不死には死が必要だ [疑似科学総論]
「不死」という概念が有ります。
「不死」が成立するには、「死」という事の定義が必要ですね。
「死」が存在しなければ、「不死」は存在しませんから。
何を言い出すんだこの年末に、Judgementもとうとう精神世界にはまったか...
などと思わずにもう少し付き合ってくらはい。
【不死は証明できるか】
とりあえず「心臓の停止」を「死」と定義します。
心臓が動いている事で、少なくとも現時点では「不死」の必要条件を満たしてると示せます。
だけど、実際は「不死」である事は絶対に証明できません。
ただ、死んだ場合に、「不死というのは間違いであった事」が証明されるだけ。
でも、多くの人が「死」を迎える状況において、現時点で「心臓の動きを示し続けている人」は、少なくとも「心臓が停止した人」よりかは、段違いに「不死である」可能性が高いものとなります。
(ちなみに、「心臓が動いているかどうか」計測していない人、させない人は、少なくとも定義上では「不死かどうか」の判断の対象外になっちゃいます)
【法則と不死】
科学の求める『自然界の法則』とは、いわば「未来永劫不変のもの」と言えるでしょう。
むろん「不変」というのは「ある条件下で」の前提だし、「変化の様態」から「不変のパターン」が見出せればそれも法則になる、としての話で。
では、「不変」に対する「変化」とは何か?
と言えば 「それが成立しなくなる」事と言えるでしょう。
しかし、「不死」と同様、「未来永劫不変のもの」である事を人間は証明し得ません。
「それが成立しなくなった」時に、否定されるだけ。
それでも、現時点で「未来永劫変わらないもの」の必要条件を満たしてるかは調べられます。
そういったプロセスを公平に経た中で、多くの「法則らしきもの」が振り落とされ、残ったものは、振り落とされたものと比べて、非常に僅か。それすら、いつかは否定されるかもしれません。
でも、現時点では、既に振り落とされた「法則らしきもの」よりも、ずっとずっと「未来永劫変わらないもの」である可能性が高いわけです。
それが科学のやり方であり、それにより導かれている法則に対する価値だと考えられます。
【不死とゾンビ】
「疑似科学」とか「ニセ科学」とか言われるものは、
『不死だ』とわめき続けるゾンビと同じ。
何かの力により動き続けるそれは
心臓が止まれば、「まだ脳が健在だから死んでいない」
脳が溶け出せば、「まだ動いているから死んでいない」
そして、いま、身体の腐食も進行し、次の「死んでいない言い訳」を探している。
「死」ありきの「不死」ではなく
「不死」と自分が言い続けるために、「死」の概念を次々と変えているだけなんです。
確かに人々は「不死」に憧れます。
しかし、不死を叫ぶ腐りかけた物体には、人々の憧れるはずの「不死」の姿はどこにもありません。
否定される事を、境界線を自らぼかす事で拒み、あくまでも「科学だ」と叫び続ける「疑似科学」。
そこに、境界線を明らかにする事によって得た「科学」の信頼性など、どこにも無い。
「不死」が成立するには、「死」という事の定義が必要ですね。
「死」が存在しなければ、「不死」は存在しませんから。
何を言い出すんだこの年末に、Judgementもとうとう精神世界にはまったか...
などと思わずにもう少し付き合ってくらはい。
【不死は証明できるか】
とりあえず「心臓の停止」を「死」と定義します。
心臓が動いている事で、少なくとも現時点では「不死」の必要条件を満たしてると示せます。
だけど、実際は「不死」である事は絶対に証明できません。
ただ、死んだ場合に、「不死というのは間違いであった事」が証明されるだけ。
でも、多くの人が「死」を迎える状況において、現時点で「心臓の動きを示し続けている人」は、少なくとも「心臓が停止した人」よりかは、段違いに「不死である」可能性が高いものとなります。
(ちなみに、「心臓が動いているかどうか」計測していない人、させない人は、少なくとも定義上では「不死かどうか」の判断の対象外になっちゃいます)
【法則と不死】
科学の求める『自然界の法則』とは、いわば「未来永劫不変のもの」と言えるでしょう。
むろん「不変」というのは「ある条件下で」の前提だし、「変化の様態」から「不変のパターン」が見出せればそれも法則になる、としての話で。
では、「不変」に対する「変化」とは何か?
と言えば 「それが成立しなくなる」事と言えるでしょう。
しかし、「不死」と同様、「未来永劫不変のもの」である事を人間は証明し得ません。
「それが成立しなくなった」時に、否定されるだけ。
それでも、現時点で「未来永劫変わらないもの」の必要条件を満たしてるかは調べられます。
そういったプロセスを公平に経た中で、多くの「法則らしきもの」が振り落とされ、残ったものは、振り落とされたものと比べて、非常に僅か。それすら、いつかは否定されるかもしれません。
でも、現時点では、既に振り落とされた「法則らしきもの」よりも、ずっとずっと「未来永劫変わらないもの」である可能性が高いわけです。
それが科学のやり方であり、それにより導かれている法則に対する価値だと考えられます。
【不死とゾンビ】
「疑似科学」とか「ニセ科学」とか言われるものは、
『不死だ』とわめき続けるゾンビと同じ。
何かの力により動き続けるそれは
心臓が止まれば、「まだ脳が健在だから死んでいない」
脳が溶け出せば、「まだ動いているから死んでいない」
そして、いま、身体の腐食も進行し、次の「死んでいない言い訳」を探している。
「死」ありきの「不死」ではなく
「不死」と自分が言い続けるために、「死」の概念を次々と変えているだけなんです。
確かに人々は「不死」に憧れます。
しかし、不死を叫ぶ腐りかけた物体には、人々の憧れるはずの「不死」の姿はどこにもありません。
否定される事を、境界線を自らぼかす事で拒み、あくまでも「科学だ」と叫び続ける「疑似科学」。
そこに、境界線を明らかにする事によって得た「科学」の信頼性など、どこにも無い。
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