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腹と頭 [言論]

え~、新年あけましておめでとうございまする。
今年も、そこそこやっていきますので、ヒマな方はお付き合いを。
んで、今回は年末に書いた「大義名分批判」のコメント欄に関連したお話(naokoさんと、MORIXさんへのお年玉?)


 ...と言っても、「Judgement的道徳観」を語ろう、というわけではない。
 まぁ、そのうち語るかもしれないけれど、その前の「地ならし」的な記事。

 順を追って話していこう。


【なぜ「道徳」の話なのか?】

 「大義名分」のコメント欄で、naokoさんとMORIXさんが「道徳」についてのやり取りをする事になったそもそもの始まりは、MORIXさんの『今回テーマになっている「大義名分」というのは「道徳」や「一般常識」や「正義」や「社会規範」と同じような物だと捉えてよろしいですよね?』という提言からでした。

 率直に言えば、私としてはこれを見て「いや、よろしくない、よろしくないよ」と思ったのね。

 「一般常識」や「正義」や「社会規範」については、確かに私の捉えている「大義名分」の位置付けに非常に近い。でも、私にとっては「道徳」はそれらに含まれない別物なのよ。
 で、それをどう説明すればいいのかなぁ~、なんて考えているうちに、どんどんコメントが伸びていってしまったわけ。
 まぁ、私としても、途中から「『道徳』でどんな展開の話になるのかな」という事の方が気になったから、自分の異論についてはどうでもよくなってたんだけどね。
 
 念のため言えば、「勝手に話を進めやがって」って事を言いたいんじゃないからね。
 MORIXさんが私の記事に触発されて考えた事をコメントで書く、というのは、例え私の主旨と違っていても非常にありがたい。また、それに触発されて naokoさんが登場し、その話が進んでく、というのも非常に面白い。
 私は、書くのも好きだけど、人の話を読むのも好きだから、ぜひぜひ大いにやって欲しい。
 ※ ただし、もしあまりにも下らないやり取りになれば、家主として強権を発動させてもらう。

 でも、できれば「同じですよね」と同意を求める形で他人の意見を巻き込もうとせず、素直に「私は大義名分も道徳も同じだと思うので、道徳の話をする」と言って欲しかったなぁ。
 ならば私も「違う理由の説明」に悩む必要も無かったので。


【観戦の個人的感想】

 で、じゃぁ傍観者としての私にはどう見えていたかの話をする。
 昨年最後の記事を見て薄々(あからさまに?)気付いた人もいるだろうけど、私の心の中ではnaokoさんの株が急上昇する一方で、MORIXさんの株はどんどん暴落していった。
 
 多分、2人のやり取りの最大のキーワードは「腹と頭」だろう。
 んで、naokoさんが「腹と頭」を使った時、私は“どんな事についての例え”なのかしっくりきていた。
 一方で、MORIXさんはこの「腹と頭」という問題がしっくり来ないご様子だった(比喩の意味そのものよりも、何故「道徳」の話でそれが出てくるのかという事の方こそしっくりこなかったのかもしれない)。
 
 まぁ、そのあたりは別にMORIXさんの評価には繋がらない。
 「しっくり」なんて、各個人の経験と知識に照らし合わせる事で生じたり生じなかったりするような感覚的なモノであり、MORIXさんが「腹と頭」という表現でしっくり来なかったとすれば、それはnaokoさんと経験と知識が違う(“差”ではない)という至極に当然の理由によるものであり、別に「能力差」ではない。
 また、私が「しっくり来た」のは、それについてはnaokoさんと似たような経験や知識を“たまたま”持っていただけの話だろう。
 強いて言えば、MORIXさんが理解できなかったのは、naokoさんの説明が不足していた、という事だって有りうる(ただし、理解できてしまった私には、説明が足りなかったか否かは評価できないケド)。

 ただ、「腹と頭」という表現にしっくり来ている私がMORIXさんとnaokoさんのやり取りを見ると、naokoさんの主張は終始軸がぶれずに説明を深めているものと捉えられた一方で、それに対するMORIXさんの発言は、(申し訳ないけど)拡散的かつ言葉尻を捉える的な感じに見えてしまうのね。

 試しに「naokoさんのコメントだけ」と、「MORIXさんのコメントだけ」に分けて読んでみて欲しい。
 おそらく、naokoさんの「腹と頭」の分け方にしっくり来ない人でも、少なくとも彼女は「それについて色々角度を変えて説明しようとしている」という事ぐらいは分かるんじゃないかな。
 一方で、MORIXさんの方は、色んな話しが次々出てくるけれど、用語のの羅列ばかりだし、話題もあっちこっちに飛んで「何について」の話をしようとしているのか、話せば話すほど見えなくなってしまっている感じ。

 こういった事は、MORIXさんがnaokoさんの話を理解せぬまま、無理矢理naokoさんの話のイニシアティブを取ろうとしたり、あるいはそれを諦めてnaokoさんの話を話題から(否定ではなく)除外しようとしたりしている事が原因だと私には見えた。

 株価暴落を決定付けたのは、私にとって“話を拡散させている張本人(MORIXさん)”が、『お話が「大義名分がどう決まるか」から枝分かれして、だいぶ末節の方へ進んでいる気がします。』と人ごとのように述べてみたり、果ては「自分の言いたい事を理解してくれないから、応答しない」的な態度を取ってみせたあたり。
 まぁ、最底値をマークしたのは「誤読の言い訳」と口先だけにしか聞こえない”対話論”をぶちかましたところカナ。

 多分読んでないんだろうし、読めとも強要しないけど、「エセカウンセラーの言い訳」で私が問題にしている振る舞いを、その数日後の記事のコメント欄で見せ付けられた感じで、正直萎えた。
 (まぁ、私の訴求力不足なんだけどね。私もまだまだ隙があるって事だ)


【今回のテーマ】

 ...という批判めいた話しはこの辺でやめておこう。
 今回はMORIXさん批判が主題じゃないのよ。

 正直なところ、naokoさんの「腹と頭」という例えに、分かっている気にはなっている私であるけど、「しっくり」はきているけど、「しっかり」規定できるかというと、非常に疑問。
 だから、2人のやり取りに口を挟もうにも、曖昧な「腹と頭」の認識でそれをやったら、もっと話がブレるだろうなぁ、と思って躊躇していた。

 そんな中で、去年の暮れに読んでいた本に「腹と頭」の話が出てきた。

 別にそれを調べるために探した本では無く、ホントにたまたま。
 「シンクロニティ!?」ってちょっとびっくりしたくらい。

 その本とは
 『リスクにあなたは騙される~「恐怖」を操る論理~』
 (著者:ダン・ガードナー 訳:田淵健太 早川書房)

 この本で触れられている「腹と頭」は、私のなんとなく把握している「腹と頭」とも関連しているようだし、確証は無いけれどnaokoさんの「腹と頭」と似たものを指していると思ったのね。
 また、このあたりは、naokoさんの話とは別に、私が今までブログなどで行ってきた事にも関係あったりもする。

 という事で、その本の内容を元に、自分の「腹と頭」観についての土台を固めてみた。

 MORIXさんには、「naokoさんの話」が理解できるかもしれない、というお年玉。
 naokoさんには、自分の「腹と頭」の話が私にどう捉えられたか確認できる、というお年玉。
 その他の皆さんには、クリティカル・シンキングの阻害要因が理解できるかもしれない、というお年玉。
 ...をあげるつもり。

 なお、取り上げた本の内容を部分的に引用しつつ、本の説明を読んだ上での私の考え方として述べますよ。
 つまり、ここで述べていく「腹と頭の捉え方」は、ガードナー氏の捉え方でも、ましてやnaokoさんの捉え方でもなく、あくまで「Judgementの捉え方」である、という事。その点は混同しないでね。

 
【システム・ワンとシステム・ツー】

 著者は冒頭でこのような事を述べている。
 
 すべての人の脳は一つではなく二つの思考システムを有している。心理学者はそれらをシステム・ワンとシステム・ツーと呼んだ。古代ギリシャ人は、人間に関するこの考えに科学者より少し早くたどり着き、この二つのシステムをディオニソスとアポロンという神の姿に具現化した。この二つは感情と理性としてより知られている。
 システム・ツーが理性である。それはゆっくり働く。それは証拠を調べる。それは計算を行ない熟考する。理性が決定を下すとき、言葉にして説明することは容易である。
 システム・ワンの感情はまったく異なる。理性とは違って意識的に認識することなく働き、稲妻と同じくらい速い。感情は、予感や直感として、あるいは不安や心配、恐れなどの情緒として経験する即座の判断の源泉である。感情から生まれる決定は言葉で説明することが難しい。あるいは、不可能でさえある。なぜそのように感じるかはわからない。ただそう感じるだけである。

 このシステム・ワン/ツーが、この本に書いてある事の根幹になるのだけど、先を読むとこの2つをこう言い換えている。
 システム・ワンの方がより古い時代のものである。直感的で、素早く、感情的である。システム・ツーは計算高く、遅く、理性的である。二つのシステムを「腹」と「頭」と呼ぶことにしよう。二つのシステムについてよく使う言い方だからである。理由がまったく説明できないものの、本当のことだという漠然とした感じを持っているとき「腹で感じる」と言う人もいるだろう。すると、その友人は「頭を使え」と返答するかもしれない。本当のはずはないから、立ち止まって慎重に考えろという意味である。

 そう、ここでnaokoさんと同じ比喩「頭と腹」が登場するのね。

 ちなみに、補足的にこんな説明も加えられている。
 最初に引用した箇所の後半と非常に似ているけれど、念のため紹介しておく。
 システム・ツーあるいは「頭」は意識的な思考である。私たちが統計を調べて、テロ攻撃で死ぬ確率が極めて低いため心配する必要がないと判断するとき、「頭」が仕事をしている。「頭」は、正確な結果を得るための最善の手段だが限界もある。まず「頭」は教育する必要がある。
≪中略≫
 また「頭」は非常にゆっくり働く。
 システム・ワンあるいは「腹」は無意識の思考であり、その特徴となる性質は速さである。≪中略≫即座に判断を下し、すぐに警報を鳴らす。胃がうずく。心臓が鼓動を少し速める。目が狙いを定める。

 ここまでの記載内容を簡潔にまとめると、次のようになるんじゃないかな。

・「腹」=システム・ワン/感情/無意識的な思考/先天的 → 速い判断
・「頭」=システム・ツー/理性/意識的な思考 /後天的 → 遅い判断

 念を押せば、この本の文脈における「腹と頭」と、naokoさんが使った「腹と頭」が“ぴったり同じ”だとは限らないですよ。ただ、少なくとも私の感覚としては非常に似た意味であると思われるし、著者が言うように“そのような事”を「腹と頭」と呼ぶのは“よく使う言い方”であるだろうと、私も思う。


【腹の判断の規則】

  「頭」の判断は、適切な“判断方法”を学習する事で獲得できるわけだけど、では「腹」の判断はどうやってしているかというと、それは「経験則」。
 ただし、「経験則」と言ってに皆さんのイメージするところは様々でしょうから、「腹」の特徴を示すには不十分と思われます。なので、もう少し具体的に、その“癖”とも言える『参照する経験を引き出す規則』も押さえておきましょう。

 「これらが全てではない」と断った上で主な規則2つを紹介すると「見掛けは実際に等しい」と、「何かの例が簡単に思い出されれば、それは一般的なものに違いない」です。


【「見掛けは実際に等しい」という規則】

 以前見たものと同じように見えれば、それは以前見たものと同じものだというもの。
 単純なパターンマッチングによる判断と言えるだろう。

 例えば、以前見た事がある「ライオン」らしきものが見えた場合、「腹」は「ライオンに見えるからライオンだ」と瞬時に判断する、そういう事。
 一見当たり前の事に聞こえるかもしれないけれど、例えばそれを「頭」に判断させようとするならば、「ライオンである事を特定できる特徴とは何か」を調べるところから始まって、「ライオン以外にどんな可能性があるか」という事を一つ一つ潰していかなくては『ライオンか否か』は判断できない(そんな事をぐだぐだやっていれば、ライオンの餌食になるのは必定だろう)。

 この規則の欠点はすぐに思い付くと思うけれど、例えばそこにライオンに似た草食動物がいたとしても、実は安全なのに反射的に恐怖を覚え、脱兎の如くにげるハメになるわけだ。しかし、本当にライオンだった時に素早く逃げる事の方が、を可能にしているのが、この「腹」の規則。

 変なところにもこの規則は影響していて、好きな人(恋人や子供)の写真を平気で破れない、なんていうのもそうで、「頭」で考えれば、写真なんて紙の表面に色素を付着させた物体でしかないけれど、「腹」の方は「好きな人の姿」がそこに見えるから、それは「好きな人」と同等のものだ、と判断してしまうのですね。


【「何かの例が簡単に思い出されれば、それは一般的なものに違いない」という規則】

 心理学的には『利用可能性ヒューリスティック』、そしてこの本の著者は『実例規則』と呼ぶもので、「(自分が)思い出し易い事は、一般的な事である」と判断するもの。

 「暗い夜道で起こった痴漢」の事件を思い出し易い人は、暗い夜道を歩く時に「ここにもきっと痴漢がいる」(一般的=生じる確率が高い)と『腹』が警告して、不安にさせるわけだ。
 なお、「幾つも思い付く事ができるか」ではなく、あくまで「いかに容易に思いつくか」が重要である、という事がポイント。

 じゃぁどんなものが「容易に思いつくか」という話に移ると、まず基本的なところとして「反復して体験した事(聞いた事)」が挙げられる(受験勉強を思い出してもらえればいい)。
 反復して体験するするという事は、有る意味「一般的」である事を示唆する現象なわけで、「一般的な事は、思い出しやすい」と言い換える事ができるでしょう。

 となると『腹』が判断する「思い出しやすいから一般的だ」というのは適切に思えるけど、実はそうじゃない。
 何故なら、「思い出しやすい」のは「反復して体験した事」だけではないから。

 では、他に何があるかといえば「負のイメージ」と「目新しさ」。
 「負のイメージ」について、最も顕著な例を挙げれば「トラウマ」であり、たった一度の体験であっても、似たようなパラメータに反応して『腹』が強力なアラートが発せられる。また、「目新しさ」なんては、「一般的な事」とはまさに真逆だけど、現実的には確かに「思い出しやすい」事である。

 とはいえ、「負のイメージ」と「目新しさ」を思い出す事で『腹』が警告を発する事に十分意義はあるわけだけれど、ここで押さえて欲しいのは「思い出しやすい」からといって、「一般的な事」とは限らない(「負のイメージ」や「目新しさ」によって記憶に刻み込まれた「一般的では無い事」である可能性もある)という事。
 それは、『頭』でじっくり考えれば区別つくのだけれども、速度が命の『腹』はとりあえず“想起した原因”をいちいち追究せずに「一般的な事だよ(同じ状況のあなたに高い確率で降りかかる事だよ)」という信号を発するわけ。

 このあたりの事は、naokoさんの話にはあまり関係ないけども、私が今まで色々と噛みついてきた事とは深いかかわりを持っていたりするので、とりあえず心の片隅においておいて欲しい。


【腹と頭の関係】

 さて、『腹』の話しばかりだけど、『腹』と『頭』の関係も押さえておこう。
 私たちは、実際には、半ば独立して働く二つの心を持っている。さらに私たちの思考を複雑にしているのが、二つの心のあいだで常に行なわれている複雑な相互作用である。たとえば「頭」によって意識的に学ばれ用いられる知識は、無意識の中に沈み込むことがあり「腹」によって用いられる。  

 しかし、「腹」には大きなイニシアティブがある。
 「頭」は「腹」のことを調べられない。だから「腹」が判断をどのようにして組み立てたかがまったくわからない。

 そうなると、このような事も起こりうる
 「頭」は「腹」の出した結論に着目し、もっともらしいだけでなく、間違っている可能性が非常に高い説明をでっち上げる。

 とはいえ、私達は「腹」に振り回されっぱなし、というわけではないようだ。
 幸運にも「腹」は、たった一人で決定を下し、その決定に従って私たちを行動させようとしているわけではない。「頭」もいる。「頭」は「腹」の決定を監視し、「腹」が間違っていると思えば、少なくとも、決定を調整あるいは却下しようとすることができる。「腹」が決め「頭」が見直す。このやり方で、私たちの思考や決定の大部分が形成される。
≪中略≫
 「判断は、たいていの場合、無意識システムの産物であり、このシステムは、わずかな証拠に基づき、決まったやり方で迅速に働いたあと、急ごしらえの推定を意識に渡す。意識はゆっくり慎重にその推定を調整する」

 つまり、『頭』は、『腹』がいかにして推定したかは分からないけれど、どういう推定をしたかは分かるし、それに従うか否かを『頭』で決める事もできるわけだ。

 (危急の問題で無い限り)『腹』が下した判断を一旦『頭』に留め置き、じっくり判断する。これを意識的に繰り返せば、そのような『頭』による“より適切な判断”が、『無意識の中に沈み込むことがあり「腹」によって用いられる。』ようになる。

 ちなみに、これも前に私が言った事にも多分繋がっている。
 『頭』で何をすべきか、というのは自分の『腹』が下した判断を疑う事、なんですよね。
 それをしないで、「自分の『腹』が下した判断がいかに正しいか」を考える事に『頭』を費やしてしまうと、『もっともらしいだけでなく、間違っている可能性が非常に高い説明をでっち上げる。』はめに陥るわけ。


【他人の話を想像するという事】

 仕上げに、少々長いけれど、『腹』と「他者の経験」の関連について記載されている事について引用しておく。
 リスクに関する個人的な経験を記憶す尽ことは、生存上で明らかに価値がある。しかし、私たちの祖先にとって、そして、私たちにとってもさらに価値があるのは、他人の経験を学習し、記憶する能力である。結局のところ、自分は一人しかいないのだ。しかし、日中長々と狩猟採集を行なったあと焚き火の周りに座ると、そこには二〇人か三〇人の仲間がいるかもしれない。
 仲間の経験を収集することができれば、判断の根拠となる情報を二〇倍あるいは三〇倍に増やせるだろう。
 経験を共有するということは、話をすることである。焚き火のそばで自分の隣にいる男が話している出来事を想像することでもある。たとえば、部族で一番愚かな男が川の浅瀬に入っていくところを想像し、その男が浮かんでいる丸太を杖で突いているところを想像し、その丸太が突然ワニに変わるところを想像し、その男の死を示す泡が残っている様子を想像する。想像し記憶してしまうと、「腹」は、経験したことの記憶を利用するのと同じように、判断に用いることができる。水辺でワニに襲われるリスクは? ある。ちょうどそんな出来事を思い出せる。浮かんでいる丸太が見かけと異なる可能性は? 大いにある、そのことは容易に思い出される。こういった分析に意識上で気づいていないかもしれないが、結論には気づくだろう。つまり、これ以上ほんのわずかでも近づくべきではないという感じ、感覚、予感がするだろう。「腹」が他人の悲劇的な経験から学習したのである。 しかし、想像した場面のすべてが同じであるわけではない。実際に経験した人間の話から想像される出来事は、価値のある、現実世界の経験を提供する。しかし、話し手によって作り出された想像上の場面は、まったく別のものである。それは作り事である。「腹」は作り事として処理すべきだが、そうしない。

 対話し、話しを想像し、その結末を記憶する事。
 これは、『腹』の判断材料を、個人が獲得できる限界の何倍にも増やせる効果的な方法と言える。
 モチロン、対話の内容をそのまま『頭』にも残す事もできるだろうけど引き出すのに時間がかかる。
 それを想像した上で『腹』に残せば、「とっさに出る」わけで、タイムラグが命取りのような判断の根拠になるような事は、『頭』に残すよりも『腹』に残す方がいいだろう。
 また、それは、そういう行動を取るための強い動機(あるいは衝動)になる。

 このあたりは、naokoさんの話に親和性が高いと思う。

 なお、それはあくまで「自分の想像」であり、「事実とは違うかもしれない」という事は『頭』に留め置くべきではあると思うけど。


【まとめ】

 この本は、恐怖を不必要にあおり立てる事で、他者あるいは大衆を操作しようとするやり口を批判するものなので、「恐怖」の源泉である『腹』に対して、どちらかといえばネガティブなスタンスを持っている。
 一方で、『腹』は、人類が淘汰されないため、あるいは自分が死なないために必要な機能であるのも確かなわけで、必ずしも悪ではない。むしろ、日常生活の大部分では役に立っているだろう。

 で、「頭と腹」の働きを捉えた上で、naokoさんの話に乗っかると...

 ...と言いたいところだけど今回はそこまで踏み込まない(ここまでで十分長いし)。
 まぁ、その先は今後記事にするかも...(いつになるかわかんないけど)。

 ただ、今の時点で言っておきたいのは、naokoさんの「道徳は腹で分かるべき」という主張に対し、今までで捉えてきた『腹』の機能の中からとりあえずネガティブな部分を取り上げて否定しようとも思わないし、「日常生活で役に立っている部分」を取り上げて肯定するつもりもない。
 話をするとすれば、『道徳』という限定されたケースではどうなのか、という事になるだろう。

 このあたりを多分MORIXさんが押さえきれてなくて、それが迷走の原因になったと思う。

 また、一番つまらないと思うのは「『腹』といっても良い所も悪い所もあるんだから、一概に言えない」的な主張だ。

 「ケース・バイ・ケース」というのは、確かに物事の殆どに言える事。
 だからといって、そのフレーズを「思考停止」の言い訳にしてはいけない。

 「ケース・バイ・ケース」と口に出すのなら、どんなケースなら良くて、どんなケースはダメなのか、考えるべきだよね。
 例えば、まずは『腹』の特徴を把握した上で、『道徳』というケースに対し、どう有効か、とか、ここが有害だ、とか、じゃぁ総合的にはどう評価すればいいんだ、とかいう事を思考し、提示する。

 それが、『対話』ってもんじゃない?


【最後に】

 「相対的価値観」を持ち出して、最初から「明確な一つの答が導き出せない」としてしまうのは、少なくとも私には非常につまらないし、思考停止に見える。
 「自分が答えられない(考えられない)」事を『正解』にするための、後付けの論理って感じ。

 私にとって、MORIXさんが挙げた【相対的価値】も【客観的価値】も、程度の違いがあるだけで、どちらも「答(=真理)が導き出せない」点は共通。
 でも、科学はなるべくそれに近似させようとしているわけで、「科学的価値観」の元となるその営みを良しとしながら、何故「人文的価値観」ではそれを放棄する事を良しとしなければならないのだろうね。

 単に「めんどくさいから」と言うのなら話は分かる。
 でも、そう言いたくないから、色々正当化させる理屈をくっつけようとしているんじゃないのカナ。

 少なくとも『「答えられません」が、答え』として通ってしまうようなお話は、私個人としては食指は動かないし、私にとって、そういうスタンスは『対話』の根源を放棄しているように思える。

 ですから、naokoさんの話にはのりたい気持ちがわくのですが、(誠に申し訳ないけど)“現状の” MORIXさんの話にはのる気がおきない。
 ちあみに、“そのスタンスを批判する”というのっかり方をする衝動は沸き起こってはいるけれどさ。


 ...おっと、最後にまた毒を吐いてしまった。
 まぁ、このあたりは私とMORIXさんの興味のベクトルが違うだけ、と捉えていただいていいけれどね。
 
 ただ、私は「発言した内容」は問題にしたり、批判したりするけど、それは「発言した人」に永続して付与すべき問題とは捉えてないので、今後MORIXさんとは絶交する、というわけではありませぬからね。
 (私が絶交される、という事は十分有りうるケド) 
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MORIX

大変な長文のお年玉ありがとうございます。もう3週間以上間が空いてしまっていたので、あのまま終わってしまうのではないかと懸念しておりました。そこにこの長文のエントリー!! 書物から長文を引用するのは大変な作業だったでしょう。多大なご尽力に感謝します。そして議論をまた少しだけ進展させていただけるようになったと思います。

さて、大変な長文なのでどこからお話して良いのか、迷ってしまいます。今回もJudgementさんは毎回のように【かっこ】でくくりながら、お話を整理されていますが、私がまったく異論のない主張も(当然のことながら)多いので、その全てにひとつづつお答することはしません。こちらが今回お答えさせて頂きたい事を、大きく三つに分けさせて下さい(いつも勝手に区分してすみません)。

早速その三つをまとめますと以下のようになります。
【議論に於ける人格否定の無意味】主に今回のエントリ内の【観戦の個人的感想】の中と、その他随所で書かれていた私MORIXへの評価について。
【腹と頭】私が「大義名分」のエントリ内でnaokoさんと繰り広げていた議論へのJudgementさんのご意見に対して。
【相対的価値とは】Judgementさんが今回のエントリの終わりに【最後に】として書かれていた「相対的価値」に関して。Judgementさんは比較的短い言葉で批判をされています。が、実はこれが私が一番話したいテーマです。是非反論させてください。
……それではひとつづつ、始めさせていただきます。


【議論に於ける人格否定の無意味】
まずこれに関しましては、私が初めてこちらにお邪魔した『やってない事に拘るよりも……』のエントリーの時から諫言させていただいている通りです。あの時は『いかなる科学論文においても、その科学者の「主観」は問題視されませんし、たとえそれが反証実験だとしても、その人の「本心」などは議論の俎上にもあがりません。』という言葉で申し上げました。またその後には『その中でも多用されていますストローマン論法は、大変印象の悪い物ですし、議論の中核から逸脱し、論点をすげかえ、相手を感情的にさせてしまうものです』とも申し上げました。私はこちらの場で一貫して、相手の人格を攻撃することの無意味を説いてきました。議論をする時には本来、相手が善人なのか悪人なのか、または偽善者なのかということでさえどうでも良いことです。主張そのものを擦り合わせて「対話」すべきです。しかしここに来てとうとう、そう警告していた私自身が藁人形にされてしまったようです。

Judgementさんは、私が『イニシアティブを取ろうとしたり、あるいはそれを諦めてnaokoさんの話を話題から除外しようとしたりしている事が原因だと見えた』と、おっしゃっていますが、私にはそのような気持ちは誓って、決してありませんでした。そんな本心など微塵も持っていなかったので、前回のエントリーでほのめかされ(結構あからさまでしたが)、今回『株価暴落』『萎えた』など揶揄されても、私はそんな意図などなかった事を証明する術を持ちません。「気持ち」や「本心」なんて極めて主観的なものを客観的に証明することは不可能です。同時にJudgementさんもそれを立証のしようがありませんよね。ですから「イニシアティブを取ろうとか除外しようとしているように見えた」などとおっしゃっても、それはストローマンへの評価にしかならないのです。議論が永遠に平行するだけで、無意味です。

例えば、Judgementさんが今回『拡散的』『言葉尻を捉える的』『用語の羅列ばかり』と批判されたのは、私が取り上げた「ロゴスとパトス」や「ジェームズ・ランゲ説」や「エピステーメー」や「グローバリズム」「動物化」「マクルーハン」などの言葉でしょう……ね。あぁ、言葉だけをこうやって並べると確かに多岐に渡っていますね。心理学から哲学、社会学へと……一見拡散的です。ですがもちろんのことですが、私はどの言葉も一貫した主張の上で正しく使っているつもりです。決して「文脈に一致しそうな言葉をありったけ並べているだけ」でも「自分は難しい言葉を知ってる自慢」でも「自分も良く分からないからこそ「難しい事」をそのまま引用するしかできない」わけでもありません。これについては、立証しようと思えば立証する術はあります。それはJudgementさんが指摘する「難易度の高い用語が補足説明無しで使われているという箇所」を私が補足説明ありで解説させて頂いた時、文脈が通り、一貫した主張が成り立っていたらJudgementさんの批判は不当だったということになります。または、私のブログの方をお読みになっても立証できるでしょう(非常に長いのでオススメはできませんが)。どれも私が普段から普通に使っている言葉であり、あのぐらいの言葉や知識だったら「本人が意味も知らないで使っている」どころか「思考の土台にしているに過ぎない」ことがおわかりになるでしょう。

が、私が『イニシアティブを取ろうとしていた』ことへの反証。そんな私の「主観」を証明することはできません。もちろん読まれる方が「全体的には一見意味不明の「統合失調」的な文章」だとお感じになることはあるでしょう。それは仕方のないことです。が、もし本当に「一見意味不明」に読めたなら、その不明な部分を質問してくださるだけで良いのです。人格否定などせずに。私はnaokoさんにも進言した通り「ご要望であれば、詳細な説明もいたしますよ」という姿勢でいました。それはJudgementさんについても同じです。分からなかった箇所や、文脈が一貫していないとお感じになった箇所がございましたら、いつでもそうおっしゃってください。今からでも喜んで説明致します。その方が新たな価値観と、共通理解を産み、議論には有効でしょう。人格否定は無意味です。

また例えば、私が『お話が「大義名分がどう決まるか」から枝分かれして、だいぶ末節の方へ進んでいる気がします。と人ごとのように述べてみたり』とか『「自分の言いたい事を理解してくれないから、応答しない」的な態度』をとったとして非難されていますが。それはそのままその時に適切だと思われる態度を私が取っただけのことです。お読みになったとおり、私は最初naokoさんのおっしゃる「腹で理解する・頭で理解する」という言葉が、生理学的な意味なのか、感情的な意味なのか分かりませんでした(単なる慣用表現の国語的な意味なのかなとも、推測したりしていました)。ですからそのまま「分かりません」とnaokoさんにお伝えしただけのことです。すると彼女が「ミッドウェー開戦」の例を出してくださったので、そのおかげで「わかりました」と書くことができました。それ以上でも以下でもありません。他意などはありませんでした。また、我々の議論がPseuDoctorさんの「大義名分」の話から大分それているとも思ったので、「枝分かれして、だいぶ末節の方へ進んでいる気がします。」とも申し上げました。実際、かなり逸れていたでしょう? そして、「自分の言いたい事を理解してくれないから、応答しない」的な態度とおっしゃっている箇所については、「理解してくれないから」ではありません。単にnaokoさんが誤読をされていたからです。きちんと「naokoさんが昨日の私の書き込みを正しく読解してくだされば、その先の議論へも進みたい所存です」と申し上げているでしょう。幸いnaokoさんは私の誤読の説明を「口先だけにしか聞こえない”対話論”」とは捉えられなかったようなので、我々の「対話」は破綻せずに済みました。これもnaokoさんのおかげであるところが大きいのですが、もし人格攻撃の議論に終始していたら、あっという間に決裂していたことでしょう。apjさんや技術開発者さんやメカさんという連綿の方々とJudgementさんとの決裂のように(この間で、今年の4月以降のエントリーとコメントは概ね読ませて頂きました。もちろん「エセカウンセラーの言い訳」も読んでますよ。あれ以来poohのお姿が見えないのも気掛かりです。もしかするとpoohさんとも決裂しちゃったのでしょうか……)。人格攻撃は無意味なだけではなく、デメリットの方が大きいのではないでしょうか?

特に過去のコメント群を読ませて頂いた時に印象的だったのは、メカさんが、「相手の文が分からない時や、自分が誤読した時には、相手の文章能力を非難」し、「自分の文が伝わらない時や、相手が誤読した時には、相手の読解能力を非難」するという人格攻撃をしていたことでした。これってダブルスタンダードですよね。前回のJudgementさんも『しかし、見ていると「分からない」事に文句を言う人が多い気がする。しかも、そういう人に限って「自分の意見をわかってくれない」事も文句を言う。どないせいって...』とおっしゃっていますが、トンデモブラウさんの『>「難しい事を補足説明無しに使う」ことに対して>「分からない」事に文句を言うのは普通の反応じゃないかなぁ。どないせいって・・・ 』と返されているお言葉にも至極頷けますよね。

分からなければ、すぐに訊けば良いのです。訊くことは恥でもなんでもありません。また誤読があれば、すぐにそれを指摘する。必要であれば詳細を説明する。ただそれだけで良いのです。

そんな手続きもしないで人格批判をされる方は、自分のその批判が不当だったと立証された時のリスクというものを考えていらっしゃらないのでしょうか?

私はあいかわらずJudgementさんがされている人格否定や人格攻撃のメリットが理解できておりません。以前書かせていただいた『「ここに来た皆さんへ」内で語られている「麻痺毒」のことでしたら、ご自身で懸念されている通り「度が過ぎると、ギャラリーへ不快感や反感を与えるという逆効果も十分予測できます」の逆効果の方が大きくなるものです。』以降のお答えも頂いていませんし、その他の箇所でJudgementさんが「人を揶揄する時の語彙や文体の創造性にこだわりたい」という趣旨のことをおっしゃっているのは読ませて頂きましたが、それがデメリットを上回るようなメリットであるようには考えられません。お手数でなければ、この点についてのご高説を賜われないでしょうか。

議論の勝ち負けに拘ることに私は何の意義も見いだしません。私が対話に求めるものは、止揚です。


【腹と頭】
この項に関しましては概ね異存はありません。先も書きましたとおり「腹と頭」に関しましては、私はnaokoさんの「ミッドウェー開戦」の例示の時点から、理解していたつもりです。またJudgementさんの今回の説明にも頷けました。今回のJudgementさんのお話は、どちらかというと認知や心理学的なお話。一方naokoさんがおっしゃっていた話は、共同体やコミュニケーションに主眼を置かれているので、もっと社会学的なお話だったのではないかなぁ、という心象を持ったりしましたが、直後にJudgementさんが『このあたりは、naokoさんの話に親和性が高いと思う。』とか、『で、「頭と腹」の働きを捉えた上で、naokoさんの話に乗っかると...と言いたいところだけど今回はそこまで踏み込まない』とおっしゃっている箇所を読んで、ああ、さすがにJudgementさんは慎重な人だなぁと、感心したりしました。

そして私の方はどうかというと……私は自分の見解を不用意に述べてしまいますが、ガードナー氏が「システムワン・ツーはディオニソスとアポロンと同じ」と述べているということは、結局ロゴスとパトスと同じだとうことですね。それでしたら私は、naokoさんとのやりとりの初期段階で『ロゴスとパトスのようなものでしょうか? だとしたら「多数決」はパトス(感情)で決まることが多いものです。このことは次のエントリー「科学観」へのコメントで詳細を書くつもりですが、「多数決」は個人の勝手な「主観」で票が投じられるので感情に流されやすいし、印象操作も受けやすい。「多数決」はまったく論理的ではなく過ちも多い、歴代の独裁政治なども民主主義の賜物です。』と書かせて頂いた通りの見解です。


【相対的価値とは】
最後にこの点については、Judgementさんは私の主張を誤解、あるいは誤読されているようですよ。

Judgementさんは『一番つまらないと思うのは「『腹』といっても良い所も悪い所もあるんだから、一概に言えない」的な主張だ。』とおっしゃいますが、私はそのような主張はしておりません。ましてや、 『だからといって、そのフレーズを「思考停止」の言い訳にしてはいけない』というご批判は……まったく逆です。私は「思考停止」をしたいのではなく、その点を思考したいのです。皆さんと話し合いたいのです。「ミッドウェー開戦」の是非。「おばあちゃんの生姜湯」の是非。「殺人や安楽死や脳死判定」の是非について、そして「ニセ科学」の是非にいて我々がどのようにアプローチするべきかを議論して行きたいのです。そのことは「大義名分」の最後のコメントで『「人文的価値観=相対的価値」の方に議論が移ることが予想されますし、私自身はそちらの議論をしたいと希望しております。』と明確に書き記しております。その箇所をお読みになるだけで「思考停止」などという批判は決して出てこないと思うのですが。

このような誤読があった際には、Judgementさんに「もう一度私の文を読み直してください」と言うだけで良いのではないかと思っていた私ですが、同じことをnaokoさんにして『「自分の言いたい事を理解してくれないから、応答しない」的な態度』と非難されてしまったので、今日はもう一度書き直します。以前言ったことの繰り返しになりますが、お許しください。

私は「殺人」にしても「生姜湯」にしても「ミッドウェー開戦」にしても、その是非は「一概に答が出ないから、思考停止しよう」と主張しているのではありません。私は『その是非を「科学という物差し」で決定するのは無理である』と主張しているのです。そしてそれら【人文的=総体的価値】の是非は、個人レベルではそれぞれの主観で決まるものだと思いますが、社会全体としては「多数決」で決まるものだと捉えているのです。

ここをしっかりとJudgementさんに理解していただくために、また「殺人」の例を出して説明いたします。「生姜湯」でも「ミッドウェー」でも別に良かったのですが、一番わかりやすいし、Judgementさん自身が「大義名分」のエントリー内で提示された例ですのでね。そしてこれと同じことが、apjさんたちとやりとりしていた『嘘と社会規範』についても言えるのです。以下をお読み下さい。

まず「殺人はいけない」ということについては、様々なシチュエーションとそれを判断する個人の主観によって、その是非が別れます。例えば普通の殺人事件に関しては、「いけない」と考える人が当然多くいるでしょう。が、「自分の利益の為なら殺人をも厭わない」と考える人も世の中には確実にいます。そして殺人の報復として「肉親の仇をとる」などという例になると、その殺人を是認する人の数は増えるはずです。また母国が戦争状態に突入すれば、殺人が奨励されるようになり、敵を多く殺した者は英雄として崇められたりまでします。

そんな「戦争」なんて幼稚で極端な例を出さないまでも、例えば「死刑制度(これも法による殺人ですよね}」や「安楽死(尊厳死と呼んでも医者による殺人であることに変わりはない)」や「脳死判定(心臓は動いているのに殺してしまいます)」などは、現時点の日本でもその是非に対する意見が半々に分かれるような難しい問題ではありませんか? この是非を科学のような何か客観的な物差しで決するのは無理なのではないですか? それは『嘘と社会規範』で問題とされていた「ついても良い嘘と悪い嘘」にしても同じです。Judgementさんはそれを「大義名分批判」のエントリー内で、『しかし、気付いた方も多いだろうけど、X君のようなやり方は「科学」そのものだ』というX君の例で説明しようとしていましたね。なので私は『X君は「科学的思考をする人物」ではあるが「科学というツール」の使い方を間違えています』と指摘させて頂いたのです。

ではどうしてX君、すなわちJudgementさんが、「科学というツール」の使い方を間違えているのか。その根拠を「脳死」を例にとってご説明しましょう。「脳死の是非」を問う際には、当然のことながら「科学的知見」という客観的なツールが最優先に検討されます。例えば「脳死のあと蘇った人はいないのか(確かいなかったと思いますが、神経反射的行動をした人は数例いたと思います)」とか「脳死後どのくらい心肺は動くのか」とか「脳全体や脳幹などのどの部位がどのように停止するのか」そして「臓器移植の為の腎臓や肝臓の鮮度、そしてその定着率」などなど……考えればキリがないほどの「科学的判断材料」が「脳死問題」には挙ります。が、科学はそのほぼすべての問に「客観的価値」を答えることができます。つまり「肺はどのくらいで停止し、心臓が一週間、一ヶ月、一年間と動き続けた例」などもすぐに答えることができます。しかしおわかりのように、そんな「科学的、客観的なデータ」をいくら持ち寄っても、「脳死の是非」を判断することはできないのです。そこには法学的見地からの知見も重要になります。国際的に、他国ではどのように「脳死」が扱われているかも判断材料になるでしょう。また各宗教の教義との検証も必ず取り沙汰されますし、遺族の考えや、臓器提供を待つ人々の現状も十分に考えなくてはいけません。どうですか? このように複雑な問題、すなわち【相対的価値】にまかされるべき問題に、客観的整合性をいくらX君やJudgementさんが求めても答は出ないでしょう? それは「ついて良いウソ」に関しても「ニセ科学」に関しても同じです。それを問い詰められて、apjさんも技術開発者さんも答えに窮されていたようです。当然のことです。【相対的価値】とは、個人の主観ではなく、その渦巻く主観が持ち寄られた「多数決」で決定されるものだからです。Judgementさん、【相対的価値】にいくら【客観的価値】による正当性を求めても無駄ですよ。くどいようですが、『科学は「正・誤」や「真・偽」を判定することはある程度可能だが、『善・悪』は判定できない』のです。

しかし、私とJudgementさんとでは、前回私がまとめた三つの区分、【絶対的価値】【相対的価値】【客観的価値】についても少しの齟齬があったようです。Judgementさんは『私にとって、MORIXさんが挙げた【相対的価値】も【客観的価値】も、程度の違いがあるだけで、どちらも「答(=真理)が導き出せない」点は共通。』と考えられていますね。私も「真理が導き出せない点は共通」だと思いますが、「程度の違いがあるだけ」だとは決して思いません。そこの区分をしっかり分けようと提案しているのです。Xくんも、Judgementさんも、apjさんも。メカさんも、そこの区分をしっかりつけていないので、堂々巡りの議論をしていたのではないかと警告しているのです(本当に偉そうですみません)。今一度、整理させていただきます。

【絶対的価値】宗教や為政者の圧政(絶対的「真理」であるゆえに「対話」をする余地はないもの)。
【相対的価値】多数決による価値(これこそ「対話」が重要、思考停止ではありません)。
【客観的価値】実験や観察(私の挙げた5つの科学的方法によって抽出される事実やデータ、逆に主観や対話は邪魔になるだけ)

さて、この三つの区分で検証しようとすれば、「真理」というものは【絶対的価値】でしか(特に宗教)導けないものになりますね。一方【客観的価値】である科学はもちろん「真理」は導けませんが、「科学的事実」という「事実」は導けます。Judgementさんの『科学は真理が導き出せない。でも、科学はなるべくそれに近似させようとしているわけで』という見方と、私の認識はまったく異なります。また『「科学的価値観」の元となるその営みを良しとしながら、何故「人文的価値観」ではそれを放棄する事を良しとしなければならないのだろうね』とおっしゃってしまうのも、【相対的価値】と【客観的価値】の違いを「程度の違い」程度に捉えられているからだと思います。

よろしいでしょうか。「真理」と「科学的事実」とはまったく性質の違うものです。「近似させようとしているわけで」はありません。私が最初の議論で「科学と宗教は違う」と力説していた通りです。「真理」は検証や議論のしようがない、教典に書かれていればそれが真理、となるような価値です。それに対し「科学的事実」とは常に検証が求められ、Skepticの眼で常に更新されていく価値です。科学があと100年進歩しようが、1000年進歩しようが、「真理」に辿り着くこともなければ、近似することもありません。

また『何故「人文的価値観」ではそれを放棄する事を良しとしなければならないのだろうね』というご質問へは「それは多数決で決まるからだ」と簡単に答えられます。「人文的価値」すなわち【相対的価値】とは、何度も言うように個人の主観を持ち寄った多数決で決まるものです。しかしJudgementさんのご質問に厳密に、適確に答えようとするならば、それは決して「科学的価値」を「放棄」するものではありません。「人文的価値」すなわち【相対的価値】であっても、上の「脳死」の例で示したようにその是非が法案として、国会で、代表制民主主義の多数決により可決する際には、「科学的価値」=【客観的価値】も重要視されます。ね、科学というのはツールなのです。特に複数の人間が物事の真偽を検証する際に使うデータや数字は、コミュニケーションツールとして機能するのです。しかし科学は万能ではありません。科学だけで国会の法案を決定することはできません。【相対的価値】を多数決で決定する際には、法的知見、経済的、社会学的、歴史的、倫理的、人道的、あらゆる知見を照らし合わせなくてはならないのです。「思考停止」をしたいどころではありません。「ニセ科学」の問題を論じるためにも、是非、この段階での議論したい所存です。

Judgementさんの方としては今後、『naokoさんの話にのって、腹や道徳観』の話を続けるか『MORIX 批判』を続けることをご所望のようですが、もちろん私の方としてはそのどちらでも結構です。Judgementさんからの「絶好宣言」が出ない限り、こちらでのお話を楽しませていただこうと思っております。ただ出来ましたらもう少し早いご返答が(私生活に影響が出ない範囲で)欲しいところです。さすがに3週間に1回ずつじゃ……ネットなのに飛脚よりも遅いやりとりになってしまいますからね。今回頂いたお年玉の次が、バレンタインにならないことをお祈りしています。

by MORIX (2010-01-10 19:35) 

トンデモブラウ

えっと、私は今回の『腹と頭のお話』で、また混乱しました。
「ミッドウェイ海戦」(開戦じゃないよ。)の例は、悪しき官僚主義の結果であって、どちらかというと先入観(価値観?)による確証バイアスからの費用対効果(というのは語弊があるかな?)のための見積ミスな感じ。
これは、事務所(背広)組と現場(制服)組によくある視点の違いでしょう。
ここから私が受け取ったのは、「頭で理解」=主観的で表面的な理解、「腹で理解」=客観性を持った他人の視点で理解しようとしたもの、という感じです。

で、今回のJudgementさんの書かれた
>・「腹」=システム・ワン/感情/無意識的な思考/先天的 → 速い判断
>・「頭」=システム・ツー/理性/意識的な思考 /後天的 → 遅い判断
だと、「腹」=条件反射、「頭」=客観的判断、みたいな。

また、「胸が痛くなる」のは、先天的な惻隠の情か後天的に植え付けられた罪悪感ですよね。
いずれにしても「頭」が作り出した幻想にすぎない。
う~ん、なんだかさっぱり・・・私の能力では理解不能だ。

ちなみに、最近、時々胸が痛かったりすることがあるんですが、心臓疾患ですか、そうですか・・・
初恋だとばかり思っていたのに。
でも、愁訴だけで病院行ってもムダでしょうね、きっと。
by トンデモブラウ (2010-01-12 10:05) 

Judgement

これはどちらかというと今後私が言いたい事のマクラ、という位置付け
なんというか、色々使えるツールナイフという感じ。

で、naokoさんの主張にも使える部分もあると思うよ、ぐらいの感じなので
個々の話題に全ての機能を当て嵌めようとすると、混乱して当然。

まずは基本的なシステムを理解してもらって
状況別の動作はおいおいって感じ。

『「頭」が作り出した幻想にすぎない。』
はいいんですが、もうちょっと進めてみよう。
機能の根幹にあるのは幻想だとしても、
それは最終的に「行動」という具現化がされるわけですから
そちらの方に目を向ければ面白いかと。

>最近、時々胸が痛かったりすることがあるんですが
そう、それは単なる心臓疾患。
私が毎夜「トンデモブラウ」と書いた藁人形の胸に五寸釘を打ち付けている事とは一切関係ありません。
by Judgement (2010-01-14 23:13) 

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