MORIXさんへの返事2~ストローマン~ [言論]
まずは、「ストローマン」問題について思う事を書く。
ついでといってはなんだけど、関連付けできる部分もあるので、併せて「人格攻撃」、そして「対話」についても触れておこうと思う。
>>一般読者用セッション<<<
【藁人形論法とは(Judgement Ver.)】
一応、私も批判者の端くれとして、「ストローマン(論法)」いわゆる「藁人形論法」の事は知っているつもりだけど、念のため私の理解を述べておきましょう(なお、個人的には「藁人形論法」の方がピンと来るのでこちらの用語を使わせてね)。
「藁人形論法」はいわゆる「論点のスリカエ」のための手法のひとつで、主に「相手が言っている事」に対して、「言っている事に関連しそうだけど、言っている範囲を超えた事」つまり曲解をした挙げ句、あたかも相手がそう言っているように述べた上で否定し(大抵否定しやすい内容に曲解される)、あたかも相手の主張が否定されるかのように見せる論法で...と私は理解しているんだけど。
Wikiの例を引用すれば、「私は子供が道路で遊ぶのは危険と思う」に対し、「子供を一日中家に閉じこめておけというが、果たしてそれは正しいのか」となる。確かに、子供を一日中家に閉じこめておけば道路では遊ばないが、道路で遊ばせないための方法は一日中家に閉じこめる事のみではないものね。
んで、イメージとしてはこんな感じ。
( (当人の主張が指す範囲) 当人の主張を内包する範囲 )
まず、「当人が言っている内容」を小さな円として、さらにそれを内包する大きな円を描いた図があるとしましょう。
で、「当人の主張が指す範囲」の外側あるいは完全には包括しない部分を指して、あたかも「そこまで当人が主張している」かのように扱うのが「藁人形論法」。
また、大きな円のなるべく端っこであればあるほど、否定しやすい極端な主張に見せかける事ができるわけなんだよね。
曲解、というよりかは「拡大解釈」とする方が分かりやすいかもしれない。
【藁人形論法の何が問題か】
「藁人形論法」の問題点を示す前に、念のため言っておきたいのは「その人が言いたい事はその人しか知らない」という当たり前の事。
それを認識した上で、主張者が「言いたい事を知らない他者にも分かるよう」かつ「自分の考えに最も一致するよう」、言葉や文脈を厳選して主張を構成している事を前提としてようやく「藁人形論法」の問題点にアプローチできるわけ。
まず第一に、主張者が自分の意思伝達のためにわざわざ「集約」したという手間を無視し、勝手に「拡張」してしまうのは、主張者の「意思伝達」の努力を一顧だにしない、つまり「相手の話には聞く耳持たない」という態度だよね。
第二に、そのように「拡張」した事をあたかも相手が言っているかのようにしてまで否定するってのは、「相手の話をろくに聞いていない」にもかかわらず、自分の否定的な意志だけは貫こうとするという態度だよね。
前者の態度は、言葉や文脈の力による「意思伝達」の無効化、つまり『対話』を成り立させなくするもので、後者の態度はそんな『対話不能』の張本人のくせに話を進めている気になっている、というやっかいさを示します。
そういう人を極端に要約すれば、「他者を気に留めない自分本位の人」って事になる。
【藁人形論法を使うという事】
幸いな事に、このような「藁人形論法」は「主張者の言葉-対立者の言葉」のギャップの形を取るため、冷静に「言葉の範囲・文脈の範囲」を判断できる人は“誰でも(主張者自身でなくとも)”それである事を見破る事ができちゃいます。
それを考えると、『わざと「藁人形論法」を使う』のは非常に考えにくいのね。
自分が「間違い」と知っている事は、他の誰かも「間違い」を見つけるのが可能である事を知っているわけ。「藁人形論法」がばれれば、「論者」としての格が地に落ちるわけで、、それをあえて使うのはかなりリスキー。
よって、『「藁人形論法」を使う』のは、よほど相手を見くびっている人。
大抵は“うっかり”、“おもわず”『「藁人形論法」になる』ものだと私は思う。
いずれにせよ、まともな「対話」を求める人にとっては鬱陶しい。
「藁人形論法」を使われる事そのものよりも、そんな「他者を気に留めない人」が、大手を振って対話している“つもり”になっている事こそ、憎たらしいんじゃないかな。
【人格攻撃と藁人形論法】
この両者は、少なくとも私の理解においては同じものではないが、「ある種の人格攻撃」と「藁人形論法」は機能的に類似する所があるので触れておこう。
「ある種の人格攻撃」とは、「主張内容」そのものを検討せぬまま、「主張する人の属性」を取り上げ、それにより「主張内容」の適切さを否定しようとするもの。
例えば、とある政治家の提示する政策に反対するために、その政治家の女性スキャンダルを取り上げ「そんなふしだらな奴の言う事なんて信用ならん」と主張する...そんな感じだね。
これも「相手の話をろくに聞かない」にもかかわらず、自分の否定的な意志だけは貫こうとする点で、「藁人形論法」と同様のやり口じゃないかな。
ただし、「信用ならん」という主張はあくまで「自分の立場」としての話、いわば「自分は主張内容よりも、人柄を尊重する」というポリシーを発露しただけであり、その点では、捏造した罪をなすりつけるような「藁人形論法」よりはややこしくない。
ただ、「主張内容そのものを検討する場」では、そぐわない態度であるからお引き取り願う、それだけの話。
【人格を探る事は攻撃か?】
んでMORIXさんは「主張と人格は切り分けるべき」とおっしゃるが、確かに先に述べたような「ある種の人格攻撃」のように「主張」を「人格」で評価するのはあまり適切ではないだろうと思う(心情的な面は分からないでもないケド)。
それよりも、私としては「適切ではない」よりもそもそも「つまらない」と感じたりもする。
そんな下らん事で耳を塞ぐと、「私の知らない新しい面白い考え」を見逃す危険がある、というデメリットを感じるからね。
なんて言うと「そんな事言っても、テメェは存分に人格攻撃してるじゃねぇか」と言われそうだけど、違うんだなぁ。
わざわざ「ある種の人格攻撃」と限定したのは、「主張」を「人格」で評価するのは適切ではないにしても、「主張」から「人格」を評価する事まで適切でなくはないと思うから。
「人格」と言うモノにどこまでの意味を含ませようとしているかは知らないけどさ、例えば文章には完全に姿を見せない作者の「思惑」あるいは「心理」といったモノを「文章」から読み取ろう、というのは適切ではないどころか、非常にまっとうな行為だと思う。
「文章」をとことん利用して「相手の心象」に肉薄しようという試みは、「理解」が求められる場において、褒められこそすれ、非難されるものではないハズ。
その上で、”結果”として「悪しき部分」が見出されただけである。
モチロン、その読み取りが適切かどうかは検討されるべきだろうけど
そういうのまで、「人格攻撃」に含めて”やるな”と要求されるのはどうなんだ?
例えば「真っ当な主張ができないという欠点」及び「その原因」が文章から見出せたとする。
で、それを相手に突きつけるのは「批判されるべき人格攻撃」なのだろうか。
確かに、調子に乗って「それ以上の揶揄」を述べる事はままある。
それに対し皆が不快感を覚える事を否定する気はないが、それを反省する気もない。
ただね、『視点がぶれまくる』、『勝手に議論を進める』、『何かを他人に強いる』、そんな事まで「人格攻撃」に含めて「口にするのすら禁止」して、いったい何の得があるんだい。
まぁ、得なのは「そうする人」なんだろうね。
どんどん『視点がぶれ』、どんどん『勝手に議論を進める』ようになり、どんどん『何かを他人に強いる』ようにできる。
誰からも文句言われずにね。
でも、そんな人のために、何故こっちが「言いたい事を我慢」しなくてはならないのか、それがさっぱりわからん。
【文章の読解】
『文章』というのは、あくまで「書き手」の考えの“部分”が表出したにすぎない。
んで、『文章“が”主張している』のではなく、あくまで「書き手」が主体で『文章“で”主張している』わけだ。
となれば、「書き手の主張」に肉薄するには、「文章」という表層だけでなく、「そういう文面になった理由」というメタな部分にまで考察を深め、「書き手の内面」を探っていく、という事こそが、『相手の主張を理解する』のに適した態度ではないカナ。
...という事を改めて言うのも実はバカバカしくて、小学校~高校の国語の時間に教えられた事のハズ。
でも多分国語が苦手だった人は、『「書き手の内面」が探れる』という事がそもそも”信じられない事”だったりするんだろうね。
言っちゃ悪いが、それが苦手な人ほど、自分の文章に対しても無頓着で『「文章」という表層』が“稚拙”になる。んで、稚拙になればなるほど、読み手は『相手の主張を理解する』ために「書き手の内面」を探る作業が増加するんだよね。
しかも、そんな人に限って、その“稚拙”さを棚に上げて、読解にいちいち文句ったりするのがやっかい。
余談だけど、「そういう力」は『作文』に如実に現れる。
「○○をしたら、楽しかった」的な書き方をする人はまずダメ。
個々の出来事を羅列するだけなのも、もっとダメ。
「自分が楽しかった事を、どうやったら他人に伝えられるだろう」と考える事をすれば
おのずと、他人の文章からの「書き手の内面」の探り方も分かってくる。
【チューリングテスト】
自分が『対話』を目的にするなら、「相手に対話能力があるか」という見極めも必要だ。
そして、それを判断する指標も「文章」しかない。
ただし、この場合、「その人の文章」だけでもまぁまぁ探れる事も有るけど、一番確実なのは実際に「会話」している状況を分析する事だ。
人工頭脳に関し、相手がプログラムか人間か分からない状態で会話し、その応答からプログラムを見破れるかどうかで評価する「チューリングテスト」というのがある。それと似た感じで、「言葉のやりとり」を刺激と反応の繰り返しとして見て、『対話プログラム』がどれだけ適正かを評価するんですね。
んで、「見当外れの反応」や「刺激を無視した反応」が多く含まれるのであれば、『こりゃ、対話できるレベルではないぞ』と“判断されてしまう”わけ。
先に述べた、「文章読解」もそうだし、この「対話能力の有無の評価」というのも、私にとって当たり前の事なんだけどね。
で、せっかく相手がいるんだから確認する。で、確認の結果から、修正したり、確信したりする。
そうやっていくのが「刷り合わせ」ってもんじゃないかなぁ。
これが正しいかどうか、は置いておいて、こういうのがお気に召さないMORIXさんが求める「対話の態度」ってのは、なんなんだろうね。
もし語るなら、”みんな”とか”一般的”とか”他の人”とか使わないで
ぜひ主語を”自分”にして述べてみて欲しい。
勝手な予想だけど、「自分の話を批判しないで欲しい」とかの”とっても恥ずかしい”欲求になると思うんだ。
ちなみに、「刷り合わせ」はいいんだけど、「歩み寄り」ってものを持ち出す感覚も謎。
そうやって、どちらも自分を殺して、どちらも中途半端にしか納得しない結論を得て何が楽しいんだろ。
まぁ、大抵「歩み寄り」って言葉を言う奴は「(お前が)歩み寄れ」って意味で使ってるみたいだけどね。
【一般的まとめ】
「藁人形論法だ」、「人格攻撃だ」と批判するのは簡単で、またそういう言葉を使う事で『藁人形論法や人格攻撃は、とにかく議論においてよくないとされるものだ』という半端な知識を持った人に、「正当な批判をしている」という“イメージ”を植え付ける事は可能だとは思う。
そして、実はそういう主張を安易にする人も『半端な知識や半端な考え』しかないんじゃないだろうか。
何か深い考えがあって『藁人形論法』とか『人格攻撃』を持ち出して批判しているのではなく、「どうやら『藁人形論法』や『人格攻撃』は批判すべきものらしい」という“上っ面の理解だけ”で、そう言っているのではないの?
例えば、私に対して「人格攻撃はいけない」と軽々しく口にする人がいるが、なかなかややこしい人だなぁ、と思うのが正直なところ。だって、その発言だって、「人格攻撃するような不誠実な奴」というレッテルを貼らんとする『人格攻撃』と同等の意味を持つんだからさ(って書いていたのに、UPする前にウッちょんさんに言われてしまった...)。
それに気付いて言っているなら、当然「不誠実」であろうし、気付かないで言っているならその程度の認識の浅さでソレを根拠に人を批判しよう、っていうのだからやっぱり不誠実なんだよなぁ。
>>MORIXさん用セッション<<<
さてこっからは、MORIXさんにターゲットを定めて書いていく。
関係ない人は読まんでもよろし。
まぁ、問いを発したMORIXさんには読んで欲しいがね。
なお、基本的には「一般読者向けセッション」の内容を踏まえてくれている前提で書いているので、そこはヨロシク。
【藁人形とストローマン】
実は過去にMAOIXさんの主張を読んでいて、「これは典型的な藁人形論法だろ」と思った事があったのでそれを指摘しておく(なお、この問題は既に『道徳論議の観戦記』で指摘済み)。
それは、「二項対立はうさんくさい」と言ったnaokoさんに対し、MORIXさんが『私は「価値観の多様化」は大歓迎です(中略)二項対立よりも、三項、四項と別れて「対話」や「議論」の成立する方がずっと自然で住みやすい社会だと思います。この「多様化」を受け入れるかどうかに、私とnaokoさんの立ち位置の違いが大きく表れていたのですね。』と言ったところ。
相手が「“二項”対立」という限定された図式を問題にしているのに、「二項対立」を「価値観の多様化」に拡大解釈して見せた上で、あたかも相手が『「多様化」を受け入れる事のできない人』であるかのように述べてみせているわけだ。
いや、ホント「藁人形論法」のお見本とも言えるやり口。
...んで、そういうのを目にしている私としては、MORIXさんが「ストローマン」を批判のネタにする事自体が非常にうさんくさく思えるノダ。
どうでもいいけど、あるコメントでMORIXさんが「ストローマンの詭弁法」という表現を使っていて、一瞬「もしかしてストローマンって人名だった?」と錯覚してしまった。
というか、どちらかといえば「ストローマン」が「詭弁法」の一つのわけだが...。
【ストローマンとは(MORIX Ver.)】
そもそも、MORIXさんの言い振りを見ている限り、どうやら上の方で書いた私の認識とは別の認識のものを「ストローマン」と呼んでいるようだ。
ちなみに『どちらが正しい認識か』なんてくだらない議論をするつもりは無くて、MAOIXさんが問題を示しているのだから、MAOIXさんの認識する「ストローマン」を題材にして話を進めてあげたい。ただし、混乱を避けるためMAOIXさんの認識する“それ”については「ストローマン」と呼び、私の認識する“それ”については「藁人形論法」と呼ぶ事にする。
では、MORIXさんの言う「ストローマン」とはどういうものかというと、ちゃんと明言されていて『私から見ればストローマン。つまり私が考えてもいなかったこと』との事。
「藁人形論法」も“結果”としては「発言者が考えていなかったものになる」点では共通するわけだけど、「ストローマン」の方はどうやら「発言者が考えていなかった」という事が認定基準になっているようだ。
ちなみにこの解釈は、先に引用した言葉の言葉尻だけで邪推しているのではなく、コメントの至る所に現れる「これはストローマンだ」の根拠として、「わたしにはそんな気がなかった」をしきりに挙げている点からも裏付けている。
ところで、私はMAOIXさんの「文章」を元に推測できる範囲で推測しているつもりであり、確かに「言っていない事」に言及はしているケド、文章自体を「藁人形論法」的に拡大解釈して歪めた上で読み下しているつもりは無い。
そういった私の視点から見たMAOIXさんの「ストローマン」をイメージしていただくならばこうなる。
( (当人の“つもり”) 実際に書かれた文章の解釈の範囲 )
私が「実際に書かれた文章の解釈の範囲内」の指摘をしても、MORIXさんはその指摘が「当人の“つもり”」にHITしないことをして、それを「ストローマン」と呼んでいるようである。
なお、言っておくケド、私はHITさせる気で様々な文章を慎重に検討した上で、解釈を狭めているはずなんだけどね。
【そのストローマンは悪か】
ところで、言論あるいは議論の世界で「藁人形論法」は悪とされており、私も(先に挙げた私の「藁人形論法」の理解の上で)“悪”と判断している。
で、おそらく、MORIXさんの「ストローマン」も“悪”という文脈でこの用語を使用していると思われるんだけど、果たしてそう言えるの?
「解釈の幅がある際に生じる、解釈の相違」が生じるそもそもの原因は「表現が雑」なところに”も”ある。
つまり、発言者の責任だって十分有りうるわけだ。
状況によっちゃ、的外れの文章のおかげで無駄骨を折らされた読み手が”被害者”になる場合もあるだろう。
そういう問題を検討せずに、「ストローマン」等とあたかも「相手が的外れである」かのように扱うのはなんともおこがましい。
「他人の問題」を考える前に、まず「根本の問題」つまり自分の表現力に疑問の目を向けるべきではないだろうか。
いや、むしろ、それを考えたくないからこそ「ストローマン」の適用範囲を広くしているのかもしれない。
「表現が悪いのか、解釈が悪いのか」不問で「自分の思惑と違う」だけを根拠に認定できちゃう、ってのは確かに主張者側としては“極めて便利な責任回避の道具”だもんね。
【判断基準による問題】
このMORIXさん流「ストローマン」の一番の問題は、それであるか否かが、ひとえに「元の発言者の匙加減ひとつ」で勝手に決める事が可能というところである(だって基準となる「何を考えていたか」は当人しか知らないんだから)。
つまり、私の理解する「藁人形論法」と異なり、第三者はその認定ができないという性質を持つわけだ。
そこから波及する問題をいくつか述べる。
まず、『嘘』が効く、という事があげられるケド、まぁ、そこまでの不誠実さは想定しないであげよう。
でも、そこまで悪意的でなくても、発言者のうっかり、あるいは無意識の言動、もしくは安易な発言、なんてのはよくありそうだ。
で、それを真面目に読み込んでそれを元に批判した事に対し、「そんな事考えてなかった」と言う“事実”を元に「ストローマン」呼ばわりする事だってできてしまう。
でもそれは、うっかり人を跳ねておいて「そんなつもりはなかったからお前の勘違いだ」と言うような、あまりにも勝手で身の程知らずな行為と言えるだろう。
そんな「恥知らず」な言動を良しとする方には、いい作戦を伝授しよう。
何かを話す時は、なるべくぼやかし、なるべく説明不足にした方がいい。
(早い話「何も考えないで主張しろ」って事)
相手はそれを理解するために、面を点にし点と点を繋げて線にして…という手間をさんざんかけてくれるかもしれない。で、その上で出た批判に対しこう一喝するのだ。
「考えてもいない事を指摘するなんて、ストローマンだ」
きっとその一言で、効果的に相手のやる気を削ぐ事が可能になり、それ以上「自分にとって不快な情報」が耳に入るような事はなく、好き勝手に主張を垂れ流せるでしょう。
一応この辺でオチを付けるならば、「ストローマン」とか言っているけど、実はその原因が主張自体が『ストローマン(中身がスカスカ)』である事を示す、という可能性も十分にある、という事ね。
【ストローマンを批判する前に】
「自分の思いが伝わない」のはもどかしいし、「当人にとっては」相手が批判しているのは不当にしか思えない、その気持ちは分かる。
でも、そんな気持ちになったり、「自分の文章が自分の思いを十分伝えられるはず」と思うのは、あなたが「自分の思い」を分かった上で評価しようとするからなんだよ、という事を忘れないで欲しい。
他者に提示されているのはあくまで「テキスト」なんだよ。
んで、他者は「あなたの思い」が分からない。
それを「テキスト」から判断するしかないわけだ。
でも、MORIXさんはそういう事に意識が向かないんじゃないかな?
だからこそ、「自分の実際の文章」や「相手の視点」を無視したまま、後から「自分のつもり」を披露して、やれ「ストローマン」だと噛みつく、なんて事が平然とできてしまうのだと思うのだけど、どう?
何でも「ストローマン」のせいにし続けると、もし自分の文章のせいだった場合、永遠に状況はかわらないんだよね。
という危機感も少しは持ってほすぃ。
だからさ、そうやって他人に問題を押し付ける前に、まず「自分の書いたテキスト」を「他者の視点」で読み返してみようよ(っていうか、これは本来、主張を表に出す前に検討しなきゃならん事だけど)。
最近ちょくちょく(MORIXさん以外にも)ツッコミを入れているが
「そういうつもりで言いたかったなら、最初からそう言え」
って事なんだよね。
技巧を意識できるほど習熟していないなら、シンプルイズベスト。
逆に、それをそうシンプルに言わないってのは、その「シンプルな理由」以外の“意図”を盛り込もうとしているって事なんだよね。意識的、無意識的にかかわらず。
なんつうか、そういう「何故かぼかされているところ」や「何故か余計な言い回し」あたりに紛れ込んでいる意識ってのは、私レベルの「読解力」だと、「隠されている」どころか、むしろ「あからさま」と言える程度のもの。
「それが深読みだ」と文句言うのならば、「ホントはどういうつもりだったか」を言い訳する前に、「何でぼやかしてしまったのか」、「何で余計な言い回しを使ってしまったのか」の方の納得のいく説明をして欲しいものだ。
【「つもり」と実際の照合をしよう】
ところで、ちょっと前に『私は文章自体を「藁人形論法」的に拡大解釈して歪めた上で読み下しているつもりは無い』と述べた。
それについて、「そんなのお前の“つもり”であって、実際と違うかもしれないじゃないか」とツッコまれるかもしれない。
確かにそうなんだよね。
私だって“そのつもり”は無くても「藁人形論法」的な事をやってしまっているかもしれない。
だけど、そう疑うなら、まず確認して欲しい。
例えば、『MAOIXさんの実際の発言』の“適切な解釈可能な範囲”を判断した上で私の解釈がそこに収まっているか照合するとか、あるいは『私の発言』について論理的に飛躍が無いかとかを検討した上で「おかしい」と言われば、私も納得し、反省するよ。
でもMORIXさんは、「そんなつもりはない」、「そんな気持ちはない」、「内心はこう思っていた」という「自分の気持ちの確認」の話ばっかり。
つまるところ「私の指摘」なんてものは“弁解しなきゃならない場所の目印”程度の扱いで、結局「何を言われようが、自分にはそのつもりは無かったからおかしい」と言いたいだけにしか見えませぬ。
【他者の視点】
いくら「そんなつもりはなかった」と取り繕おうとしても、そういうのは「他者」から見えれば「後から何とでも言える」事。
少なくとも、それだけで信じてもらえる、というお気楽な考えでは誰も納得させられない。
何より「口先だけなら何とも言える。」と判断する他者の視点を認識できている人は、「自分で自分を美化するような発言」なんて恥ずかしくてとても言えないはずなんだ。どんだけ「自惚れ強いんだ」と思われるダケだから。
他者にとっては、そういった「本人の思い込み」よりも「実際の言動」の方が重要。
だから逆に、平気で「自分を美化」をし、自分本位の正当化を繰り返す人なんて、「他人の視点」が全然意識できない、というのが丸分かりになるわけだ。
そのような「虚栄」にしか見えない行為すらも暖かく受け入れろ、というのなら勘弁よ。
【おわりに】
もし、自分の言い分を「他者」に了解して欲しいのならば、なんだけど。
「つもりだった」を連発するヒマがあれば、まず『MORIXさんの気持ち』が『MORIXさんの実際の発言』に“過不足無く”反映されていたかどうか検討してみせてくださいな。
あくまで“過不足無く”ですよ。
都合の良い解釈ばかりを積み重ねる事で、ようやく自分の“つもり”に到達するような代物を提示されても、それは「自分にしか理解できない文章を書いたんだ」と言っているのと同じだからね。
で、もしスパッと「自分の文章には客観的にこれしか解釈の余地が無い」事が示せると言うのならば、その時こそどうぞ「Judgementは人の話をろくに聞かず拡大解釈している」と胸を張って糾弾してくれ。
で、もしそれができなかったら、その時は「自分の文章こそスカスカのストローマンだった」と判断して。
安易に「ストローマン」ばかりに頼っていても、誰も認めちゃくれないし
自分に問題があっても一生気付けない。
それでもいいよ、というのならそれでも別にかまわんけどさ。
どうせ他人の一生だし。
ただ、そういう態度は十分不快感を与える、って事ぐらいは人として認識しておいてね。
ついでといってはなんだけど、関連付けできる部分もあるので、併せて「人格攻撃」、そして「対話」についても触れておこうと思う。
>>一般読者用セッション<<<
【藁人形論法とは(Judgement Ver.)】
一応、私も批判者の端くれとして、「ストローマン(論法)」いわゆる「藁人形論法」の事は知っているつもりだけど、念のため私の理解を述べておきましょう(なお、個人的には「藁人形論法」の方がピンと来るのでこちらの用語を使わせてね)。
「藁人形論法」はいわゆる「論点のスリカエ」のための手法のひとつで、主に「相手が言っている事」に対して、「言っている事に関連しそうだけど、言っている範囲を超えた事」つまり曲解をした挙げ句、あたかも相手がそう言っているように述べた上で否定し(大抵否定しやすい内容に曲解される)、あたかも相手の主張が否定されるかのように見せる論法で...と私は理解しているんだけど。
Wikiの例を引用すれば、「私は子供が道路で遊ぶのは危険と思う」に対し、「子供を一日中家に閉じこめておけというが、果たしてそれは正しいのか」となる。確かに、子供を一日中家に閉じこめておけば道路では遊ばないが、道路で遊ばせないための方法は一日中家に閉じこめる事のみではないものね。
んで、イメージとしてはこんな感じ。
( (当人の主張が指す範囲) 当人の主張を内包する範囲 )
まず、「当人が言っている内容」を小さな円として、さらにそれを内包する大きな円を描いた図があるとしましょう。
で、「当人の主張が指す範囲」の外側あるいは完全には包括しない部分を指して、あたかも「そこまで当人が主張している」かのように扱うのが「藁人形論法」。
また、大きな円のなるべく端っこであればあるほど、否定しやすい極端な主張に見せかける事ができるわけなんだよね。
曲解、というよりかは「拡大解釈」とする方が分かりやすいかもしれない。
【藁人形論法の何が問題か】
「藁人形論法」の問題点を示す前に、念のため言っておきたいのは「その人が言いたい事はその人しか知らない」という当たり前の事。
それを認識した上で、主張者が「言いたい事を知らない他者にも分かるよう」かつ「自分の考えに最も一致するよう」、言葉や文脈を厳選して主張を構成している事を前提としてようやく「藁人形論法」の問題点にアプローチできるわけ。
まず第一に、主張者が自分の意思伝達のためにわざわざ「集約」したという手間を無視し、勝手に「拡張」してしまうのは、主張者の「意思伝達」の努力を一顧だにしない、つまり「相手の話には聞く耳持たない」という態度だよね。
第二に、そのように「拡張」した事をあたかも相手が言っているかのようにしてまで否定するってのは、「相手の話をろくに聞いていない」にもかかわらず、自分の否定的な意志だけは貫こうとするという態度だよね。
前者の態度は、言葉や文脈の力による「意思伝達」の無効化、つまり『対話』を成り立させなくするもので、後者の態度はそんな『対話不能』の張本人のくせに話を進めている気になっている、というやっかいさを示します。
そういう人を極端に要約すれば、「他者を気に留めない自分本位の人」って事になる。
【藁人形論法を使うという事】
幸いな事に、このような「藁人形論法」は「主張者の言葉-対立者の言葉」のギャップの形を取るため、冷静に「言葉の範囲・文脈の範囲」を判断できる人は“誰でも(主張者自身でなくとも)”それである事を見破る事ができちゃいます。
それを考えると、『わざと「藁人形論法」を使う』のは非常に考えにくいのね。
自分が「間違い」と知っている事は、他の誰かも「間違い」を見つけるのが可能である事を知っているわけ。「藁人形論法」がばれれば、「論者」としての格が地に落ちるわけで、、それをあえて使うのはかなりリスキー。
よって、『「藁人形論法」を使う』のは、よほど相手を見くびっている人。
大抵は“うっかり”、“おもわず”『「藁人形論法」になる』ものだと私は思う。
いずれにせよ、まともな「対話」を求める人にとっては鬱陶しい。
「藁人形論法」を使われる事そのものよりも、そんな「他者を気に留めない人」が、大手を振って対話している“つもり”になっている事こそ、憎たらしいんじゃないかな。
【人格攻撃と藁人形論法】
この両者は、少なくとも私の理解においては同じものではないが、「ある種の人格攻撃」と「藁人形論法」は機能的に類似する所があるので触れておこう。
「ある種の人格攻撃」とは、「主張内容」そのものを検討せぬまま、「主張する人の属性」を取り上げ、それにより「主張内容」の適切さを否定しようとするもの。
例えば、とある政治家の提示する政策に反対するために、その政治家の女性スキャンダルを取り上げ「そんなふしだらな奴の言う事なんて信用ならん」と主張する...そんな感じだね。
これも「相手の話をろくに聞かない」にもかかわらず、自分の否定的な意志だけは貫こうとする点で、「藁人形論法」と同様のやり口じゃないかな。
ただし、「信用ならん」という主張はあくまで「自分の立場」としての話、いわば「自分は主張内容よりも、人柄を尊重する」というポリシーを発露しただけであり、その点では、捏造した罪をなすりつけるような「藁人形論法」よりはややこしくない。
ただ、「主張内容そのものを検討する場」では、そぐわない態度であるからお引き取り願う、それだけの話。
【人格を探る事は攻撃か?】
んでMORIXさんは「主張と人格は切り分けるべき」とおっしゃるが、確かに先に述べたような「ある種の人格攻撃」のように「主張」を「人格」で評価するのはあまり適切ではないだろうと思う(心情的な面は分からないでもないケド)。
それよりも、私としては「適切ではない」よりもそもそも「つまらない」と感じたりもする。
そんな下らん事で耳を塞ぐと、「私の知らない新しい面白い考え」を見逃す危険がある、というデメリットを感じるからね。
なんて言うと「そんな事言っても、テメェは存分に人格攻撃してるじゃねぇか」と言われそうだけど、違うんだなぁ。
わざわざ「ある種の人格攻撃」と限定したのは、「主張」を「人格」で評価するのは適切ではないにしても、「主張」から「人格」を評価する事まで適切でなくはないと思うから。
「人格」と言うモノにどこまでの意味を含ませようとしているかは知らないけどさ、例えば文章には完全に姿を見せない作者の「思惑」あるいは「心理」といったモノを「文章」から読み取ろう、というのは適切ではないどころか、非常にまっとうな行為だと思う。
「文章」をとことん利用して「相手の心象」に肉薄しようという試みは、「理解」が求められる場において、褒められこそすれ、非難されるものではないハズ。
その上で、”結果”として「悪しき部分」が見出されただけである。
モチロン、その読み取りが適切かどうかは検討されるべきだろうけど
そういうのまで、「人格攻撃」に含めて”やるな”と要求されるのはどうなんだ?
例えば「真っ当な主張ができないという欠点」及び「その原因」が文章から見出せたとする。
で、それを相手に突きつけるのは「批判されるべき人格攻撃」なのだろうか。
確かに、調子に乗って「それ以上の揶揄」を述べる事はままある。
それに対し皆が不快感を覚える事を否定する気はないが、それを反省する気もない。
ただね、『視点がぶれまくる』、『勝手に議論を進める』、『何かを他人に強いる』、そんな事まで「人格攻撃」に含めて「口にするのすら禁止」して、いったい何の得があるんだい。
まぁ、得なのは「そうする人」なんだろうね。
どんどん『視点がぶれ』、どんどん『勝手に議論を進める』ようになり、どんどん『何かを他人に強いる』ようにできる。
誰からも文句言われずにね。
でも、そんな人のために、何故こっちが「言いたい事を我慢」しなくてはならないのか、それがさっぱりわからん。
【文章の読解】
『文章』というのは、あくまで「書き手」の考えの“部分”が表出したにすぎない。
んで、『文章“が”主張している』のではなく、あくまで「書き手」が主体で『文章“で”主張している』わけだ。
となれば、「書き手の主張」に肉薄するには、「文章」という表層だけでなく、「そういう文面になった理由」というメタな部分にまで考察を深め、「書き手の内面」を探っていく、という事こそが、『相手の主張を理解する』のに適した態度ではないカナ。
...という事を改めて言うのも実はバカバカしくて、小学校~高校の国語の時間に教えられた事のハズ。
でも多分国語が苦手だった人は、『「書き手の内面」が探れる』という事がそもそも”信じられない事”だったりするんだろうね。
言っちゃ悪いが、それが苦手な人ほど、自分の文章に対しても無頓着で『「文章」という表層』が“稚拙”になる。んで、稚拙になればなるほど、読み手は『相手の主張を理解する』ために「書き手の内面」を探る作業が増加するんだよね。
しかも、そんな人に限って、その“稚拙”さを棚に上げて、読解にいちいち文句ったりするのがやっかい。
余談だけど、「そういう力」は『作文』に如実に現れる。
「○○をしたら、楽しかった」的な書き方をする人はまずダメ。
個々の出来事を羅列するだけなのも、もっとダメ。
「自分が楽しかった事を、どうやったら他人に伝えられるだろう」と考える事をすれば
おのずと、他人の文章からの「書き手の内面」の探り方も分かってくる。
【チューリングテスト】
自分が『対話』を目的にするなら、「相手に対話能力があるか」という見極めも必要だ。
そして、それを判断する指標も「文章」しかない。
ただし、この場合、「その人の文章」だけでもまぁまぁ探れる事も有るけど、一番確実なのは実際に「会話」している状況を分析する事だ。
人工頭脳に関し、相手がプログラムか人間か分からない状態で会話し、その応答からプログラムを見破れるかどうかで評価する「チューリングテスト」というのがある。それと似た感じで、「言葉のやりとり」を刺激と反応の繰り返しとして見て、『対話プログラム』がどれだけ適正かを評価するんですね。
んで、「見当外れの反応」や「刺激を無視した反応」が多く含まれるのであれば、『こりゃ、対話できるレベルではないぞ』と“判断されてしまう”わけ。
先に述べた、「文章読解」もそうだし、この「対話能力の有無の評価」というのも、私にとって当たり前の事なんだけどね。
で、せっかく相手がいるんだから確認する。で、確認の結果から、修正したり、確信したりする。
そうやっていくのが「刷り合わせ」ってもんじゃないかなぁ。
これが正しいかどうか、は置いておいて、こういうのがお気に召さないMORIXさんが求める「対話の態度」ってのは、なんなんだろうね。
もし語るなら、”みんな”とか”一般的”とか”他の人”とか使わないで
ぜひ主語を”自分”にして述べてみて欲しい。
勝手な予想だけど、「自分の話を批判しないで欲しい」とかの”とっても恥ずかしい”欲求になると思うんだ。
ちなみに、「刷り合わせ」はいいんだけど、「歩み寄り」ってものを持ち出す感覚も謎。
そうやって、どちらも自分を殺して、どちらも中途半端にしか納得しない結論を得て何が楽しいんだろ。
まぁ、大抵「歩み寄り」って言葉を言う奴は「(お前が)歩み寄れ」って意味で使ってるみたいだけどね。
【一般的まとめ】
「藁人形論法だ」、「人格攻撃だ」と批判するのは簡単で、またそういう言葉を使う事で『藁人形論法や人格攻撃は、とにかく議論においてよくないとされるものだ』という半端な知識を持った人に、「正当な批判をしている」という“イメージ”を植え付ける事は可能だとは思う。
そして、実はそういう主張を安易にする人も『半端な知識や半端な考え』しかないんじゃないだろうか。
何か深い考えがあって『藁人形論法』とか『人格攻撃』を持ち出して批判しているのではなく、「どうやら『藁人形論法』や『人格攻撃』は批判すべきものらしい」という“上っ面の理解だけ”で、そう言っているのではないの?
例えば、私に対して「人格攻撃はいけない」と軽々しく口にする人がいるが、なかなかややこしい人だなぁ、と思うのが正直なところ。だって、その発言だって、「人格攻撃するような不誠実な奴」というレッテルを貼らんとする『人格攻撃』と同等の意味を持つんだからさ(って書いていたのに、UPする前にウッちょんさんに言われてしまった...)。
それに気付いて言っているなら、当然「不誠実」であろうし、気付かないで言っているならその程度の認識の浅さでソレを根拠に人を批判しよう、っていうのだからやっぱり不誠実なんだよなぁ。
>>MORIXさん用セッション<<<
さてこっからは、MORIXさんにターゲットを定めて書いていく。
関係ない人は読まんでもよろし。
まぁ、問いを発したMORIXさんには読んで欲しいがね。
なお、基本的には「一般読者向けセッション」の内容を踏まえてくれている前提で書いているので、そこはヨロシク。
【藁人形とストローマン】
実は過去にMAOIXさんの主張を読んでいて、「これは典型的な藁人形論法だろ」と思った事があったのでそれを指摘しておく(なお、この問題は既に『道徳論議の観戦記』で指摘済み)。
それは、「二項対立はうさんくさい」と言ったnaokoさんに対し、MORIXさんが『私は「価値観の多様化」は大歓迎です(中略)二項対立よりも、三項、四項と別れて「対話」や「議論」の成立する方がずっと自然で住みやすい社会だと思います。この「多様化」を受け入れるかどうかに、私とnaokoさんの立ち位置の違いが大きく表れていたのですね。』と言ったところ。
相手が「“二項”対立」という限定された図式を問題にしているのに、「二項対立」を「価値観の多様化」に拡大解釈して見せた上で、あたかも相手が『「多様化」を受け入れる事のできない人』であるかのように述べてみせているわけだ。
いや、ホント「藁人形論法」のお見本とも言えるやり口。
...んで、そういうのを目にしている私としては、MORIXさんが「ストローマン」を批判のネタにする事自体が非常にうさんくさく思えるノダ。
どうでもいいけど、あるコメントでMORIXさんが「ストローマンの詭弁法」という表現を使っていて、一瞬「もしかしてストローマンって人名だった?」と錯覚してしまった。
というか、どちらかといえば「ストローマン」が「詭弁法」の一つのわけだが...。
【ストローマンとは(MORIX Ver.)】
そもそも、MORIXさんの言い振りを見ている限り、どうやら上の方で書いた私の認識とは別の認識のものを「ストローマン」と呼んでいるようだ。
ちなみに『どちらが正しい認識か』なんてくだらない議論をするつもりは無くて、MAOIXさんが問題を示しているのだから、MAOIXさんの認識する「ストローマン」を題材にして話を進めてあげたい。ただし、混乱を避けるためMAOIXさんの認識する“それ”については「ストローマン」と呼び、私の認識する“それ”については「藁人形論法」と呼ぶ事にする。
では、MORIXさんの言う「ストローマン」とはどういうものかというと、ちゃんと明言されていて『私から見ればストローマン。つまり私が考えてもいなかったこと』との事。
「藁人形論法」も“結果”としては「発言者が考えていなかったものになる」点では共通するわけだけど、「ストローマン」の方はどうやら「発言者が考えていなかった」という事が認定基準になっているようだ。
ちなみにこの解釈は、先に引用した言葉の言葉尻だけで邪推しているのではなく、コメントの至る所に現れる「これはストローマンだ」の根拠として、「わたしにはそんな気がなかった」をしきりに挙げている点からも裏付けている。
ところで、私はMAOIXさんの「文章」を元に推測できる範囲で推測しているつもりであり、確かに「言っていない事」に言及はしているケド、文章自体を「藁人形論法」的に拡大解釈して歪めた上で読み下しているつもりは無い。
そういった私の視点から見たMAOIXさんの「ストローマン」をイメージしていただくならばこうなる。
( (当人の“つもり”) 実際に書かれた文章の解釈の範囲 )
私が「実際に書かれた文章の解釈の範囲内」の指摘をしても、MORIXさんはその指摘が「当人の“つもり”」にHITしないことをして、それを「ストローマン」と呼んでいるようである。
なお、言っておくケド、私はHITさせる気で様々な文章を慎重に検討した上で、解釈を狭めているはずなんだけどね。
【そのストローマンは悪か】
ところで、言論あるいは議論の世界で「藁人形論法」は悪とされており、私も(先に挙げた私の「藁人形論法」の理解の上で)“悪”と判断している。
で、おそらく、MORIXさんの「ストローマン」も“悪”という文脈でこの用語を使用していると思われるんだけど、果たしてそう言えるの?
「解釈の幅がある際に生じる、解釈の相違」が生じるそもそもの原因は「表現が雑」なところに”も”ある。
つまり、発言者の責任だって十分有りうるわけだ。
状況によっちゃ、的外れの文章のおかげで無駄骨を折らされた読み手が”被害者”になる場合もあるだろう。
そういう問題を検討せずに、「ストローマン」等とあたかも「相手が的外れである」かのように扱うのはなんともおこがましい。
「他人の問題」を考える前に、まず「根本の問題」つまり自分の表現力に疑問の目を向けるべきではないだろうか。
いや、むしろ、それを考えたくないからこそ「ストローマン」の適用範囲を広くしているのかもしれない。
「表現が悪いのか、解釈が悪いのか」不問で「自分の思惑と違う」だけを根拠に認定できちゃう、ってのは確かに主張者側としては“極めて便利な責任回避の道具”だもんね。
【判断基準による問題】
このMORIXさん流「ストローマン」の一番の問題は、それであるか否かが、ひとえに「元の発言者の匙加減ひとつ」で勝手に決める事が可能というところである(だって基準となる「何を考えていたか」は当人しか知らないんだから)。
つまり、私の理解する「藁人形論法」と異なり、第三者はその認定ができないという性質を持つわけだ。
そこから波及する問題をいくつか述べる。
まず、『嘘』が効く、という事があげられるケド、まぁ、そこまでの不誠実さは想定しないであげよう。
でも、そこまで悪意的でなくても、発言者のうっかり、あるいは無意識の言動、もしくは安易な発言、なんてのはよくありそうだ。
で、それを真面目に読み込んでそれを元に批判した事に対し、「そんな事考えてなかった」と言う“事実”を元に「ストローマン」呼ばわりする事だってできてしまう。
でもそれは、うっかり人を跳ねておいて「そんなつもりはなかったからお前の勘違いだ」と言うような、あまりにも勝手で身の程知らずな行為と言えるだろう。
そんな「恥知らず」な言動を良しとする方には、いい作戦を伝授しよう。
何かを話す時は、なるべくぼやかし、なるべく説明不足にした方がいい。
(早い話「何も考えないで主張しろ」って事)
相手はそれを理解するために、面を点にし点と点を繋げて線にして…という手間をさんざんかけてくれるかもしれない。で、その上で出た批判に対しこう一喝するのだ。
「考えてもいない事を指摘するなんて、ストローマンだ」
きっとその一言で、効果的に相手のやる気を削ぐ事が可能になり、それ以上「自分にとって不快な情報」が耳に入るような事はなく、好き勝手に主張を垂れ流せるでしょう。
一応この辺でオチを付けるならば、「ストローマン」とか言っているけど、実はその原因が主張自体が『ストローマン(中身がスカスカ)』である事を示す、という可能性も十分にある、という事ね。
【ストローマンを批判する前に】
「自分の思いが伝わない」のはもどかしいし、「当人にとっては」相手が批判しているのは不当にしか思えない、その気持ちは分かる。
でも、そんな気持ちになったり、「自分の文章が自分の思いを十分伝えられるはず」と思うのは、あなたが「自分の思い」を分かった上で評価しようとするからなんだよ、という事を忘れないで欲しい。
他者に提示されているのはあくまで「テキスト」なんだよ。
んで、他者は「あなたの思い」が分からない。
それを「テキスト」から判断するしかないわけだ。
でも、MORIXさんはそういう事に意識が向かないんじゃないかな?
だからこそ、「自分の実際の文章」や「相手の視点」を無視したまま、後から「自分のつもり」を披露して、やれ「ストローマン」だと噛みつく、なんて事が平然とできてしまうのだと思うのだけど、どう?
何でも「ストローマン」のせいにし続けると、もし自分の文章のせいだった場合、永遠に状況はかわらないんだよね。
という危機感も少しは持ってほすぃ。
だからさ、そうやって他人に問題を押し付ける前に、まず「自分の書いたテキスト」を「他者の視点」で読み返してみようよ(っていうか、これは本来、主張を表に出す前に検討しなきゃならん事だけど)。
最近ちょくちょく(MORIXさん以外にも)ツッコミを入れているが
「そういうつもりで言いたかったなら、最初からそう言え」
って事なんだよね。
技巧を意識できるほど習熟していないなら、シンプルイズベスト。
逆に、それをそうシンプルに言わないってのは、その「シンプルな理由」以外の“意図”を盛り込もうとしているって事なんだよね。意識的、無意識的にかかわらず。
なんつうか、そういう「何故かぼかされているところ」や「何故か余計な言い回し」あたりに紛れ込んでいる意識ってのは、私レベルの「読解力」だと、「隠されている」どころか、むしろ「あからさま」と言える程度のもの。
「それが深読みだ」と文句言うのならば、「ホントはどういうつもりだったか」を言い訳する前に、「何でぼやかしてしまったのか」、「何で余計な言い回しを使ってしまったのか」の方の納得のいく説明をして欲しいものだ。
【「つもり」と実際の照合をしよう】
ところで、ちょっと前に『私は文章自体を「藁人形論法」的に拡大解釈して歪めた上で読み下しているつもりは無い』と述べた。
それについて、「そんなのお前の“つもり”であって、実際と違うかもしれないじゃないか」とツッコまれるかもしれない。
確かにそうなんだよね。
私だって“そのつもり”は無くても「藁人形論法」的な事をやってしまっているかもしれない。
だけど、そう疑うなら、まず確認して欲しい。
例えば、『MAOIXさんの実際の発言』の“適切な解釈可能な範囲”を判断した上で私の解釈がそこに収まっているか照合するとか、あるいは『私の発言』について論理的に飛躍が無いかとかを検討した上で「おかしい」と言われば、私も納得し、反省するよ。
でもMORIXさんは、「そんなつもりはない」、「そんな気持ちはない」、「内心はこう思っていた」という「自分の気持ちの確認」の話ばっかり。
つまるところ「私の指摘」なんてものは“弁解しなきゃならない場所の目印”程度の扱いで、結局「何を言われようが、自分にはそのつもりは無かったからおかしい」と言いたいだけにしか見えませぬ。
【他者の視点】
いくら「そんなつもりはなかった」と取り繕おうとしても、そういうのは「他者」から見えれば「後から何とでも言える」事。
少なくとも、それだけで信じてもらえる、というお気楽な考えでは誰も納得させられない。
何より「口先だけなら何とも言える。」と判断する他者の視点を認識できている人は、「自分で自分を美化するような発言」なんて恥ずかしくてとても言えないはずなんだ。どんだけ「自惚れ強いんだ」と思われるダケだから。
他者にとっては、そういった「本人の思い込み」よりも「実際の言動」の方が重要。
だから逆に、平気で「自分を美化」をし、自分本位の正当化を繰り返す人なんて、「他人の視点」が全然意識できない、というのが丸分かりになるわけだ。
そのような「虚栄」にしか見えない行為すらも暖かく受け入れろ、というのなら勘弁よ。
【おわりに】
もし、自分の言い分を「他者」に了解して欲しいのならば、なんだけど。
「つもりだった」を連発するヒマがあれば、まず『MORIXさんの気持ち』が『MORIXさんの実際の発言』に“過不足無く”反映されていたかどうか検討してみせてくださいな。
あくまで“過不足無く”ですよ。
都合の良い解釈ばかりを積み重ねる事で、ようやく自分の“つもり”に到達するような代物を提示されても、それは「自分にしか理解できない文章を書いたんだ」と言っているのと同じだからね。
で、もしスパッと「自分の文章には客観的にこれしか解釈の余地が無い」事が示せると言うのならば、その時こそどうぞ「Judgementは人の話をろくに聞かず拡大解釈している」と胸を張って糾弾してくれ。
で、もしそれができなかったら、その時は「自分の文章こそスカスカのストローマンだった」と判断して。
安易に「ストローマン」ばかりに頼っていても、誰も認めちゃくれないし
自分に問題があっても一生気付けない。
それでもいいよ、というのならそれでも別にかまわんけどさ。
どうせ他人の一生だし。
ただ、そういう態度は十分不快感を与える、って事ぐらいは人として認識しておいてね。
「ストローマン」と「対話」及び「人格批判」のあり方について。
まず(Judgementさんver.)の「藁人形論法」についてのご説明は、明解かつ適確だと思います。その危険性まで含めてよくまとめられていると敬服しました。また『私の認識とは別の認識のもの』として推測してくださった(MORIX ver.)の「ストローマン」も、まったくお書きになられている通りです。後出しで言っても仕方ないのですが、私も本来の「藁人形論法」が「人格の藁人形」をつくることよりも、「論旨の拡大解釈や曲解」をすることを差すものだとは存じておりました。が、私がこれまでに主にネットで見てきた限りでは、「人格攻撃」の方を「藁人形」と批判する用法が多かったので、そちらの意味で使わせて頂きました。
そうしたJudgementさんからの「二項対立」についてのご指摘は、まったくおっしゃる通りです。私自身、「藁人形論法」の典型例だと『道徳議論の観戦記』で書かれた時に初めて気付かされました。これは言い訳のしようもない私の「うっかり」です。当時は「naokoさんの主張に反論したい」という気持ちが有りましたので、私がnaokoさんの主張をよく把握しないで、反論しやすい方向に曲解した結果だと思います。
しかし、議論において(意図的だったり、無意識だったりしながらも)行き違いというのはよく起こることです。例えばとして使わせて頂くと、以前Judgementさんが『だからといって、そのフレーズを「思考停止」の言い訳にしてはいけない』と批判された私の「人文学的問題・相対的価値」という言葉における行き違い(『頭と腹』のコメント)も、ひとつは「私の書き方が悪かった」せいだとも捉えられますし、もうひとつには「Judgementさんが私の言葉を曲解した」せいだとも捉えられます。こんな時にはJudgementさんの言う『擦り合わせ』をすることで、議論がさらに縺れることは避けられると思います。ただ「誤読されてます」と注意・警告をするだけで済むはずです。ところが「○○は相手の文を読もうともしない××なヤツだ」と中傷・揶揄まですると、私の言う人格攻撃やストローマンになります。
ですから上記の【人格を探ることは攻撃か?】にある
>例えば文章には完全に姿を見せない作者の「思惑」あるいは「心理」といったモノを
>「文章」から読み取ろう、というのは適切ではないどころか、非常にまっとうな行為だと思う。
という行為は確かにまっとうだと思いますし、私も皆さんの文章を読みながら同じ事をしています。文章から相手の気持ちを忖度しようという姿勢は、本当に相手を分かろうとしているという点において、対話に望むべきものだと思います。「人格を探ることは攻撃」ではないと思います。
しかしそこから読み取れた相手の「思惑」や「心理」を実際に書いて非難することは、「攻撃」だと思います。
>その上で、”結果”として「悪しき部分」が見出されただけである。
>モチロン、その読み取りが適切かどうかは検討されるべきだろうけど
>そういうのまで、「人格攻撃」に含めて”やるな”と要求されるのはどうなんだ?
本当に対話相手が議論そのものを意図的に困難にしているようであれば、相手の態度や人格を含めて非難するのも仕方がない事だと思います。しかし「人格を非難することが目的の主になっている」ようなエントリーやコメントはこれまでも書いてきました通りデメリットが大きい。ですから"やるな"というのが、先週までの私の考えでした。
「先週まで」と書いたのは、ウッちょんさんに指摘され、そして本エントリーでもJudgementさんが指摘されている「行為」を非難するのも「人格攻撃」になるという問題に私が気付かされたからです。
>例えば、私に対して「人格攻撃はいけない」と軽々しく口にする人がいるが、
>なかなかややこしい人だなぁ、と思うのが正直なところ。だって、その発言だって、
>「人格攻撃するような不誠実な奴」というレッテルを貼らんとする
>『人格攻撃』と同等の意味を持つんだからさ。
これは本当にややこしい問題です。色々考えて来ましたが、結論を言うと、どう考えても「適用範囲」の問題が出て来てしまって、私の要求はパラドックスのようなものになってしまいます。「人格攻撃を止めて欲しい」という言説自体が成り立たなくなるという結論です。ということは遡って、それをこちらに訪れた当初から主張していた私は、皆さんにとって単に「お騒がせ」な存在なだけだったということになります。これを機に、この主張も引っ込めさせていただこうと思います。今さら遅く、皆さんの貴重な労力と時間を浪費してしまったことになり、遺憾のかぎりです。私自身には大きな気付きとなりましたが、謝罪させていただきたく思います。大変申し訳有りませんでした、そしてありがとうございました。
by MORIX (2010-01-29 19:51)