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私の目的 [ここに来た皆さんへ]

 なんだか最近、「疑似科学批判」が、「疑似科学批判批判」という文脈で語られることで話題になっているようですね。
 いわゆる「疑似科学批判」が、「疑似科学における社会への影響批判」を指すのであれば、私がやりたい事はそれじゃぁない。そういう事は、本職の教師や大学の先生に任せればいいじゃないか。

 私がやりたいのは、「科学的だ」等という主張が、本当にそうか確かめて、違うのにそう言っているのであれば、それを指摘していじめつつ、こいつ、いったいどういう思考パターンしているんだか思いめぐらす、といった内側へ内側へ視点を向ける事です。

 だから、実は「疑似科学」という言葉は『対象の一般的カテゴリー』という以上の意味は私にはあまり必要無く、「科学的じゃない」とは言えれば十分で、わざわざ「疑似科学だ」とまで認定する気は正直あまりない。

 そもそも、「疑似科学」という言葉も、不自由でかつ、ステレオタイプ的に思えます。
例えば「血液型性格関連説は疑似科学だ」と言えば一見通りはいいし、楽なのでしょうが、単に否定的ニュアンスを示すだけで、あまり多くを明らかにしない気がするのです。
 むしろ、こういった「血液型と性格の関係」の全般的否定という意味での『疑似科学化』よりも、「血液型性格関連説」にしがみつき「疑似科学的説明」に終始する方々の、それぞれ個別の特徴の方が私にとって魅力的に思えるんです。

 個人的には、「血液型性格関連説」は「科学的仮説」に仕立てられる可能性は十分あるし、その延長でなんらかの形で将来「科学的理論」となる可能性だって秘めていると思っています。

 だからこそ、なのですが
 それを実現するのに一番近い位置にあるはずの彼らが、何故かいつまでも疑似科学的思考にしがみついて動かない、といった無知のみでは説明できないその不可解な行動原理に非常に興味を覚えるのです。

>“それ”を発信する側の人間が、“それ”のどこが「科学(のよう)だ」と考えているかも、
>発信する人物により変動すると考えられます。
 と述べたように、「疑似科学」における「科学らしさの認識」は、テーマ共通ではなく、主張者の個性が表れる部分だと思います。

 だとすれば、「血液型性格関連説は疑似科学」と言うよりも、例えば「○○さんの血液型性格関連説は疑似科学」とか、人別に扱った方が、正確に把握できるし、もしかしたら出てくるかもしれない「血液型性格関連説を科学的理論に昇華させる事ができる科学者」の変な妨げになることも防げるでしょう。
まぁ、その上で総論的な事が言える知見が得られれば言うこと無しなのですが。

 と言うことで、変な社会的使命を負わず、気楽にやっていきたいと思います。


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