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ハブハンさんの「科学的に正しい」から、色々考えてみた [他ブログいっちょかみ]

 前の記事について、ハブハンさんの応答がありました。
 それについて書きたい事は色々あるのですが(文句じゃないよ)、少しずつやっていきます。
 まずは、せっかく説明していただいたハブハンさんの区分について私なりに理解してみたい。

【ハブハンさんの分け方】

 さて、「科学的に正しい」について、なんども考えてみたで、ハブハンさんはご自分の使う「科学的である」と「科学的に正しい」の指すものの違いを述べていただいた。
科学的である/ない:
 ある主張(仮説)を検証し評価する手続きや方法が科学のお作法(Judgementさん言うところの「科学の枠組み」?)に則っている/いないこと。
科学的に正しい/正しくない:
 科学のお作法に則って判断した場合、ある主張(仮説)が事実に合致している/合致していないと判断されること。

 ハブハンさんが言う「科学のお作法」とは、「検証方法が科学的である」、つまり“再現性と客観性”を判断するのに適した手続きである(これに該当するものを「科学的な方法」と呼ぶ)、という意味なのかな、というのがこの時点での印象。
 だから、ハブハンさんの使い分けはこの段階ではこんな風に理解した。

『科学的である』=「科学的な方法」で検証した(“行為”に対する評価)
『科学的に正しい』=「科学的な方法」による検証をクリアした(“結果”に対する評価)

 この解釈の妥当性は、次のパラフレーズでも3分の2は裏付けられるでしょう。
「科学的である」:
「この主張、科学のお作法で検証して評価できそうですね」
「この主張の検証・評価で採用されている手続きや方法は、科学のお作法に則っていますね」
「科学的に正しい」:
「この主張、科学のお作法に則って判断するなら、正しい、と言えそうですね。ソレ以外の判断基準ではどうか分かりませんけど」

 しかし、「この主張、科学のお作法で検証して評価できそうですね」というのは、「科学的な方法」の前段階への評価であるため、どうやら先の解釈では完全ではないようだ。
 この部分、おそらく「仮説としての体裁」、つまり「科学的な方法」に耐えうる仮説であるかの話だと思うのだがどうだろう。
 つまり、ハブハンさんの「科学的である」は、検証方法という行為に対してのみ使われるのではなく、仮説自体の評価にも使われる、という事だ。
 
 この、仮説に関するアプローチについては、あのホパーを想起した。


【ホパーにおける科学の要件】

 科学哲学界では有名人なのでこの業界(どの業界?)の人ならばご存じの方も多いと思うけれど念のため簡単に説明しておく。
 ホパーは「科学」について「反証主義」を唱えていて、「科学的であるには反証(間違いである事を示す証拠)できる可能性が無くてはならない(反証可能性)」という考え方を持っていた。
 「反証主義」においては、この“反証可能性”を持つ仮説を「科学的な仮説」と呼び、実際に反証が無いかを探すテスト(反証テスト)をクリアしたものを「科学的な知識」と捉える。
(そういえば、例の早川先生も「反証主義」の観点で「科学的であるか否か」を話していた気もする)
 
 ハブハンさんの「この主張、科学のお作法で検証して評価できそうですね」というのは、「仮説が反証可能性を有する事」、つまり「反証主義」における「科学的な仮説」と同じ状況を指しているのだと私は捉えたのですがいかがでしょうか。


【ハブハンさんの分け方まとめ】

 ところで、話を整理するために、今まで出てきた「科学的な仮説」と「科学的な方法」、そしてその結果をクリアしたものを「科学的な知識」と呼び、その3つの事象の関連性を考えてみる。

 これらは全く独立しているわけではない。「科学的な知識」かどうかは、「科学的な方法」で確かめなくてはならないし、「科学的な方法」で確かめるには、「科学的な仮説」が必要である。
 それらを考慮してみると、ある仮説と科学との関連性について以下の5パターンに分類される

A 科学的な仮説でない
B 科学的な仮説で→未検証
C 科学的な仮説で→科学的な方法以外で判断
D 科学的な仮説で→科学的な方法で判断し→科学的な知識と認定されず
E 科学的な仮説で→科学的な方法で判断し→科学的な知識と認定

 おそらく、ハブハンさんにとっては「科学的でない」のが“A”で、“B~E”を「科学的である」と評価するのでしょう(Cのあたりは「科学的だけど、科学的でない」とややこしくなってしまうが、その条件までは考慮に入れていなかったのかもしれない)。
 その上でD・Eを取り出し、“D”が「科学的に正しくない」、“E”が「科学的に正しい」と評価するわけだ。


【私が想定したモノ】

 ちなみに私は前の記事においては、「科学的に正しい」とは、先の分類における“E”のことを指しているんだろうな、という予想の上で話していたつもり。
 そういう意味では、まぁそんなにズレてはいなかったな、とは思う。

 ただし、Eの部分を『「科学的に正しい」ではなく、「科学的である」と言い換えた方が良い』という私の提案が妥当であったかについてもう一度考え直すと...う~ん、これはどうだったかな、という感じになった。

 B~Dもどこかが「科学的である」んだよね。
 だから、「科学的である」の捉え方についてはハブハンさんのほうに軍配を上げざるを得ない。
 そして、確かにEも「科学的である」んだけど、”Eだけに限定して言及したい時”に「科学的である」という表現を使うのは十分とは言えない。
 つまり、ハブハンさんの「科学的に正しい」で示したい意図を考えれば、それを「科学的である」に変換できる、という主張は不適切だった、という事だ。

 ...と、白旗挙げた上で少し反撃すれば、「科学的である」についてはそういった科学の様々な面に適用されるのに、「科学的に正しい」と言った時だけ科学の特定の面を示す、というルールはちと説明不足な気がする。

 というか、自分で使っておいてアレだけど、「科学的である」という表現自体、「何が」が抜けた漠然とした表現で、正確に伝わらない言葉なんでしょうね(「科学的である」とだけ言っても、何について評価しているのか分からない)。
 簡略化しすぎずに、「科学的な~である/なし」もしくは「~が科学的である/なし」と言うように、何に対して科学的か否かを評価しているのかを明確にすべきなんだろうな、というのが今の結論。
(EX:科学的な仮説である 方法が科学的でない 科学的な結果である)

 その上で言えば、ハブハンさんの「科学的に正しい」は「科学的な知識である」と変換可能であり、オマケに何についての評価をしているのかも分かりやすくなるんじゃないのかな。

 何をしつこく変換にこだわっているのかというと、私は『「正しい」を使うべきではない』と考えているんだよね。
 まぁ、その辺については後日。 


【最後に】

 なんというか、ハブハンさんの区別を検証しているうちに、私の指摘のイマイチさが露呈してしまった感ではある。

 そんな私が言えたことではないけれど、あえて言えば、『科学』や『科学的』という言葉は、それだけでは“何も示さない”と言っていいほど広大で曖昧な意味を持つもの、なんじゃないかな。

 そういえば、物理学者であるR・P・ファインマンは著書『科学は不確かだ!』でこのように述べています(ちなみに、これは「科学の定義」を述べているのではなく、「一般に『科学』という語が何を指すために使われているか」という事を推測しているもの)。
 ところでいったいぜんたい科学とは何かということになると、「科学」という言葉は普通、次の三つのことのどれか一つ、あるいはその混ざったものを意味しているようです。ここでは僕らはあまり厳密でなくてもいいでしょう。あんまり厳密すぎるのは、必ずしもいいことではありませんから。
 さて科学の意味ですが、ある場合には『ものごとを突き止めるための、特殊な方法』のことを指していることもあります。また『いままで突き止めたことを積み重ねた知識の集成』を意味することもあり、『何かを突き止めた結果できるようになる新しいこと、あるいはその新しいことの実行そのもの』を指していることもあるのです。

 おそらく、『科学』というコトバに“共通認識”を求めるのは無茶な話。
 今更「誰の認識が正しいか」を決められないぐらい、意味が拡散している。

 だからこそ、『科学』というコトバを使って物事を語る際には(特に、一般の人に自分の考えを広くかつ正確に伝えたい場合)、「自分はどういう意味でその言葉を使っているか」を、くどいぐらい説明する必要があるんではないかと思った。
 まぁ、それは『科学』というコトバにに限ったことではないんだけどね。

 そっからまた色々考える事はあるんだけど、今回はこの辺で。 
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コメント 2

ハブハン

 こんにちは。トラックバックありがとうございました。

>しかし、「この主張、科学のお作法で検証して評価できそうですね」というのは、「科学的な方法」の前段階への評価であるため、どうやら先の解釈では完全ではないようだ。

 ここは、一般に「未科学」と呼ばれるものを想定しています。「未科学」と「非科学」を切り分けたい場合もあるので。
 ホパーは一度読んだのですが完全に咀嚼出来ていない状態で申し訳ないのですが、私の理解している範囲で反証可能性が念頭にあるのは間違いありません。

 A〜Eの5パターンはほぼその通りですが、Cについては1セットで扱う限りにおいて、私は「科学的でない」と表現します(切り分け可能な場合は、前半部が分類Bに該当することになります)。
 Dを「正しくない」、Eを「正しい」と表現しているのもそのとおりです。

>あえて言えば、『科学』や『科学的』という言葉は、それだけでは“何も示さない”と言っていいほど広大で曖昧な意味を持つもの、なんじゃないかな。

 「正しい」というコトバの使い方も含め、私の認識が甘い部分だったかも知れません。なんというか、表現が難しいんですが、曖昧な言葉なりのもやーっとした部分がありながらも、解釈が重なる部分は(文章の大意を歪めない程度に)大きいだろうと思っていました。ということで、

>何をしつこく変換にこだわっているのかというと、私は『「正しい」を使うべきではない』と考えているんだよね。

 この点はまた勉強させてください(^-^)
by ハブハン (2011-01-16 22:33) 

Judgement

ごめんなさいねぇ、放置して。
ちゃんと「正しい」の件の記事も書くから。
いつ書き上げるかは約束できないケド...

とりあえず理由を簡単にここで言っておけば
「科学という体系の内部においても、『正しい』という判断がされているわけではない」という原理的な面と、『正しい』を使っちゃうと、それを疑いにくくなる、というメンタルの面で問題じゃないのかな、というコトなんです。

詳しくは後日。
by Judgement (2011-01-26 23:58) 

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