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RETURN [疑似科学批判批判批判批判]

結論があって、その結論である理由を考えるのは楽だし早い。
結論に対して有利な事象だけ並べ立てればいいのだから。

枝の先から幹に戻って見せるのは簡単。
だけど幹から、再度同じ枝の先にたどり着くかやってみる。
という事で、ちょっと基本に戻ってからゆっくりと進めていこう。

【「ニセ科学」って何だ?】

 もう一度、菊池誠氏の『「ニセ科学」入門』に立ち戻ってみる。
 
 菊地誠氏は「ニセ科学」を、「見かけは科学のようでも、実は科学ではないもの」と位置付けた。その上でこう述べる。

『文脈によっては「疑似科学」という言葉が褒め言葉になるからである。具体的にはSF小説やファンタジー小説の批評などで”よくできた疑似科学的説明”などという表現が使われる。「疑似」という言葉には価値判断が含まれないということであろう。』

 つまり、「疑似科学」とだけ言った場合、「良い疑似科学」と「そうでない疑似科学」の両方が含まれると述べる。だから、“価値判断が含まれない”「疑似」を捨て、“否定的な意味合いを強く含ませるため”「ニセ」を使うという事だ。

 いわば、

「疑似科学-(良い疑似科学+無害な疑似科学)=有害な疑似科学=ニセ科学」

 というわけなのだろう。

 そして、菊池氏は「ある種のニセ科学は笑って済ませられない問題を抱えている」という。
 言わんとする事は、「個人的損失」と「社会的損失」だと取れる。
 効果が無いのに、効果があると信じてそれに頼る事は、時間を無駄に奪い、お金を無駄に奪い、モノによっては命も無駄に奪う。また、それが蔓延する事は、同様の影響を社会全体に広げる。また、質素ながら堅実な本物(科学)よりも、見た目煌びやかな贋物(ニセ科学)に惹かれる風潮になれば、ますます贋物が増え、その一方で本当に有効な科学が衰退するという事態に陥るだろう。

 それを食い止めるためにも、「科学者の役目として、批判が重要である。」と述べている。


【私が考える「ニセ科学」の対処】

 この話は「ニセ科学は除外すべき害悪だ」という前提が含まれる。
 そんなニセ科学を食い止めるには、2つの方法が考えられる。

 まず、「応急的対処」。
 出現したニセ科学について、「これはニセ科学ですよ」と警告するものだ。
 ただし、そのままではイタチごっごであり、常にニセ科学が無いか目を光らせていなければならないなら、本業も落ち着いてできず、それはそれで科学の発展を阻害する。

 そのため、実は最も大事なのは『大局的対処』(と思う)。
 それは『科学と区別がつかない普通程度の科学的知識を持つ「一般市民」』を、『(ニセ科学を)科学と区別がつく程度の科学的知識を持つ「一般市民」』にレベルアップするための啓蒙活動であり、「まっとうな科学」を理解してもらった上で、「まっとうな科学のメリット(まっとうでない科学っぽいもののデメリット)を納得してもらうのだ。


【私が考える「ニセ科学」の見分け方】

 さて、「見かけは科学のようでも、実は科学ではないもの」だけでは単なる“疑似科学”であり、“ニセ科学”と呼ぶにはもう一段階「有害である」必要がある。

 例えば、「血液型性格判断」が科学的のように見えるとしよう。
 しかし、「科学的でない」だけでは単なる“疑似科学”だ。
 そこに、サトウタツヤ氏の「ブラッドハラスメント問題」のように、「有害である指摘」があって、初めて『ニセ科学』と呼べるわけだ。

 まとめると、「ニセ科学」と呼ぶには以下の2つが必要になる(はずだ)
 ・ 科学的でないという認定
 ・ 有害であるという認定
 この2つの認定により、晴れて(?)「ニセ科学」の称号が得られるのだろう。

 だれが?

 そもそも、「有害であるという認定」は難しい。というか、簡単だ。でも、難しい(なんなんだ)。
 「有害」な部分を探すのは簡単だ。何なら「風が吹けば桶屋が儲かる」方式でも使えばいい。「有害だ」と決め付けて、有害な部分を探せば、必ず見つかるものだ。
 しかし、簡単だからといってやりすぎると、いつの間にか「それを有害と言うのなら、科学だってその程度の有害さはあるでしょ」という所にまで踏み込んでしまうだろう。
 そこが難しい。

 じゃぁ、どの辺まで有害ならばいいのか悪いのか?
 おそらくは、なんだかんだいってこの辺は「さじ加減」なんだと思う。
 (悪い意味じゃなくて)

 その「さじ加減」の責任は自分で取る!って感じで、えいやっと「これはニセ科学だ!」と認定できる人がいる事が、「ニセ科学」対策では一番大切だと思う。
 ついでに言えば、少々フォールスポジティブ気味でもいいと思う。
 本物だったら、一度は「ニセ科学」認定されても、挽回できるから。それが科学。

 「もう少し様子を見ましょう」と言って、父親が殺されかけ、娘が手篭めにされそうになってようやく印籠を出す水戸黄門みたいな行為はいただけない。

 このような「自分で責任を負いつつ『ニセ科学』と認定できる人」は、私の批判の対象から外したい人。

 こんな方々を  『ニセ科学認定者』 と呼びたい。


【おまけ】

 菊池氏の「ニセ科学」入門とあわせ、apjさんの「ニセ科学の定義と判定について考える」も読んだ。
 そこでは、私の上記の「有害であるという認定」みたいな事についてはこう述べられていた。

『「装う」という条件を入れることで、単なる「非科学」ではなく敢えて「ニセ科学」と呼ぶことにしたのは、「人を騙すのはよくないことである」という、より一般的な倫理的価値基準の存在を背景としているからである。』

 う~ん、「装う」→「騙す」→「よくないこと」って流れは結構厳しいと思う...。
(ホントは「よくない騙しの装い」と言いたいところだけど、『「よくない」ってどういう事だ?』と問われないように、逆に並べて言っている感じが...)
 まぁ、単なる「装う」じゃなくて、「科学を装う」事が問題なのだろうけど、そのあたりは元祖”疑似科学”あたりでもあった気がするので、『ニセ科学』としての「科学を装う」→「よくない」の説明を「人を騙すのは~」に行っちゃう前にもう少し聞きたかったような...(これは単なる個人的欲求)


 確かに、「人を騙すのはよくないことである」は、誰でも「うっ...そうだね」と頷かざるをえない。

 でも、パーソナリティテストでは、「テストに正直に答えているか」を確かめる質問項目を紛らせる事があって、その定番が「私は嘘をついた事が無い」で、それに「ハイ」と答えたら「この人は嘘をついている」と判断するんだよね。
 そう判断できちゃうほど人はウソをつく生き物。

 「人を騙すのはよくないことである」は、一般的な倫理的価値基準かもしれない。
 でも、「それでも人は人を騙すものだ」も、また一般的であったりする。


 なお「人を騙すのはよくないことである」この言葉自体が、実はピンと来ない。

 “お前が不道徳なのはとっくに知ってたよ”
 と言われそうだが、そうではない。

 前に言ったが、私はマジックをしていた。
 そこでは常々「人を騙して喜ばせろ」と言って、言われていた。
 だから。

 また、菊池氏がニセ科学から除外した「SF」だって、「人を騙して喜ばすもの」だ。

 あと、ほら、アレ...『矯正下着』も...

 むろん、これらは“一般的ではない”よ。そりゃ分かっている。

 だけど、じゃぁ“一般的”って何だ、っても思う。
 自分にとって一般的な事が、どこまで一般的か分からない。

 だから、”一般的”という事で何かを説明した気になるけれど
 実は何も説明していないようなものだ。
 むしろ、自分で上手く説明できない事を、無条件で正当化する時に使いがち。

 ...とABOFANクンには言った。
 だから”一般的”で済ますのはよくない。
 
 と、私は思う。   


 いろいろ言ったけど、言うのは簡単。
 「だったら、お前はどう規定するんだ?」って言われちゃう。

 う~ん、私だったら無理に規定しようとするよりも、「有害さについては自分の裁量」って言っちゃうかなぁ。
 むしろ、その方が責任の所在がはっきりするし、そこは多分科学の領域じゃないし。
 「お前の裁量なんかあてになるか」と言われるかもしれないけれど
 私にとっては「一般的」の方が、あてになりそうもない。
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技術開発者

こんにちは、Judgement さん。

まあ、社会規範というのは成立原因を考えて貰う方が、考えずに「規範だから」と従われるよりも良いのだけど、考えたあげくに「意味がない」となるようなら、考えずに「規範だから」と従われる方がよっぽどマシであるものなんですね。

社会規範(道徳、倫理)には「数学の公式」みたいな面があるんですね。社会で「この円の面積を出しておいてくれ」なんて言われて、「円の公式がなぜ正しいのか」なんてのを勉強していなかったり、勉強しても忘れていたりしても、半径を二乗して3.14を掛けることだけ覚えていれば、まあものの役に立つわけですね。もちろん、円の公式の証明も思い出して「この式で間違いない、よし」とやってくれる方が良いと言えば良いわけです。一番、悩ましいのが、「公式はこうだっけど、証明を知らないから、使わない」というのは、「役に立たない奴」と言われる訳ね(笑)。

数学の公式ならまだ、探せばたいてい教科書に書いてあるのね。社会規範というのは、かなりの部分経験的な成立というのがある訳です。そのため、証明を簡単に思い浮かべることが難しいものもあります。社会規範のうち、とても強い規範に関しては「相互利害」という根拠が思いあたりやすい面があります。例えば「殺す無かれ」という規範に関して、「人を殺すが悪くなければ、自分が人を殺しても悪いとされない代わりに、人が自分を殺しても悪いとはされない。規範があって自分が殺されない方がどうも良いみたいだ」なんてね。

>「人を騙すのはよくないことである」は、一般的な倫理的価値基準かもしれない。
> でも、「それでも人は人を騙すものだ」も、また一般的であったりする。

或る意味、「騙すなかれ」なんて規範もまた、相互利害から経験的に生まれてきた規範だと思いますが、実のところ「殺すなかれ」に比べると、かなり弱い規範であり、相互利害的な例がスルスルと浮かぶようなものでもなく、また、実際に「騙すつもりはなくても騙した形になる」ことも多く存在するものではある訳です。ただ、八百屋の大将がお客から「この前のダイコン中が傷んでいたわよ」と言われた時に、大将が「どうもすいません、お詫びに今日の代金を100円負けときます」なんてやるのは、意図しなくても「中までまともなダイコン」と騙して売ったことになる、つまり社会規範に反してしまったままであるのを嫌がるからです。私は、もし、そこで八百屋の大将が、「そんなこともありますよ」と開き直ると、八百屋のおかみさんが大将に食わせようと魚屋で買った魚が古くても「そんなこともありますよ」で我慢しなくてはならないなんて例え話をしたりしますけどね。まあ、そういう割とスッキリしない「相互利害」の例えくらいか浮かばない面はあるわけです。

人間個々は、そうやって「騙すなかれ」という規範に時々は抵触しながら生きてしまう訳ですが、そうやって抵触しながらも「社会としてはこの規範がきちんと機能している方が生きやすい」と感じてきた面はあるだろうと思います。それゆえ、公式の証明は忘れても公式を使うみたいに、「これは社会規範だ」と「守った方が良い」とできるだけ守ろうとしてきた面がありますね。

by 技術開発者 (2009-04-24 15:54) 

トンデモブラウ

少しわかってきたかも。
線引きの問題というより、程度の問題なんですね。

> 「人を騙すのはよくないことである」は、一般的な倫理的価値基準かもしれない。
>でも、「それでも人は人を騙すものだ」も、また一般的であったりする。

一般的だけど、騙す中身によって程度の差はあるものの罪悪感は感じますよね、普通。
「騙す」動機が問題だと思いますけどね。
突き詰めれば「自分の裁量」ですけど、「金儲け」がモチベーションの欺瞞には同情の余地はないなぁ。
by トンデモブラウ (2009-04-24 17:50) 

zorori

こんばんは、

>しかし、簡単だからといってやりすぎると、いつの間にか「それを有害と言うのなら、科学だってその程度の有害さはあるでしょ」という所にまで踏み込んでしまうだろう。
そこが難しい。

害と益を定量的に比較するリスクマネジメントの考え方でよいのでは。薬には必ず副作用がありますが、良い作用の方が大きいから使用するわけですね。結構その辺の判断が難しいものが有りますが、ニセ科学は一見して害が大きいものと云うことですよね。グレーゾーンはニセ科学ではないということで。


>そう判断できちゃうほど人はウソをつく生き物。

だから、ウソはいけないと言わなければならないのでしょう。人間が生理的にウソをつけないのなら、そんな規範は生じようがないのでは。

>むろん、これらは“一般的ではない”よ。そりゃ分かっている。

「一般的ではない」という分け方ではなくて、相手が期待しているウソかどうかじゃないでしょうか。マジックのタネを明かすと怒り出す人がいます。期待したようなタネじゃ無いからだろうと思います。矯正下着や化粧で美しく見えれば私は良いことだと思いますが、素顔が一番で化粧は嫌いだという人もいます。期待していないウソだから許せないのでしょう。ニセ科学にウソを期待している人は殆どいないのじゃ無いでしょうか。ただ、誰も期待していないのに、期待しているはずだと言いつくろう場合も有りますね。水伝はポエムとかどうせTVだからやらせだと分かっていたはずだなんて言いぐさです。期待しているウソとは、どこがウソかは分からないけど、大枠ではウソと了解しているので大枠ではウソでないとも言えるかもしれません。
by zorori (2009-04-24 20:08) 

apj

私の方では、被害発生の態様で整理することを試みています。
http://www.cml-office.org/archive/?logid=338

 で、どういう状況のときに予見できると考えるか、といった判断の仕方は、法的判断の方で相当積み重ねがありますから、そこから学ぶことができるんじゃないでしょうか。自分の裁量、で片付けるというのは、随分荒っぽい基準ではないかと。

 なお、フィクションの場合の「人を騙して喜ばせる」というのと、例えば悪徳商法で人を騙すというのとは、意味合いが違います。フィクションの場合は、フィクションであることを騙される側も知った上でウソを楽しみますし、そのフィクションを楽しんだからといって別の害は発生しません。これが、悪徳商法になると、消費者が嘘を真実であると誤認したことによって金銭的被害が発生するんですね。
 「騙す」という行為だけを見ると、判断を間違えますよ。どういう状況で「騙す」行為が行われたかまで含めて考えないといけないのでは。

 人を騙すな、の規範の意味ですが、私も技術開発者さんと大体同じ意見です。
 人間は万能じゃないので、自分じゃカバーできないところは他人の行為を信用することで、判断のコストを下げているんですよ。そうでないと、八百屋や魚屋で物を買う前にすべて自分で検査しないといけないことになりますね。魚の鮮度くらいなら目を見ればわかるでしょうけど、これが産地偽装なんかになるとわからなくなりますよね。野菜だって、葉っぱがしなびてなければ新鮮だとわかりますが、こっそり使用禁止の農薬を使われていたりしたら見抜くためには分析機器が必要になったりしますね。
 人のすることだから完璧にはならなないので、ついうっかり結果的に他人を騙してしまうことだってあるでしょうけど、人を騙すなという規範があれば、お詫びして品物を取り替えるとか、次からうっかりでも騙さないように気を付けようといった行動をとるでしょうね。
 お互いの信頼でもって判断のコストを下げて、社会を住みやすくするためには、人を騙すな、というのを規範とした方が良さそうですよね。そうすると、SFを読んで「騙された」って、相互の信頼関係が壊れることでいろんなものごとの判断のコストが跳ね上がるなどということはないわけですから、規範には抵触しなさそうですよね。

by apj (2009-04-24 22:55) 

技術開発者

こんにちは、トンデモブラウさん。

>線引きの問題というより、程度の問題なんですね。

なんていうか、社会規範というのは非常に実利的なものなんですね。人類が「自分たちが生き延びるのを有利にしよう」という実利的目的に基づいて、自分たちの手で形作ってきたのが社会規範ですからね。

私がこさえてみたたとえ話に「原始人の冬越し」というのがあります。冬は雪に閉じこめられる地域まで進出した原始人の群れが、秋の蓄えを少しずつ食いつなぎながら冬越しをしている訳ですね。当然、「春が早く来ないかな、そうすればもっと食えるのに」みたいな話はしたと思います。でもね、そういう希望がいつの間にか「今年は春が早く来るに違いないから、もっと蓄えを食おうよ」という話になってしまうと危ないですよね。こういう話が出て、皆が心を動かされてしまうと、「春が早く来るなんて話には根拠がないから、蓄えに手を付けるな」なんて言う話は隅に追いやられたりもする訳ですね。そうして、春が来る前に蓄えを食い尽くした頃に冬の最後の大寒波がやってきて、共食いをしながら冬を乗りきるなんてね(笑)。まあ、あくまでたとえ話というか物語にすぎないんだけど、そういう事とかから「根拠のない話を言いふらすんじゃないぞ」みたいな規範が人類の文化の中に発生したのかも知れないと思うんですね。

この場合でも「春が早く来てくれると良いな」みたいな願望を述べることまでは止める規範じゃないでしょうね。それが「春が早く来るから、蓄えはもっと食べても良いんだ」という話にすり替わる事を警戒する方向にこの社会規範は働いてきたのだろうと思います。

なんていうか、カウチポテト論なんて言い方をするんだけどね。社会規範に関して考察をするときに、「自分がそのなかで生きている社会」という認識の無い議論はとんでもなく危険なんですね。

by 技術開発者 (2009-04-27 10:10) 

Judgement

【技術開発者さん】
 「社会規範」はどうして成立するか、という事は「心理屋」の立場としてもっとドライに理解していますけどね。

というか、すごいです。
「もしかして、あなたがこの世の規範を作っているのですね」
と言いたい感じ(その確信感はどこから?)

「自分がそのなかで生きている社会」という認識を「自分が正しいと思う視点」に固定してしまった議論こそ、まるで「思い込みの激しい市民運動」みたいで、もっととんでもなく危険だと思う。

 例えが好きなのは分かるのですが、「(自分は)どんな規範が望ましいと思うか」とか、ましてや「いい例えができるか」ではなく、「騙すなかれ」という事がそのまま規範として成立しているか、という事を私は考えているのですが...
 あと...くどいようですが
 例え話で、込み入った話を簡単に理解させたいのでしょうか?
 それとも単に、どれだけ込み入った例え話ができるかをここで試しているだけでしょうか?

【トンデモブラウ さん】
程度の問題でもないんですが
>「騙す」動機が問題だと思いますけどね。
という事。
騙す=規範違反 ではなく 騙す+動機=規範違反 って事。
あと、規範に対する一般化の判断に踏み込むと、どうしても「道徳の押し付け」問題が出る。
一般化する事で、色々支障があるなら、「自分の裁量」とした方がまだまし、って話デス

【zororiさん】
>相手が期待しているウソかどうかじゃないでしょうか。
 そうなんですよ。トンデモブラウ さんにも言ったように
 「ウソかどうか」ではなくて、実は「期待しているか否か」に本質が有る。
 だから、「人を騙すのはよくないことである」とはストレートに言ってしまえないのでは、って事。
 で、「線引きが難しい」所に、いきなり「社会」という枠を使って無理に線引きしようとするよりかは、「各人の裁量」でやった方がいいんじゃないかと思う(協調してやっているわけではないなら特に)。
 
【apjさん】
 自分で色々試みている事はすばらしいと思います。それは別として
 >自分の裁量、で片付けるというのは、随分荒っぽい基準ではないかと。
 むしろ、安易に「社会」や「一般」を持ち出してそこに理由付けしちゃう方が、私には「荒っぽく」見えるんですね。とりあえず、自分で言う事の妥当性の責任はあくまで自分で持とうよ、って感じ。 

 >「騙す」という行為だけを見ると、判断を間違えますよ。
 >どういう状況で「騙す」行為が行われたかまで含めて考えないといけないのでは。
 上のお二方にも言ったんですが、私はそれを踏まえた上でこそ
 『「人を騙すのはよくないことである」は、一般的な倫理的価値基準』
 という表現は妥当ではないと思っています。
 そこまで含めて考えなければいけないからこそ
 「人を騙すのはよくないことである」と大上段に振りかぶってはいけないのでは?
by Judgement (2009-04-29 01:07) 

apj

Judgementさん、

> むしろ、安易に「社会」や「一般」を持ち出してそこに理由付けしちゃう方が、私には「荒っぽく」見えるんですね。とりあえず、自分で言う事の妥当性の責任はあくまで自分で持とうよ、って感じ。 

 字面しか捉えていないように見えます。

 「社会」や「一般」を持ち出す場合って、法がどうなってるかとか判例がどうなってるかというあたりを踏まえてるのが当たり前なんですよ。裁判所で争った場合にどういう判断が出るか、なんてことを考えているわけでして。なので、実はそれなりに精密だったりします。
 その認識が欠けたままで、自分で考えよう、というのは、トンデモへの第一歩では。

 他人の儲けに関わるニセ科学をニセだと指摘すると、訴訟のリスクはあるわけで、裁判で勝てる範囲でやるというのが妥当な範囲ってことになります。グレーゾーンはありますが。

>「人を騙すのはよくないことである」と大上段に振りかぶってはいけないのでは?

 えーと。大上段どころか誰にでも分かりやすくしたつもりですけどね。なぜいけないのかがさっぱりわかりませんけど。
 「取引における信義誠実の保障」という社会的法益、とでも言い換えましょうか?法規制にひかからないグレーゾーンまで考えるなら、もうちょっと法から離れた括り方もあるでしょうけどね。
by apj (2009-04-29 13:03) 

apj

Judgementさん、

>というか、すごいです。
>「もしかして、あなたがこの世の規範を作っているのですね」
>と言いたい感じ(その確信感はどこから?)

 どこからきたかといえば、そりゃあ、数年に渡って悪徳商法被害者へのアドバイスを続けるという活動から出てきたものでしょうね。
 確信感があるとしたら、法学をそれなりに学んでいるというところから出てきているんじゃないかな、と思います。私が見た限り、技術開発者さんの書いている内容は、六法の基本書を読んで、消費者関連の法の立法の趣旨などを考えていれば、自然に導き出せる範囲の話でしかありません。

>「自分がそのなかで生きている社会」という認識を「自分が正しいと思う視点」に固定してしまった議論こそ、まるで「思い込みの激しい市民運動」みたいで、もっととんでもなく危険だと思う。

 現実の被害を発生させている悪徳商法対策への、相当多数にわたる個別の説得やら対処方法やらから立ち上がってきた話を、「自分が正しいと思う視点」「思い込みの激しい市民運動」と言い切るあたり、空理空論をもてあそんでいるだけの空虚さを感じますね。
 Judgementさんの議論に何が抜けているのかはっきりしなかったのですけど、技術開発者さんの書き込みへの反応を見る限り、法的思考(とそこに到達する前の割と入り口での規範についての思考)がほぼ完全に抜け落ちているんじゃないかという気がしてきました。

 いずれにしても、現実を見ないで理屈だけ、というのは、「思い込みの激しい市民運動」の特徴ににしっかりあてはまりますので、この言葉、Judgementさんにそっくりお返しいたしますよ。
by apj (2009-04-29 18:29) 

技術開発者

こんにちは、皆さん。のんびりしている間にかなりの部分をapjさんに書かれてしまいましたね(笑)。

社会規範って言うのは、誰かが定めると言うより、人間というものの群れが「生きやすさ」を求める中で自然発生する実利的なものだろうと考えています。

猿と人の文化の違いなんてことで、「食料の貯蔵と分配」なんて部分を考えていくとね。どこかで「奪う無かれ」という規範の成立が必要に成ってくるのね。猿の群れでは弱い個体が手に持っている食料を強い個体が強奪して食べるなんて行動も良く観測されるのね。こういう行動に何らかの歯止めが掛からないと、貯蔵もできないし、ましてや分配という正反対の行動も発生出来ない訳です。分配という行為が最初に起こったのが親個体から子個体へであっても強奪という行為を止める部分が無いと親個体は子の個体が食べ終わるまでは守らなくてはならなくて、それは親個体が食料を手に入れる時間を減らす事になるからね。apjさんが言われる「社会コストの低減」という部分が各原始的に人類の群れの淘汰機構として働き、何らかの形で、こういう規範を成立させた群れの方が、他の群れより生存上有利になることで「生き延びて拡大する」という事がおこったのではないかと考察している訳ですね。

おそらく「人を騙す」あるいは「嘘を付く」という事も、人類が言語を発明し、それにより群れのコミニケーションが強固になる過程で発生したのではないかと思うわけです。でもって、それを咎めない群れもあれば、それを咎めるという規範を持った群れも存在した時期があるのかも知れないと思ったりします。そして、「嘘を嫌がる」という規範を成立させ、「嘘をつくものを咎める」という事をやった群れの方が、他の群れより生存上有利になることで「生き延びて拡大する」という事がおこったのではないかと考察している訳ですね。

>Judgementさんの議論に何が抜けているのかはっきりしなかったのですけど、技術開発者さんの書き込みへの反応を見る限り、法的思考(とそこに到達する前の割と入り口での規範についての思考)がほぼ完全に抜け落ちているんじゃないかという気がしてきました。

なんていいますか、規範に関する文化の伝承というのも、実は淘汰をくぐり抜けているのかも知れないと考えたりするんですね。つまり一度「奪う無かれ」とか「騙す無かれ」という規範を作り上げても、それを次の世代に伝承させなかった群れあれば、なんとか次の世代に伝承しようとした群れもあって、伝承させなかった群れは、同じ規範の再構築にエネルギーを費やす分生存上不利になって淘汰されたいったという考察です。

このようにして、現在、生き延びている人の群れの多くは、少なくとも「群れの仲間からは奪うな、群れの仲間は殺すな」という規範文化を受け継いでいる様に見えます。

by 技術開発者 (2009-04-30 13:59) 

技術開発者

こんにちは、基本的な規範と、時代的な規範の話も書いておかないと片手落ちかも知れませんね。

上で述べたのは、まさに人間の社会が成立するための基本規範についての話です。私は「共同体規範」なんて呼んでいます。人間がまず群れとして「分配や貯蔵」「情報の共有化」と言った猿にはない「群れの強み」を持つにいたる過程で必要となる規範である訳です。

人類の文化の発生過程を追うと、そういう共同体規範の次ぎに、機能組織の成立と、その機能組織が機能的に動くための規範というのが発生してくると思っています。例えば、原始人が個々バラバラに狩りをしていたのが、勢子と仕留め役に分かれて巻き狩りを行うようになったりする訳ですね。そして、そこにはその機能体としての規範は成立してくる訳です。例えば、「勢子は途中で疲れても声を出して追うのを止めるな」とか「仕留め役は怖くてもちゃんと槍を突き刺せ」とかですね。私は、こういう規範を「機能体規範」と呼んだりします。

こういう規範は時代が代わって新たな機能体になると価値を失って、別な規範にとって代わったりする訳です。農耕が始まって、春のちょうど良いときに種まきをする方が収穫が良くなると「種まき長老が良いと言うまで種はまくな」といった規範になっていったり、皆で灌漑工事をやるのなら、「掘る溝の傾斜が計算出来る奴が言うように溝を掘れ」とかですね。

これらの機能体の成立も機能体の中で通じる機能体規範が意味を持つのも、基本的には「群れ全体が生き延びやすくなる」ということで成立し、ある意味で守られる訳ですが、人類の歴史の中では「群れ全体が生き延びやすくなる」方向ではない規範が成立してしまうこともあった訳です。群れが大きくなると、「政治を行う」という機能体が発生し、その機能体が必ずしも群れ全体が生き延びるのに良い方向では無い規範を構築して押し付けるといったことは現実にあったわけです。まあ現実に、今の日本だって「貧富格差の増大は経済活力を高めるから、所得再配分を進めるような政策はするべきではない」という新自由主義的な規範を国民の皆様が熱狂的に支持した結果(自民党が議会の2/3をとっている)として、大不況に陥っている訳ですけどね(笑)。

そういう意味では「規範の価値を疑う」というのは大事ではあるのね。ただね、ここで「考えが中途半端だと逆の結論」が得られるという事ね。共同体規範というのは、実のところ根拠が経験則的でその伝承もまた経験則なのね。そういう意味ではとても疑いやすくなってしまうしろものなんです。それに対して機能体規範というのはその機能体が社会に与えるメリットが具体的で、そのためにスッキリと納得しやすい面があるのね。「貧しい者を食い詰めるところまで貧しくしちゃダメだよ」なんて意識は共同体規範からかなりきているのね。それに対して「貧富の差を拡大させて、やる気を高めて経済のパイ全体を膨らませよう」なんてのは経済活動という機能体の方から出てくる意識ね。なんとなく、スッキリとわかる機能体規範には根拠があって、曖昧な伝承規範に過ぎない共同体規範には根拠がない様にみえるというのが怖い所ね(笑)。

by 技術開発者 (2009-04-30 14:49) 

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