データ教(狂?)の真実 [かため(当社比)の話]
私が勝手に「科学」の恩師と思っている方はこう言いました。
「判断を常に正しくあるためには、“分からない”と判断できる事が重要なんです」
【科学的な判断とは】
「科学的」と言うと『白黒を明確にする』というイメージを持っている人もいるかもしれませんが、実際には「客観的で正しい判断を下す事」の方が肝心なんですよね。
科学が今の信頼を築いたのは、「何でも答えを出せる」という万能性ではなく、「答えがほぼ正しい」という正確性ゆえでしょうから。
「答えがほぼ正しい」ようにあるために必要なのは、
「ほぼ確実に白か黒か判断できる時以外は、白黒を判断しない」
つまり、『わからない』という“判断”がきちんとできる事です。
このグレーな部分を適切に使用し、性急な白黒判断をしない事で、
『分からない場合もあるけれど、分かると言える場合にはそれはほぼ正しい』
という“判断の信頼性”が生まれるのです。
【例題】
例えば、事象αがAの原因である確率が60%、Bの原因である確率が40%と推測されたとします。
これについて科学的に判断を試みるなら、事象αの原因は何だと言えるでしょう?
『「Aの確率>Bの確率」だから、事象αの原因はA』?
確かにBと比べればAの方が「確からしい」ですが、Aと判断して間違う確率は40%もあるのです。
ここは慎重に「わからない」と一旦保留するのが妥当です。
その上で、何故「わからないという結果」になったのが考えるのが大事。
この例の場合、「データに要因Aと要因Bの両方が含まれている事」が原因と言えます。であれば“次は”要因Aだけ、あるいは要因Bだけが含まれるよう統制してデータを取り直せば、今度はキチンと判断できる可能性が高くなります。
【急ぐ必要は科学には無い】
忘れてはならないのは、「事象αと要因A(あるいはB)の関係」というテーマが科学的なものであるならば、それは再現性が無くてはならないわけです。
逆に言えば、それが科学的に正しいと言えるものならば、その関係性は、時と共に失われる事は無いはずですよね。
だから、キチンと判断できる水準になるまでデータ取りの工夫を繰り返す時間的猶予は十分にあるんです。
「自分の主張」が間違っている人がそれをあえて正しいと言う時だけは、「単なる一過性の現象」を奇貨として、それが消失する前に早急に判断を下してしまう必要がありますが...。
「間違う危険」を犯してでも、早急に判断を急がなくてはならない理由は、少なくとも「科学側」にはありません。「科学」としては、いつ、誰が発見しようが、それが正しくありさえすればいいのですから。
そう考えると、不十分なデータですべきでない判断をするのは、単に「自分の主張を間違いにしたくない」とか「他の人よりも早く結論を示したい」といった、個人的な動機によるものであり、客観性が著しく損なわれてた代物と言えます。
【異形のデータ嗜好】
正しくて客観的な判断を下すには、出来うる限り余分な要因をこそげ落とすよう工夫した上で取ったデータが必要です。そのような『解釈の余地が無い』データは、誰が見ても同じ判断を下し、同じ結論に導かれる点で客観的と言えます。そして、そのような手順を踏む事で始めて、科学的な(=間違いの少ない)結論を導く事ができるのです。
データを使えば何でも客観的か、何でも科学的かというとそうではありません。
しかし、中にはデータを用いさえすれば、それだけで自分の主張が客観的であり、科学的であるかのように錯覚し、しかもその認識を他者にも強要したりする人もいます。
そういう人達は、先に述べた『解釈の余地が無いデータ』よりも、むしろ『解釈の余地が多いデータ』を使う事を好みます。あるいは、『解釈の余地が無いデータ』に対し、”解釈の余地を無くすために設定した言葉の定義”を無視し、勝手な解釈を無理矢理くっつけようと試みたりもします。
それを彼らは得意げに『自由な発想』と言うかもしれませんが、単に主観的な目的で、主観的な理由で、主観的な主張を、データそっちのけで『好き勝手に言っている』にすぎません。
というか、そのような事しかできない彼らだからこそ、それを「客観的な意見」であるかのように偽装するために、彼らの『好き勝手な事』を阻害するようなキッチリしたデータよりも、ごった煮のような要因が混沌としたデータを選択する必要があるのだとも考えられます。
【主観的な判断】
例えば、要因A・B・C・Dのいずれも作用する可能性のある集団からデータを取ったら事象αが確認できたとします。
この場合に「事象αの原因が要因A~Dのいずれであるか」について、客観的に判断を下そうとしても無理です。と言うよりも、このようなごった煮的なデータは「科学的な判断」を下すには非常に素性が悪いものと言えます。正しく判断を下すには、要因を分離して再検討する必要があります。
しかし、このような状況でも判断を急いでしまう人がいます。
そのような人について、2つのタイプに分けてみます。
《想像力の欠如タイプ》
沢山の要因が含まれている事すら気付けない思考能力不足タイプ。
自分の頭に要因Aが浮かんだらそれにすぐ飛びつき、他の要因の存在の可能性までは考えられない。そして、「自分の能力不足ゆえ、それしか考えられない」のを、「それしか考えられないから、他の要因は無い」と錯覚したまま話を進めようとします。
性急かつ、「自分の頭に浮かんだ事は一般的である」と考える自己中心的な人。
《先入観タイプ》
自分の頭の中には、「事象αの原因は要因Aである」という結論が既に有り、その可能性が少しでも示唆されるのであれば、それに飛びつくタイプ。
「正しい判断を下す」事ではなく、「自分の主張が正しいと装う事」が目的であり、自分の主張に都合の悪いデータからは目を背け、都合のいいところばかり拡大解釈する。
「原因はAである可能性がある」、「原因はAと考えてもいいはずだ」という不確定な表現が多い。そんな彼らの目的は「Aである」と言うではなく、「Aでないとは限らない」という程度の主張ともいえない消極的なものかもしれない。
もちろん、両タイプがごっちゃになっている人もいますね。
【最後に】
データ、データとなんとかの一つ覚えのように言う人ほど、「そのデータの素性から客観的にどこまで言えるか?」という「データの背景」についての考えが足りない印象があります。
彼らは、判断するためのデータが必要なのではなく、自分の勝手な解釈をもっともらしく見せるための”お飾り”としてしかデータを必要としていません。
裏を返せば、自分の主張を論理立てて説明できないからこそ、なんとかデータぐらいはこじつけないと...と必死になるのですし、そうするのに都合の良いごった煮的なデータばかり着目するのですし、データから離れた話をする事を非常に怖れるわけです。
で、そんな彼らは、「こじつける事に成功した(と思っている)特定のデータ」にいつまでもこだわります。
しかし、そのこだわりこそが、彼らの主張の怪しさ、不確実さを暗に示します。
何故なら、その主張が本当に正しいのなら、裏付けるデータなんて何時でも何度でも取れるはずであり、ならば特定のデータにこだわる必要は特に無いわけですからね。
「判断を常に正しくあるためには、“分からない”と判断できる事が重要なんです」
【科学的な判断とは】
「科学的」と言うと『白黒を明確にする』というイメージを持っている人もいるかもしれませんが、実際には「客観的で正しい判断を下す事」の方が肝心なんですよね。
科学が今の信頼を築いたのは、「何でも答えを出せる」という万能性ではなく、「答えがほぼ正しい」という正確性ゆえでしょうから。
「答えがほぼ正しい」ようにあるために必要なのは、
「ほぼ確実に白か黒か判断できる時以外は、白黒を判断しない」
つまり、『わからない』という“判断”がきちんとできる事です。
このグレーな部分を適切に使用し、性急な白黒判断をしない事で、
『分からない場合もあるけれど、分かると言える場合にはそれはほぼ正しい』
という“判断の信頼性”が生まれるのです。
【例題】
例えば、事象αがAの原因である確率が60%、Bの原因である確率が40%と推測されたとします。
これについて科学的に判断を試みるなら、事象αの原因は何だと言えるでしょう?
『「Aの確率>Bの確率」だから、事象αの原因はA』?
確かにBと比べればAの方が「確からしい」ですが、Aと判断して間違う確率は40%もあるのです。
ここは慎重に「わからない」と一旦保留するのが妥当です。
その上で、何故「わからないという結果」になったのが考えるのが大事。
この例の場合、「データに要因Aと要因Bの両方が含まれている事」が原因と言えます。であれば“次は”要因Aだけ、あるいは要因Bだけが含まれるよう統制してデータを取り直せば、今度はキチンと判断できる可能性が高くなります。
【急ぐ必要は科学には無い】
忘れてはならないのは、「事象αと要因A(あるいはB)の関係」というテーマが科学的なものであるならば、それは再現性が無くてはならないわけです。
逆に言えば、それが科学的に正しいと言えるものならば、その関係性は、時と共に失われる事は無いはずですよね。
だから、キチンと判断できる水準になるまでデータ取りの工夫を繰り返す時間的猶予は十分にあるんです。
「自分の主張」が間違っている人がそれをあえて正しいと言う時だけは、「単なる一過性の現象」を奇貨として、それが消失する前に早急に判断を下してしまう必要がありますが...。
「間違う危険」を犯してでも、早急に判断を急がなくてはならない理由は、少なくとも「科学側」にはありません。「科学」としては、いつ、誰が発見しようが、それが正しくありさえすればいいのですから。
そう考えると、不十分なデータですべきでない判断をするのは、単に「自分の主張を間違いにしたくない」とか「他の人よりも早く結論を示したい」といった、個人的な動機によるものであり、客観性が著しく損なわれてた代物と言えます。
【異形のデータ嗜好】
正しくて客観的な判断を下すには、出来うる限り余分な要因をこそげ落とすよう工夫した上で取ったデータが必要です。そのような『解釈の余地が無い』データは、誰が見ても同じ判断を下し、同じ結論に導かれる点で客観的と言えます。そして、そのような手順を踏む事で始めて、科学的な(=間違いの少ない)結論を導く事ができるのです。
データを使えば何でも客観的か、何でも科学的かというとそうではありません。
しかし、中にはデータを用いさえすれば、それだけで自分の主張が客観的であり、科学的であるかのように錯覚し、しかもその認識を他者にも強要したりする人もいます。
そういう人達は、先に述べた『解釈の余地が無いデータ』よりも、むしろ『解釈の余地が多いデータ』を使う事を好みます。あるいは、『解釈の余地が無いデータ』に対し、”解釈の余地を無くすために設定した言葉の定義”を無視し、勝手な解釈を無理矢理くっつけようと試みたりもします。
それを彼らは得意げに『自由な発想』と言うかもしれませんが、単に主観的な目的で、主観的な理由で、主観的な主張を、データそっちのけで『好き勝手に言っている』にすぎません。
というか、そのような事しかできない彼らだからこそ、それを「客観的な意見」であるかのように偽装するために、彼らの『好き勝手な事』を阻害するようなキッチリしたデータよりも、ごった煮のような要因が混沌としたデータを選択する必要があるのだとも考えられます。
【主観的な判断】
例えば、要因A・B・C・Dのいずれも作用する可能性のある集団からデータを取ったら事象αが確認できたとします。
この場合に「事象αの原因が要因A~Dのいずれであるか」について、客観的に判断を下そうとしても無理です。と言うよりも、このようなごった煮的なデータは「科学的な判断」を下すには非常に素性が悪いものと言えます。正しく判断を下すには、要因を分離して再検討する必要があります。
しかし、このような状況でも判断を急いでしまう人がいます。
そのような人について、2つのタイプに分けてみます。
《想像力の欠如タイプ》
沢山の要因が含まれている事すら気付けない思考能力不足タイプ。
自分の頭に要因Aが浮かんだらそれにすぐ飛びつき、他の要因の存在の可能性までは考えられない。そして、「自分の能力不足ゆえ、それしか考えられない」のを、「それしか考えられないから、他の要因は無い」と錯覚したまま話を進めようとします。
性急かつ、「自分の頭に浮かんだ事は一般的である」と考える自己中心的な人。
《先入観タイプ》
自分の頭の中には、「事象αの原因は要因Aである」という結論が既に有り、その可能性が少しでも示唆されるのであれば、それに飛びつくタイプ。
「正しい判断を下す」事ではなく、「自分の主張が正しいと装う事」が目的であり、自分の主張に都合の悪いデータからは目を背け、都合のいいところばかり拡大解釈する。
「原因はAである可能性がある」、「原因はAと考えてもいいはずだ」という不確定な表現が多い。そんな彼らの目的は「Aである」と言うではなく、「Aでないとは限らない」という程度の主張ともいえない消極的なものかもしれない。
もちろん、両タイプがごっちゃになっている人もいますね。
【最後に】
データ、データとなんとかの一つ覚えのように言う人ほど、「そのデータの素性から客観的にどこまで言えるか?」という「データの背景」についての考えが足りない印象があります。
彼らは、判断するためのデータが必要なのではなく、自分の勝手な解釈をもっともらしく見せるための”お飾り”としてしかデータを必要としていません。
裏を返せば、自分の主張を論理立てて説明できないからこそ、なんとかデータぐらいはこじつけないと...と必死になるのですし、そうするのに都合の良いごった煮的なデータばかり着目するのですし、データから離れた話をする事を非常に怖れるわけです。
で、そんな彼らは、「こじつける事に成功した(と思っている)特定のデータ」にいつまでもこだわります。
しかし、そのこだわりこそが、彼らの主張の怪しさ、不確実さを暗に示します。
何故なら、その主張が本当に正しいのなら、裏付けるデータなんて何時でも何度でも取れるはずであり、ならば特定のデータにこだわる必要は特に無いわけですからね。
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