信じるという事 ~追記~ [かため(当社比)の話]
以前書いた「信じるという事」に最近小松さんという方からのコメントが付きまして、そのレスを考えるうち、現段階の私の悩みに抵触する部分があったので、記事にしちゃいました。
>>非常に興味深いタイトルでしたので拝見させていただきましたが
>全体的に文章が稚拙、強引すぎる気がします。
自分の文章を緻密かつ穏当と言うつもりはありません...。
だから、小松さんの疑問を元に、もう少し補足を試みたいと思います。
>>疑うことを止めると止まるは違います。
>まず日本語では「疑う事を止まる」という言い方は無いです
このあたりは、文章表現上の好みによる省略と捉えておくんなまし。
「疑う事を止めると(疑う事が)止まるは違います」とカッコ内を脳内補完してねん。
>そして「疑う事を止めること」=「思考停止」というのは
>厳しいと言うより単に飛躍しすぎてます。
>Judgement様のお考えでは
>人間の思考=疑う事のみなのでしょうか!?
私の考えを述べろというのであれば「Yes」になっちゃうんですよね。
というより、私の捉え方では「疑う事」こそが「思考」なんです。
おそらく、小松さんは「疑う事=否定」と限定して捉えているのでしっくりこないのだと思います。
“疑う事”には「違うんじゃないか」という“否定”の他に、「何だろう、何でだろう」という“疑問”も含む、と考えていただければ納得できるのではないでしょうか。
>>しかし、このようなエピソードが生まれたのは「信じていた結果はそもそも達成可能
>>なものだったからだという事を見落としてはいけません。
>どうして「そもそも」と言い切れるのでしょうか?
>結果の前には必ず過程がありますよね?
>過程(努力)によって結果は変化するものです。
>正直かなり違和感を覚えました。
私が指摘したつもりなのは、小松さんの言う「過程」よりも前の段階の話です。
小松さんの主張は、「箱の中のクジから当たりを引く」という状況で、「1回ぐらい引いて外れなら諦めよう」という人と、「絶対この箱から当たりを引いてやる」と何度もトライする人では「当たりを引くかどうか」という結果が変化する、というような事だと思います。
でも、実はそれが成り立つには、あくまで「その箱の中に当たりが入っている」事が大前提なんですよね。
「当たりが入っていない箱」に対し、「この箱に当たりが入っている」と信じ、「絶対この箱から当たりを引いてやる」といくら努力しても当たりは引けません。
という事で「そもそも達成可能なもの」というのは、「ターゲットに当たりが含まれる」といった意味なのです。
さらに補足すれば、信念の量(努力の量)は、「当たりが含まれる」条件下では結果に比例するかもしれませんが、その条件を満たさないと結果につながらないので、信念の量(努力の量)だけを評価基準にすべきではない(『「信じさえすれば達成できる」と勘違いしてはいけません。』)というお話をしたかったんデス。
>>「信じる事が大切」と言う言葉を耳にする事がありますが、
>>それは「判断の責任を自分以外のものになすりつける」行為に他なりません。
>むしろ自分自身の責任でその相手を信じるという思い、覚悟を表わす言葉として、また
>自分自身の責任で物事を進めて行く意志の表れとは考えられないのでしょうか!?
元々拒絶反応が予想される言説でしたが、あえて言いましょう。
『相手を信じるという思い、覚悟を表す言葉として、また自分自身の責任で物事を進めて行く意志の現れ』という態度に好感を持つ人も確かにいるかもしれませんが、ではその態度が彼に何故必要なのか、と考えれば『判断が正しくない危険性が高い』という博打的な要素が少なからず含まれるからではないでしょうか。
また、例えば「彼を信じた以上は自分が責任を持つ」と言っても、それは「判断の責任」の肩代わりではなく、(判断の責任は他者に置いたまま)「自分が判断を放棄した責任」といった、“最初から自分が取るべき責任を取る”だけにすぎないと私は考えます。
...って、こういった事を追求されると、ますます小松さんが拒絶するような事を言わざるを得なくなるのですが...(そもそも人間的な好ましさすら「懐疑」する態度自体が小松さんには受け入れられないのかもしれません)。
確かに、「努力する」とか「人を信じる」という属性は人間として好ましいかもしれませんよ。ただ、私が言いたかったのは、そういった「好ましさ」と「判断の正しさ」を混同してはあなたが危険ですよ、という事なんですね。
それが前回の記事に書いた結論↓なんです。
「私は○を信じる」という人の話は信じるのは危険だ、という事です。
何故なら、それは、その人自身が「○が正しい」事を保証しない
保証できない事を示しているにすぎないからです。
“「○が間違い」という危険性を『意志』や『覚悟』で織り込んだ事”よりも、
“『意志』や『覚悟』の必要もなく「正しい」と言える事”のほうが、安心だと私は考えますよ。
小松さんも、ぜひ「覚悟」とか「意志」とか「努力」とか「人を信じる事」とかが、“それ単体”であった場合、そこにどんな意味が見出せるのかどうか、“疑って”みては?
>例えば「Judgement様自身がこのブログを書き続ける事は意味のあることだ。」
>とお考えとして、それを「信じる事が大切」と使った場合どうでしょうか!?
>「判断の責任を自分以外のものになすりつける」ことにはなりませんよね!?
失礼ながら、この文章で小松さんが何を言わんとしているのか分かりませんでした(カギカッコで括られた3つの文章をどう関連付ければ良いのか...)。
ただ、ひとつ否定をしておきたいのです。
私は「自分自身がこのブログを書き続ける事は意味のあることだ。」とは思っていません。
ただし、モチロン「意味が無いけど書き続けている」わけでもありませんし、当然「意味が有ればいいな」と思ってはいます。
むしろ、だからこそ、「自分自身がこのブログを書き続ける事は意味のあることだ。」と思うのではなく、「自分自身がこの記事を書く事は意味のあることなのだろうか。」と”疑う事”が必要なのだと考えています。
そして、私にとってABOFAN氏こそ、「意味が有る」と自分で信じている人に見えています。
信じて疑わないならこそ『発信して終わり』、しかも、自分が「意味が有る」と思って言った発言から、「その意味を正しく(自分に都合の良いように)読み取る」責任を他者になすりつけたりまでします。
それを目の当たりにしているからこそ、それを反面教師として私は「自分の文章に他者に働きかける意味があるのか」常に疑問を持ち続けたいと思っています。
また、その立場でいればこそ、小松さんや他の方々の疑問は、私にとっても有意義な問題提起になるのです。
だから、小松さんの『「Judgement様自身がこのブログを書き続ける事は意味のあることだ。」とお考えとして』には、大きく反応し、否定しておきたかったノデス。
で、冒頭で触れた最近の悩みなんですが
『ABOFAN氏の特異であからさまな間違いを、いちいち指摘する事に、意味があるんだろうか』
という疑問をずっと持ち続けているんですよ。
※ 小松さんのコメントへのレスを記事にしたのは、これが言いたかった事が大きい。
今、「ABO FANの主張」について色々書き進めているのですが、同じ欠点の指摘の繰り返しばかりになりそうなんですよね。
皆さんが「ABOFAN氏の発言が意味不明」というのは、単に彼の言語能力と「単純」と言いつつ不必要に込み入った物の言い方をする性癖ゆえであって、間違いは非常に単純。
はっきりいって、「いちいち指摘する」より「何も分かっていない」と一蹴するのが正解だと思うのですが、「どこがどう間違っているか」明確にしておけば、「ABOFAN氏の発言が意味不明」と感じている人も、「意味が分かった上で間違いと判断できる」点で有効かな、とも思います。
でも、間違いが分かっても、彼の思考パターンは応用のあまり効かない「レアケース」のような気もしてきているんですよね。
皆さん、どうなんでしょう?
何千人に1人いるかいないか、の奇矯な言動の詳細な解説にホントに興味ありますか?
>>非常に興味深いタイトルでしたので拝見させていただきましたが
>全体的に文章が稚拙、強引すぎる気がします。
自分の文章を緻密かつ穏当と言うつもりはありません...。
だから、小松さんの疑問を元に、もう少し補足を試みたいと思います。
>>疑うことを止めると止まるは違います。
>まず日本語では「疑う事を止まる」という言い方は無いです
このあたりは、文章表現上の好みによる省略と捉えておくんなまし。
「疑う事を止めると(疑う事が)止まるは違います」とカッコ内を脳内補完してねん。
>そして「疑う事を止めること」=「思考停止」というのは
>厳しいと言うより単に飛躍しすぎてます。
>Judgement様のお考えでは
>人間の思考=疑う事のみなのでしょうか!?
私の考えを述べろというのであれば「Yes」になっちゃうんですよね。
というより、私の捉え方では「疑う事」こそが「思考」なんです。
おそらく、小松さんは「疑う事=否定」と限定して捉えているのでしっくりこないのだと思います。
“疑う事”には「違うんじゃないか」という“否定”の他に、「何だろう、何でだろう」という“疑問”も含む、と考えていただければ納得できるのではないでしょうか。
>>しかし、このようなエピソードが生まれたのは「信じていた結果はそもそも達成可能
>>なものだったからだという事を見落としてはいけません。
>どうして「そもそも」と言い切れるのでしょうか?
>結果の前には必ず過程がありますよね?
>過程(努力)によって結果は変化するものです。
>正直かなり違和感を覚えました。
私が指摘したつもりなのは、小松さんの言う「過程」よりも前の段階の話です。
小松さんの主張は、「箱の中のクジから当たりを引く」という状況で、「1回ぐらい引いて外れなら諦めよう」という人と、「絶対この箱から当たりを引いてやる」と何度もトライする人では「当たりを引くかどうか」という結果が変化する、というような事だと思います。
でも、実はそれが成り立つには、あくまで「その箱の中に当たりが入っている」事が大前提なんですよね。
「当たりが入っていない箱」に対し、「この箱に当たりが入っている」と信じ、「絶対この箱から当たりを引いてやる」といくら努力しても当たりは引けません。
という事で「そもそも達成可能なもの」というのは、「ターゲットに当たりが含まれる」といった意味なのです。
さらに補足すれば、信念の量(努力の量)は、「当たりが含まれる」条件下では結果に比例するかもしれませんが、その条件を満たさないと結果につながらないので、信念の量(努力の量)だけを評価基準にすべきではない(『「信じさえすれば達成できる」と勘違いしてはいけません。』)というお話をしたかったんデス。
>>「信じる事が大切」と言う言葉を耳にする事がありますが、
>>それは「判断の責任を自分以外のものになすりつける」行為に他なりません。
>むしろ自分自身の責任でその相手を信じるという思い、覚悟を表わす言葉として、また
>自分自身の責任で物事を進めて行く意志の表れとは考えられないのでしょうか!?
元々拒絶反応が予想される言説でしたが、あえて言いましょう。
『相手を信じるという思い、覚悟を表す言葉として、また自分自身の責任で物事を進めて行く意志の現れ』という態度に好感を持つ人も確かにいるかもしれませんが、ではその態度が彼に何故必要なのか、と考えれば『判断が正しくない危険性が高い』という博打的な要素が少なからず含まれるからではないでしょうか。
また、例えば「彼を信じた以上は自分が責任を持つ」と言っても、それは「判断の責任」の肩代わりではなく、(判断の責任は他者に置いたまま)「自分が判断を放棄した責任」といった、“最初から自分が取るべき責任を取る”だけにすぎないと私は考えます。
...って、こういった事を追求されると、ますます小松さんが拒絶するような事を言わざるを得なくなるのですが...(そもそも人間的な好ましさすら「懐疑」する態度自体が小松さんには受け入れられないのかもしれません)。
確かに、「努力する」とか「人を信じる」という属性は人間として好ましいかもしれませんよ。ただ、私が言いたかったのは、そういった「好ましさ」と「判断の正しさ」を混同してはあなたが危険ですよ、という事なんですね。
それが前回の記事に書いた結論↓なんです。
「私は○を信じる」という人の話は信じるのは危険だ、という事です。
何故なら、それは、その人自身が「○が正しい」事を保証しない
保証できない事を示しているにすぎないからです。
“「○が間違い」という危険性を『意志』や『覚悟』で織り込んだ事”よりも、
“『意志』や『覚悟』の必要もなく「正しい」と言える事”のほうが、安心だと私は考えますよ。
小松さんも、ぜひ「覚悟」とか「意志」とか「努力」とか「人を信じる事」とかが、“それ単体”であった場合、そこにどんな意味が見出せるのかどうか、“疑って”みては?
>例えば「Judgement様自身がこのブログを書き続ける事は意味のあることだ。」
>とお考えとして、それを「信じる事が大切」と使った場合どうでしょうか!?
>「判断の責任を自分以外のものになすりつける」ことにはなりませんよね!?
失礼ながら、この文章で小松さんが何を言わんとしているのか分かりませんでした(カギカッコで括られた3つの文章をどう関連付ければ良いのか...)。
ただ、ひとつ否定をしておきたいのです。
私は「自分自身がこのブログを書き続ける事は意味のあることだ。」とは思っていません。
ただし、モチロン「意味が無いけど書き続けている」わけでもありませんし、当然「意味が有ればいいな」と思ってはいます。
むしろ、だからこそ、「自分自身がこのブログを書き続ける事は意味のあることだ。」と思うのではなく、「自分自身がこの記事を書く事は意味のあることなのだろうか。」と”疑う事”が必要なのだと考えています。
そして、私にとってABOFAN氏こそ、「意味が有る」と自分で信じている人に見えています。
信じて疑わないならこそ『発信して終わり』、しかも、自分が「意味が有る」と思って言った発言から、「その意味を正しく(自分に都合の良いように)読み取る」責任を他者になすりつけたりまでします。
それを目の当たりにしているからこそ、それを反面教師として私は「自分の文章に他者に働きかける意味があるのか」常に疑問を持ち続けたいと思っています。
また、その立場でいればこそ、小松さんや他の方々の疑問は、私にとっても有意義な問題提起になるのです。
だから、小松さんの『「Judgement様自身がこのブログを書き続ける事は意味のあることだ。」とお考えとして』には、大きく反応し、否定しておきたかったノデス。
で、冒頭で触れた最近の悩みなんですが
『ABOFAN氏の特異であからさまな間違いを、いちいち指摘する事に、意味があるんだろうか』
という疑問をずっと持ち続けているんですよ。
※ 小松さんのコメントへのレスを記事にしたのは、これが言いたかった事が大きい。
今、「ABO FANの主張」について色々書き進めているのですが、同じ欠点の指摘の繰り返しばかりになりそうなんですよね。
皆さんが「ABOFAN氏の発言が意味不明」というのは、単に彼の言語能力と「単純」と言いつつ不必要に込み入った物の言い方をする性癖ゆえであって、間違いは非常に単純。
はっきりいって、「いちいち指摘する」より「何も分かっていない」と一蹴するのが正解だと思うのですが、「どこがどう間違っているか」明確にしておけば、「ABOFAN氏の発言が意味不明」と感じている人も、「意味が分かった上で間違いと判断できる」点で有効かな、とも思います。
でも、間違いが分かっても、彼の思考パターンは応用のあまり効かない「レアケース」のような気もしてきているんですよね。
皆さん、どうなんでしょう?
何千人に1人いるかいないか、の奇矯な言動の詳細な解説にホントに興味ありますか?
興味あります。
解説が非常に面白いから。
ヘンテコなものを信じている人達を理解するための、何かのきっかけになると思ってます。(今だに理解できないので・・・)
細かな指摘は、「大人げない」とか「器が小さい」とかいった的外れでメタな批判を浴びやすいのですが、これは大事。
意外ときちんと分かっていて指摘できる能力を持ち合わせた人は少ないので、ノーブリス・オブリージュだと思って続けていただけると嬉しいです。
第3者にちゃんと理解できる文章を書ける能力は、もっと希少。
これは、もうしょうがないね。
by トンデモブラウ (2008-09-30 17:24)
>何千人に1人いるかいないか、の奇矯な言動の詳細な解説にホントに興味ありますか?
あります。
信じちゃっている人がなにを考えているのかを知りたいと思っても、ABO FAN氏の文章は思考をトレースすることができないので、読み続ける気力がわきません。読めば読むほど、なにを言っているのかわからなくなる。
でも、あれは一定数の人には受け入れられているわけですよね。
その点、Jさんの文章は、読めば理解できるので大変たすかります。こういう読み解きがなければ、単に「困ったなあ」で立ち往生するしかないので。
ABO FAN氏になんとなく説得されちゃってるような人が、直接読んでくれることは、あまり期待できないかもしれません。また、確かにレアケースかもしれません。だけど、こうした丁寧な読み解きが公開されていることで、よそのいろいろな事例に応用できるチャンスも生まれそうです。少なくとも、部分部分や読み解きの手法まで応用できないってことは、なさそうですし。
by 亀@渋研X (2008-10-01 11:41)
こんばんは。
私も、こちらでのABOFAN氏への言及には、意味があると思います。
小松さんのようにABOFAN氏の主張や態度に好意的な人たちも相当数存在します。そんな人たちに話をするときに、こちらで解析していただいた内容は、参考になります。
話は変わります。
私が日頃話をして徒労感を覚えるのは、ABOFAN氏ほど極端な人ではなく(あそこまで極端な人はめったにいませんから)、小松さんのような人を相手にしているときです。「でも善意は認めたい。」とか、「結果はうまく行かなくても頑張ること自体が大切」とかいう話になるときです。
jさん、私が疲れるのと同じような徒労感を持ってしまったんじゃないでしょうか?
小松さんのような考え方との意見の相違は、価値観の問題を含む話ですから、無理に一致させるのは無理ではないかなあ、と私は考えてます。
by 憂鬱亭 (2008-10-01 19:37)
弱音を吐いてみるもんだ。
皆さん励ましのコメント有難うございます。
ニーズが存在する事が分かって、ちょっと気が楽になりましたよ~
多分、ココはABOFAN氏もこっそり覗いていると思うんですよ。
彼はきっと、反論できない間は
「反論できないんではなく、”撤退したから”コメントしないんだ」
という態度を固持するんでしょうが、反論できる(と思う)記事を書いた途端
「撤退はしましたが、これだけは言わせてください」
と言って、他愛の無いイチャモンつけ始めるのは火を見るより明らか。
だから、かなり文章に神経を使うんですよね。
自分の文章には無神経な奴のために、何で神経使わにゃいかんのだ
という気もしますし、ABOFAN氏にまともな説明が通じるとも思えないので、他に聞いてくれる人がいないと、ちょっと無駄な労力だよなぁ、と感じ始めていたので...。
まぁ、肩の力を抜いて気楽にやってきま~す。
トンデモブラウさん、いつもこまめにコメントしてくれてありがとうございますね。
「大人げない」とか「器が小さい」、結構結構。
そんなの私の売りにしようとは毛先ほども持ってませんから。
そういった属性を求める人は話の内容より”人間性”とやらを重視するんでしょうが、そんなの、社会では有用かもしれませんが、言葉のみのブログでは不要と思うのです。
亀@渋研Xさんもありがとうございます。
研鑽の甲斐あって、私は結構ABOFAN氏の思考をトレースできるようになりました。でも、常人には全くもって不要のスキルですね。
そういう意味では、皆さんの貴重なリソースを無駄に費やさせない、という点で私の記事も少しは人様の役に立っているのかしらん。
憂鬱亭さんもありがとうございます。
だけど、上の小松さんは単に話題提供者ですので、あまり悪く言わないでぇ~。
とはいえ、私も「努力」とか「善意」そのものに価値があると考える人は結構危険だとは感じます(当人にとっても、周囲にとっても)
『努力や善意のバーター契約』
とでも言うんでしょうか、「あなたのそれを無条件で賞賛する代わりに、わたしのそれも無条件で賞賛して欲しい」そんな意図も見え隠れする人を見かけますが、そういう人に限って、自分勝手な的外れの努力や善意に血道を上げていたりして。
「悪気が無い」という態度が私には一番の”悪気”に思えるんですよねぇ。
by Judgement (2008-10-02 00:03)
こんばんは。
小松さん、すみませんでした。
そんなに小松さんのことを悪く言うつもりはなかったのですが、読み返すと、けっこうきつい表現になってましたね。
「善意」や「努力」が大切だと思う人の存在も、私は必要だと思ってます。人は「理性」や「合理性」だけでは生きていけませんから。人が活動する原動力の一番大きな部分は、結局情緒的・倫理的な部分だと思います。
ただ、私自身は、「理性」や「合理性」をもう少し重視しながら生きて生きたいな、と思っているのです。もちろん、「善意」や「努力」を重視する人が周りにいる、という前提で、です。
by 憂鬱亭 (2008-10-02 00:32)
でも私は「善意」や「努力」を重視する人が周りにいるのは嫌かも。
『努力や善意のバーター契約』って事で
そいつの「善意」や「努力」も押し付けられそうだから。
by Judgement (2008-10-02 23:27)
「信じることをやめる」で検索して、
初めてこのブログを読んだのですが、
他のサイトはほとんどが
「信じる=正しい、正義、道徳的にすばらしい」
みたいだったので、
このブログの記事はぼくにとって
自分の考えを確認できるものでした。
同じように考えてる人を見つけられて良かったです。
by ゆう (2011-01-25 05:20)
えらく昔の記事にコメント付いたな。
とりあえずはじめまして。
>「信じることをやめる」で検索して、
いったいキミに何があったんだ...
まぁ、「良かった」と言ってもらうのは嬉しくなくもないけど
>このブログの記事はぼくにとって
>自分の考えを確認できるものでした。
>同じように考えてる人を見つけられて良かったです。
それはまさに「確証バイアス」の第一歩だから、気をつけてねん。
自分の思いに沿った意見に出会った時こそよく「疑う」べきですよん。
by Judgement (2011-01-27 00:03)