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私の科学観? [かため(当社比)の話]

 最近書き込んでくださるようになった、MORIXさんですが、彼のJudgement解説は、本人から見て「ああ、すごく私の言っている事を理解してくれているなぁ」と思う。びっくりするくらい。
 現在暫定1位の優等生、って感じ(暫定2位はトンデモブラウさん?)。


 コメントも中々よく考えた上で書いているみたいだしね...って偉そうに言ってみる。
 褒めてばかりはあれなので、一つ言わせていただければ、横文字や専門用語を散りばめるトコだけは個人的には許せん(読者を想定して言葉を選びなさい!)。
 おかげで、実はまだ完全には読み下せていない(←人のせいにするな)。

 そんなMORIXさんが私に確認したい事がおありのようなので、とりあえずそれにお返事。
「科学」とは信じる対象ではなく、「言語」と同じようなツールなのではないでしょうか? Judgementさんに確認したいのはこのことです。


【私の科学観】

 ファラデーという人の話を参考にすれば、「方法(科学的方法論)」、「その方法論で導出したもの(科学理論)」、「導出したものを利用した技術(科学技術)」のいずれも「科学」と呼ばれる現状であるようだけど、私が「科学」を語る場合、ほぼ「方法」としての科学を想定している。

 という前置きをしたうえで言えば、確かに「科学は道具」的な考えを持っている(念のため言えば、「科学理論や科学技術を道具として使おう」といった意味で言っているわけではない)。

 ただし、『伝達ツール』とは思っていませんね。
 どんな道具か具体的に言えば「客観性と再現性があるものを透過するフィルター」かな。
 強いて言えば、そのフィルターを通ったもの、つまり「科学理論」は、伝達の効率が高いものと考えますので、そういった「伝達しやすい情報を作るツール」とはいえます。
 
 でも、あくまで私の観点を聞かれているのだと思うので、「フィルター」という事で話は進めます。


【科学というフィルター】

 ただ、念のため言えば、科学とは「“事実”を抽出するフィルター」ではないですよね。
 「客観性と再現性がある事実」は抽出できるけど、主観的事実や一回性の事実は抽出できない。
 当然「真理を抽出するフィルター」でもあるわけがない。

 ただし、この《科学》というフィルターで抽出したもの(科学理論)、そしてそれを利用した技術(科学技術)は、「誰にでも(客観)」、「何度でもいつまでも(再現)」使えるものであり、その点で人類全体に非常に大きなメリットを与える「道具」と言えます。


【他の道具】

 で、ここでちょっと遠回り。

 自然現象がどのような挙動をするのか、人間がどのような対応をすべきか。
 膨大な選択肢の中から、最良(と思えるもの)を選択したいという欲求を満たす方法は、当然《科学》の発生以前からあったはず。では、それらはどんなものだったでしょうか。

 一番原始的なのは《直感》、いわば「どれにしようかな」的なもの。
 何の根拠もなく、ただ思うに任せるわけだ。バカバカしいと思うかもしれないけれど、明確な策が思い付かないけれど、少なくとも何もしなければ危機的状況に陥るのは明らか、という場合はこの《直感》に頼らざるを得ない。

 そんな《直感》的な行動の後、悪い結果であれば以後の行動でその選択肢のランクを下げる、良好な成果があったらランクを上げる、という手続きを繰り返して、対応の効率化と良い成果を求めるのが《経験則》。おそらく《科学》以前は、この《経験則》が最も合理的で効果的な対処法であったでしょう。

 また《直感》に頼らなければならないようなせっぱ詰まった状況でなければ《思考実験》という方法もアリ。人間の色々な状況を想定してそれらが最終的に一つの結論に集約されるのであればそれが正しい、というもの。例えば、「哲学」なんかはこれだろうし、「数学」だってそう。さらに言えば、「胡散臭い理論」について、現在まで積み重ねてきた科学理論の知見を併せ考え、追試しないで「効果がない」と評価するのだってそうでしょう。
 
 毛色の変わったものとしては《霊感》というものがあります。
 んなアホな、と思うなかれ。太古の時代ならば、「御神託」である事が最良の選択肢である証左だった。身近な例で言えば、死後天国に行くために日頃の行ないを律するというのが“正しい”とされるのは、「神様がそう言っている(と言っている人がいる)」からですよね。

 私としては、これらと、そして《科学》は、それぞれ異なる価値観の元で存在しており、相互に相反するものではないと捉えています。

 だから、そういう意味では、私は「科学」も「宗教」も並列だと思う。
 ただ、並列と言っても、比較するんじゃなく、「道具」というカテゴリーで陳列可能、と言う意味。
 だから、当然両立も可能。


【道具の正しさ】

 「道具」には「正しい使い方」があります。そして、「正しい使い方」がされて初めて道具の力を発揮して「正しい結果」を生み出すわけです。
 ただ、「正しい結果」というのは、「正しくない使われ方」をした場合の結果と比較して“正しい”という事。つまり、道具内で完結している評価であり、他の道具を使った時と比べて「正しい結果」である、というわけではありません。

 この辺の違いは分かるでしょうか?

 例えば、餅つき器に小麦粉を入れても餅はできないけど、“正しく”餅米を入れるとちゃんと餅ができる。ただし、この「ちゃんとした餅」とは、餅つき機に定められた規格に沿った、という意味で、「臼と杵で作った餅」よりも「ちゃんとした餅」、というような意味は持たない...そんな感じ。

 それについて、道具としての「正しい結果」を、“道具の範疇”を超えた「正しい結果」と扱おうとする場合、私はそういうのを「○○絶対主義」、あるいはそれを「○○教」と比喩します。比喩はあくまで感覚的な芸なので、「何で”教”なんだ」と聞かれても正直言葉につまりますけどね。

 ただし、「本当はわからないはずの事を正しいとする」という行為は「信じる」事と同じ意味と考えています。だから、例えば《科学》を《科学》という道具を超えた範疇で「正しい」と言う人は、《科学》は道具ではなく、信じる対象になっていると言えると思います。

 まぁ、それを表現するのに「科学教」という比喩や「科学絶対主義」という極端な表現が気にくわないと言うのなら「科学優先主義」でもいいんだけど、どちらにせよ「個人的思想」であるから「主義」はつけさせてもらいたいところ。


【脱・科学優先主義】

 私が理解する限りにおいて、いわゆる菊池誠先生の唱える「ニセ科学」は、「脱・科学優先主義」的な考え方、つまり“異なる価値観を否定しない”という前提が設けられている。そして「科学という“道具の範疇”で批判する」、というのが根幹のポリシーと見受けられます。
 「正しい道具を使え」ではなく、「使った道具を正しく申告しろ」あるいは「正しく道具を使え」という事。
 (伝わるかな)

 その「ニセ科学」という概念そのものの問題を指摘すれば、“異なる価値観を否定しない”ために設けられたはずの制限事項『科学っぽい』が、実際は境界が曖昧なものであり、現実的には制限事項として機能していないという事。
 だから、「科学という“道具の範疇”で批判する」と言っても、それを実現しているかの裏付けは全く無い状態になってしまっている。
 もし、当初の「脱・科学優先主義」というポリシーを尊重するつもりならば、それが自他共に認められるものになるよう(今は“自”では認めても、“他”は認められない)、定義を明確にして範囲を限定すべき、と私は考えています。

 そして、話をさらにややこしくしているのは、その人達の中に、どうも「科学優先主義」にしか聞こえない発言をする人が含まれる事。本来「脱・科学優先主義」的なはずのニセ科学批判について「科学優先主義」の文脈で説明されると、何が何やら分からなくなるのです。
 
 ちなみに、私は「科学優先主義」自体が悪いとは言わない。
 むしろその立場で「胡散臭い理論」を切るとどうなるか、という視点も面白いし、得るものは有ると思う。
 問題にしたいのは、実際は「科学優先主義」的な考え方なのに、上っ面だけ「脱・科学優先主義」を支持するような事を言うところなんですよ。
 装うなら装うで、見破られない程度に装っているならかまわないんだけど、ちょくちょく素顔を見せちゃうから、話が見えなくなっちゃうのね。


【具体例】

 つるし上げるわけではないけれど、『こういうのは「科学優先主義」的に聞こえる』例を、実際にこのブログのコメント欄に投稿されたものから幾つか挙げてみます。
 最初の方の話で出した「その他の道具の存在」を再認識した上で読み返すと、皆様にも何が「科学優先主義」的に聞こえるのか分かるのではないでしょうか。

・ 「効くか効かないか」という議論自体が、既に科学の問題
・ 実際に効くということが調べられているならそれは科学であるから
・ 『科学である』というのは『効くか効かないかちゃんと調べている』ということ

 「効くか効かないか」は、確かに《科学》でも問題にできるけれど、だからといって《直感》、《経験則》、《思考実験》、《霊感》では問題にしてはいけないのでしょうか、そしてそれらだと、ちゃんと調べている事にならないのでしょうか。
 そうだ、と断ずるならば、それは《科学》で判断できる範囲外の事を主張している事になるので、私は「科学優先主義」的と判断します。


【科学優先主義のつらさ】

 モチロン言わんとする事は分かるつもり。
 人に薦める以上は他人に対して効くかどうかを考えるべきで、そう考えれば「客観性」と「再現性」は重要な目安になるはず。だから、それを最も精度良く判断できる「科学」で評価すべき、という事じゃないかな。
 
 そうだとすれば、もちろん私も「そうだよね、そうすべきだよね」と思う。

 しかし、そのような前提は、ちょっと掘り下げるとすぐ問題にぶち当たる。

 例えば、風邪をひいている時、おばぁちゃんが「治るように」と作ってくれたショウガ湯。だけど、彼女自身は「効果がある事を客観性と再現性で確認している」わけじゃないんだよね。だから、先の理由で批判するとなると、やさしいおばぁちゃんもその批判の対象になってしまう。
 「おばぁちゃんは無償でやっているからいいんだ」と取り繕ってみても、「正式な医師にかかる機会を失わせて、最悪死ぬ」のも問題視しているんだよね。それは有償・無償は無関係なはずだよね。と言われると、再びおばあちゃんのピンチだ。
 ...なんて《科学》からどんどん離れてしまい、「ニセ科学」を批判するためでなく、「おばあちゃん」に罪をかぶせないために、恣意的にルールを変える状況になるのは『筋が悪い』。

 それとか、相手が「神様が信心深い者全てに対する効果を保証しています。効かないとすれば信心が足りないからです」と言われた事を想定してみましょう。
 「そんなのちゃんと調べているうちに入らない」なんて言ってしまえば、それこそ「科学教vs宗教」戦争の勃発。

 こう考えると、「科学優先主義」ってポリシーは非常につらいんだよね。
 神様もおばぁちゃんも否定しなければならない。
 だからこそ、「脱・科学優先主義」の立場にいることにしたいんだろうけど、であれば本音はどうあれ、「科学優先主義」的な発言は意識して徹底的に隠すべきじゃないのだろうか。


【まとめ】

 まぁ、最後の方は別の話になってしまった気もするけど、「科学を信じる人(=科学優先主義)」とは私はどう見ているか、という一連の話として読んでくださいね。

 で、私とMORIXさんで「科学」の捉え方が違うようなので当然ですが、『私が「科学的」である』というのは、違うかなぁという感じ。

 物事の表面を見極めるのはなるべく「客観的」に、あるものをあるままに捉えようとするけど(文章理解とか)、その裏側にあるものを捉えるには《経験則》と心理学(←科学で無いと言われちゃった)と《思考実験》、でもそれらひっくるめてモノを言っているのはあくまで自分の「主観」。だけど、その「主観」をどう他人に見せるか、他人の視点でアドバイスするスーパーバイザーがいたり...。
 まぁ、ごちゃごちゃした感じよ、実際は。
 それに私は真面目でも善人でもないし。

 でも、MORIXさんの褒め言葉を真に受ければ、私の自分を「科学的」に見せかける企みは上手くいっているのかな。とすれば、私が「科学的」ってわけじゃなく、私は「科学的」を上手く使役できる、「科学」よりも上位の存在って事になるわね。

 ふふふ


【おわりに】

 MORIXさんやその他の皆さんにひとつ把握しておいて欲しい事がありんす。

 私は別に好きで(MORIXさん言う所の)「科学的」にしているわけじゃぁない。
 当たり前だけど、自分が科学のオピニオンリーダーになろうとしているわけでもない。

 そんな私が「科学的」にモノを言おうとしてる理由は、「科学的」を掲げている人達が言っている事、やっている事が本当に「科学的」なのかを検討するには、自分もなるたけ「科学的」に物事を捉えなくてはならん、と考えているからなんだよね。

 それについて、「アンタの言い分は科学的ではない」と指摘されるならいいんだけどさ。
 めんどくさいだの、実情に合わんだのと、「科学的」以外の視点での評価がされると、正直困る。

 まぁ、「科学的」を掲げていたわけじゃない人にはそう言われても仕方ないけど...。
 そういうスタンスで「科学的なフリ」をしている事はご理解くだされ。
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トンデモブラウ

「(自然)科学=経験則」なので、科学以前の経験則というのも不思議な言い回しに感じます。
で、科学(方法)はツールかっつうとそうではなくて、どっちかというとその(科学技術とかの)取扱説明書じゃないかなぁ。
科学という取説に則って扱えば、餅つき機では餅はつけるけど、無限にエネルギーは取り出せませんよ、的な。(軽くニセ科学の王道を批判してみました。)

で、科学的に批判するならおばあさんのショウガ湯(←私は否定しませんよ。温まる飲み物は風邪によさそうだし。未だにライナス・ポーリングに騙されてるらしく、風邪ひくとすっぱいものが欲しくなるし・・・)も胡散臭い神様も、科学的に拒絶すべきでしょう。
おばあちゃんのショウガ湯を飲むと、医者に行きそびれるっつうものなさげな例えですけど。
ダブル・スタンダードはいかんよ。

ただ、科学というのは、予測される誤差を含んだ未来予想もできる便利道具なので(道具かよっ!)、そこに含まれる「予測される誤差」に焦点を当てていろいろ言うのは筋が悪いと思うんですよ。
「予測される誤差」に関しては、分かっている人には「なんだよ。ソコかよ。」的な問題でも、全くのド素人であれば「そうだ。科学(教)はいいかげんでけしからん!」となるでしょ。
ねっ、めんどくさくない。

なんて、いつも通り中々よく考えずに直観的にコメントしました。
暫定二位危うし!
by トンデモブラウ (2009-12-12 22:59) 

MORIX

【Judgementさん】

わざわざエントリーまで立ち上げてくださってありがとうございます。おかげで、論点がすっきりしたと思います。大雑把に結論から言うと、やはり私とJudgementさんとでは、そんなに大きな科学観の差はないと思います(……というのもおこがましいかもしれませんが)。このエントリーに即して言うと、前提条件で少しの差があるものの、結論はほぼ同じです。Judgementさんの列記した通りに追いかけてみますと……

【私の科学観】『客観性と再現性があるものを透過するフィルター』良い定義だと思います。『「伝達しやすい情報を作るツール」とはいえます。』と、私寄りの解釈までして下さってありがとうございます。ちなみにトンデモブラウさんが『科学(方法)はツールかっつうとそうではなくて、どっちかというとその(科学技術とかの)取扱説明書じゃないかなぁ。』とおっしゃってますが、「取扱説明書」とは思いっきり伝達ツールですね。
【科学というフィルター】このまとめ方はさすがだと思いました。『「誰にでも(客観)」、「何度でもいつまでも(再現)」』というのはグーテンベルクの印刷技術がもたらしたメディア革命と同様の効果ですね。
【他の道具】ここが少し違いますね。トンデモブラウさんも『科学以前の経験則というのも不思議な言い回しに感じます』……と少し違和感を感じているようですね。<次回に後述します>
【道具の正しさ】でもここでの私の結論と同じになるんですよね。前章が違うのに。で、これがJudgementさんの「ニセ科学批判×4」なのですね。
【脱・科学優先主義】私の嫌っていた「科学教」という言葉を避けてくださったのですね。お気遣いは有り難いですけど「脱・科学教」とした方が皆さんには判りやすいと思いますから、そのままでも結構ですよ。
【具体例】ここで、《直感》《経験則》《思考実験》《霊感》などの【他の道具】で出て来たのと同じ概念が再登場してますが、それらの捉え方はやはり私と少し違います。<後述します>
【科学優先主義のつらさ】この「しょうが湯のおばあちゃん」の例に、私は比較的簡単に答えられると思います。<次回に後述します>トンデモブラウさんがおっしゃる通り「ダブル・スタンダードはいかんよ」。
【まとめ】物事をできるだけ「客観的」に捉えるが、関心があったり重要だと思えるのは「他人」の、そして自分の「主観」の方。実はこれも私と同じです。人の「主観」を重要視しているからこそ、ニセ科学批判には「本音」や「本心」など必要なく、さらに「人格攻撃」をし合ったりして「不用意に主観をさらけ出すなどもってのほか」と思っているのです。

で<次回に後述>をする前に、私の科学観を開陳させていただきますと、
1.実験再現性……イコール「反証可能性」ですね。
2.証拠と結論の因果性……帰納法のことですね。
3.定量性……帰納法的観察をより正確に、客観的にするために。
4.論理的整合性……観察不可能な対象でも演繹的に実証できる。
5.統計学……よく話題になる二重盲検法なども。
の5本柱かなぁ。ここら辺を科学哲学がくっきり明言してくれると助かるのですが、あくまで私の「科学観」なので、不適切な点は指摘して頂けると助かります。もちろん上の5つは必要条件ではありません。また一度実証された「事実」であっても、常に覆される可能性があるのも科学ですよね。特に4と5などはまだまだ証明されていない「未科学」の分野に入ることも多い方法ですが、心理学のJudgementさんが、5の統計学をエントリーで触れられていないのは意外な気がしました。それは「疑似科学VSニセ科学」のエントリーでおっしゃっていた「科学的評価は絶対じゃないのよ」という観点からですか? でもそれを言っちゃあ1〜5まですべて「絶対」ではないし、私が何度も言う「懐疑すべき対象」ですよね?
by MORIX (2009-12-13 18:49) 

MORIX

<次回に後述します>

の、次回になります。Judgementさんへのお答えも、naokoさんとの話の続きもここに端折らせていただだければと思います。手抜きでごめんなさい。そしてお返事もないまま勝手に議論を進めますが、私が次に提案したいことは、前回の「大義名分」のコメントでも提案した「科学的価値観」と「人文的価値観」を分けましょうということになります。そうしなければ「ニセ科学批判」vs「ニセ科学批判批判」の議論が進展しないのではないかという提案です。そしてまた勝手に「科学的価値観=客観的価値」「人文的価値観=相対的価値」という線引きをするために、以下のような定義付けをしたいというのが今回の趣旨です。

A【絶対的価値】……「宗教」「時の権力者の圧政」などコミュニケーションの成立する余地がないもの。カルトやホメオパシーに深く嵌っている人もこれに含まれる。宗教家の中にも価値観を分かち合える人は多く見られるが、基本的に彼らは「教条を絶対視」しているので、そもそも「神は存在するのか」などの議論は成立しない。naokoさんが「宗教は排他的」と評した通り。ナチスの焚書などもこの例。Judgementさんの言う《直感》《経験則》《霊感》なども自分の「主観」を絶対視している場合は、この絶対的価値を持ち、他との議論が成立する余地はない。これらが社会に害悪をもたらす場合には法や政治の力をもってして排除すべきであるが、多くの宗教は有益なことが多いので、十分に共存できる。ホメオパシー団体を根絶する為にはこのレベルでの強行的な活動が必要となる。

B【相対的価値】……私が「多数決」と定義した「社会通念」「一般常識」「社会道徳」「社会規範」など。個人の「道徳観」や「正義感」や《経験則》や《思考実験》なども他者とのコミュニケーションで変化し得るので、本来は「相対的価値」として柔軟に対応できるのが健康な状態。しかし「人の価値観」はなかなか変わらず、特に感情的になっている時は頑固になるのも事実。その場合、話し合いやロビー活動やプロパガンダにより練り上げられ「世論」としての体裁を整える。「ニセ科学批判」はまだこの段階での足固めをすべきだというのが私の意見。それはnaokoさんの(最初の)懸念とは逆に、人は「科学的事実」や「論理的整合性」よりも、「感情」や「身体感覚」に流されやすいものであり、その傾向がポストモダン以降ますます強くなっているからである(この話はまだnaokoさんの同意が得られているか不明)。また、明確な一つの答が導き出せないのもこの「相対的価値観」の特徴であり、「殺人の是非」一つをしてみても文学の数だけ答が分かれる。Judgementさんの「おばあちゃんの生姜湯」にしてもnaokoさんの「ミッドウェー開戦」の例にしても同じことで、何万もの事例に対し、何万もの解釈があてられる。これに「科学的根拠」を求めるのは無理なのではないか。同じ「殺人」に関しても「安楽死」「脳死判定」の抱える背景やそれに対する個人感情は千差万別であり、「ひとまとめ」にするのは不可能。同様に「ホメオパシー」や「水伝」や「血液型」をニセ科学として「ひとまとめ」にするのは不当なのではないかというのも私の個人的見解。

C【客観的価値】……科学の領域。ニセ科学や疑似科学の「真偽」も、その時点で判明している「科学的事実」と「科学的方法」の「フィルター」を使えばすぐに判別できる。非常に簡単な作業である。ただし、簡単過ぎて科学の力を過信しないことも重要。科学は信仰の対象ではない。Skepticを身上とすべし。この点はJudgementさんの上記エントリー【科学というフィルター】がまとめる通り。科学とは『客観性と再現性がある事実は抽出できるけど、主観的事実や一回性の事実は抽出できない。』さらに『真理を抽出するフィルター』でもない。さすがの洞察。ただ私は上記のトンデモブラウさんの『(自然)科学=経験則」なので、科学以前の経験則というのも不思議な言い回しに感じます』の言葉にも同意しているので、Judgementさんの使う《経験則》《思考実験》という言葉はそれぞれ「科学というフィルター」を通せば《帰納》《演繹》として置き換えることが可能と考える。よって前回の1〜5の箇条書きにある「科学的方法」の中にそれらを含めた。またその「科学的方法」は「科学」という学問の中に留まるものではないのも実情。今や「科学捜査」や「科学的エビデンス」などに使われるように、その他の人間の諸活動に応用されている。「心理学」や「史学」「文化人類学」「経済学」「社会学」などでもふんだんに「科学的方法」は取り入れられているし、それはやはりそれらの学問が「主観というバイアス」を排除することに主眼を置いているからであろう。ただし「文学」や「芸術」や「宗教」までに「科学的方法」を取り入れようとする動きがあることについては、私はやや疑問視している。


──ということでした。いつも長文すみません。それぞれの間に「少しもグレーゾーンがない」という訳ではありませんが、これでかなり「明分化」が可能なのではないかと自負しています。というか、あちこちの皆さんの「ニセ科学批判」vs「ニセ科学批判批判」を閲覧していて、ここがあやふやになっているから議論が縺れ込んでしまうようにお見受けしておりました(上から目線で申し訳ありません)。ただあくまでも私の自負にすぎませんので、皆さんのご意見で修正して頂いたり、打ち砕いて頂いても、それはそれで嬉しいです。

それから私が上で偉そうに『この「しょうが湯のおばあちゃん」の例に、私は比較的簡単に答えられると思います』とコメントした命題に対する答は、「答えられません」が、答でした。しょーもなく卑怯な解答ですみません。ですがこの命題は私の区分したB【相対的価値】の「人文学的問題」にあたる問題です。このおばあちゃんの「是非」を答えるのに「科学的・客観的フィルター」を使うのは無理があります。また、その命題の背景「おばあちゃんの人柄、生姜湯を信じるにあたった経緯、風邪の重度と生姜湯の科学的効能(すなわち科学的判断もここに含まれはします)、おばあちゃんと患者の関係、おばあちゃんの真意、風邪の経緯(治癒か死か)」などの要素ひとつひとつが変わるたび、皆さんの答も「是非」が変化するものでしょう? そしてその背景まで書き記すと、それはもうひとつの「小説」になってしまうのです。これはnaokoさんの『ミッドウェー開戦』の話も同じです。あの例で「腹でわかる」の用法は私に伝わりましたが、そこから先は「小説」の領域です。漱石の「こころ」における「先生がKに抱く罪悪感と自殺の原因」を文学者たちがいくら論議し合っても答が出ないのと同じでしょう。そして答は出なくてもいいし、出ない方がいい。いや、出るならその方がいいのかな。私にもわかりません。そして「ニセ科学」に対してどのような答を出せば良いかは、また次回に記載します。

話が広がりすぎたようなので、今回の要旨を最後にまとめましょう。
『科学は「正・誤」や「真・偽」を判定することはある程度可能だが、『善・悪』は判定できない』
──これが今回の私の提案です。


by MORIX (2009-12-17 18:54) 

naoko

また、ずいぶん長文を書きましたね、MORIXさん。

次いきましょうか、と言っておいてなんなんですが、仕事が立て込んできたもので、残念ながら、しばらく離脱を余儀なくされそうです。

もう少し話を先に進めたかったのですが…。無念!

では、また。
by naoko (2009-12-18 02:28) 

MORIXさん

>naokoさん
お気にせず、どうぞ! お仕事頑張って、ご自愛ください。
by MORIXさん (2009-12-18 07:47) 

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