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社会と「正しさ」についても考えてみた [他ブログいっちょかみ]

 個人的な感覚なのかもしれないけれど「正しい」というのはどうも危険な感じがする。特に、それが「社会」なんてものにくっついたりするとね。
 今回はその感覚の根拠について述べてみる。


 吊し上げるわけではないのですが、ハブハンさんの記事を見てみましょう。
 んー、別にタテマエもホンネもなく、「ある局面では科学的であることが正しい」と言ってしまえる私は「科学主義者」ですw
 条件つきなので「科学『絶対』主義者か?」と言われると、やっぱり否定するけど。
 あ、ここで言う「正しい」は「科学的に正しい」とは異なります。「社会的に正しい」かな。「科学的な正しさ」とは別に、「科学的であることの正しさ」もあるというのが、ここで書こうと思っていることです。
 「ある局面」ってのは「コミュニティで共有されている、定量化可能な目的を達成するために、コミュニティとしての行動を選択し、実施する局面」です。
 さらに、こう主張することの前提として「定量化可能な目的を達成する上で、科学は最も効果的かつ効率的なツールである」ってのがあります。
公共の利益のために私たちはそれぞれコストを支払っているんですが、同じコストを掛けるなら、より有効に使うべきだ、そして有効に使うためには科学的手法を採用するのが「社会的に正しい」ってことですね。

 極めて穏当な事を言おうとしているのは分かるんだけどね。
 でも、もし私がこのような文脈で話をするのであれば、あえて「正しい」ではなく「望ましい」と言うかな。
 さらに念を入れて、「私が考える社会にとっては」と付け加えるかもしれない。

 何故か?
 「社会」について「正しさ」を決め付けるのは危険だと思うから。
 何が危険か?それは、『間違う危険性』と『間違っても気付かない危険性』だ。
 
 その事について、いくつか理由を挙げてみよう。前の記事に関連している箇所や、次の記事に関連している箇所もあるので、必要に応じてそちらも参照してクレ。


【観察の限界を留意しない“確証型”の思考】

 数学のように全ての条件が規定され、単一で単純なパラメータで表記されているのであれば、”確証型”の思考で「正解」を導くことは可能。

 でも、「社会」がそうか、というとそうではないことは明らかだよね。
 見る角度、切る角度で様相は全く異なる。
 ついでに言えば、「正しい」見方、切り方なんてものも無い。
 それぞれの角度、切り口がどれも「社会」。そして、そんな諸々の集合体こそが「社会」。

 私達はそれぞれが小さな窓を通して、社会の一部を見ているにすぎない(それは、前の記事で述べた「自然科学が小さな窓を通して、自然の一部を見ている」といっしょ)。
 となると、(理由は前記事で書いたつもりだから端折るけど)「社会」に対しても”確証型”の判断はそぐわないと考えられるわけです。

 しかし、「社会的に正しい」というフレーズの背景には、“確証型”の思考パターンが存在すると予測できます。加えて、その“確証型”の判断を正当化させるための「社会の矮小化」なんていう態度も感じられます。

 それをひと言でいえば「結論を急ぐための『短絡的な判断』」。
 物事が単純であればあるほど「正誤」の判断はし易くなるわけだけど、だからといって「正誤」を判断したいからと物事を勝手に単純化しちゃいけない。

 科学では、例えばノイズだらけの状況では判断を保留する。つまり、「正しいかどうか」判断する前に、「正しいかどうかを判断できる状況か」を判断する事が必要なんです。


【“確証型”の思考の問題】

 んで、この “確証型”の思考パターンにはやっかいな性質がある。
 (以前も書いた気がするケド、改めて書いておく)

 それは一度「正しい」と確証したら、以降の情報はそれが「正しい」前提で判断してしまう事。つまり、バイアス(偏見)が強力に働くんですね。
 そもそも人間の傾向として、“確証”の情報を積極的に探したがる。そして、一度“確証”すれば、その傾向はますます強まる。

 例えば100の“反証”の中に1の“確証”があれば、そちらの方に目を向け、他は気にならない。しかも、“確証”(と思える)情報に対しては、多少の瑕疵があっても傍証として有効と評したりする。

 一方、“反証”は基本的に眼中に無いし、目に入っても僅かな瑕疵を見つけ出し、それが“反証”の妥当性の全否定の根拠であるかのように捉えて安心する。
 “反証”に瑕疵が見つけられなくても、自分が今まで見つけた“確証”を並べ立て、「これらが否定できないなら、私は正しい」という態度を取る。
(中には、“反証”を読みもせず、そうする人もいる)。

 このようないわゆる“確証バイアス”に陥れば、どんな情報があっても、最初の判断はまず修正されない(強化方向にしかいかない)。

 「あー、確かにニセ科学信者とかそうだよね」と思う人もいるかもしれない。
 そうなんだけど、「ニセ科学信者」に限った話じゃなくて、誰しも持つ傾向なんだな。
 「ニセ科学」を“確証”しちゃったのが「ニセ科学信者」ってだけで、別な事を“確証”しちゃって“確証バイアス”を発揮しまくっている人はそこらにゴロゴロいる。

 そして、一旦動き始めると修正や歯止めが効かないトコロがやっかい。
 つまり『固執的』になるのが“確証型”の怖さなんだよね。


【社会を“確証型”で捉える危険性】

 『短絡的な判断』に『固執的』のセットって、かなり恐ろしい。
 結果として「当たっていれば」まだマシだけど、社会の複雑さを考えれば『短絡的な判断』が当たる確率なんて宝くじと同じくらいじゃないかな。

 となると、現実的と照合すればするほど矛盾が出てきたりするんだけど、それでも『固執』しようとする。都合の悪いものを見ないようにするため、どんどん視野を狭める。そうなると『排他性』も帯び、当人の自覚の有無にかかわらず、『攻撃的』になっていく。
(過去の学生運動あたりが良い実例じゃないかな)。

 だから、私はどんなに穏当な主張であっても、「社会的に正しい」というポリシーの元でなされると非常に不安になるのだ。


【社会における科学的手法の採用】

 もうひとつ、科学と社会について私が考えたのは、「科学」がどこまで「社会」に通用するか、という問題。

 モチロン、携帯電話、電子レンジ、パソコンといった家電製品、そしてその便利さを維持するためのエネルギー製造、交通インフラの整備、気象予報と対策、そして医療、生活の様々な側面が「科学により新たにできるようになった事」、いわば「科学技術」によって安全かつ効果的、効率的になった、というのは事実と言っていいでしょう。

 とはいえ、ハブハンさんが言う「科学的である」とは、(最近のやりとりの内容に基づけば)「科学技術」ではなく、「科学的な仮説」、「科学的な方法」、つまり問題を客観的に評価する方略だと捉えなくてはならないでしょう(ハブハンさんが『科学的手法を採用するのが「社会的に正しい」』とおっしゃるのもそういう意味だと思います)。

 その事で私がパッと思い付くのは、昨今の行政等の分野で言われている「有効な公共政策や政策実務は科学的エビデンスに基づいていなければならない」なんて事。

 ...「エビデンス」とは、直訳すれば証拠や根拠。
 それでも意味は通じそうだとは思うけどカタカナ言葉を使うのが慣例のようだからとりあえずそれに従っておく(ちなみに、単に“エビデンス”と言った場合、「科学的エビデンス」を指す、ってのがトレンド゙らすぃ)。

 では、その発想が無かった時代はどうだったかといえば、「事例的エビデンス」つまり「以前それをしたら上手く行った(いかなかった)」という経験に基づく根拠に基づいていたり、「人気プログラム」つまり流行っているものに乗っかったり、イデオロギーに基づいたりして、公共政策等が決定されていた(過去形で書いたけど、今もそうかも)。
 それじゃいかん、と言うことで「科学的エビデンス」が登場したわけだ。

 ハブハンさんはこの辺の話を想定しているのかもしれないし、想定していないとしても考えている事に親和性は高いと思う。
 あるいは行政の方は知らなくても、医療の分野で「エビデンスに基づく医療」という話が出ている事をご存じであれば、それと同じようなもの、と捉えればいいと思う。


【科学的エビデンスの有効性】

 私も、こういった試みは面白いと思っている。でも、ハブハンさんのように「そうするのが正しい」と言えるほどはその有効性を評価していない。

 詳細は書いてみたらかなり長くなったので別記事で書くことにして、ここでは大部分を省略し、まとめと結論だけ書いておく。

 「科学的エビデンス」に基づいて何かしようとする場合、まず先立つものとして「科学的エビデンスになると言える研究」がされていなくてはいけない。
 都合良くそんなのがあればいいけれど、無ければ「行動を選択し、実施する」前に、そういう研究をしなくてはならない。
 しかし、それには金と時間がかかるし、そもそも「科学的エビデンスになると言える研究」ができる条件がなかなか整わない(故に、目的に合った研究を既に誰かがしてくれている確率は低い)。

 そして、「科学的エビデンス」があった、あるいは作れたとして、それに沿って「行動を選択し、実施した」としても、期待どおりの成果が得られるか分からない。
 この「分からない」というのは「100%ではない」とかそういう意味ではなく、文字通り「分からない」のだ。
さらに、こう主張することの前提として「定量化可能な目的を達成する上で、科学は最も効果的かつ効率的なツールである」ってのがあります。

 そのあたりを考えていくと、「社会における定量化可能な目的達成指針」という事に関しては「科学は最も効果的かつ効率的なツール」とは言えません。

 念のため言えば、「ではない」ではなく「言えない」ですからね。

 「事例的エビデンス」の問題が指摘され「科学的エビデンス」という考え方が産まれたわけですが、じゃぁ「科学的エビデンス」という考え方に問題が無いかというと...ポリシーとしては素晴らしいけれど、実現できるかが怪しい。
 「最も~である」と言うには、他の手段(例えば「事例的エビデンス」による決定)と比較できていなければならないけど、おそらく現状としてはそれを比較できる段階に無い(つまり「最も」と言える根拠が無い)。

 グラウンドで一番足の速い人が、山道でも一番早いとは限らないんです
(詳細は別記事を読んでください)。

 誤解があるとアレなので念押しすれば、今対象にしているのは、「科学技術の活用」ではなく、「科学的な検証方法」の活用ですからね。

 例えばCO2削減という目標があるとしましょう。
 ある特定のCO2を除去するための方法として、祈祷やら超能力やら疑似科学やらと比べ「科学技術」が最も効果的かつ効率的なツールとは言えるでしょう。
 しかし、それを社会全体のテーマとした場合において、効率・費用対効果・負担軽減等を考えた上で、何に対するCO2をどの程度除去すればいいのか、という事については「科学的に」検討するのは難しいし、ひとつの結論を導けたとしてもそれが上手く行くとは言えない、って話。


【結論】

今回説明したように、少なくとも社会に対しては「科学は最も効果的かつ効率的なツールである」事を前提にできる根拠に欠けると考えられる。そのため、それを前提にした判断(「社会的に正しい」)には妥当性が認められない。
(1)個人の行動に対しては、科学的であることが正しいとは言えない。
 個人が自分のためだけに行う(公共性のない)行動は、目的を達成する上で有効である必要も効率的である必要もない(もちろん、個人がそれを指向しても構わないけど)。
(2)定量化不可能な目的に対しては、科学的であることが正しいとは言えない。
 つーか、いかなる方法でも定量化出来ない目的を達成するための行動はそもそも科学的たりえない。

 よって、これらの事に異論を挟まないけれど
 (3) 定量化可能な目的であっても、科学的であることが正しいとは言えない。
 を付け加えざるを得ない。


 なお、私は社会に対し「科学的」な目線を向ける事に否定的なわけではないからね。
 何にせよ「根拠」を求めるのはいいと思う。
 上手く行くかどうかはやってみないと分からないのは仕方ないけど、やった後でその「根拠」の妥当性を再検討できるメリットは多い。

 同様に、元になる「根拠」を作ろうとする試みも重要。
 「成功すると言える根拠が得られなかった」という結果は“失敗”に見られる事も多いですが、「そのやり方では上手く行かないかも」というのも重要な情報なんだよね。
 科学と同じ。Try&Errorの蓄積、というのが大切。
 その中で、「科学的な形式を整える」というのは、その資産を次代に継承するのに最も良いやり方だろうな、と思っています。

 まぁ、これは研究する側の視点で、長期的な展望を考えた場合の話。

 でも、そりゃ社会の中には「上手く行った」だけを“有効性”の指標としている人もいるわけだ。そして、そういう判断する人にとっては、そういった「科学的手法」は非常に迂遠であり、金の無駄使いにしか見えないだろうな、とも思う。
 ただし、そういう人達もまた
公共の利益のために私たちはそれぞれコストを支払っているんですが、同じコストを掛けるなら、より有効に使うべきだ、

 と言う権利を有する「コミュニティの一員」だったりする。
 では、どちらの言い分を聞くのが「正しい」のか?
 それこそ、「正しさ」を求めようとすると、ややこしくなる。


【個人的事情】

 なお、私はハブハンさんの主張を否定したいがために、ワザとあれやこれやとイチャモンをこねているわけではないよ(少なくともそのつもりはない)。

 「社会」の中で「科学」を飯のタネにしている私の正直な実感を述べただけです。
 とはいえ、こんな事を考えるのは、
1 ちゃんと考えていないと、ほぼ間違いなく大きなミスをする。
2 ミスをすれば下手すると職を失う。
3 そりゃ困る
...という個人的な事情に基づくものでもあるんだけどさ。

 「科学」を持ち上げてくれるのは嬉しいんだけど、持ち上げすぎてはいけない。
 まぁ、一般の方であれば持ち上げようと何しようと、結局のトコロ「科学」は人任せだから問題ないんだろうけどね。任される側としては、そんな希望と憧れまで詰め込まれた「科学の範を超えたもの」を当然のように要求されるようになりそうで困る。
 しまいには、「できるのは科学だから当然、できないのはあんたの失敗」みたいに言われたりするしねぇ...。
 「社会」の難しさ、「社会」での「科学」の難しさを、ぜひ皆さんにも考えて欲しい(ま、それは自分のために、なんだけどね)。
 

【最後に】

 ちなみに、ハブハンさんに『「社会的な正しさ」を語るのは早急すぎるよ』とは言いたいけど、『こんな事も知らないで社会を語るな』とは言わないからね。

 陳腐な言い回しになるけれど、社会には色々な側面がある。
 ハブハンさんはその一側面を見ているだけかもしれないけれど、その側面はハブハンさんにしか見えないものかも知れない。だから、それについてハブハンさんが語ることは、社会の様々な側面を把握したい人にはとても有効な情報だと思う(少なくとも私にとっては有効だ)。
 
 ただ、そこに「正しさ」というものを滑り込ませられると、やっかいなんだよね。
 自分に見えている側面のみが社会だ(お前らの見ている社会なんて知らん)、と言われるのと同じ。
 しかも、そのような狭い了見の人の語る社会は大抵参考にならないほど狭い。半径50mも無いような狭さ、固定的な面子、安直なイデオロギー...。
 さらに悪いことに、そんな狭い了見の人ほど、その狭い社会認識を「みんなで共有するのが当然」と他人に押し付けたがる。


 ハブハンさんがそんな人だ、と言いたいわけではない。
 むしろ、またそうなっていないし、今後もそうなっては欲しくないと思うからこそ、今回私としてはソフトに書いたつもり。

 常に「正しいのか」を疑問に持ち、修正を厭わない態度を取るのが、「社会」に対しても望ましいのではないのかと私は思う。

 それこそが“科学的な態度”じゃないでしょうか?
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