉の水を飲んで治った方が自分の杖を置いていくんですよ。
 それがこんなに溜まりました。
 どうです、この泉の奇跡が本物で有る事がわかるでしょう」

見学者。
「治らなかった人は杖を置いていけませんものね(冷笑)」。

こっから先は私の付け加え。

所長曰く

「治らなかった人は、例外として織り込み済みです。
 別に全ての人が治るとは一言も言っていませんよね。
 この事は、他の所員ともちゃんと話し合っていますが
 原則と例外の扱いで処理すべきだと考えています。
 例えば、何を例外とするかといえば
 “奇跡の泉が効かない病”と判断するのが妥当な時です
 とにかく、治る事の方を原則にしないと
 ここが奇跡の泉である事が成り立ちませんからね」


う~ん、原則と例外って...ナンダロ?
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コメント 2

トンデモブラウ

奇跡がこんなに・・・
じゃなくて、泉の水の対価が杖なんですね。(違うって。ば)

「原則と例外」というのは、日本の伝統的な政治的用語で言うところの『玉虫色の判断』というやつですな。
ダブル・スタン・・・・・
by トンデモブラウ (2009-06-25 08:48) 

(こ)

こんにちは.

「嘘をついてはいけないという社会規範」のことについてですが,apj さんの「原則と例外」が私には正直良くわかりません.

その扱いでいいのかどうかはとりあえずおいておくことにして,「例外」を少し考えてみたいのですが,まずapj さんも社会で合意の取れた事柄を「例外」として扱うことに異存はないはずですよね.例の社会規範だって社会での合意事項と apj さんは考えてるのでしょうから,一方はいいけど,これは駄目という恣意性は許されなところでしょう.

さて,私がわからないのは,そのように社会での合意事項をベースにしてニセ科学の問題を議論していいのか,ということです.

例えば血液型性格判断.
これは世間に広まっていて,社会の常識と化してるような状況です.本屋にはその手の本が並び,どこぞの工学系の教授もしたり顔でブログに書き,私自身,周りを見渡せば喜気として血液型と性格の相関について喜気として語る人は大勢見つけることができます.皆さんの周りにもきっと沢山おられることでそうね.何度か,そのような人に,それ嘘だよ,と言ったこともありますが,科学に基いたことではないと知りながらも,「経験的には」当たってる,とのこと.つまり血液型性格判断は,科学に基づいたものではないことは知られていながら,それでも根付いてるわけです.さらに,積極的に信奉してなくても,特に異を唱えることもない人も少なくありません.

これはもはや血液型性格判断を受け入れることは社会では合意された事項になってると言っても良いような状況じゃないでしょうか.いや,受け入れるというのは言い過ぎかも知れませんね.血液型性格判断にとりたてて異を唱えないことは社会での合意事項となってるのではないでしょうか.するとこれは例の社会規範の例外事項に該当することになり,apj さんの論理では血液型性格判断はニセ科学としては批判できない,ことになります.

そんな馬鹿な!

背理法(?)によりどこかが間違ってるはずですが,さてどこでしょうか.

血液型性格診断は社会の合意事項である,ということに異を唱える人もいるでしょうね.
でも apj さんの論理だとそれらしい理由があれば社会の合意事項と認めて良いようです.「嘘をついてはいけないという社会規範」だってまともな根拠を示されてないようですから.(むしろ,社会の合意事項ではない,という主張に証明責任が要求されてるような雰囲気.) そして,それらしい理由は既に書きました.まわりを見てみろ,と.まわりに一杯いるだろう,と.

私としては「社会の合意事項は無条件に許す」を棄却したいです.

ニセ科学を問題として取り上げることと,社会での合意や法律の規定は関係ないように思うのです.社会での合意が間違ってると思うなら違うと言い,法律が間違ってるなら正そうとする.科学的に真であるか否かは科学の知見に基づき判定することですが,それをニセ科学として実際に批判するのは社会規範の要請に答えるというものではなく,個人の信念・思想の問題だと思います.

いつぞや「現場」が話題になったことがありましたが,apj さんが想定してる「現場」は一体どのようなものか,少し疑問を感じてます.彼女は彼女自身が扱ってる範囲内のことしか見てない(見えてない?)のではないか,そのような気がしてなりません.(それはそれでも別にいいんですが,それならニセ科学についてのまとめなんてのは書かないで欲しいと思います.) というのは,彼女の議論はどうも訴訟対策に特化してるとの印象を受けるからです.例えば社会の常識ともなってる血液型性格判断の誤りを,あるいはその怖さや危うさを子供達に語って聞かせるような,そんな視点ではないなぁ,という気がしてます.

なお,以下はついでの話です.

彼女は「科学教」と批判されることを嫌ってるようですね.
その批判は,「社会規範」の要請に答えているのだ,という形で封じ込めることができる,というようなことを apj さんはどこかで書かれてました.となれば,以前にこのブログで何人かの方が書かれてた「ニセ科学批判の文脈では『うそをついてはいけない』は正しい」という主張は彼女にとっては弱い主張であり,使えないということになるんでしょうかね.もっと強い,一般的な「公理」が必要だ,ということのようですからね.

apj さんの書かれたことを誤読してなければいいのですが.
by (こ) (2009-07-03 00:22) 

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