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温故知新 [疑似科学総論]

 前回、原点に戻ってみたけど、せっかくだからもっと原点に戻ってみる。
 そこで今回は「疑似科学」から「ニセ科学」を探ってみる。
 何をダラダラやってんだ、と言われそうだが、省略したらしたらで文句いわれそうだし
 「砂上の楼閣」なんて言われたくはないからね。

【疑似科学とは何者か】

 「そのようなもの」は様々な人が言及しているが、その名は「似非科学」だったり、「ニセ科学」だったり、「ブードゥ科学」だったり、モチロン「疑似科学」だったり色々だ(「きわどい科学」もここに入るのかも知れない)。しかもそれは、単に訳者の気まぐれにすぎないものも有る。

 ただし、訳本では色々名前が変わったが、現時点では(特にネット上では)「疑似科学」という名称がスタンダードの位置にあると思われる(何故だかはしらない)。

 ルーツの詳細は知らねども、少なくとも「そのようなもの」に対する考え方が生まれたのは、「科学」が社会的地位を確立してからだと考えられる(そうでなければ、似せる事も、似せる価値も無いわけだから)。
 そう考えると、「疑似科学」とは、科学と社会の関わり合いの中で生まれた『鬼っ子』であると言えよう。そして、「疑似科学」は、「何か特定のものを示す言葉」というよりも、むしろ「社会的テーマ」であると捉えた方がしっくり来そうである。


【疑似科学にまつわるアプローチ】

 多くの人が疑似科学や「そのようなもの」に対し、様々なアプローチをしている。
 どんな事をどんな分野でやっているか、それを、私が認識している限りについて要約して列挙してみる。

1 非科学性の検討
 ・ 方法の分析
   科学的ではない理由→科学的とは何か(科学哲学)

2 間違いの検討
 ・ 従来科学との整合性の分析
   科学的知見との矛盾→科学理論ではどうか(各専門分野)

 ・ 主張そのものの分析
   主張に内在する矛盾→言っている事がおかしくないか(論理学)

3 原因の検討
 ・ 主張者の分析
   何故その方法が正しいと思ったのか→思考のエラー(心理学)

 ・ 受入者の分析
   何故その理論を正しいと信じるのか→認知のエラー(心理学)
   ※ 「何を科学的と思うのか、何故そう思うのか」も含む

5 影響の予測・認定
 ・ 影響の心理学的アプローチ
   その理論の人心への影響の予測→意識変容(心理学)

 ・ 影響の社会学的アプローチ
   その理論が社会に及ぼす影響や影響力の予測(社会学・社会心理学)

 ・ 影響の主観的アプローチ
   それのせいで、こうなる事も考えられる→影響の危惧(個人)
   それのせいで、こうなった影響事例もある→影響事例(個人)

6 影響の評価と対策
 ・ 価値観との比較
   そのような影響は望ましいか?→社会はどうあるべきか(社会的規範)

 ・ 疑似科学の対策
   どうしたら無くせるか?→対処療法的対策(広報)
   どうしたら見破れるか?→科学的思考の推進(教育)


【アプローチから見えるもの】

 「パッと見、人文系の分野が多いじゃないか、依怙贔屓か!?」と思われそうだが、実際には上の方が層が厚い(と思う)。また、説得力という点では理系分野における「従来科学との整合性の分析」がかなり強力だ。

 ただし、無を有であると錯覚させる”疑似科学”という現象そのものは、そのような錯覚機能を持つ”人の心”の問題である。
 そのため、『何が疑似科学なのか、何故だめなのか』については理系分野にウエイトがあるが、『何故疑似科学を生まれるのか、何故受け入れられるのか』については、人文系分野に軍配が上がるだろう。

 ちなみに、日本においては菊池聡氏や、安斎育郎氏が「原因の検討」の分野では有名だけど、「従来科学との整合性の分析」分野で最もメジャーな人というと、オーツキキョージュになっちゃうのかなぁ...。
 
 そもそもの核となる「科学哲学」だって理系分野と人文系分野のコラボラーションだ(科学哲学は理系分野の実務家からは嫌われているという噂も聞くが...)。
 
 これらを考えれば、「疑似科学」は、分野を超えた叡智の結晶と言える。
 

 また、「疑似科学とは何者か」では、疑似科学を「社会的テーマ」と述べたが、そう捉える事により、自然科学・人文科学分野の専門家だけのものではなく、“その社会を構成する科学者以外の人々(いわゆる「科学の素人」)”も、「影響の主観的アプローチ」や「価値観との比較」という形で参加可能であり、またその参加の意義も大きいと言える。


【疑似科学からニセ科学を見る】
 
 菊地氏は、あえて「疑似科学」ではなく「ニセ科学」を使う意志を表明したが(詳細は前回)、それは従来の「疑似科学」と別のモノ、という意味ではなく、明確な目的に即したチューンアップによる差別化であると思う。
 いわば、「車」に対する「スポーツカー」のようなもの。

 であるから、根本的な機能は「疑似科学」と同じなれど、部分的に特化したものと捉えている。
 具体的には、「影響の評価と対策」について、“排除”を前提としたチューニングを施したものが「ニセ科学」であると考える。
 
 そんな「ニセ科学」という概念について、菊地氏が“あえて「ニセ科学」と呼ぶ事で「疑似科学」との差別化を図ったように、その菊地氏の「ニセ科学」という考え方に賛同し、あえてそれに乗っかった人は、根本思想を共にする者達、という意味で「ニセ科学派」とひとまとめに括る事は特に支障はないだろう(これすらダメなのかな?)。
 
 もちろん、「疑似科学」へのアプローチは様々であり、結果として「ニセ科学派」と同じ方向性に至るものも当然あるだろうけれど、あくまで「菊地氏の」という前提の上で「ニセ科学」という用語を使用し、「菊地氏の示す方法性を踏襲する事」を原則にした者のみを「ニセ科学派」と呼ぶべきだ(いくら動機がバラバラでいいからといっても、最低限その程度は前提にしないと、「ニセ科学」という用語を使って批評する意味は無くなるのでは)。

 なお、「ニセ科学」という言葉の付与に関しては、『排除すべきだから「ニセ科学」と呼ぶ』という「疑似科学排斥活動」とも取れる。とはいえ、以下の事はまだ私は咀嚼できない。
 ・ 「疑似科学」は排除すべき、と言うポリシーの元でそれを『ニセ科学』と呼ぶのか
 ・ 「排除すべき疑似科学」に『ニセ科学』という名前を与えるのか
 ・ はたまた「排除すべき疑似科学は排除すべき」という循環的なものなのか
 でも、結局の所「ニセ科学」は「ニセ科学派」のものなのだから、そのあたりを明確にすべきか否かを含めて、派内で調整すればいいだけの話だろう。

 「疑似科学」から「ニセ科学」へのチューニングについて
 ・ 外部への説明力・効力を上げるためにやるのか
 ・ あるいは、内輪の「よりスリリング」なやりとりのためのルールなのか。
 というのも、まだ良く分かっていないが、、それを決めるのもニセ科学派次第だろう。
 でも、そこら辺が足並みが揃っているのか(揃えようとしているのか)良く分からない。


【ニセ科学という文脈で述べられる事】

 とりあえず、こまごました事はニセ科学派にお任せして、話を進めよう。

 「ニセ科学派」の活動には2つのプロセスが予測される。
 ・ 世の中の様々な主張のうちどれがニセ科学なのか → ニセ科学認定
 ・ ニセ科学の暗躍をどうしたら無くせるか        → ニセ科学対策

 前者は、基本的に「疑似科学」による「疑似科学認定」との共通点があるが、そこに「価値観との比較」が含まれる(ようである)点が少し違う。
 前回にならい、それをした人を「ニセ科学認定者」と呼ぶ事にする。

 ニセ科学認定は、「ニセ科学」にまつわる活動には無くてはならないものではあるが、それは果物を取るために種を撒くようなものであり、「目的」という点では後者がメインとなるのだろう。
 
apj氏はこう述べる(一部省略)
(1) 個別の言説のどこがウソかを指摘して、みんなが読める状態にする。
(2) 違法だという指摘をする(通報する、主務大臣申出なども含まれる)。
(3) なぜ「ニセ科学」が蔓延するのかを考えて、個別にウソをウソと指摘する以外の対策がとれないかを考える。

 (1)は何がウソなのかと共に、ウソの根拠も説明すれば、「対処療法的対策(広報)」と、「科学的思考の推進(教育)」の両方が狙えるが、基本的には「待ち」の姿勢だ。
 それに対して「攻め」が(2)となるだろう。私は「大臣申出」の事例については知ってはいないが、「水伝」や「ゲーム脳」関係ではパブリックな講演に対する抗議等の例は聞いた事があり、頼もしい限りだ。

 また、(1)を「待ち」の姿勢と言ったが、個々人の精力的な執筆活動による成果はちゃんと出ていると考える(もし、「ニセ科学派」の人達がいなければ、今頃「水伝」の影響がどうなってしまっていたか、考えるだに恐ろしい)。

※ ネットの利用環境の向上、ネット利用者の増加と、網羅的な検索エンジン、この3つの整っている現在は、ネット上の活動は直接の抗議活動よりも強力な影響力を持つかも知れない。

 ここでは、(1) に属する事を「ニセ科学批判」...と呼びたいところであるが、色々と混乱しそうなので、言葉を変えて「ニセ科学言及」と呼ぶ事とする。
 (以降使う予定は無いと思うけど、念のため(2)に属する事を「ニセ科学抗議」とでもしておくか)。


【ニセ科学言及、及びニセ科学言及者という分類について】

 私の批判対象だった「ニセ科学批判者」は、この「ニセ科学言及者」に含まれる人だ。

 ただし、「ニセ科学批判者」に「ニセ科学認定者」も含まれたゆえに修正を余儀なくされたように、「ニセ科学言及者」を批判対象としても、まだとばっちりを受ける人がまだ多そうだ。
 (だからもう少し説明が必要となると思うけど、頭の片隅においておいて欲しい。)


 まず、さほど意味がない分類としては
・ 自分のブログやHPを持って、記事を書く人
・ そういったブログやHPに行って、コメントする人
 があるが、情報発信のアドバンテージはあるものの、本質的な違いではないだろう。

 なお、「ニセ科学認定者」も「ニセ科学言及者」とも言えるが、ここでは「ニセ科学認定」する能力のある者を「ニセ科学認定者」、能力が無い者、あるいは認定するつもりが無い者を「ニセ科学言及者」と分ける(具体的な違いは、また後日説明する)。

 「ニセ科学言及者」の言及先は、主に「認定されたニセ科学」と、「ニセ科学という考え方」の2つに分けられるが、この両者をとりあえず「ニセ科学話題」と1つに括る。
 また、『「ニセ科学話題」への言及』も「ニセ科学話題」とする。

言及方法として、幾つか挙げる

a ニセ科学話題の紹介
  「こういうニセ科学がありますよ」
  「ニセ科学って考え方はこういうものですよ」

b ニセ科学話題の言い換え
  「例えばそれは、こういう事です」

c ニセ科学話題への考証の追加
  「ほかにもこんな事が考えられます。」

d ニセ科学話題への感想(賛同・別意見)
  「自分はその考えに概ね同意できます。」
  「自分はその考え方とはちょっと違います。」

e ニセ科学話題に対する批判への疑問提示
  「意味が良く分かりません」

f ニセ科学話題に対する批判への否定
  「そういう事はやっていません」

g ニセ科学話題に対する批判への反論
  (否定によって変わるものなので例示無し)

h 「ニセ科学話題」に対する否定への感想(否定・別意見)
  「私は同意できません」
  「自分はそのような考え方はしません。」

 まぁ、a~dとe~hの違いがわざとらしい部分もあるが、ここでは深く説明しない。
 どこまでが、「ニセ科学派」としてすべきなりふりなのか
 どこまでが、個人としてのなりふりなのか良く分からない部分もあるけど
 
 それと、私がいただけないと思うのは

i 「ニセ科学話題」に対する容認の要求(説得)
j 「ニセ科学話題」に対する「ニセ科学」の規範に即した認識の要求(説得)
k 「ニセ科学話題」に対する「ニセ科学」の規範に即した評価の要求(説得)


 ...おっと、あまり言うとキチンと説明する前にまた波風が...

 と言う事で、今日はこの辺まで。
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disraff

こんばんは。
ええと、とりあえずご自身は
>その菊地氏の「ニセ科学」という考え方に賛同し、あえてそれに乗っかった人
ではない、というスタンスで書かれているのですよね。

でも、その括りにどのていど客観性がありますかね?
たとえばJudgementさんも、端〜kikulogの「血液型性格判断」関連エントリを眺めている人あたり〜から見れば、じゅうぶん「一派」の一員なんじゃないでしょうか。

by disraff (2009-04-25 02:51) 

Judgement

はい。よくぞ聞いてくれました!!
自慢したいので、優先的にコメントしちゃいます。

いちおう、私は「疑似科学」派です(カテゴリー見てね)。
それとも、「疑似科学」派はkikulog書込み禁止という不文律が....

私は、kikulogを知る以前からABOFANクンと遣り合っていて(H17)
それを知っている人は、別に「ニセ科学」一派としてkikulogにいたとは思わないと
(kikulogに初めて行ったのは、確実にその数年後)。

また、それ以前から「疑似科学」についてまとめており(H15)
本館(http://www.geocities.jp/judgement_xp/index.htm
それを知っている人は(というかホントはこのブログ、あくまで別館なのよね)、別に「ニセ科学」一派としてkikulogにいたとは思わないと

何より、初めてkikulog行ったとき、菊池誠先生を、てっきり菊池聡先生だと思い
「あ、先生の本読んでます」なんて感じで偉く失礼こいた事があります。
まさか、そんな失礼な奴が....

 良く分からないけど、仮に「一派」の一員だと見られる事が、この記事の内容に関し、どんな影響があるのでしょう?
 「不当に好意的に書いていると思われる」?まさかぁ、そんな書き方してないし。
 というか、昨今の状況見てれば、誰も「一派」とは思わないでしょうに

 ところで、disraffさん自身は、内容の評価を、内容そのものではなく、書いている人間を自分がどう思っているかで判断するのですか?
by Judgement (2009-04-25 03:23) 

disraff

お返事どうもです。
いえ、有り体に言って、ポイントがわからなくて。

なんだか、“自分を埒外に置くための「一派」の定義”を懸命にされているように見えたので、それ、誰に対してどんな意味があるの?と訊きたかったんです。

「以前から別の事もしていた、kikulogにはたまたま寄っただけ」という程度なら、大抵の人はそうじゃないかと思いますし。
kikulogだって、疑似科学の話題も出れば「陰謀論」みたいな話題だって出ますよね。

>というか、昨今の状況見てれば、誰も「一派」とは思わないでしょうに

そうでしょうか。この程度の論争であれば「一派」の中でも普通に起こりません?

>ところで、disraffさん自身は、内容の評価を、内容そのものではなく、書いている人間を自分がどう思っているかで判断するのですか?

ネットであれば、「どう思っているか」は気にしません。
日常で良く知っている人の言だと、切り離すのに努力が必要になる場合もありそうですけれど…。
by disraff (2009-04-25 08:33) 

トンデモブラウ

>これらを考えれば、「疑似科学」は、分野を超えた叡智の結晶と言える。

「疑似科学」じゃなくて、「疑似科学に対応するに」はですよね。
「ニセ科学」は「疑似科学」と違って、グレー・ゾーンから大きくはみ出た全くの素人でも「科学」じゃないと分かるものなので、叡智の結晶というには語弊があるし。
うまくグレー・ゾーンを利用して、寄ってきたカモを騙すという部分に、叡智が結晶化しているかもしれませんが。

なので個人的には「ニセ科学」に関する批判は、何でもOK。
ということで、私は反「ニセ科学」一派です。
というより、「ニセ科学」容認派はのたれ死・・・反「ニセ科学」原理主義者でした。
by トンデモブラウ (2009-04-27 16:28) 

Judgement

【disraffさん】
>“自分を埒外に置くための「一派」の定義”を懸命にされているように見えたので、
>それ、誰に対してどんな意味があるの?と訊きたかったんです。

うんと...「あなたがそう見えたこと」が「誰に対して意味あるか」なんて私は答えられませんよ。

「そう見えたけど、どうなんですか」と聞かれれば、
「別にそんな努力しなくても、最初から埒外だし」って答えるだけだけど。
(いや、お仲間に誘っていただけるのは嬉しいのですが....)

というか、最初にあなたがおっしゃった「客観性」のためにも
仮に埒内(?)であったとしても、埒外の立場で書くべきじゃないのかな?

うーん、何を問題にされているのだろう...

>「以前から別の事もしていた、kikulogにはたまたま寄っただけ」という程度なら、
>大抵の人はそうじゃないかと思いますし。

だったら、そういう大抵の人の一人なんて、やっぱり「一派じゃないでしょ」と思うのですが...
disraffさんが「kikulogを訪れる大抵の人をみんな一派とみなしちゃう方」なのは分かりましたが、それで『じゅうぶん「一派」の一員なんじゃないでしょうか』と言われても正直困る。
というか、結局「一派」云々の話は上の記事と何が関係があったのだろうか...。


【トンデモブラウさん】
ああ、確かに紛らわしいですね。
言いたいのは
『「疑似科学」という概念の構成は叡智の結晶』デス
by Judgement (2009-04-29 01:31) 

disraff

端的に申せば、「kikulogを訪れる大抵の人をみんな一派とみなしちゃう」ような粗雑な見方を取るのでない限り、「ニセ科学派」なんてがんばって定義してみてもしょうがないんじゃないか…と僕は思います、ということでした。
ちょっと前段の議論に引きずられていたかも知れません。

by disraff (2009-04-29 23:39) 

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