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疑似科学批判批判批判批判 [疑似科学総論]

え~、最近平和ですね。
いつもは某氏が立てた波風に乗って記事を書いていたわけですが、こうも平和だと手持ち無沙汰なので、試しに自分で波風を立てたいと思います(波風立ちそうなタイトルでしょ)。
まぁ、さざ波すらたたないかもしれないケド。

【はじめに】

 これから「疑似科学批判批判批判」を批判してみたい。

 対象となる事例は、mzsmsの雑記疑似科学批判・批判」に対するTAKESANさんやその他の方々における反応である。これを「疑似科学批判・批判への批判」と捉えた上で(批判ではなく、否定なのかもしれないが、とりあえず)その批判に対する批判をしてみる。

 ちなみに、「疑似科学批判・批判への批判」は、「疑似科学批判者」とは別個の立場を取る「疑似科学批判批判批判者」なるものによってなされたものではなく、主に「疑似科学批判者」のカテゴリーに含まれる方々が批判している事が、実は私の「疑似科学批判批判批判」のキーになってたりする。

 なお、私が今までアクセスした「疑似科学批判」や「疑似科学批判批判」や「疑似科学批判批判批判」への窓口は、このblogの左にあるリンク先がほとんど。そういう意味では、「疑似科学批判」側(「疑似科学批判批判批判」側)からのバイアスがかかっており、「疑似科学批判批判」の主旨を正確に捉えられないのでは、という批判を受ける可能性もある。
 それを自認しつつ、「疑似科学批判」側(「疑似科学批判批判批判」側)に気を使いつつも、かといって「疑似科学批判」側(「疑似科学批判批判批判」側)の立場を最大限に尊重するでもなく、なるべく「疑似科学批判批判」側の批判をまっすぐに受け止めた上で、「疑似科学批判批判批判」についての批判をしてみたい。

 もし、私の批判に対して批判を付けてくださるのであれば、その批判を「疑似科学批判批判批判批判批判」をして披露していただければ幸い。









 ...さて、ここで問題。
 今まで何個「批判」と言う字が出てきたでしょうか?










...と、ここで終われば違った意味での波風が立ちそうなので真面目にやる。
長くなるので、心してください。


【ほんとの、はじめに】

 TAKESANさんらとmizusumashiさんのやりとりは、私がこの記事を書き終わるまでにもどんどん進展している。しかし、それをいちいち追っていては、いつまでたっても書き終わらないだろう。
 そこで、勝手ながら、私がこの記事を考え始めた時点(4月10日頃)で一旦時計を止めさせてもらう。
 もしかしたら、その後の展開で明らかになった事、明らかにした事、明らかになったことにさせられた事と反する内容かもしれない。
 しかし、時間と共に考えが変わったり、変えさせられたりもするだろう。
 とりあえずは、やり取りの序盤を見て私が感じた違和感・逡巡という観点で「的外れの危険込みで」述べさせてもらう。

 なお、私もまさかこのblogで、色々好意的に声をかけてもらっているブロガーの皆さんに対する批判的な記事を書く事があるとは思わなかった。しかし、現在のシンパシィはmizusumashiさんの方にあったりする。そんなんで、かなり心の折り合いが難しいと感じながら書いた。
 そのあたりの逡巡を「某氏に関する記事」との比較によって汲み取っていただければ幸い。

 とはいえ、ご批判はどうぞ遠慮なく(というか、その方がこっちも遠慮しないで済むのでいい)
 また、批判への返事にかこつけて、色々確かめたい事もありますし。
 
 
【mizusumashiさんの主張について】

 私は結構適当な人間なので、「疑似科学批判」を読んで「なるほどぉ」と思う一方で、「疑似科学批判批判」を読んでも「おお、スルドイねぇ」と思ったりする。そして「疑似科学批判批判批判」を読むと「そりゃそうだよねぇ」なんても思う。
 こんな風にユルい私だからなのか、mizusumashiさん(mzsmsの雑記を書いている方)が「何を言いたいのか」がなんとなく分かる。
(気がする。少なくとも某氏の文章と比べれば何億倍も読みやすい)
 
 なお、mizusumashiさんの発言を読む限りに置いて、「ウェブで見かける疑似科学批判」=「ニセ科学批判」と捉えてよさそうなので、以後そう読み替える。また、「論理実証主義者」という言葉は、あくまでmizusumashiさんの解釈上でのそれとする(その解釈が妥当であるかは、私が不勉強のため分からないケド)。


 mizusumashiさんの主張を端的に言えば、「ニセ科学批判は論理実証主義者に志の高さを感じる自分にとって物足りなく感じられる」という事を言っているだけだ(詳細は本文を読んでください)。

 さらにものすごく意訳すれば...
 論理実証主義者は、真理と虚構を区別する名目で、科学という線を引く。
 ニセ科学批判は、科学とニセ科学を区別する名目で、科学という線を引く。
 論理実証主義者は、「科学」そのものを線引きにして自然と対峙した。なのに、ニセ科学批判ときたら、「科学的方法」という微細な線引きで何をしたいのかと言えば、自己の領域を不当に犯そうとするニセ科学の排除だ。
 論理実証主義者と比べて、なんとまぁせせこましい小競り合いなんだろう、あっはっは。

 ...てな感じではないだろうか(「あっはっは」はともかく)。
 その事について、なんら分かりにくくはないと思うのだけれども...。


【mizusumashiさんの主張に対する感想】

 「ニセ科学批判」という先鋭的な概念に、あえて古典のような「論理実証主義者」を比較し、しかも「論理実証主義者」が勝っている、と評価するのは非常に面白い観点だし、話の組み立ても筋が通っていると思う。
 それに対し、「ニセ科学批判の枠組みではそれはおかしい」と文句を言うのも適切ではないだろう。何故なら、「ニセ科学批判」の枠組みを批判するために、それより大きな枠組みを示しているのだから。

 とはいえ、私は別にmizusumashiさんの主張に全面的に賛同する気はない。
 あえて言い返すなら、
 確かに、ニセ科学批判は論理実証主義者と比べられたらせせこましいかもしれないね。
 だけど、それは、相手がそういったせせこましい所を突いてくるんだから仕方がないんだよ。
 ほら、“鶏を捌くのに牛刀を用いない”って言うじゃない。
 まぁ、そんなに“論理実証主義者”的な批判を渇望するなら、ご自分でやってみたら?
 多分、やったら、皆がそれをしない理由が分かるかもしれないしね。

 と言うだろう。それだけの話だ。


 というか、実際のところ、mizusumashiさんも、本気で論理実証主義者的な批判を待ち望んでいるのではないのではないのかなぁ。
 
 裏読みすれば、「ウェブで見かける疑似科学批判」を読んで、「なんだかなぁ」と思った気持ちを示すために、あえて極論として論理実証主義を使っただけの気がする。
 さらに裏読み、というか勝手な憶測なのだけれども、一番言いたかったのは「セクショナリズム(セクト主義)」に見える、という事なのでは、とも思う。

 そんな勝手な思い込みの上で、なのだけれども。

 TAKESANさんとこの掲示板のやり取りでmizusumashiさんが「セクショナリズム」を撤回してしまったのは非常に残念な事だと思う(本気で間違ったと思って撤回したのか、ヒートアップを怖れて撤回したのか知らないけれど)。

 批判している者が、わざと否定的な言葉を選んで当然なのではないか?
 その言葉を投げられた方が「あなたの否定の度合いと私が感じた否定の度合いが異なる」なんて事を延々検討してみたって仕方がないのに、と思った。
 ケンカの最中、「お前のパンチは、お前が考えるより痛かった」とは言わないだろう。

 批判される者にとって心地よく、満足感を与えるような批判なんかまず無いんだから。
  mizusumashiさんの訂正線ばかりのページをみて
 「そこまで思いつめる事は無いのに、そこまで思いつめさせる必要は無いのに」
 と、正直な所思った。、



【私と「ニセ科学批判」】

 mizusumashiさんの批判の真意なるものをあまり深読みしても仕方がないので、彼の主張を読む事で、私が思い浮かべたニセ科学批判に対する不満、というか不安を書いてみる。

 その前に、私個人の背景から述べていく。

 一応「疑似科学」はかなり前から興味があって、好んで色んな人の本を読んだりまとめてみたりしていた(本館参照)。
 そんな中で、いわゆる「ニセ科学批判」なるものを知ったのは比較的最近の事。
 なお、十年くらい私がやってきた事は、ニセ科学批判でも、血液型性格判断批判でもなく、単なるABOFAN批判である。
 ...なんとニッチな活動なんだろう

 最初は、「疑似科学」の異音同義語のバリエーションの一つにすぎないのかな、とも思ったんだけれど、そうではなく「疑似科学」が比較的人口に膾炙している事を知りつつも、あえて+αを込めてそう呼んでいるみたいだった。
 つまり、「ニセ科学」は「疑似科学」と置換可能な概念ではなく、あえて「ニセ科学」と呼ぶ事にこそ意義がある感じ。

 「ニセ科学批判」は、大抵の疑似科学に対する言及と同様に、「科学と、疑似科学の区分け」と「疑似科学を受け入れる事の不合理さ」はしている。ただし、特に後者に力点を置き、さらに「不合理さ」と言うよりも「不利益」を知らしめる、という目標設定が特色である、と思われた。
 その「不利益」さの印象を際だたせるためのラベルが、「ニセ科学」というわけだ。

 その上で、「ニセ科学批判」とは、ひとつの思考形態と言うよりも、ある種の『排斥運動』ではないかと感じた。
 で、言論活動を活発に行う菊地先生、同様に言論活動を活発に行った結果「水商売側」からイチャモンを吹っかけられ、闘争が法廷に発展している天羽先生の両者がその旗手なのだろうと。

 であれば(あくまで、そう勝手に解釈した段階では)
 私は、「自分が騙すのは大好きだけど、自分が騙されるのは大嫌い」で、「自分が友達を騙すのは大好きだけど、他人が友達を騙すのは大嫌い」だ。
 だから知っている人だけ「疑似科学」に騙されない世界よりも、常識として騙されない世界の方がいい。
 そのため、「ニセ科学批判ってなかなか良い試みなんじゃない」って思った。

 ついでに、「よし、私もその運動にいっちょかみしよう」と調子に乗って、さらに様々な「ニセ科学批判者」っぽい人の記事なんかを調べたりした。

 特に、ニセ科学批判者の多くが良コンテンツと言う「ニセ科学批判まとめ %作成中」は、詳細な理解の拠り所となるだろうと期待した。

 その結果...



 ...「ニセ科学批判」が何であるか良く分からなくなってしまったのです。

 で、結局ニセ科学批判者にはなれず、ABOFAN批判者のまま今に至るわけです。


【私のニセ科学批判批判?(というか疑問)】

 先に述べた私の「ニセ科学批判」の解釈は「そう捉えてニセ科学批判をしている人もいる」という点では間違っていないようだ。でも、「ニセ科学批判」の全てにその解釈が適合するとは言えないようであった。

 先に挙げた「ニセ科学批判まとめ %作成中」にもこう書いてある。
(何故ニセ科学を批判するのかについて)人それぞれ…と言うとまるで冗談のようだが、これは重要なポイントである。現実のニセ科学批判には実に様々な動機がある。従って、ニセ科学批判を行う人々をまとめて「一派」のように看做すことは全くの間違いである(大多数のニセ科学擁護者は、もうこの時点で既に大きく間違えている)。ニセ科学批判はイデオロギーでもないし宗教でもない。

 「人それぞれの動機で書く」、それは確かに当たり前だ。自分のブログの記事なのに、何らかの枷を他者から当て嵌められて書く、なんてつまらないだろう(私だって好き勝手にやっているわけだし)。
 だから「ニセ科学批判はイデオロギーでもないし宗教でもない。」と断言されてしまえば、「そうなんですか」と言わざるを得ないけれど、腑に落ちない所がある。

 『ニセ科学批判を行う人々をまとめて「一派」のように看做すことは全くの間違いである』とアナウンスしているのが「ニセ科学批判”まとめ”」と題したページである事に非常に矛盾したものを感じざるを得ない。
 

 「一派とみなすのは全くの間違い“という事にしたい”」というニセ科学批判側の欲求を察する事はできるけれど、これはあまりにも一方的ではないだろうか。


 また、主な「動機」として、「ウソはいけない」、「結局損をするからやめよう」、「科学の発展を妨げる」、「社会が住み難くなるのは嫌だ」、「間違いが広まっているので,間違いを指摘しましたが何か?」等が挙げられている。

 確かに動機は人それぞれだ、しかし、その動機と「ニセ科学批判」を組み合わせなくてはならない理由が、私には見えない。
 挙げられた動機の幾つかは私だって持っている。その上でやっているのが、「ABOFAN批判」だ。同じように、「水伝批判」、「マイナスイオン批判」でいいんじゃないのだろうか?

 何故「ニセ科学批判」としなくてはならないのだろう?

 「ニセ科学批判まとめ %作成中」や、kikulogにおける「僕たちのニセ科学批判ではこうは考えない(たぶん)」という記事、あるいは最近のTAKESANさんの記述を読んで思ったのは、ニセ科学批判者っぽい人達は、「ニセ科学批判をどう捉えて欲しくないのか」という話を好むが、「どう捉えて欲しいのか」について、あまり語りたくないような素振りを感じる。また、「そう捉えてはいけない」とは言うけれど、「何故そう捉えてはいけないのか」の理由がよく伝わってこない。

 「いや、理由はきちんと言っているよ」と言う人もいるだろう。
 しかし、それは誰にとっての理由だろうか?

 この問いは2つの意味がある。
≪誰のための説明なの?≫

 「自分では納得する理由であっても、他者にとってそうとは限らない」
 例えば、泥棒の「金に困って」という理由は、「泥棒の目的」としては妥当だけど、それを聞いた人が「それなら泥棒してもいいね」と思わないのと同じ(こんな例でホント申し訳ないが、良い例えが考えられなかった以上の意図は無い)。

 「ニセ科学批判」をする数々の動機を示されても、かえって「ニセ科学批判」とは何か分からないし、何故その動機で行われているものを「ニセ科学批判」と捉えなくてはならないのかも分からない。

 ついでに言えば、「何をニセ科学と呼ぶか」において、細々と定義がされている。
 しかし、「どう定義するのか」は分かっても、「何故そう定義するのか」がよく分からない。しかも、グレーゾーン問題や「装う」問題等、定義しかねる問題が残されているとも言われれば、「だから実際にはニセ科学やニセ科学批判なんて成立しない」と言いだしてもおかしくない文脈なのに、そうではないようだから、心の持って行きようがなくなってしまう。


 何故細々とした線引きをするのだろう?
 そして、その線引きをそこに置く理由は何だろう?
 それが良く分からないのだ。

 線を引いているのは「ニセ科学批判」側であり、それによって「科学とニセ科学」を区分しようとしている。
 それは端から見れば「矢が当たったところに丸を書く」の如くではないか。

 「科学-非科学間のグレーゾーン問題」だってそうだ。
 シメに『どれも (専門家の目から見れば)「明らかに真っ黒」なものばかりである。』と言われても、「その“専門家”って、結局排斥したい側でしょ」という気持ちがわき上がってしまう。

 モチロン、私個人としては、そう定義せざるを得ない科学の内情は分かっているつもり。
 「何の説明が足りないのか」を示したくて、わざと意地悪な傍観者の視点に立ってみただけ。

 「排斥しようとしている側が、排斥の対象を決める線を自分で引いている」と言うのは一つの事実であり、それをしてmizusumashiさんのように「セクショナリズム」を感じる人がいて当然だと思う。
 何より“そこだけを見れば”まさに「セクショナリズム」そのものだったりするし、“どこを見れば”「セクショナリズム」でない事が分かるのか、分からないのだ。

 とはいえ、「やっぱりセクショナリズムはある」と言いたいのではない。
 「セクショナリズム」と言われないそれなりの(傍観者向けの)説明付けが欲しいってだけだ。


 それに比べれば、「ラベル貼りか剥がしか」とか「アナロジーとして寿司と江戸前のどっちが妥当か」という話なんて正直どうでもいい、と私は思う。

≪何者として言っているのか≫

 ニセ科学批判者が、ニセ科学批判の説明を試みようとしたとき、どういった立場でそれが成されているのだろう?
 もし、自分自身だけが思い付いた理由であれば、そんな事に「ニセ科学批判」という冠を被せるのは僭越がすぎるだろう。

 おそらくは皆、自分が把握している「ニセ科学批判」を総括した形で説明しているとは思う。しかし、それはニセ科学批判者が共有する確固たる何かがあればこそ語れる事ではないのだろうか。

 でも『ニセ科学批判を行う人々をまとめて「一派」のように看做すことは全くの間違いである』らしい。
 じゃぁ、それぞれの方々の「ニセ科学批判」感は、どのように形成されているのだろう?
 まとめられないものをまとめてとらえて述べるのは、“全くの間違い”ではないだろうか?


 ...疑似科学批判の方々は、「何くだらんことをネチネチ問題にしているんだ」と思うかもしれないが、私だって重箱のスミをほじってまでケチ付けたいのではなく、私も本気でどう捉えて良いのかわからなくて迷っているのである。


【もやもや】

 「ニセ科学批判まとめ %作成中」ばかりをあげつらっているようで、制作者には非常に申し訳ないが、別に矛盾を指摘して貶めようというわけではない(何より、タイトルにあるとおり「作成中」だ。多少の解消すべき問題が含まれているのは当然だろう)。

 くどいようだが、私は、ニセ科学批判を批判したくて色々書いたわけではない。
 というか、ニセ科学批判者は好きな方ばかりなので、書きにくくてしょうがない。
 (某氏相手だったら、多分ここまでで不穏当なフレーズが100個は飛び出しているところだ)


 勝手に「自分はどちらかといえばニセ科学批判側だろう」と思っていて、それを確信したくて「ニセ科学批判」を追いかけてみたら、突然どこにあるのか分からなくなってしまって途方にくれている感じ。
 そして、その追いかけていく過程で思った事は、きっとmizusumashiさんが不満に思った事と同じではないかと思った。

 そう言う意味では彼にシンパシィを感じたりもする。
 だからこそ、TAKESANさんとこの掲示板のやり取りを見て、モヤモヤした。
 まるで、自分が非難されているような気がしたからだ。

 だから...というわけで、そろそろ思い切って「ニセ科学批判批判批判批判」をしたいと思う。
 (ようやく、タイトルのテーマだよ...)


 まず、詳細な記述の前に、最大のテーマであり、最大の疑問である事を書いておこう。

 「ニセ科学批判者側が、相手のニセ科学批判の認識を問題にする事ができるのか?」


【ニセ科学批判批判批判批判 ~TAKESANさんの発言から~】

 いきなり例に出して非常に申し訳ないけれど、私はTAKESANさんの以下の発言を、非常に危うく感じてしまった。
「ニセ科学」について調べるくらいはしてもいいんじゃないかな、と。「ウェブで見かける疑似科学批判」について語るのですから、昨今どのような議論があるか、は押さえておくのが肝要でしょう。もし調べた上で書かれたのだとすれば、調べ直して下さい、と申し上げたいです。

 「批判する以上は批判する相手をよく知れ」、こう言いたくなる気持ちは『批判される立場』に立てば良く分かる。しかし、この物言いは、極端な話、「知らないヤツは口を挟むな」と言っているに等しいと感じられた。

 「疑似科学批判」側にしてみればFAQ的な所もあるのでしょう。きっと
 でも、それを非難するのは、初めて苦情電話をかけてきた人に、苦情係が「何度もしつこいですね」と言うようなものではないのかな。

 さらに、「もし調べた上で書かれたのだとすれば、調べ直して下さい、と申し上げたいです。」なんて、「批判が不当であると自分で分かるまで調べろ。」と言っているのと同じに聞こえる。

 このような言い振りがどれだけ虚しいかは、某氏の「まずは心理学の入門書を読んで下さい」発言に眉をしかめた事のある人にとっては知っているはずだろうに。


 というか、ニセ科学批判側が「ニセ科学」を批判する場合の時はどうなのだろう?
 
 その対象について十分調べているのだろうか?
 自分で効果の有無を確認したのだろうか?
“支持者の間で”昨今どのような議論があったか押さえたのだろうか?

 きっと、多くの人は「モチロン!」と元気良くは答えられないでしょう。

 とはいえ、TAKESANさん自身は非常に良く調べている方だと思います。
 だけど、「調べながら」批判する、という事もあるでしょう。
 それに、調べているのは、「自分が押さえるべきと判断した情報」でしかなく、「信奉者側が押さえて欲しいと思う情報」ではないのではないのでしょうか。

 となれば、否定されたニセ科学支持者だってこう言いたいはずです。
 『もし調べた上で書かれたのだとすれば、調べ直して下さい、と申し上げたいです。』

 (誰だって、批判は認知的不協和を感じるものだし、それを解消するために、原因を他人に押し付けたがるものです)


 私は、「だから、言行一致させて自分も批判する時は調べろ」とは言いません。
 むしろ、ニセ科学側の主張はある程度捨て置いて、「科学側の知識・合理性」を当て嵌めるという“別の視点”で、おかしな所を際だたせるようなニセ科学批判のやり方こそ、「なるほどぉ」と感心し、好ましいと思っています。

 だからこそ、そんなニセ科学批判側が、批判される側になった途端に「批判する以上は批判する相手をよく知ってからしろ」といった発言をしてしまう事に非常に身勝手さを感じました。


【ニセ科学批判批判批判批判 ~コメントのやり取りから~】

 その後のコメント欄のやり取りもモヤモヤしました。
 様々な方がmizusumashiさんに対して、問いを発したり、思いの丈を語ったりしました。

 殆どの方のそれは「mizusumashiさんが提示した(新たな)枠組み」を理解するためのものではなく、その枠組みを自分達の持つ「ニセ科学批判」の枠組みに無理矢理押しこもうとする、空回りなものに読み取れました。
 しかも、「ニセ科学批判」の枠組みに押し込められなかった事をして、あたかもそれが「mizusumashiさん」の無知や不用意さが原因であるかのように喧伝しようとしているようにも読み取れました。
 
 「セクショナリズム」呼ばわりの不快さの責任をmizusumashiさんにばかり押し付けているように読み取れました。
 「セクショナリズム」という印象を拭うために何ができるか考えるよりも前に、まずその不快な「セクショナリズム」という言葉を無力化させる事にやっきになっていたように読み取れました。


 あと、「ウェブで見かける疑似科学批判」とは何かを聞き出す事に拘っていたようですが、そもそも、「出典」を知ればmizusumashiさんの主張の何が分かるのでしょう?
 別にmizusumashiさんは、ニセ科学批判者が“科学的でない事を理由に、宗教や道徳も罵倒している”なんて言っておらず、「そうしていないから不満だ」と言っていたわけでしょう。そして、「そうしていない」事はおそらくニセ科学批判側も同意するべき事のはず。
 また、そう言う意味ではmizusumashiさんは“自分の言及に必要な範囲”で、ニセ科学批判側の実態を的確に把握していたと言えるのではないのか?
 すごい失礼なもの言いになるけど、そんな事に拘るのは「出典は何だ」としつこく聞く某氏に似てしまっている。


 で、私はそんな状況に「過敏な拒絶」を読み取りました。
 確かに、ニセ科学批判批判者の中には、「相手する気になるほどマトモな事は言ってないが、黙っていると調子に乗って手が付けられない」奴がいます。そんな奴は有無を言わさず追い出すのが最良なのかもしれない。

 だからといって、mizusumashiさんはその類の人だったのでしょうか?
 やくたいも無い事をいってイチャモンをふっかけるような人?

 そうかなぁ。
 私にすら普通に読める文章だったし、筋も通っていたと思う。
 一見突飛ではあるが、凡庸であるよりも、文章表現としてはむしろ望ましいだろう。
 そもそも、彼は、イチャモンを吹っかけたと言うよりも、単に「ニセ科学批判批判」という枠組みで、自分の考えをブログに書いただけにすぎないのに。

 というか、そういう見きわめをしようという考えがまずあったのだろうか?
 対応する側は、彼がどういう立場で何を言おうとしているのか、理解しようとしていただろうか。

 「理解したいからこそ色々聞いたんだ」と言う人もいるだろう。
 しかし、本当にそれは「理解するための質問」だっただろうか?
 「返答を詰まらせるため」とか「自分の判断に誘導するため」の意図は無かったのだろうか?。

  「ハイハイ、また例の如くの疑似科学批判批判ね。」
 なんて軽く捉えてはいなかっただろうか。
 題材となった人の意見を理解する事よりも
 仲間と共感し、共感される事に意識の大部分が行っていなかっただろうか。

 もしそうであれば、それは別な意味で「排他的なセクショナリズム」を感じさせる。
 また、ステレオタイプ的な相手の見方をする一方で、自分達に関しては「ニセ科学批判だからといって一派とみなすな」と要求するのは勝手としか言えない。
 何より、ニセ科学批判者がそんな判断をしているかのように受け取られるという事は、ニセ科学批判者の「ニセ科学」の認定の妥当性自体、色眼鏡で見られる事になってしまうだろう。
 なんか「読み取れました。」とか”勝手な問いかけ”とか”仮定”ばかりですまぬ。
 発言者の気持ちは確認しようがないので、それしか言いようが無いんです。
 だから、「そんなつもりは一切無かった」と胸をはれる人は無視してね。
 でも、「実際そうだったかも」と考える人は、ちょっと心にとめておいてね。

 また、もし可能であれば、”実際にはそうでなくても”、もし万一私以外の部外者にもそう見えるものであったら、それはニセ科学批判側にとって損な事かもしれない、と言う風にも考えてみて欲しい。


【何故ニセ科学批判批判批判批判をしたか】

 もちろん、mizusumashiさんの物言いにも不備はあったかもしれない。また、ここで非難したような事はニセ科学批判側だけがやっている事でもない(何より私も犯していない自信は全くありません)。

 では、何故「ニセ科学批判側」の事ばかり非難するんだ、と言いたくもなるでしょう。
 それは端的に言えば、
 ニセ科学批判側が一番信頼できそうであり
 ニセ科学批判側が一番人の話を理解しようとしてくれそうであり
 ニセ科学批判側が何より一番好きだからだ。
 Judgement節で言えば、ニセ科学側は自分の事しか頭が廻らないバカばっかしだし、ニセ科学批判批判側は、頭は良いかも知れないけどその頭の良さを非生産的なベクトルに向けてどうする、って感じだ。
 そこに挟まれつつ、頑張って最も生産的な事をしているのが「ニセ科学批判」
 というのが私の認識、というか欲求。

 そんな方々の発言に、「ニセ科学側」チックな物言いが混じってきたような気がして、なんだがいたたまれなくなったんです。

 つまりは...自分が勝手に想像するニセ科学批判との乖離が許せないという個人的感情が最大の動機なのです。
 
 「お前の感情なんて知ったこっちゃねーよ。実際のニセ科学批判は、お前の考えるような奇麗事じゃねーんだよ」

 と言われたらそれまでの事。

 ...ただし、その場合は本気でニセ科学批判批判側へのトラバーユを考える事にする。


【おわりに】

 「ニセ科学批判批判批判批判」をぶち挙げた以上、「ニセ科学批判批判批判批判批判」を受ける事は覚悟はしている(全くスルーされたら、それはそれで寂しい)。
 

 自分としては一生懸命考えて書いたが、それでも「お前の勉強不足」とか「お前の深読みしすぎ」とか「お前の読まなさすぎ」とかで一蹴される程度のものかもしれない。
 あるいは「そもそもお前の言うような事は全部お前の空想の産物だ!このわら人形論法野郎!」と罵倒されてしまうかもしれない。


 だとすれば、それはそれでいい。
 それでいいから、教えて欲しい。

 「ニセ科学批判」とは何か?
 何か目的があるのか?誰を対象にアナウンスしているのか?
 ニセ科学批判者が「ニセ科学批判では」と語る文脈において、何を想定しているのか?
 「ニセ科学批判」として包括して捉える事がいいのか悪いのか?

 罵倒されても蔑まれてもいいから、そのかわりスッキリできる解説を私にください。


 私の頭の中には、今、一つの「ニセ科学批判者観」が芽生えかけている。
 しかし、それは結構ネガティブなものだったりする。

 だから私がそれを確信してしまう前に、まずは当事者はどう思っているかを知りたい。 
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田部勝也

田部勝也です。
おそらく、mizusumashiさんにあれほどの訂正線を引かせる直接の引き金となったコメントをしたのは私ですので、私にはJudgementさんの問題提起に応える責任があると感じても、見当違いの自意識過剰とまでは言えないでしょう。本来ならば、深い自省をした上で回答すべきなのでしょうけど、差し当たって、私が一連のコメントをした動機・その時に考えていた事や思っていた事について述べておきたいと思います。叩き台ないしはさらなる批判の材料にしていただければと思います。「ニセ科学批判」についての個人的な見解については、その後にじっくりと考えたいと思います。

まず、【mizusumashiさんの主張について】【mizusumashiさんの主張に対する感想】については、私も当初、Judgementさんとほぼ同じ理解をし、同じ印象を持ちました。そして、TAKESANさんについては、本気でmizusumashiさんの主張したい事が理解できないので何とか理解するために質問をしているだけだと考えました。そこで、僭越ながら論点を明確にできるかと思って書き込んだのが最初のコメントです(↓)。
http://seisin-isiki-karada.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/post-96cb.html#comment-55744135
ここでは、「ニセ科学批判とはそういうものであり、それ以上の事を求められても困る」「科学と宗教・道徳にはそれぞれ領分があり、科学に過分な役割を与えるべきではないし、期待すべきでもない」といった事を伝えたいと思っていました。「ニセ科学批判の枠組みではそれはおかしい」といった事を述べたつもりはありませんが、そう受け取られたのならば書き方の問題として反省しなければならないでしょう。

このあとに、(「私のコメントをきっかけに」と書いてもそれほど的外れではないでしょう)「セクショナリズム」「縄張り争い」に含まれる言葉のニュアンスの話になっていってしまったのは、私も少し残念でした。私は当初からその点は本質とは考えておらず、もっと重要な論点があると思っていたからです(その点については後述します)。
ただ、「セクショナリズム」議論については、贔屓目もあるかと思いますが、どちらかと言うと、mizusumashiさんの対応を残念に思いました。Judgementさんも指摘されている通り「批判している者が、わざと否定的な言葉を選んで当然」なのに、mizusumashiさんは徹頭徹尾「わざと否定的な言葉を選ん」だ事を否定しようとしていたように、私には見えたんですね。
Judgementさんが意訳されたように、私も、mizusumashiさんは「ニセ科学批判は論理実証主義者に志の高さを感じる自分にとって物足りなく感じられる」「論理実証主義者と比べて、なんとまぁせせこましい小競り合いなんだろう、あっはっは」という事を言っているものと思っていたのに、どうにもmizusumashiさんの態度がはっきりしない。「一番言いたかったのは“セクショナリズム(セクト主義)”に見える、という事」なんじゃなかったのか?――そういう自分の批判に対して批判が返ってくる事は当然予想していなければならない事だと思うし、「批判される者(=mizusumashiさん)にとって心地よく、満足感を与えるような批判なんかまず無い」という事だって、子どもじゃないんだから分かるはずでしょう?――「セクショナリズム」を自ら否定・撤回するなら、mizusumashiさんの言いたかった事は一体何だったの?
――そんな感じで、「セクショナリズム」で揉めている間に、私のなかで、mizusumashiさんに対してイライラする気持ちが大きくなっていたのは間違いありません。

一方で、私は当初から、mizusumashiさんに「水からの伝言」肯定者に見られるのと同じ心的傾向が強くある事が気になっていました。正直に言えば、当初からmizusumashiさんの「疑似科学批判批判」にはあまり興味がなく、むしろ、mizusumashiさんの「疑似科学批判批判」に深く滲み出ている「科学によって道徳や価値観を正当化する・できるという思想・願望」を問題視したいという強い思いがありました。全体的な議論をそっちの方向に持って行きたいという(私にとっては)非常に切実な思いです。
Judgementさんは、「というか、実際のところ、mizusumashiさんも、本気で論理実証主義者的な批判を待ち望んでいるのではないのではないのかなぁ」と述べられていますが、私は当初からその真偽がとても気になっていたわけです。もしも本気で論理実証主義者的な批判を待ち望んでいるのだとしたら、私は本気でその事を非難したいと思っていましたし、そうでないとしても、「科学によって道徳や価値観を正当化する・できるという思想・願望」に強く惹かれる心的傾向を確かに持っていて、その事についてまったく無批判である点は、指摘しておく必要があるととても強く感じていました。
……で、ずっとその点を指摘する文章を書こうとしていたのですけど、うまく書けなかったり、仕事が忙しかったりで、なかなか書き上げられないでいました。その間に、上に書いたようにmizusumashiさんに対するイライラが溜まってきた事もあって、実際に書かれたコメントが2番目と3番目のコメントです(↓)。
http://seisin-isiki-karada.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/post-96cb.html#comment-55794591
http://seisin-isiki-karada.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/post-96cb.html#comment-55794705

このコメントを書いた事でだいぶ気持ちが高ぶってしまっていた事は認めます。そんななかで、『mzsmsの雑記』のエントリ記事「[メモ] 疑似科学批判・批判の補足(5)・ブクマコメントに」(↓)
http://d.hatena.ne.jp/mzsms/20090411/1239382313
を読んで怒りが爆発したのが、mizusumashiさんにあれほどの訂正線を引かせる直接の引き金となった問題のコメントです(↓)。
http://d.hatena.ne.jp/mzsms/20090411/1239382313#c104883555

Judgementさんは、「「そこまで思いつめる事は無いのに、そこまで思いつめさせる必要は無いのに」と、正直な所思った」と述べられていますが、問題の私のコメントにおけるmizusumashiさんの一連の「態度」に対する非難は正当なものだと、私は今でも思っています。このコメントについては、ぜひとも直接批判対象にしていただきたいと思います。

以上、充分冷静になれているとは、まだとても言えない状態ですが、一連の自分の言動を振り返って、問題点を思いつくまま挙げてみます。
1番は、なんといっても、「ニセ科学批判者」の立場としての批判と、そうでない立場からの批判が混同している点が挙げられそうです。2番目に、最後の問題のコメントについては「いまの私には、」以下はまったく不要であり、この部分は誹謗中傷と非難されても反論できそうにありません。3番目に、1番最初のコメント以外は明らかに冷静さを欠いた状態で書かれ、対話を拒絶した意志があからさまに滲み出た文章である点は、非難されて当然かも知れません。もっと重要な問題点もたくさんあるでしょうけど、それは他の方が指摘してくださるでしょう。

今回の経緯について、私個人の言動(とその言い訳)は以上です。
「ニセ科学批判」についての個人的な見解について述べるには、もう少し自省と冷静さが必要だと思いますので、また後ほど。
ただ、私のように軽率で感情的で暴走しがちな人間にとって、動機や批判対象は何であれ、「科学」という立場から批判できるのはどこまでであり、何はすべき「でない」のかの指針をわりと厳格に与えてくれる「ニセ科学批判」という概念はとても重宝しています。批判の要素還元主義というか……。一方で、そのなかで、何をすべきなのかについては、まだ意見の一致はないんじゃないのかなぁ~という気がするけど、どうなのでしょうか。
by 田部勝也 (2009-04-16 06:59) 

トンデモブラウ

タイトルだけ見ると激しく「疑似科学」を批判しまくっているのかと思っちゃいました。

こういったモヤモヤ解消のためのものが、私の推し勧める「黒く塗れ!運動」ですよ。(まぁこれも揺らぎはあるんですけどね。)
賛同くださってありがとうございます。(・・・んっ賛同してない?まぁいいです。)

私が「ニセ科学」として批判するとすると、その対象は「欺瞞による金儲け」ですね。
私のような水処理業界にいると、訳の分からない理論武装した「新技術」によく出会うんですよ。
私は科学者ではないので、InputとOutputがしっかり相関していれば、真ん中の重要な部分は未知のBlackBoxで構わないんですが、そこの説明に『波動』だの『共振エネルギー波』だのとオカルトちっくな説明があると、「なんじゃこらぁ!」となるわけです。
極たま~に「機序がはっきりしていないけど、キレイになるんです。成功報酬でいいからテストしてください。」なんて言って、玉砕していく優良業者もいますけど。
言うなれば、私の「ニセ科学」の動機は、『青臭い正義感』というか、自分ってなんて正しいことをしているんだろう的自己満足ナルシスト効果。
ウソついて金儲けしたらダメだよね。
できればそういう業者はのたれ死・・・いなくなって欲しい、という願望。

なので、血液型性格判断とかは実際どうでもいい。(「性格の認知」にも未だに懐疑的だし・・・)
批判とか批判批判とか見るのは面白いので大好物ですけど、自分にそんなに知識もないしね。

mizusumashiさんの印象について言えば、『それは伝統芸能や伝統的な職人技の擁護と、どこが違うのだ。』の一言で、「科学」自体がよくわかっていない人と感じました。
「ニセ科学批判=検証主義」というのも違和感が・・・
まぁ私もど素人なんで。
by トンデモブラウ (2009-04-16 09:09) 

hietaro

こんにちは。

私も、今回の話の展開はようわからんなあと思っています。
私自身は

「具体例」
http://taizo3.net/hietaro/2009/04/post_620.php

というエントリを上げ、mzsmsさんと他の方とのやり取りの中でお互いの見えている風景が違うのではないかという推測を述べました。
そしてその推測から見れば、最初のmzsmsさんのエントリは、問題にすべきことなどない、普通のエントリに見えました。

私がその後のいろんな方とmzsmsさんとの対話をあまり真剣に追っていないのは、出発点が違う話を追っても大して意味がないように思えるからです。

だから私が言うのは「最初のエントリに限った話」ではありますが。

みつどんさんのところにも書きましたが、今回の件は「残念な話だなあ」というのが感想です。

by hietaro (2009-04-16 19:08) 

zorori

こんばんは。
波風を立てたいとのことなので、のってみます。

mzsmsさんのエントリは「ニセ科学批判批判」ではもちろんなく「擬似科学批判批判」でもなかったわけですよね。ご本人がおっしゃっているように「宗教や道徳を科学の立場から批判するような気概のある奴はいないのか」という願望だったわけです。その期待する相手が少々お門違いの「擬似科学批判者」だったわけですね。で、TAKESANさんが具体的に誰なのよ、と尋ねたら「きくちさん」の名前が出たわけですよ。「きくちさん」は「擬似科学批判者(そんな人がいるか知りませんが)」ではなく「ニセ科学批判者」です。要するに、単なる勘違いだっただけなので、TAKTSANさんはそれをわかってほしかっただけじゃないでしょうか。そしてそれは、比較的早い段階でmzsmsさんも分かってもらえたと思うんです。ところが、そのあとセクショナリズムとか、論理実証主義とかそういう話になって、このあたりについてmzsmsさんもあまり整理がついていなくて、論理破綻の言い訳みたいになっちゃったと思います。一番言いたかったこととはあまり関係ないところで変なことになったのはお気の毒かもしれませんが、それもご本人の責任としか言いようがありません。

私は「宗教や道徳を科学の立場から批判するような気概のある奴はいないのか」については共感するところもあって、興味もあったのですが、ドーキンスみたいに自ら行う度胸も知識もありません。mzsmsさんも自分自身で気概を示す根性はなかったので願望表現にしたのでしょう。でも、そういう誰かやってくれというのは結局、いい加減な発言にしかならないように思います。
by zorori (2009-04-16 21:17) 

PseuDoctor

こんばんは。

「ニセ科学批判まとめ %作成中」の部分については、まあ確かに、色々思うところもあります。ですがちょっとすぐにはまとまらないので、また後日にコメントさせてください。

とりあえずスルーはしないよ、という意思表示って事で。
by PseuDoctor (2009-04-16 23:30) 

SSFS

初めまして、Judgementさん。過去にはとくに利害関係がなかったと思いますが、召還されたと感じて投稿することにしました。大いに波風を立てさせてもらいます。ブレーンストーミングの開始です。

>というか、ニセ科学批判側が「ニセ科学」を批判する場合の時はどうなのだろう?
 
 その対象について十分調べているのだろうか?
 自分で効果の有無を確認したのだろうか?
“支持者の間で”昨今どのような議論があったか押さえたのだろうか?

 きっと、多くの人は「モチロン!」と元気良くは答えられないでしょう。


私は何度も何度も繰り返し書いていることですが、ニセ科学批判の原点となる理念は、2006年3月の日本物理学会ニセ科学シンポでうたわれています。
http://www.gakushuin.ac.jp/~881791/fakeS/PE06.html
  多くの場合「ニセ科学」を批判するには、相手の主張を丁寧に分析し周辺分野の知見を詳しく調べる必要がある。これは、様々な負担やリスクに比べると見返りの少ない大変な仕事である(これについては、とくに天羽の寄稿を参照)。できれば、多くの物理学者がそれぞれの「得意分野」を分担しあう共同体制を作るのが望ましい。

ここで述べられている要点は、批判に先立って、疑わしい主張に対する「丁寧な分析と詳細な調査」が不可欠だということです。これは非常にまっとうな見解といえます。どの世界でも疑念を批判に直結させる愚行はありえませんから。しかし、ニセ科学批判では残念なことに、この愚行が起きました。

今から10年前、科学的な根拠がないマイナスイオン商品がどんどん増えだしました。マイナスイオンへの嫌悪感を募らせた私は、ニセ科学シンポの趣旨に賛同し、商品、論文、特許などきわめて広い分野に「丁寧な分析と詳細な調査」の手を広げました。その結果、分かったことは、意外にも「マイナスイオンってまとも」だということでした。

で、調べたことをもとに、まずkikulogに投稿を始めたわけですが、ブログ主の菊池氏を筆頭に誰一人、マイナスイオンについて「丁寧な分析と詳細な調査」をしていないことに気づきました。これは実体のない上滑りの批判になりやすいため、非常にまずいことです。

私は結局、菊池氏の投稿削除の脅しを受けて、kikulogを去ることにしましたが、今もって、kikulogでは「丁寧な分析と詳細な調査」を経ずに、疑問を批判に直結させるという危なっかしいマネが、ひんぱんに行われています。それをどう見るかはJudgementさんにお任せしますが、少なくともニセ科学批判がいまだに科学界から認知されていない現状は、受け入れなければいけないでしょう。

ニセ科学批判がダメな理由のひとつとして、菊池氏と天羽氏が「と学会」の会員であることの影響が挙げられます。「と学会」とは、自分たちが気に入らない相手を笑い飛ばすという妙な特権意識を持った集団です。「と学会」のモットーの1つが、「トンデモ本をバード・ウォッチングのように楽しむ」ことです。観察相手と接触することなく、上から目線で見下すという態度。この歪んだ精神がニセ科学批判の世界に持ち込まれ、いまなお幅を利かしている不健全な状況は十分に非難されるべきだと思われます。

> だからこそ、そんなニセ科学批判側が、批判される側になった途端に「批判する以上は批判する相手をよく知ってからしろ」といった発言をしてしまう事に非常に身勝手さを感じました。

ま、その通りですね。自分たちの無謬性を誇示するような鼻持ちならない集団です。

> 「ニセ科学批判」とは何か?
 何か目的があるのか?誰を対象にアナウンスしているのか?
 ニセ科学批判者が「ニセ科学批判では」と語る文脈において、何を想定しているのか?
 「ニセ科学批判」として包括して捉える事がいいのか悪いのか?

 罵倒されても蔑まれてもいいから、そのかわりスッキリできる解説を私にください。

ひとつの見方は、下記のブログへの投稿に含まれています。
http://d.hatena.ne.jp/nennpa/20081123/1227455587
さらに解説がほしいというのであれば、いくらでもお付き合いしますよ。ただしその際は、従来のニセ科学批判者の妄言は無視するというトレードオフが必要となります。

Judgementさんはよいタイミングで迷ったと思います。今後も大いに迷ったほうがいいでしょう。そうした迷いの中から、ニセ科学ないしニセ科学批判にどう向き合っていったらいいか、光明が見えてくると思います。
最後に「ニセ科学批判まとめ %作成中」を評価するなら、非常に出来が悪いサイトといえます。あんな空疎な内容では、何の役にも立たないでしょう。地に足をつけた「丁寧な分析と詳細な調査」をしてこなかった連中が、やっつけ仕事でまとめているから仕方ありません。
by SSFS (2009-04-17 02:01) 

Judgement

コメントをくださった、田部さん・トンデモブラウさん・hietaroさん・zororiさん、PseuDoctorさん、...あと...えっと...うんと...SSFSさん?(なんだこの扱いは)、そしてわざわざ記事で言及してくださったpoohさん、apjさん、TAKESANさん、皆さん私のさざ波に乗ってくれてありがとうございます(あとTAKESANさんにおかれましては、こんな記事で名指しで言及されて気分を害されたでしょう。申し訳ありません)。

特に、田部さん。真っ先のコメントありがとうございました。このように押さえの効いたコメントが幕開けにできたのは、さほど悪くない兆候と非常に嬉しく思います。
 
 皆様への個々のお返事は、なるべく急いで、でもじっくり考えてから(どっちだ)必ずしますので、もう暫くお待ちください。

 なお、今日アップした記事
 http://naked-kings.blog.so-net.ne.jp/2009-04-17
 を読んで
 「あちゃー、なんかとっても厄介そうな奴にうっかり引っかかっちゃったなぁ」
 と思った方で、私との係わり合いの取り消し(返事の拒否)を望む方がいれば受け付けます...
by Judgement (2009-04-17 02:07) 

たかぎF

こんにちは.「ニセ科学批判まとめ%作成中 Wiki」を書いている人のうちの1人です.
ところで,次のエントリを見ると Wiki の記述内容についてはメインではないのかもしれませんが,一応「定義」についてコメントします.

あれは,基本的に,"すでに存在している「ニセ科学を批判している記事,コメント群」を眺めた結果だいたい合意がとれているであろうあたり" を書いているつもりなので,

> しかし、「どう定義するのか」は分かっても、「何故そう定義するのか」がよく分からない。

というのは,それはそうなんだろうと思います.
あの「定義」は,「*常識的に* それはマズいよね」ってものをくくっていったらこんなかんじだった,という(ある時点までの議論の)結果なのであって,はじめに何か「ニセ科学の厳密な定義」があって批判を行っているわけではないのです.だから「何故」に答えるなら「だいたいみんなそのへんが妥当だと思ってるっぽいから」なんですが,そういう答えを求めているわけではないんですよね.「線引きの妥当性,正当性」みたいなものを期待されているのでしょうか.それを論じるのは,少なくとも私には無理なので,科哲やら社会学やらの人がなんとかしてくれないかと期待するばかりです.
しかし,単語の意味を共有していないとコミュニケーションが成り立ちませんから,ある程度合意がとれている意味・内容でもってその言葉を「定義」して,以後その定義を使うということに問題があるとは思いません.単語が意味するものの境界線がくっきりはっきりしていないからといって,その単語で括られるような概念が存在しないわけではないでしょう.

そうそう,「"みんな" ってなんだ."一派" じゃないか」ということを言う人はいるかもしれませんね.
"みんな" っていうのは「"ニセ科学" の概念をある程度共有していて,それを批判したほうがいいと思っている人達」でしょうか.循環してますけど,何か明確な団体があるわけではないので仕方がないです.そして,「ある件についての意見が一致している」というだけの集団を "○○一派" と呼ぶのが適当とは私は思わないので, "ニセ科学批判一派" という呼び方には違和感をおぼえます.

> しかも、グレーゾーン問題や「装う」問題等、定義しかねる問題が残されているとも言われれば、「だから実際にはニセ科学やニセ科学批判なんて成立しない」と言いだしてもおかしくない文脈なのに、そうではないようだから、心の持って行きようがなくなってしまう。

「成立しない」と言いたい人は言えばいいんじゃないでしょうか.「そういう事を言ってみたところで何になるんだろう」とか「味噌も糞も一緒な人なんだな」とかは思いますけど.

by たかぎF (2009-04-17 21:39) 

疑似科学と論文捏造

疑似科学・トンデモ科学と関わりのある研究者は、
不正論文を発表したり、研究不正を行っている可能性が高い。
名古屋市立大学の岡嶋研二教授 = 育毛商法(カプサイシン+イソフラボン育毛法など)
http://blog.goo.ne.jp/nagoya-cu
琉球大学の森直樹教授 = フコイダン商法
http://blog.goo.ne.jp/naoki_mori
鳥取大学の汐田剛史教授 = 還元水商法
http://blog.goo.ne.jp/tottori-u
九州大学の白畑實隆教授 = 還元水商法、フコイダン商法
http://blog.goo.ne.jp/kyushu-u/
論文捏造
http://blog.goo.ne.jp/netsuzou

by 疑似科学と論文捏造 (2011-04-15 15:34) 

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